表題の文章の周辺の文章を引用します。傍点、傍線、まるぼしは、≪ ≫で代替します。引用文全体は、【 】で囲みます。引用文中の引用は、< >で囲みます。
【 「 帝国主義支配の当事者である日本社会の一般的な認識はどうであろうか。日本では、「韓国併合」が「合法」的なものであったということを主張する言説が、政府の見解から教科書の記述に至るまで満ち溢れている。「韓国併合」の過程が、合法的な形式を取っていたのか否かを巡る韓日学界の論争が、10年以上もだらだらと続けられているのには、「韓国併合」に対する日本政府と社会の浅はかな理解を憂慮する韓国側の見解が、色濃く投影されていることは否定できない。しかし、「韓国併合」の非合法性を強調する論弁もまた、その多くが同語反復に過ぎない。そもそも、植民地を領有する過程が平和的で、それこそ実定法に忠実だった事例が存在しただろうか。すべての植民地領有は、すなわち暴力的過程であり、近代的国際法は、強者の秩序を反映したものではなかっただろうか。」(P.112)
本書(『「韓国併合」100年を問う 2010年国際シンポジウム』(2011年3月24日 第1刷発行、国際歴史民俗博物館編、岩波書店))を大量引用、コメント少量で紹介します。本書は、出てまもなく購入したと思いますから、もう8年以上は経っています。しかし、たぶん今でも、本書の価値が減じていることはないと思いますので、できる範囲内で詳細に紹介しようと思っています。
まずは、本書にある論稿の題名と著者名を下記します。論稿数は「開会の辞」や「あとがき」も含めると、40篇以上になりますので、その中から引用紹介できる論稿は極めて少数ということになります。紹介した論稿もしなかった論考も、是非ご自分の眼と頭で読んでいただきたく。
☆ 第1部 「韓国併合」100年を問う ―― 2010年8月シンポジウム
●「開会の辞 未来を切り拓く歴史的展望を目指して 平川南」(P.3 ~ P.4)
●「講演 歴史をもてあそぶのか ―― 「韓国併合」100年と昨今の「伊藤博文言説」 中塚明」(P.5 ~ P.18)
□ セッション1 近代の東アジアと「韓国併合」
●「問題提起 東アジアの近代と「韓国併合」 趙景達(チョ キョンダル)」(P.20 ~ P.31)
●「1880 - 90年代における朝清朝貢関係の性格 具仙姫(ク ソンヒ)」(P.32 ~ P.42)
●「韓国併合と辛亥革命 ―― 張ケンをてがかりに 村田雄二郎」(P.43 ~ P.53)
●「「鮮満一体化」構想と寺内正毅・山形伊三郎 柳沢遊」(P.54 ~ P.65)
●「韓国併合期日本社会における「義」的行為をめぐる眼差しとその変容 見城悌治」(P.66 ~ P.76)
□ セッション2 日本の朝鮮植民地支配
●「問題提起 植民地支配の実態解明はなぜ必要なのか 李成市(リ ソンシ)」(P.78 ~ P.86)
●「大日本主義か小日本主義か ―― 31運動前後における日本の対朝鮮政策論 松尾尊兌」(P.87 ~ P.98)
●「皇民化政策の虚像と実像 ―― 「皇国臣民の誓詞」についての一考察 水野直樹」(P.99 ~ P.110)
●「植民主義と近代 尹海東(ユン ヘドン)」(P.111 ~ P.120)
●「「親日文学」の再審 川村湊」(P.121 ~ P.132)
□ セッション3 戦後日本の植民地支配の問題
●「問題提起 戦後日本と植民地支配の問題 和田春樹」(P.134 ~ P.145)
●「日本は植民地支配をどう清算したのか 内海愛子」(P.146 ~ P.158)
●「在日朝鮮人に見る戦後日本の植民地主義 宋連玉(ソン ヨンオク)」(P.159 ~ P.170)
●「戦後史認識と戦後史叙述 大門正克」(P.171 ~ P.180)
□ セッション4 歴史認識の問題
●「問題提起 朝鮮史認識の陥穽 宮嶋博史」(P.182 ~ P.193)
●「歴史認識の問題 ―― 歴博「現代展示」の朝鮮イメージを通して 安田常雄」(P.194 ~ P.205)
●「新しい歴史家たちよ、目覚めよ 成田龍一」(P.206 ~ P.218)
●「歴史教科書対話を通じた東アジア型歴史構想 辛珠伯(シン ジュベク)」(P.219 ~ P.227)
●「東アジアの「パラダイム転換」をめぐって 岸本美緒」(P.228 ~ P.239)
□ 特別セッション 世界史の中の「韓国併合」
●「「韓国併合」と同時代の世界、そして現代 ―― アフリカからの視点 永原陽子」(P.242 ~ P.252)
●「イタリアのアフリカにおける植民地との比較から 石田憲」(P.253 ~ P.262)
●「インド知識層の「韓国併合」認識をめぐって 粟屋利江」(P.263 ~ P.274)
●「国民国家形成と植民地国家形成 梅森直之」(P.275 ~ P.286)
●「画像資料と歴史認識 ―― 「朝鮮通信使一行はどろぼう」をめぐって 久留島浩」(P.287 ~ P.300)
●「歴史教育の立場から「韓国併合」100年を問う 山本直美」(P.301 ~ P.312)
●「シンポジウムを終えるにあたって ―― 複雑さを切り捨てない問い直しの契機に 安田常雄」(P.313 ~ P.314)
●「シンポジウムを振り返って 宮嶋博史」(P.315 ~ P.316)
☆ 第二部 「韓国併合」100年への問い ―― シンポジウムへの応答
●「新自由主義・新帝国主義・「韓国併合」 小沢弘明」(P.319 ~ P.324)
●「現代日本と韓国併合 原田敬一」(P.325 ~ P.333)
●「植民地主義の継続を問う視角はあったか? 中野敏雄」(P.334 ~ P.342)
●「イベリア・インパクトと壬辰戦争 深谷克己」(P.343 ~ P.350)
●「後備歩兵第19大隊・大隊長南小四郎文書 ―― 日清戦争から「韓国併合」100年を問う ―― 井上勝生」(P.351 ~ P.357)
●「似非実証的論法による一面的な指導者像の造形 ―― 伊藤之雄氏の伊藤博文論の問題点 ―― 安田浩」(P.358 ~ P.368)
●「韓国併呑100年と東アジアの歴史和解 鄭在貞(チョン ジェジョン)」(P.369 ~ P.376)
●「「140年戦争」の視座から 愼蒼宇(シン チャンウ)」(P.377 ~ P.386)
●「日本におけるアジア認識の欠落 ―― 日朝間の「アジア主義」の差異をめぐって 小川原宏幸」(P.387 ~ P.395)
●「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の墓碑・追悼碑建立と日本人 ――宋連玉(ソン ヨンオク)氏の報告によせて 山田昭次」(P.396 ~ P.401)
●「近現代史のなかの朝鮮 ―― 博物館展示の現場から考える 原山浩介」(P.402 ~ P.407)
●「日本史教育のなかの「韓国併合」 ―― 80年代以前に高校教育を受けた世代の植民地認識 ―― 須田努」(P.408 ~ P.414)
●「あとがき 久留島浩/趙景達(チョ キョンダル)」(P.415 ~ P.418)
では引用紹介を始めます。
●「問題提起 植民地支配の実態解明はなぜ必要なのか 李成市(リ ソンシ)」(P.78 ~ P.86)
本論稿の中で、「創氏改名」について、その意味するところを説明している文章がありますので、そこを引用します。「創氏改名」は「父系の姓を終生変えることのない朝鮮の家族制度から、日本的な氏を原理とする家族制度への根源的な改変」(P.79 ~ P.80)だったとのこと、その説明部分を多少長く引用します。
【 「 ただ、植民地統治の差別と同化に関わる法制上の個別問題についてすら、その実態について実証的な研究をもって明らかにされたのは、意外にも近年に至ってからのことである。たとえば、1940年に実施された創氏改名は、日本の朝鮮支配の中で最もよく知られており、朝鮮人に苦痛を与えた悪政の一つとされてきたが、その政策の基本的な事実が明らかにされ、政策の本質が議論され始めたのは、1990年に宮田節子氏の研究が現れて以降のことである(宮田節子「『創氏改名』について」(上)(下)、『歴史評論』486・487、1990年10月・11月)。
いわゆる歴史認識論争の際には、創氏改名の強制か否かがしばしば議論の対象とされてきたが、その政策の本質からみれば、強制か否かは問題になり得ないものである。しかし宮田氏の研究がありながらも、こうした本質的な事実はつい最近まで多くの人々には共有されることはなく、創氏改名は政策の核心からみれば、ずれたところで空しい議論が重ねられてきたと言わざるをえない。
すなわち、創氏改名とは、その前提となる政策意図は、父系の姓を終生変えることのない朝鮮の家族制度(姓は男系の血族を表示する称号で、家に付いたものでなく人に付く)から、日本的な氏(家を表象する称号)を原理とする家族制度(家を単位とする家族制度)への根源的な改変であって、日本的な氏(たとえば「金田」や「新井」)に変更しなくとも、「金」や「朴」がそのまま氏とされ、新たな氏制度の下で、朝鮮の家族制度が日本のそれへと構造的に改変されたのである。1941年8月10日まで6か月間の届出期間内に、日本的な姓と名を改める届出がなされなければ(法的には創氏は義務であり改名は任意)、朝鮮の姓のまま戸主の姓を氏とし、それまで戸主と異なる姓を有した妻や母も同じ姓とされたのである。要するに、創氏は「強制」であった。
このことがらがもつ歴史的な意味は決して小さくない。たとえば、現在日本に暮らす在日韓国人・朝鮮人のある男性が民族的に生きることを決意し、これまで使ってきた日本の姓をかつての民族の姓に戻したとしても、それと同時に彼の妻や母たちが、元来もっていた固有の姓に復することはまれであり、彼が変更した民族の姓を、そのまま同居している妻が名乗るという現象は在日の家庭にしばしば見うけられる。これは創氏改名が日本的な姓(正しくは「氏」)を強制したという一面だけが強調されたために、そのような通念に拘束された結果と見なすことができる。別な言い方をすれば、宮田氏の研究が現れるまで、解体された朝鮮の家族制度には想像力が及ばなかった状況が続いていたとも言えよう。
ついでながら、創氏改名は「内鮮一体」を進めるため、日本人と朝鮮人の両者の差別を克服するためであると当時において宣伝されたが、それも方便にすぎず、たとえ朝鮮人が創氏改名によって日本人的な姓に改めたとしても日本側の最も重大な関心事は、内地人と朝鮮人の区別、識別であった。すなわち、日本人は戸籍法を、朝鮮人は朝鮮戸籍令の適応を受けることで「本籍」をもって区別し、「内鮮間ノ転籍」は禁じられていた。両者の境界は戸籍によって明確に区別されていたのである。
もっとも朝鮮人戸籍の整理は1943年まで2割程度にすぎなかったのであって、この年の徴兵制実施の時点から総督府は主に警察組織を利用して戸籍整理に着手すると、一年ほどで8割の戸籍が整理されたという。こうした事実は、朝鮮人にとって創氏改名や戸籍が何を意味していたかを如実に示している。朝鮮での戸籍は、朝鮮人の生命の管理のためではなく、生命の駆り出しのための人口管理であったのである(金杭『帝国日本の閾 ―― 生と死のはざまに見る』岩波書店、2010年)。」(P.79 ~ P.80) 】
●「東アジアの「パラダイム転換」をめぐって 岸本美緒」(P.228 ~ P.239)
最近、岸本美緒を気に入っています。少し前に読んで、Amazon「書評」をした『思想 2018年3月号 <世界史>をいかに語るか--グローバル時代の歴史像--』(岩波書店、2018年3月5日発行)でも、岸本美緒が論稿(「グローバル・ヒストリー論と「カリフォルニア学派」」)を書いていまして、それについて「岸本美緒の文章、論稿を読んだのは、たぶん初めてですが、面白いですし、文体が書評者好みの感じがします」と記しました。それ以前にも、歴史学研究会編『歴史学のアクチュアリティ』(東京大学出版会発行)でも論稿を書いているようですが、こちらについては、内容についての記憶は全くありませんでした。
本論考も、書評者の宮嶋博史に対する疑問点を整理・拡大して提示してくれていて、なおかつ、刺激的・啓発的です。2か所多少長く引用します。
【 「 一 宮嶋説の基本的骨格
まず、これらの論文の共通の基調であり、宮嶋の説の根幹をなすと考えられる論点を、概略的にまとめておこう。
1 朱子学的モデルに基づく国家・社会体制は、14-15世紀における小農社会の成立とともに東アジア(中国、朝鮮、ベトナム)で同時代的に形成されたが、日本では小農社会が成立したにもかかわらず、同様の体制が形成されなかった。19世紀後半に日本が東アジアで直面したのは、この体制であったが、日本人にはこの体制に対する基本的認識が欠けている。
2 朱子学的モデルの核心は、儒教に関する深い知識を有する者を科挙によって選抜し、彼らが国家統治を担当すること、および、統治のもっとも重要な方法として「礼」が位置づけられ、「礼治」の徹底をはかること、の2点にあった。それは、平等主義の理念と社会的流動性を備えた、合理性をもった国家・社会体制であった。
3 世襲的身分制を持たない中央集権的政治体制という点で、朱子学的モデルは、日本やヨーロッパでは近代になって初めて実現するような国家のあり方をいち早く実現していた。土地所有も身分的な性格をもたず、純経済的な性格のものであった。これを、「儒教的近代性」と呼ぶことができる。
4 日本では、「日本にはヨーロッパと同様の封建性があり、中国や朝鮮にはそれがなかった」ことを理由に、日本の優位性を主張する「脱亜」的議論が通説となっているが、むしろ、日本と中国・朝鮮との国家・社会体制の相違は、「儒教的近代」化という東アジアの同時代的な動きに対応できなかった日本の失敗として捉えるべきである。
以上、宮嶋の主な批判対象となっているのは、アジア諸地域との相違を強調する一国史的視点とヨーロッパ中心主義とを結合させ、日本の先進性・優位性を強調する「脱亜的日本史認識」である。そして、氏の主要論点は、東アジア文化圏のなかで、儒教(特に朱子学)を軸に先進―後進関係を設定し、儒教的近代を達成できた中国・朝鮮とできなかった日本という対比の構図を描くことにある。ここで、私の主要な疑問点を先取りして述べておくならば、封建制の存在を理由に日本の優位性を説く「脱亜的日本史認識」に対する宮嶋の批判は首肯できるとしても、その優劣を逆転して儒教・朱子学的モデルに基づく国家・社会体制に「近代性」を見出し、その欠如を「失敗」とする宮嶋の議論は、却ってまた別種のエスノセントリズムに帰結するのではないか、という点である。以下、いくつかに分けて検討してゆきたい。」(P.229 ~ P.230) 】
岸本の以後の細かい検討内容については、ご自分で読んでください。書評者は、儒教(朱子学)については(相変らず勉強途中ではありますが)全く批判的で、女・子ども・一般庶民は範疇外の、「士大夫」「両班」たちが「政治」を行うための処方箋である、という認識です。「儒教的民本主義」「儒教的近代」は「西欧的デモクラシー」に比べて劣っていると考えます。「儒教的民本主義」や「儒教的近代」では、「民」が「主」ではありませんし、基本的に「国民」を守れないと考えます(大日本帝国の軍隊も「日本国民」を守りませんでしたし、現在の日本軍(自衛隊)も国民を守るつもりはないでしょう(そういう組織にはなっていないようです、自衛隊は在日米軍の一部、ですから))。まぁ、最近は、馬鹿な「民」が「主」であることの問題点が噴出しています、日本をはじめとして、各国で。
「おわりに」を引用します。
【 「 □ おわりに
日本の歴史上、中国文明に対する尊崇の念と表裏して、中国文明の影響力に対する対抗心も、さまざまな形での自尊意識となって現れてきた。三谷博の言葉を借りていえば、中国は日本にとって「忘れ得ぬ他者」であり続けた(三谷博「「我ら」と「他者」 ―― ステイティズム・ナショナリズム形成素・ナショナリズム」朴忠錫・渡辺浩編『国家理念と対外認識17-19世紀』慶応義塾大学出版会、2001年)。日本のみならず、中国周辺諸国家は、いずれもそうした意識と無縁ではなかったし、朝鮮史においても、中国に対する緊張感が国家統合において持った意味は、少なからぬものがあるだろう。
宮嶋博史の批判対象である「脱亜的日本優位論」も、長期的にみれば、そうした自尊意識の一形態ということができる。宮嶋に対する私の疑問は、このような深い根をもった歴史認識の問題に対し、中国・朝鮮の儒教的国家体制の優位性を正当として提示することで、果たして解決がつけられるのか、ということである。宮嶋の議論は結局、儒教を中心とする新たなエスノセントリズムを生みだし、ひいては、それに対する対抗言説をも相変わらず再生産していく結果になるのではないか。
東アジアの歴史は、様々な勢力が対抗し、せめぎあう中で展開してきた。諸勢力は、変動のリズムを共有しつつも、それぞれ独自の体制を構築し、自己意識を形成し、相互に影響を与えあってきた。このような認識を踏まえるならば、いずれが先進的でいずれが遅れていたか、という問いは果たして生産的だろうか。むしろ、そうした対抗の在り方を深く内在的に検討しつつ、異なる文化、異なる体制の相互理解はいかにして可能かという方向で、我々の歴史意識を充実させてゆくべきではないだろうか。」(P.238) 】
余分な無駄口は叩かずに、引用に徹しようと考えます。
●「在日朝鮮人に見る戦後日本の植民地主義 宋連玉(ソン ヨンオク)」(P.159 ~ P.170)
【 「 1970年代の韓国民主化運動を象徴する金芝河は、朴正熙政権の腐敗を風刺した長編詩『五賊』を書き、反共法違反で囚われの身となる。その金芝河を鶴見俊輔は監禁先の馬山国立結核療養院まで釈放嘆願を求める署名を持って訪ねた。その時、金芝河は特有の諷刺を利かせた物言いで「あなたたちの運動は、私を助けることはできないだろう。しかし私は、あなたたちの運動を助けるために、署名に参加する」と言ったそうだ(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの』新曜社、2004年)。鶴見やサルトルの国際的な救援活動により金芝河は釈放されることになるのだが、金芝河が鶴見に訴えたかったことは、朴政権を支える日本の政治的構造を日本人自身がまず変革すべきだということだろう。詩人の鋭い直観から発せられた言葉は、冷戦構造下の植民地主義をみごとに抉りだす。
・・・・・
果たして1970年代の金芝河の諷刺はどれだけ理解されるようになっただろうか。
韓国強制併合100年に当たり、朝鮮半島の歴史を振り返ると、1945年で真逆に変わったのではなく、植民地主義が再編された100年として視ることが重要である。国民国家を超える視点、すなわち、朝鮮半島の平和と民主主義は日本の平和と民主主義に深く関係していることを認識しないと、植民地主義の克服に基づく連帯は実現しない。朝鮮半島の南北の分断と日本社会の歴史認識の歪みは根を同じくする問題であり、日本の民主化、天皇制存続を前提にした日米同盟関係を問わない朝鮮半島との連帯は、経済的不況の前にあっていとも簡単に挫折する。
韓国強制併合100年の節目に、大きな構造を見失わない草の根の交流が進むことを願うばかりである。」(P.166、P.169) 】
●「「韓国併合」と同時代の世界、そして現代 ―― アフリカからの視点 永原陽子」(P.242 ~ P.252)
論稿の最後の文章を引用します、具体的検討内容についてはご自分で読んでください。
【 「 近年の世界各地で生まれている「植民地責任」論は、植民地主義をその歴史的前提としての奴隷貿易や奴隷制の歴史の延長線上でとらえ、過去500年の広い意味での植民地主義の歴史を総体として問題にしている。そのような長い時間的な広がりを持つ植民地主義の世界史的な展開の中では、20世紀初めからの100年はその最後の部分にあたり、植民地支配への根本的な疑問や批判が出されるようになってきた時代である。それゆえ、批判と抵抗を抑え込むための暴力が大国の「国際的」連帯によって実現されてきた時代でもあった。
そのような状況の中で帝国主義体制の一角に参入した日本の植民地主義は、列強間の経験の交換と連携の中にあった。日本の「植民地責任」を問うさいには、日本と韓国、日本と中国、というような個々の国家間の関係にとどまらず、それを世界史的な同時性の中で、また国家と民衆の複合的な関係の中で考えることが必要だろう。」(P.252) 】
●「画像資料と歴史認識 ―― 「朝鮮通信使一行はどろぼう」をめぐって 久留島浩」(P.287 ~ P.300)
国立歴史民俗博物館の展示に対するネット右翼の「暴言」に対して、詳細かつ丁寧な反証を記していて、きわめて面白く、啓発的な論稿です。一箇所短く引用します。
【 「 問題は、「自国ありき」からしか、異なる民族や国家を理解できなくなることであり、「異文化を誤読する」ところから多くの排他的な偏見が生まれることである。」(P.299) 】
●「現代日本と韓国併合 原田敬一」(P.325 ~ P.333)
【 「 日本帝国の侵略によって、勝手に「日本国民」と国籍を変えられた人々も、虐げられただけでなく、必死に生きていた。もと中国人であり、朝鮮人であった人々も、帝国の植民地下で「日本国民」として働き、稼ぎ、生活していた。そのことが1945年8月15日に一挙に「無」になった。労働も芸術活動も、家を建て、家族を形成してきた、それらの一切が「ゼロ」となった(李恢成『百年の旅人たち』新潮社、1994年)。そのことの責任を誰が負ったのか。日本国政府は、敗戦とともに彼らを「第三国人」として一方的に放り出し、1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約発効とともに、「外国人」として背を向けたのである。
西陣織という産業分野で親方や企業経営者として自立していた朝鮮人は、「日本国民」としての保護を失い、苦闘を開始した(河明生『韓人日本移民社会経済史』明石書店、1997年、高野昭雄『近代都市の形成と在日朝鮮人』人文書院、2009年)。例えば金融上の便のため日本人にやむなく「帰化」する道を取った人もいる。彼らの心情は、「帝国日本」と和解したから「帰化」したのではなく、戦後日本を生き抜いていくためであった。「帝国日本」に包摂された祖国を離れ、働き、家族をつくり、生活を形づくってきた、その歴史よりもっと重いものがあっただろう。金城一紀の半自伝的小説『GO』(講談社、2000年)は、重たさの一端を明かにしている。そのような苦闘を理解する日本人でなければ、21世紀の東アジアは融和できない。その責任は日本にこそある。」(P.330)
「 歴史に種をまいた人々は、いつまでもそれに責任をもたねばならない。」(P.332) 】
子供が残していった本棚に上記の金城一紀の『GO』がありましたので、後で、読んでみようと思います。

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「韓国併合」100年を問う――2010年国際シンポジウム 単行本(ソフトカバー) – 2011/3/25
国立歴史民俗博物館
(編集)
「韓国併合」が強行されてから100年が経過した今も、日本と朝鮮・韓国の間には植民地支配がもたらした様々な問題が未解決のまま残り、歴史認識をめぐる軋轢が絶えない。「併合」100年の夏、この状況の根本的転換を願う研究者が多数結集し実現した熱気あふれるシンポジウム。その成果をもとに書き下ろされた40の論考を収める。
- 本の長さ400ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2011/3/25
- 寸法15 x 2.9 x 21 cm
- ISBN-104000258028
- ISBN-13978-4000258029
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2011/3/25)
- 発売日 : 2011/3/25
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 400ページ
- ISBN-10 : 4000258028
- ISBN-13 : 978-4000258029
- 寸法 : 15 x 2.9 x 21 cm
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2010年は、「韓国併合」から100年目にあたる。政府も8月10日に首相談話を発表し、植民地支配に至った政治的・軍事的背景と、「当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられ」(首相談話より)たことに反省の意を表した。この談話に対して、韓国は一定の評価をしているが、一方、従来から、日本政府は「韓国併合条約」(1910年)そのものは合法であるとしている。本書は、日韓の39人の研究者(内、韓国側から8人)が歴博主催のシンポジウムで発表し、またシンポジウムの内容を受けて後日まとめた論考を1冊にまとめたものである。韓国併合に至った歴史的背景や、第二次大戦後の東アジア情勢から見た日韓問題までを含む、幅広くかつ考えさせられる内容となっている。
印象的なことは、日韓両国における植民地時代に対する認識の差である。一言で言えば、戦後日本は、かつて植民地支配を行なってきたことを忘れたかのように歴史教育が行なわれ、多くの日本人は日常生活で思い浮かべることはほとんどない。しかし、多くの在日の人たちが日本で差別を受けながら生活し、一方朝鮮半島は世界で唯一、いまだに民族が分断されている。これらがすべてかつて「韓国併合」を行なっていた遺産であることをわれわれは認識すべきだろう。
本書で、韓国側の論者が非常に重要なことを指摘している。すなわち、戦後の日本は憲法第9条に基づく「平和主義」で外交が行なわれてきたことになっているが、実際には日米安保条約の下で広大な軍事基地をアメリカに提供し、そのことで朝鮮半島における民族分断を固定・維持することにより「平和」と経済成長を謳歌してきたのではなかったか、と。事実、ウィキリークスによれば、「日本は朝鮮の分裂状態を望んでいる」と韓国高官が米国の外交関係者にもらしていたという(朝日新聞、2010年11月30日夕刊)。本書は、日本の植民地意識が官民から抜けきらず、そのことが「正常な」日韓(そして日朝)関係を妨げていることを再認識させてくれる。このような自覚が、歴史認識の違いを克服するための第一歩といえそうである。
印象的なことは、日韓両国における植民地時代に対する認識の差である。一言で言えば、戦後日本は、かつて植民地支配を行なってきたことを忘れたかのように歴史教育が行なわれ、多くの日本人は日常生活で思い浮かべることはほとんどない。しかし、多くの在日の人たちが日本で差別を受けながら生活し、一方朝鮮半島は世界で唯一、いまだに民族が分断されている。これらがすべてかつて「韓国併合」を行なっていた遺産であることをわれわれは認識すべきだろう。
本書で、韓国側の論者が非常に重要なことを指摘している。すなわち、戦後の日本は憲法第9条に基づく「平和主義」で外交が行なわれてきたことになっているが、実際には日米安保条約の下で広大な軍事基地をアメリカに提供し、そのことで朝鮮半島における民族分断を固定・維持することにより「平和」と経済成長を謳歌してきたのではなかったか、と。事実、ウィキリークスによれば、「日本は朝鮮の分裂状態を望んでいる」と韓国高官が米国の外交関係者にもらしていたという(朝日新聞、2010年11月30日夕刊)。本書は、日本の植民地意識が官民から抜けきらず、そのことが「正常な」日韓(そして日朝)関係を妨げていることを再認識させてくれる。このような自覚が、歴史認識の違いを克服するための第一歩といえそうである。