近年では、「孤独問題」が単発で議論されることも多くなってきましたが、従来「私的なもの」と整理されてきたこうした事柄を、改めて社会共通の問題すなわち公共圏として取り込むという観点が、すとんと腑に落ちました。
特に新しい菅政権でも「自助・共助」がキーワードとされ、財政制約のもと政府の機能はどんどんスリム化する方向性が企図されてる中で、特に今まで「私的なもの」とされてきた「公共的に対応すべきニーズ」はややもすればコストセンターとされて排除されたままとなりがちな世の中だと思います。
更に言えば、ここで問題提起されるべきニーズ、すなわち愛情や友情、思いやり、尊敬、帰属感などは、生活保護や国民年金などと違って、国が強制力をもってダイレクトに権利保障できるものでもありません。
こうした中で、孤独にならないためのあらゆる努力が個人に寄せられている、つまりその人自身の能力(人とのコミュニケーションが苦手な人もいるでしょう)や機会の充実度に関わらず、家族や共同体などのネットワークにアクティブにコミットしなければならないという状況。
愛情や友情、尊厳などが人間の生の最もベーシックなものであるにも関わらず、これが全て個人の努力と能力に帰責されている。
独身の男女の増加(家族という強固な共同体を持たない)や、ギグワーカーの増加(会社という良くも悪くも絶対的な居場所が無い)が進む現代において、こうした観点からの福祉国家、公共性の再定義が問われていると感じられました。
コンパクトですが現代の課題をフレーミングして考えさせてくれる良書です。
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公共性 (思考のフロンティア) 単行本 – 2000/5/19
齋藤 純一
(著)
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公共性とは排除と同化に抗する連帯である
- ISBN-10400026429X
- ISBN-13978-4000264297
- 出版社岩波書店
- 発売日2000/5/19
- 言語日本語
- 本の長さ120ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2000/5/19)
- 発売日 : 2000/5/19
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 120ページ
- ISBN-10 : 400026429X
- ISBN-13 : 978-4000264297
- Amazon 売れ筋ランキング: - 20,413位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 457位社会学概論
- - 1,074位哲学・思想 (本)
- - 3,496位ビジネス・経済 (本)
- カスタマーレビュー:
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2019年6月19日に日本でレビュー済み
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「公共」が漠然としているのは、「公」と「私」をもっと明確に分けて考える必要性がのではないかと思いました。
2018年3月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現代までの公共性に関する議論を収斂し、さまざまな社会問題を通じて公共性について深めていく方法に感動。センとロールズに関する議論が非常に面白い。
2016年1月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まず、アーレントとハーバマスの入門書として最適だと思います。ポイントをしっかりと捉えて整理しておられる知性に敬服します。
そして現代を理解するための入口としてもおすすめです。
そして現代を理解するための入口としてもおすすめです。
2021年3月14日に日本でレビュー済み
プラトンは合理論哲学を基礎づけ、その系譜上にはデカルト・カント・ヘーゲルらがおり、
アリストテレスは経験論哲学を基礎づけ、その系譜上にはベーコンらがいます。
一方、イソクラテスは徳育に関して言及し、
「世界から知識を獲得し、深めてゆくとやがて良き行い(実践)に結びつき、
併せて人徳となる」としてパイデイア(παiδεiα)という概念を提唱しました。
因みに、知育と徳育の自然な融合は儒教や朱子学でも「知行合一」といいます。
その現代的価値は例えば教育プログラム「人間の安全保障」における、
「知的公共性」という形で結実していると思います。
なお、道徳教育における「徳」とは人間として自然な倫理的道行き
(互いにそのように行えば人間関係が円滑になるような作法)
という意味に解されます。
公共性とは原初的には対人概念なのですが、それが積み重なった延長を歴史、
空間的に広がった拡張を社会といいます。
例えば、ヨーロッパの都市には時計塔や教会、広場、市場その他歴史的建造物や、
公共建築物(ヨーロッパ文明の表象としての文化財)がありますが、
その基本的構造じたいは古代ギリシャや古代ローマ時代からほぼ不変です。
また、そこには中産的な市民(シチズン)が生活しており、
その原理原則のようなものが即ち公共性(シチズンシップ)です。
併せて「市民的公共性」としておきますが、自由や平等、また参政権などの社会権といった、
公共的原理の普及を求めた市民革命の担い手はヨーロッパではそうした市民なのです。
一方、日本ではその代わりにお上=公=世間=天下だったので市民的公共性も社会的公共性も無く、
そのあたりの概念関係や境界線が曖昧模糊としています。
そこで、これからの教育は地域文化の担い手を「育てる」方向で尽力すべきと考えられます。
真の文化政策は「自由な形式性において概念の内実を豊かにしてゆくこと」であろうと思います。
ある一人の人間がいたとしてその人がどう振る舞おうと他人に害悪は及びませんが、
二人以上になると別の原理が作用し始めます。即ち、
●まわりの時空間は共有(分担)されている→社会契約
●各人は公共性による自然権への制約を一定受ける→公共の福祉
●そのことはそれぞれ内面的に認識され、互いに外面的にも表示される→倫理的配慮
概略以上のような公共性によって規定された時空間を歴史的社会空間といい、
ある人類集団が共同生活を営む共同体の基礎となります。
そこで、結局次のことがいえます:
即ち、自由と規律は比例するということです。
だから、理想的には自由の最大確保と規律の最小設定が両立している社会が最も進んでいるといえます。
それはまた、構成メンバーの主体的徳化の程度、ひいてはその社会の教育力を試すことでもあり、
それに失敗すれば強権政治(軍国主義)か社会主義にならざるをえないわけです。
マルクスらによれば社会進化は原始共産制→封建制→近代的資本制(前期)
→修正資本制(後期)もしくは共産制という段階をたどりますが、
現代日本社会はこの図式では「修正資本制社会」といえるでしょう。
以上本書を読むための予備知識(基礎概念やその関係)を示しておきました。
何かのご参考になれば幸いです。
アリストテレスは経験論哲学を基礎づけ、その系譜上にはベーコンらがいます。
一方、イソクラテスは徳育に関して言及し、
「世界から知識を獲得し、深めてゆくとやがて良き行い(実践)に結びつき、
併せて人徳となる」としてパイデイア(παiδεiα)という概念を提唱しました。
因みに、知育と徳育の自然な融合は儒教や朱子学でも「知行合一」といいます。
その現代的価値は例えば教育プログラム「人間の安全保障」における、
「知的公共性」という形で結実していると思います。
なお、道徳教育における「徳」とは人間として自然な倫理的道行き
(互いにそのように行えば人間関係が円滑になるような作法)
という意味に解されます。
公共性とは原初的には対人概念なのですが、それが積み重なった延長を歴史、
空間的に広がった拡張を社会といいます。
例えば、ヨーロッパの都市には時計塔や教会、広場、市場その他歴史的建造物や、
公共建築物(ヨーロッパ文明の表象としての文化財)がありますが、
その基本的構造じたいは古代ギリシャや古代ローマ時代からほぼ不変です。
また、そこには中産的な市民(シチズン)が生活しており、
その原理原則のようなものが即ち公共性(シチズンシップ)です。
併せて「市民的公共性」としておきますが、自由や平等、また参政権などの社会権といった、
公共的原理の普及を求めた市民革命の担い手はヨーロッパではそうした市民なのです。
一方、日本ではその代わりにお上=公=世間=天下だったので市民的公共性も社会的公共性も無く、
そのあたりの概念関係や境界線が曖昧模糊としています。
そこで、これからの教育は地域文化の担い手を「育てる」方向で尽力すべきと考えられます。
真の文化政策は「自由な形式性において概念の内実を豊かにしてゆくこと」であろうと思います。
ある一人の人間がいたとしてその人がどう振る舞おうと他人に害悪は及びませんが、
二人以上になると別の原理が作用し始めます。即ち、
●まわりの時空間は共有(分担)されている→社会契約
●各人は公共性による自然権への制約を一定受ける→公共の福祉
●そのことはそれぞれ内面的に認識され、互いに外面的にも表示される→倫理的配慮
概略以上のような公共性によって規定された時空間を歴史的社会空間といい、
ある人類集団が共同生活を営む共同体の基礎となります。
そこで、結局次のことがいえます:
即ち、自由と規律は比例するということです。
だから、理想的には自由の最大確保と規律の最小設定が両立している社会が最も進んでいるといえます。
それはまた、構成メンバーの主体的徳化の程度、ひいてはその社会の教育力を試すことでもあり、
それに失敗すれば強権政治(軍国主義)か社会主義にならざるをえないわけです。
マルクスらによれば社会進化は原始共産制→封建制→近代的資本制(前期)
→修正資本制(後期)もしくは共産制という段階をたどりますが、
現代日本社会はこの図式では「修正資本制社会」といえるでしょう。
以上本書を読むための予備知識(基礎概念やその関係)を示しておきました。
何かのご参考になれば幸いです。
2006年2月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「公共性」に関する古典的議論から近年の議論までが簡潔にまとめられた一冊。
第一部で今日における「公共性」に係わる議論の動向が整理され、著者の問題意識が鮮明にされる。ここでは60年代における国家による「公共性」の独占から90年代における「市民的公共性」の塑性、これと対立する「国民共同体」として「公共性」を捉えようとする議論が示され、今日における論点が明らかになる。著者は「公共性」を、開かれており、多元的な価値の間に成立し、差異を前提とする言説の空間であるとする。
第二部では古典的な文献を紐解きながら「公共性」の意味の検討がなされる。第一章ではハーバーマスにおける「市民的公共性」、第二章ではアーレントを引きながらパースペクティブの複数性の議論が、第三章では「公共性」が生命の保障をいかに担保するかということが社会国家化の議論として語られる。第四章では「公共圏」と対置されがちな「親密圏」(家族をその一つのあり方とする)の「公共圏」への転化の可能性が検討される。
著者は「公共性」もこれを形成する核となる自己も一義的、単一のものとは捉えておらず、「公共性」は複数の次元をもつものであるとする。
第三部で「公共性」に係わる基本文献が挙げられるが、古典的文献から、現代的イシューに対応した個別テーマに係わるものまでが整理されており、著者の幅広い知見の蓄積が垣間見える。
古典的な知見をわかりやすく解きつつ、今日の問題と対応させた形でその意義付けを行っており、「公共性」に係わる入門書として最適。平易な記述とはいえ、扱っているのは古代からの普遍的課題であり、それなりの居住まいは必要であるが。
第一部で今日における「公共性」に係わる議論の動向が整理され、著者の問題意識が鮮明にされる。ここでは60年代における国家による「公共性」の独占から90年代における「市民的公共性」の塑性、これと対立する「国民共同体」として「公共性」を捉えようとする議論が示され、今日における論点が明らかになる。著者は「公共性」を、開かれており、多元的な価値の間に成立し、差異を前提とする言説の空間であるとする。
第二部では古典的な文献を紐解きながら「公共性」の意味の検討がなされる。第一章ではハーバーマスにおける「市民的公共性」、第二章ではアーレントを引きながらパースペクティブの複数性の議論が、第三章では「公共性」が生命の保障をいかに担保するかということが社会国家化の議論として語られる。第四章では「公共圏」と対置されがちな「親密圏」(家族をその一つのあり方とする)の「公共圏」への転化の可能性が検討される。
著者は「公共性」もこれを形成する核となる自己も一義的、単一のものとは捉えておらず、「公共性」は複数の次元をもつものであるとする。
第三部で「公共性」に係わる基本文献が挙げられるが、古典的文献から、現代的イシューに対応した個別テーマに係わるものまでが整理されており、著者の幅広い知見の蓄積が垣間見える。
古典的な知見をわかりやすく解きつつ、今日の問題と対応させた形でその意義付けを行っており、「公共性」に係わる入門書として最適。平易な記述とはいえ、扱っているのは古代からの普遍的課題であり、それなりの居住まいは必要であるが。
2006年2月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
100頁たらずのコンパクトな書物であるが、内容は濃い。著者自身が「この本でここ数年公共性にふれて考えてきたことに一応区切りをつけることができた」というように渾身の作品となっている感がある。アーレントにおける公共性をたたき台として、自らの「公共性」論を展開する。特に第3章の「生命の保障をめぐる公共性」および第4章の「親密圏/公共圏」は現在の公共性について、現実に即して明瞭にそして的確に論理が展開されており、説得力がある。「共同体」という概念でなく「公共性」という概念にこそ現状をのりこえていく何らかの可能性が残されている、そんな感じである。諸個人の「善き生の構想」は和解不可能であるとして、それらを一元化するあらゆるものに否をとなえ、その上で可能な「公共性」とはいかなるものかという可能性を冷静にたどっている著者の思索は魅力的であり、読み進めていくうちにぐいぐいとひきつけられる。
2012年3月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は「公共性」という表題だが、その内容はアーレントやハーバーマスの思想を下敷きに独自の見解を展開したものであり、教科書的概説書ではない。
著者によれば公共性は、ウチ・ソトの区別によって成立する共同体とは異なる。公共性は誰でも参入でき、価値の複数性を前提とし、共通の情念でなく共通の関心で結ばれ、排他的帰属原理に支配されない場所である。別の言い方をすれば、それは共通の世界に各々の仕方で関心を抱く人々の間に生成する言説空間だということになる。
価値の複数性、「他者」の承認の意義を強調する著者の議論は、同調圧力の強い日本では傾聴されるべき論点だろう。開かれた議論を必要としている組織はそれこそ日本中にある。
しかし、公共性は単に言説の問題ではない。語り、聞くことも大切だが、対話が決定につながり、実際に人々に価値をもたらすのでなければ、公共性の領域は談話サロンにとどまる。著者もその点を認識し、福祉国家を通じた連帯に高い評価を与えている。だが、著者の強調する価値の複数性や異質性は、このような「連帯」とどこまで両立するのだろうか。価値観がまるで違い、共通の帰属で結ばれることのない「赤の他人」のために税金を払うのが「公共性」だといわれても、納得しない人も多いだろう。こうした形の「公共性」を支えるものは複数性よりも、むしろ共同性の原理ではないか。
ところが、福祉の側面を例外として、著者は共同性、特に国家レベルの共同性について語ることに消極的である。それどころか著者は、ナショナリズムを梃子に国家的な公共性の復活を説く議論(佐伯啓思、小林よしのりなど)について、「公共性とは全く相容れない価値を語る」ものだと述べ、こうした議論は「スクリーニング」の対象となる、とまで言っている。参入の自由が根幹のはずの「公共性の原理」をめぐる議論において、特定の立場の参入を拒むのは、悪い冗談でなければ自己矛盾というほかない。
私の理解する限り、佐伯や小林の議論は、殊更に人々の価値観を画一化しようとするものではない。むしろ、市場の一元的支配に抗して「連帯」の領域を確保するためにも、国民としての共同性を強調する趣旨であり、その関心は著者と重なる部分もある。なぜ著者は、彼らの言説を頭ごなしに排除するのか。どうして「共通の世界に違った角度から関心を持っている他者」として遇する度量がないのだろうか。
著者の言う公共性とは結局、国家中心の公共性に代わる「反ナショナリズム的公共性」であって、開かれていると称しつつ反対者は排除する、ご都合主義的概念でしかない。読者もこんな本を読んで「公共性」について分かった気にならない方がいい。
著者によれば公共性は、ウチ・ソトの区別によって成立する共同体とは異なる。公共性は誰でも参入でき、価値の複数性を前提とし、共通の情念でなく共通の関心で結ばれ、排他的帰属原理に支配されない場所である。別の言い方をすれば、それは共通の世界に各々の仕方で関心を抱く人々の間に生成する言説空間だということになる。
価値の複数性、「他者」の承認の意義を強調する著者の議論は、同調圧力の強い日本では傾聴されるべき論点だろう。開かれた議論を必要としている組織はそれこそ日本中にある。
しかし、公共性は単に言説の問題ではない。語り、聞くことも大切だが、対話が決定につながり、実際に人々に価値をもたらすのでなければ、公共性の領域は談話サロンにとどまる。著者もその点を認識し、福祉国家を通じた連帯に高い評価を与えている。だが、著者の強調する価値の複数性や異質性は、このような「連帯」とどこまで両立するのだろうか。価値観がまるで違い、共通の帰属で結ばれることのない「赤の他人」のために税金を払うのが「公共性」だといわれても、納得しない人も多いだろう。こうした形の「公共性」を支えるものは複数性よりも、むしろ共同性の原理ではないか。
ところが、福祉の側面を例外として、著者は共同性、特に国家レベルの共同性について語ることに消極的である。それどころか著者は、ナショナリズムを梃子に国家的な公共性の復活を説く議論(佐伯啓思、小林よしのりなど)について、「公共性とは全く相容れない価値を語る」ものだと述べ、こうした議論は「スクリーニング」の対象となる、とまで言っている。参入の自由が根幹のはずの「公共性の原理」をめぐる議論において、特定の立場の参入を拒むのは、悪い冗談でなければ自己矛盾というほかない。
私の理解する限り、佐伯や小林の議論は、殊更に人々の価値観を画一化しようとするものではない。むしろ、市場の一元的支配に抗して「連帯」の領域を確保するためにも、国民としての共同性を強調する趣旨であり、その関心は著者と重なる部分もある。なぜ著者は、彼らの言説を頭ごなしに排除するのか。どうして「共通の世界に違った角度から関心を持っている他者」として遇する度量がないのだろうか。
著者の言う公共性とは結局、国家中心の公共性に代わる「反ナショナリズム的公共性」であって、開かれていると称しつつ反対者は排除する、ご都合主義的概念でしかない。読者もこんな本を読んで「公共性」について分かった気にならない方がいい。