無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
ナショナリズム (思考のフロンティア) 単行本 – 2001/10/26
姜 尚中
(著)
この奇怪なる現象―いま,その呪縛を解く
- 本の長さ161ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2001/10/26
- ISBN-104000264362
- ISBN-13978-4000264365
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
ナショナリズムとは何か、これほど謎にみち、そして単純素朴に見える現象はほかにないのかもしれない。ナショナリズムは何故なくならないのか。それを駆動するエネルギーは何によって充填されるのか。その未来とは?
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2001/10/26)
- 発売日 : 2001/10/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 161ページ
- ISBN-10 : 4000264362
- ISBN-13 : 978-4000264365
- Amazon 売れ筋ランキング: - 551,772位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
姜尚中(カン サンジュン)
1950年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。
東京大学大学院情報学環教授。専攻は政治学・政治思想史。
著書に『マックス・ウェーバーと近代』、『オリエンタリズムの彼方へ』、『ナショナリズム』、『東北アジア共同の家をめざして』、『日朝関係の克服』、『姜尚中の政治学入門』、『ニッポン・サバイバル』『悩む力』ほか。
共著回編者に『ナショナリズムの克服』、『デモクラシーの冒険』、『在日一世の記憶』ほか。
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2023年1月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
Very good, great and awsome one!
2003年2月23日に日本でレビュー済み
「ナショナリズム」というトピックで語りたい人は、
今までなら丸山真男を読めばよかった。
だが、著者によればバブル以降のナショナリズムは
以前のものとは異なる様相を呈しているという。
この書物が、新たなナショナリズムを分析する際の
よき座標軸となるはずです。
このシリーズの例によって、文献案内つき。
今までなら丸山真男を読めばよかった。
だが、著者によればバブル以降のナショナリズムは
以前のものとは異なる様相を呈しているという。
この書物が、新たなナショナリズムを分析する際の
よき座標軸となるはずです。
このシリーズの例によって、文献案内つき。
2019年2月9日に日本でレビュー済み
本書の書名は『ナショナリズム』であるが、論じられていることは近代以降の日本の国体論としての天皇制である。よって書名は『国体論としての天皇制』とすべきものであるが、これでは売上は期待出来ない。『ナショナリズム』とは意味深長な表現であり、近代日本の国体としての天皇制を包含すると共に、それを隠蔽する。冒頭には、平成天皇退位に寄せた著者の序文が寄せられている。
著者は、象徴天皇の生前退位が皇室典範では認められておらず、崩御した場合のみ皇嗣が皇位を継承することが定められている規定に「万世一系」の天皇が統治する国体としての天皇制の残滓を見る。その通りであると思うが、日本国統合の象徴としての平成天皇の国事行為の遂行や被災地への弔問などの活動が国民に評価され、象徴天皇としての親近感を国民に植え付けたことの意義は大きい。世界の王室のひとつとして天皇家の存在を認め、皇室を愛する精神の涵養自体は否定すべきことではない。しかし、時の政権によるナショナリズム推進に天皇制が利用される危険があることを常に心に留めておく必要がある。特に教育は要注意だ。愛国心や伝統文化への畏敬の念を道徳の教科化によって育成することを意図する政府の教育改革推進には疑問を提起しなければならない。
自国ファーストが蔓延る昨今、天皇制とナショナリズムが融合する危険性がある。丸山真男の国体論が無責任の体系を説いたのに対し、著者の国体論は純粋に歴史学的・政治学的記述である。本書の歴史的分析をナショナリズム復活への動きに対する警鐘として受け止めたい。お勧めの一冊だ。
著者は、象徴天皇の生前退位が皇室典範では認められておらず、崩御した場合のみ皇嗣が皇位を継承することが定められている規定に「万世一系」の天皇が統治する国体としての天皇制の残滓を見る。その通りであると思うが、日本国統合の象徴としての平成天皇の国事行為の遂行や被災地への弔問などの活動が国民に評価され、象徴天皇としての親近感を国民に植え付けたことの意義は大きい。世界の王室のひとつとして天皇家の存在を認め、皇室を愛する精神の涵養自体は否定すべきことではない。しかし、時の政権によるナショナリズム推進に天皇制が利用される危険があることを常に心に留めておく必要がある。特に教育は要注意だ。愛国心や伝統文化への畏敬の念を道徳の教科化によって育成することを意図する政府の教育改革推進には疑問を提起しなければならない。
自国ファーストが蔓延る昨今、天皇制とナショナリズムが融合する危険性がある。丸山真男の国体論が無責任の体系を説いたのに対し、著者の国体論は純粋に歴史学的・政治学的記述である。本書の歴史的分析をナショナリズム復活への動きに対する警鐘として受け止めたい。お勧めの一冊だ。
2006年8月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
タイトルが「ナショナリズム」とありながら、日本のナショナリズムについてしか論じていないというのは問題である。ナショナリズム研究は、最近英語圏で急速に進んでいるのだから、もうすこしその成果を著者は勉強すべきだ。また、ナショナリズムは世界各地に存在している。そうしたナショナリズムとの比較の視点がなければ、ナショナリズムについて論じたことにはならないだろう。それに、著者には馴染みのはずの「在日」のナショナリズムについてはどう考えているのか。そこには全く触れていない。評者には、この書は著者の勉強不足、思索不足が見えてしまっているような気がしてならない。
2020年7月16日に日本でレビュー済み
私は姜尚中のワケ知り顔が嫌いです。テレビに出て日本批判をし、中韓の悪いところは華麗にスルーする姿勢が嫌いです。
さて、それで本書を読んでみたのですが、意外に冷静に書かれていて驚いた。もっと日本の悪行批判をするのかと思ったのに、歴史の事実検証に深入りせず、日本のナショナリズム思想史の研究に立ち止まっていた。過去の思想家がどう考えたのかの引用につとめ、自身の歴史観はできるだけ出さないようにしていた。(でも、ちょっと顔を出す)
引用箇所が自分の意見と間違われないように「」でくくって明示し、左右からの誤解を受けないようにつとめた。
その引用元がこれまた幅広く豊富で、姜尚中の学識の高さにもう一度驚いた。
とくに面白かった箇所は、日本の8月15日革命説に同調していなさそうだったところ。右翼の竹田恒泰と同意見になっている。
また、姜尚中の意見に「日本はグローバルスタンダード化が避けられない。つまり、天皇なき国体が模索されつつある」という記述があって、(何をこのやろう)と思った矢先、それに続けて「日本の天皇なき国体とは自己矛盾以外の何物でもない」と語る。嬉しいことを言ってくれるじゃないか。
最終章にサヨク列伝のようなことを書いて、姜尚中もその中で楽しそうにくつろいでいる。この章はそれまでの章と違って緊迫感がなく緩んだ文章になっている。妙なページ数稼ぎをする必要のない良質の本なのに惜しい。☆5つからひとつ減らし4つとした。
この本のラストで叔父さんの話が出てくる。詳しくはネタバレになるので書かないが、保守側の私も耳を傾けるべき話だと思った。日本がもっと本気で五族協和に取り組んでいたなら、たとえ敗戦していても、戦後の中韓の日本に対する姿勢はもっと違ったものになっていたかもしれない。それは本当にそう思う。
いまでも、テレビで姜尚中を見ようとは思わない。けれど、著作物はいろいろ読んでみたいと思う。
さて、それで本書を読んでみたのですが、意外に冷静に書かれていて驚いた。もっと日本の悪行批判をするのかと思ったのに、歴史の事実検証に深入りせず、日本のナショナリズム思想史の研究に立ち止まっていた。過去の思想家がどう考えたのかの引用につとめ、自身の歴史観はできるだけ出さないようにしていた。(でも、ちょっと顔を出す)
引用箇所が自分の意見と間違われないように「」でくくって明示し、左右からの誤解を受けないようにつとめた。
その引用元がこれまた幅広く豊富で、姜尚中の学識の高さにもう一度驚いた。
とくに面白かった箇所は、日本の8月15日革命説に同調していなさそうだったところ。右翼の竹田恒泰と同意見になっている。
また、姜尚中の意見に「日本はグローバルスタンダード化が避けられない。つまり、天皇なき国体が模索されつつある」という記述があって、(何をこのやろう)と思った矢先、それに続けて「日本の天皇なき国体とは自己矛盾以外の何物でもない」と語る。嬉しいことを言ってくれるじゃないか。
最終章にサヨク列伝のようなことを書いて、姜尚中もその中で楽しそうにくつろいでいる。この章はそれまでの章と違って緊迫感がなく緩んだ文章になっている。妙なページ数稼ぎをする必要のない良質の本なのに惜しい。☆5つからひとつ減らし4つとした。
この本のラストで叔父さんの話が出てくる。詳しくはネタバレになるので書かないが、保守側の私も耳を傾けるべき話だと思った。日本がもっと本気で五族協和に取り組んでいたなら、たとえ敗戦していても、戦後の中韓の日本に対する姿勢はもっと違ったものになっていたかもしれない。それは本当にそう思う。
いまでも、テレビで姜尚中を見ようとは思わない。けれど、著作物はいろいろ読んでみたいと思う。
2007年2月2日に日本でレビュー済み
第一部においてナショナリズム研究の動向を整理しつつ、ナショナリズムの見方が提示される。続く第二部において、近代日本のナショナリズムについて「国体」をキーワードにして論じられる。
本書における「国体」というキー概念は難しい。分かったような分からないような、もやもやとした曖昧な概念である。それもそのはず、「国体」とは、著者が松浦寿輝を引いて指摘するように、「何ものかを意味するという以上に、むしろその意味されるところのものが不変であり「不可侵」であることを語るところに」その最大の政治的機能があるような「記号」であるがゆえである。国体明徴運動にせよ、在日等のマイノリティへの差別にせよ、日本が非日本的なるものを排斥するとき、日本とは何か、どこまでが日本人かといった定義、境界が明示されることはほとんどない。何が「国体」かが不明瞭なまま、時の権力の恣意に基づいて、「国体」を侵犯するものに対し有形無形の暴力が振るわれてきた。そのような著者の議論は難解だが、その指摘は極めて鋭い。またこの「国体」という概念によって戦前・戦後の日本のナショナリズムの「連続」性を見事に示しえている。「日米談合体制としての戦後日本」とは、肯定するにせよ否定するにせよ日本の現代史を考える上で無視できない指摘であろう。
ところで本書はナショナリズム論の概説書的性格を期待していた方々には不評のようである。確かに欧米でのナショナリズム研究の動向は一部の20ページ強のみで、あとは具体的に現代まで連なる日本の「国体ナショナリズム」の議論に終始している。しかしながら私は本書のこのようなあり方は肯定的に捉えたい。「思考のフロンティア」とは、「学術の最先端」ではなく、「学術と現実の境界線」のことであろう。日本及び世界が現在抱えている問題に対する学術からの切り込み、それこそが本シリーズの意図するところではないだろうか。
本書における「国体」というキー概念は難しい。分かったような分からないような、もやもやとした曖昧な概念である。それもそのはず、「国体」とは、著者が松浦寿輝を引いて指摘するように、「何ものかを意味するという以上に、むしろその意味されるところのものが不変であり「不可侵」であることを語るところに」その最大の政治的機能があるような「記号」であるがゆえである。国体明徴運動にせよ、在日等のマイノリティへの差別にせよ、日本が非日本的なるものを排斥するとき、日本とは何か、どこまでが日本人かといった定義、境界が明示されることはほとんどない。何が「国体」かが不明瞭なまま、時の権力の恣意に基づいて、「国体」を侵犯するものに対し有形無形の暴力が振るわれてきた。そのような著者の議論は難解だが、その指摘は極めて鋭い。またこの「国体」という概念によって戦前・戦後の日本のナショナリズムの「連続」性を見事に示しえている。「日米談合体制としての戦後日本」とは、肯定するにせよ否定するにせよ日本の現代史を考える上で無視できない指摘であろう。
ところで本書はナショナリズム論の概説書的性格を期待していた方々には不評のようである。確かに欧米でのナショナリズム研究の動向は一部の20ページ強のみで、あとは具体的に現代まで連なる日本の「国体ナショナリズム」の議論に終始している。しかしながら私は本書のこのようなあり方は肯定的に捉えたい。「思考のフロンティア」とは、「学術の最先端」ではなく、「学術と現実の境界線」のことであろう。日本及び世界が現在抱えている問題に対する学術からの切り込み、それこそが本シリーズの意図するところではないだろうか。
2007年4月1日に日本でレビュー済み
既に述べられている方もいるとおり、ナショナリズムというよりは国体、そして国体というよりは橋川文三論とも言うべきものである。
その橋川文三にしても「国体」という語の使い方は特異でありあくまで在日朝鮮人から見た国体(注 在日内省人、在日台湾人除く)論といえるだろう。
主に翻訳書によりながら前提をすすめる。マルクス主義史学者であるボブズホウムや、ゲルナーによりながら議論は進められる。
橋川文三よりもはるかに射程は広く昭和に初めて発表された国体論をはじめて宣長まで遡っている、現時点においては唯一の著作といえる。
その点で記紀の平安時代と昭和の国体論との連続性を考えた人にはお勧めであろう。
その橋川文三にしても「国体」という語の使い方は特異でありあくまで在日朝鮮人から見た国体(注 在日内省人、在日台湾人除く)論といえるだろう。
主に翻訳書によりながら前提をすすめる。マルクス主義史学者であるボブズホウムや、ゲルナーによりながら議論は進められる。
橋川文三よりもはるかに射程は広く昭和に初めて発表された国体論をはじめて宣長まで遡っている、現時点においては唯一の著作といえる。
その点で記紀の平安時代と昭和の国体論との連続性を考えた人にはお勧めであろう。