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中国の恋のうた――『詩経』から李商隠まで (岩波セミナーブックス S12) 単行本(ソフトカバー) – 2011/5/21
川合 康三
(著)
中国最古の詩集『詩経』に残されたおおらかな恋のうた、南朝の民歌にみられる男女の機微、唐代の詩人たちが描く閨怨の孤独、そして晩唐・李商隠の精緻を極めた恋愛詩。中国古典詩のなかでも、山水や悲憤にとどまらないの恋愛詩の魅力を縦横に語り、いつの時も変わらない人々の思いを、鮮やかに読み解く。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2011/5/21
- ISBN-104000281828
- ISBN-13978-4000281829
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2011/5/21)
- 発売日 : 2011/5/21
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 224ページ
- ISBN-10 : 4000281828
- ISBN-13 : 978-4000281829
- Amazon 売れ筋ランキング: - 836,342位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 343位漢詩
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2011年6月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中国古典詩から「恋のうた」を発掘する、という著者の意図は十分伝わってきます。目からウロコの読者も多いのではないかと思います。難解な李商隠もこの切り口で見事に料理されています。惜しむらくは晩唐までのレビューで終わっていること。それ以後、特に宋詞の周辺をこのテーマで掘り下げていただけたらというのが読後の感想です。
2016年7月16日に日本でレビュー済み
この本の中で、李商隠の『夜雨北に寄す』について、著者、川合康三先生は『典故を用いない平易な措辞、現実と結びつく内容からして実際に相手の女性に送られた詩と考えてよさそうだ』と解説、さらに巴山という地名から巴に含まれる「巫山」の神女伝説をひいて、異性の友..愛人..と推測しておられます。
夜雨寄北 夜雨北に寄す 【李商隠】
君問歸期未有期 君は帰期(きき)を問うも未(いま)だ期(き)有)らず
巴山夜雨漲秋池 巴山(はざん)の夜雨 秋池(しゅうち)に漲(みなぎ)る
何當共剪西窗燭 何(いつ)か当(まさ)に共に西窓(せいそう)の燭(しょく)を剪(き)って
却話巴山夜雨時 却(さて)しも話すべき 巴山(はざん)夜雨の時(とき)を
岩波文庫の『唐詩選』でも、相手は長安に残してきた妻ではなく愛人という説ありと紹介されていて、そうかなぁと....。読めば、情感溢れる恋の詩(うた)、情景が目に浮かんでくるような再帰描写。まるでテレビドラマのなかの一場面のようです。しかし、そうなのか?
現代人の感覚でもすんなりわかるというのは、まてまてと。「獺祭魚」李商隠の詩が、平易なはずはない。ということで、他の文献、『中國詩人選集』(高橋和巳解説)にあたってみました。そのなかで、この詩の訳文は次のとおり。
『いつお帰りになりますの、そうたずねる手紙があなたから来た。 しかしまだいつ帰れるとも、期限の見込は立たない。いま私は、巴山の麓の片田舎の旅館にいるが、秋の長雨が夜にも降り続け、前の池に水が漲っている。いつになったら、夫婦ともども、西むきの居間の窓に対座し蝋燭の芯をはさみで剪りながら夜おそくまで話し合うことができるだろうか。若しそうなれば、その時にこそ、巴山に降りそそぐこの雨の音を聞きながら私が何を思っていたかを話してあげよう。』
--------「いつになったら、夫婦ともども、西向きの居間の窓に対座し..」とあっさり「夫人」宛としています。愛人宛のラブレターを想起させるアブナイ詩の、解説の方では、『公言し得ない不幸な恋愛関係、公言し得ぬ何か別の困難な人間関係を仮託したもの、或いはフィクション』として「愛人説」には触れていません。李商隠自身の何らかの経験が背景にあるにしても、これはやはり虚構、フィクションの世界だと私は思います。
「巴山」の含意について高橋和巳が知らない筈はなく、その彼があえて触れなかったのは、虚構(フィクション)なら現実の人--- 夫人、愛人----とのかかわり合いはどうでもいいと考えたからか。----- 川合康三先生の方が、真面目な学究、大学院生(当時)高橋和巳の解釈より、ロマンティックではあるのですが----。
夜雨寄北 夜雨北に寄す 【李商隠】
君問歸期未有期 君は帰期(きき)を問うも未(いま)だ期(き)有)らず
巴山夜雨漲秋池 巴山(はざん)の夜雨 秋池(しゅうち)に漲(みなぎ)る
何當共剪西窗燭 何(いつ)か当(まさ)に共に西窓(せいそう)の燭(しょく)を剪(き)って
却話巴山夜雨時 却(さて)しも話すべき 巴山(はざん)夜雨の時(とき)を
岩波文庫の『唐詩選』でも、相手は長安に残してきた妻ではなく愛人という説ありと紹介されていて、そうかなぁと....。読めば、情感溢れる恋の詩(うた)、情景が目に浮かんでくるような再帰描写。まるでテレビドラマのなかの一場面のようです。しかし、そうなのか?
現代人の感覚でもすんなりわかるというのは、まてまてと。「獺祭魚」李商隠の詩が、平易なはずはない。ということで、他の文献、『中國詩人選集』(高橋和巳解説)にあたってみました。そのなかで、この詩の訳文は次のとおり。
『いつお帰りになりますの、そうたずねる手紙があなたから来た。 しかしまだいつ帰れるとも、期限の見込は立たない。いま私は、巴山の麓の片田舎の旅館にいるが、秋の長雨が夜にも降り続け、前の池に水が漲っている。いつになったら、夫婦ともども、西むきの居間の窓に対座し蝋燭の芯をはさみで剪りながら夜おそくまで話し合うことができるだろうか。若しそうなれば、その時にこそ、巴山に降りそそぐこの雨の音を聞きながら私が何を思っていたかを話してあげよう。』
--------「いつになったら、夫婦ともども、西向きの居間の窓に対座し..」とあっさり「夫人」宛としています。愛人宛のラブレターを想起させるアブナイ詩の、解説の方では、『公言し得ない不幸な恋愛関係、公言し得ぬ何か別の困難な人間関係を仮託したもの、或いはフィクション』として「愛人説」には触れていません。李商隠自身の何らかの経験が背景にあるにしても、これはやはり虚構、フィクションの世界だと私は思います。
「巴山」の含意について高橋和巳が知らない筈はなく、その彼があえて触れなかったのは、虚構(フィクション)なら現実の人--- 夫人、愛人----とのかかわり合いはどうでもいいと考えたからか。----- 川合康三先生の方が、真面目な学究、大学院生(当時)高橋和巳の解釈より、ロマンティックではあるのですが----。
2013年12月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
漢詩にも恋のうたがあった。儒教の道徳観からわが国では紹介されなかっただけのことのように思います。彼の国にだって男と女がいるのであるから恋のうたが無いほうがおかしいと思っていました。