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丸山眞男集〈第16巻〉雑纂 単行本 – 2004/4/6

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「如是閑さんと父と私」のほか様々なインタビュー、追悼文、一連の「みすず」読書アンケート、談話記事などを収録。

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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 岩波書店 (2004/4/6)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2004/4/6
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 424ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4000919660
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4000919661
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丸山 真男
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2019年3月4日に日本でレビュー済み
本書(『丸山眞男集 第16巻 雑纂』(1996年12月6日発行、岩波書店))は、「雑纂(ざっさん)」とあるように、「本巻には、その性格上、第1 - 15巻に収められなかった文章を「雑纂」として集めたほか、本来第1 - 15巻の該当巻に収めるべきものであるが、該当巻の刊行後に発見されたために収めることが出来なかった文章を「補遺」として別にまとめて収めた」(P.379、松沢弘陽の「解題」より)とのこと。ちなみに、「雑纂」の意味は、「種々雑多な記録、文書などを編集すること。また、そうしてできた書物」(カシオ電子辞書、「精選版 日本国語大辞典」より)です、念のため。
そのため、本巻はいくつかのまとまりに分類されています、分類の細かい説明の引用はしませんが、分類だけは下記します。引用した文章がどの分類に入っているのかが気になる人がいるかも知れませんから。

「Ⅰ 丸山眞男氏に聞く」(P.1 ~ P.218)、「Ⅱ 諸寄稿文」(P.219 ~ P.260)、「Ⅲ 「みすず」読書アンケート」(P.261 ~ P.290)、「Ⅳ 諸アンケート回答」(P.291 ~ P.311)、「Ⅴ 公開書簡」(P.313 ~ P.318)、「Ⅵ 談話記事」(P.319 ~ P.366)、「Ⅶ 補遺」(P.367 ~ P.377)

標題関連の文章を下記に引用します、非常に短い文章(アンケートの回答)ですので。傍点、傍線、まるぼしは、≪ ≫で代替します。引用文全体は、【 】で囲みます。引用文中の引用は、< >で囲みます。

●「戦争責任の中心の所在について」(近代文学、1956年9月号、近代文芸社)(P.299)

【 「 ―― 貴方は戦争責任の中心がどこにあるとお思いですか。

「過去を知らぬものはそれを繰返す運命にある」とサンタヤーナは言っています。われわれの経験を繰返さぬためにこそ、誰がどの点で過失を冒したかを確定することが必要と存じます。 nuchtern な〔 醒めた 〕態度で追及されねばなりません。」(p.299) 】

上記引用文中のドイツ語の「u」の上には、ウムラウトが付きますが、書評者の「Word」操作技術の未熟ゆえに、付けることが出来ません、悪しからず。 

ここで、時事問題を二つ。

沖縄の県民投票の結果が出ました。沖縄県民の辺野古新基地建設拒否の意思がはっきりしたのに、安倍晋三や菅義偉は無視を決め込んで、辺野古基地建設を強行しています。日本語も理解できない安倍晋三の「真摯に受け止める」や「対話継続」はフェイクニュースそのものでしょう。対話をする気もないし、して来てもいないのに、「対話継続」をほざくのですから。「真摯」という言葉の意味も本当は知らないのでしょう、「云々(うんぬん)」を「デンデン」と言うような「知性」の持ち主ですから。

第2回米朝首脳会談が「不調」に終わったようです。「対話継続」も安倍晋三の上記の言葉よりは信憑性が高いでしょう。しかし、米国や国際情勢のニュースは何故これほどまでに「アメリカの男めかけ」的かつ「大本営発表」的なのかと思い知らされます、マスコミのテイタラクもつくづく呆れます。たとえば、日本のマスコミは「北朝鮮の非核化」ばかり騒いでいますが、第1回の米朝首脳会談の合意事項は「朝鮮半島の非核化」だったのではないか、すり替えも甚だしいのではないでしょうか。それから、拉致問題でまたぞろ安倍晋三が「今度は自分で云々」と言っているようですが、この「文句」は第1回米朝首脳会談の後にも聞いたようなセリフですね。何言っているんだという感じですが、こんなこともすぐ忘れる「大日本帝国臣民」ですから、「アホ」な首相でも官房長官でも務まってしまうのです、イヤハヤナントモ、です(菅義偉なんてヤクザも顔負けですよ、たぶん)。
また、朝日新聞の、韓国の「3.1独立運動」100周年記念式典、およびその時の文在寅(ムン・ジェイン)大統領の演説に対するソウル支局長(?)牧野愛博の政府忖度的な記事にもウンザリですね、他の新聞(産経や読売は見なくても分かる気がします、そもそも記事自体がないかも知れませんし、あっても「嫌韓」でしょうから)はいざしらず。

では引用を始めます。

●「普遍の意識欠く日本の思想 ―― 丸山眞男氏を囲んで ―― 」(一橋新聞、1964年7月15日号)(P.47 ~ P.67)

本論稿は、啓発的な発言(文章)が目白押しで、全文引用したいくらいですが、そうもいきませんので、いくつかの文章を抜粋して引用します。引用する文章が、最適の文章でも、話題の中心的な文章というわけでもないかも知れません、書評者の臨機応変の選択の結果という意味以外ではありません、書評者の理解力の為せるワザということです。

【 「 第三の注意は、あなたの言われた具体的な今の日本の状況ですが、人権の思想が浸透した方が支配しやすいとは僕には考えられない。その「人権思想の浸透」と言われているものは別の言葉で表現すべきものだと思うわけです。

人権の考えはギリシャにはなく、クリスト教から出て、ブルジョア憲法の中に制定化された考えですが、さっきの普遍的な人間性、人間というイメージがないと出てきませんね。普遍が特殊の下にあり、特殊の基礎であるという考えがないと出てこない。コスモポリタニズムの思想を通過しないと生まれないわけですね。たとえば、白樺派がコスモポリタニズムであるというのはとんでもない、あれほど日本的なものはありません。世界の市民であると同時に日本人であるという二重性において、コスモポリタン=人類の一員でありうる。人類は遠い所にあるのでなく、隣りにすわっている人が同時的に人類なのだ。そういうふうに同時的に見るべきことです。普遍は特殊の外にあったり、特殊を追求して普遍になるのではないのです。普遍はいつも特殊と重なってあるわけです。

日本の地理的な位置などから、日本ではゲルマン人の侵入の場合のように根底から今までの思想がくつがえされるような文化接触をしていないのです。中国の思想・文化も、一度に入ってきたのでなく、天井から雨がもるようにぽつぽつ入ってきたのです。それで、仏教のような世界宗教が入ってきた時、少なくとも支配層は部族信仰といかに調和させるかを考えるひまがあった。祖先信仰や精霊信仰は普遍者を知らない信仰で、たいてい世界宗教が入ってくるとつぶされています。日本ではつぶされないように、部族信仰の続きである皇室信仰に仏教のような世界宗教を従属させてしまったのです。これは地理的に大陸から適当な距離があったからで、一般国家論を戦後始めて語ることができるようになったのもこのせいです。

明治以降、日本はかなりウェスタナイズされています。これだけウェスタナイズされた日本で、戦争中にあんなに荒唐無稽な考えが権力と結んでひろがると、どうしてあんなに無抵抗だったのか。たとえば天皇機関説など多年だれも疑うものがなかったのに、天皇が機関とは何ごとだと、一度反対されると、だれも公に抗弁できなかったのです。その理由はよくわかりませんが、日本の知性は魔術的なタブーの前に実にもろい。そういったマーギッシュな考え方を我々の下意識の世界から追放しなければならない。それは大変な問題です。僕がそういうと、「近代主義」といわれます。しかし僕は、そういった「近代化」のみが「永久革命」に価すると思う。社会主義が永久革命だなんてとんでもない。それは歴史的状況のもとにおける体制にすぎない。僕がいったような、普遍的なものへのコミットだとか、人間は人間として生まれたことに価値があり、どんなに賤しくても同じ人は二人とない、そうした個性の究極的価値という考え方に立って、政治・社会のもろもろの運動・制度を、それを目安にして批判してゆくことが「永久革命」なのです。それが僕の考えです。

そして、現在いろいろな社会運動・集団の中で、いろいろな「言葉」というものが、その意味が自明であるかのように通用していますね。そうした我々の「言葉」、つまり物の考え方を吟味し、それらを因襲から解放しようという所に私の任務があると考えています。平和運動をやる人も必要です。しかし、私はその中で言葉を検討する仕事をしているのです。

今日、出されたいろいろな問題についても、大変高尚なものが多いのですね。それよりも、我々が日常的に遭遇するものについての疑問を出していってほしいですね。我々が日常的に遭遇することを学問的に考えることが必要で、そうではなくてただ覚えるだけになる。

マルクスがこういった、ウェーバーがこういったという知識については日本の大学生は実によく知っている。知識の量は世界的なのではないですか。しかし、毎日の出会う事件、それも日韓会談とかの大きな事件ばかりでなく、日常的な、たとえば隣のおばさんがこういう問題をおこしたとか、そういう事件について、高尚な学問から得た概念を道具として考えることが必要で、それが欠けていると思います。

・・・・・

―― 日本の左翼は、戦前の文学者の政治参加にも見られるように、精神的なものまですべて指導部に売り渡してしまう傾向がある。政治をマキャベリ的に考察してゆく思考法がないのに対し、ヨーロッパの場合、そうしたものがあるというのは大きなちがいになっているのではないでしょうか。

そうは思いませんね。ヨーロッパでも激情を組織化した点でナチは他の国のファシズムや反動主義とは比較を絶しています。

もし日本とヨーロッパとその点でちがうとすれば、それは政治と宗教の問題になります。古代では政治と宗教とはくっついていた。それがどう分離されていったか。宗教の政治からの独立は、文化の政治からの独立の基本的な形なのですよ。なぜなら、政治とちがう価値基準に立った社会集団ができるかどうかというのはそこで決まるわけです。教会はどんなに堕落しても、俗権とはちがう価値基準に立っている。

だから中世の教会から俗権に対する抵抗権という発想が出てくる。つまり、いかなる地上の俗権をもこえた価値の存在は、クリスト教でいえば神に対して自分がコミットしているということになる。「人に従わんよりは神に従え」という福音の言葉はそれです。もし地上の権力だけがすべての価値を左右しうるとすれば、すべては事実上の力関係で決定されてしまう。どんなに俗権が強く、長い歴史をもとうとも、地上の権力を超えた絶対者・普遍者に自分が依拠しているのだということが、抵抗権の根源であり、同時に教会自身が宗教改革を生みだした原因です。つまり、普遍者にてらして自分自身が堕落しているから、自分の中から改革を生みだしうるわけです。神でなくともよい。たとえば、スターリン批判がコミュニズムの中から生れてきたのは、コミュニズムがいい悪いは別として、普遍的な価値の上に立つイデオロギーであったからです。ファシズムの中からああいった批判は生まれてこない。特殊を絶対化する考え方からは、自分の中から、自分をトータルにかえてゆく考え方は出てこない。これはファシズムと社会主義・コミュニズムとの大きなちがいですね。

そうした観点から見ると、宗教の政治からの独立は、学問・芸術の政治からの独立の基礎であるし、政治的集団とちがった社会集団の自立性の基礎ですね。ギルド・都市・大学などが国家権力に対して持つ自治の考えの基礎です。これらが政治と同じ価値基準に立つのなら、力関係で劣っていれば負けたという他はない。政治的な価値とちがった価値というものの自立性は宗教から初めて出てきたのです。日本の皇室は政治権力であり、同時に宗教権力であったわけで、それ自身特殊の絶対化で、これでは政治学はもとより、一般国家学さえ出て来る余地はない。したがって、そういう考え方がある所では、ガンが転移するように、あらゆる社会集団に同じ考え方がはびこる傾向が強いのです。マルクス主義の中にも入りやすい。これが左翼天皇制といわれているもので、もとは部族信仰です。その点、日本とヨーロッパとちがいますね。」(P.58 ~ P.63) 】

相変らず「魔術的なタブー」(P.60)や「マーギッシュな考え方」(P.60)がはびこっています。安倍晋三等に対する「忖度」も同様でしょう。普遍的な知性の欠如そのものです。ちょっと前の、はしかの蔓延など、教祖の手かざしで病気が治るので、予防接種は必要ないという「カルト宗教集団」の存在を明るみに出していましたが、まさに「マーギッシュな考え方」そのものでしょう。科学的な考え方の欠落です。さらに、何日か前にNHKのニュースで放送されていましたが、最近、他人が何をしゃべっているのかよく分からないという訴えが、ソーシャル・メディア上で話題になっているとのことでしたが、これなども保育園(幼稚園)・小学校・中学校・高校時代等での「学習」の欠落による、日本語でさえ良く理解できない人が出てきたことの現れ、であると認識しています。一貫して国民に対する「まともな教育」の責任を放棄してきた文部省・文部科学省に代表される自民党(&公明党)政権による「戦後教育破壊」の必然的結末、と理解できます(彼ら「アホ」な為政者にとって、国民が「アホ」なほうが、「政治」はやり易いでしょうから)。現在も一貫しています、公教育(私立学校教育(大学・大学院その他も含めて)も同様です)が破壊されています。

●「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」(司法研修所論集、41、1968年11月、財団法人法曹会)(P.69 ~ P.124)

丸山眞男のような人が司法修習生と座談会をするなんてことは、たぶん今では全く考えられないことだと、書評者は思っています。今の日本の司法制度では想像を絶するでしょう。1969年前後の「青法協事件」が影響しているのかも知れませんね、この座談会はその前ですから、その詳しい状況はわかりませんが(安倍晋三の大叔父の佐藤栄作が、最高裁長官の首をすげ替えて、事態を収拾したように記憶していますが、不確かです。書評者の高校生時代の事件ですし、ネットにもそれほど詳しくまとめているものもないようですので。安倍晋三も、自分に「不都合な」内閣法制局長官の首をすげ替えましたね、「類は友を呼ぶ」、「瓜のつるに茄子はならぬ」、「鳶は鷹を生ま」ない、ということでしょうか)。その後も、日本の司法制度はどんどん反動化しているのでしょう、そして、ちょっと前の、元厚生労働省官僚の村木厚子が嵌(は)められた、あの「事件」を利用した「刑事司法制度改悪」もありますね。

一箇所多少長く引用します。段落が全くありませんので、「適当」に入れました、悪しからず、必ずしも「意味」の切れ目ということではありません。

【 「 それから、思想と行動との関係について最後に一言申し上げておきます。およそ思想というものがなんのためにあるかということです。アメリカの社会学でSR図式というのがあるんです。Sはスティミュラス、Rというのはレスポンス、刺激に対する反応です。そうしたSとRで社会を説明していく方式です。われわれは、外からの刺激に絶えず反応している。われわれの日々の過程というのはそうです。SR方式という図式でもって考えますと、人間の他の動物との根本的な相違はどこにあるか。いろいろあるでしょう。しかし、SとRとの間に距離があるというのが人間の他の動物と非常に違う点です。外からの刺激というのは自然的・社会的、一切のできごとです。できごとからわれわれにたいして通信が行なわれ、その情報を受けたわれわれがそれに対して反応している。わたくしがいま話しているのはあなた方に対する刺激です。だれかが手を上げてそれに対して答えるとそれは反応になるわけです。ですから日常生活は、さまざまな刺激に対する反応の無数の連鎖からでき上っていると考えられます。これは他の動物の場合も同じです。ところが、人間の場合には、できごとからの通信とできごとに対して反応することとの間に距離があるわけです。動物の場合には本能と習性によって、両者の距離が非常に短い。したがって刺激に対して反応が早い。反応が早いという点では人間より動物のほうが上です。危険が迫った場合には動物のほうがはるかに反射的に行動して危険を避ける。最近では刺激に対して反応が早いのが頭がいいと錯覚している人がいるようですが、人間の人間である特権はどういうところにあるかといえば、できごとの≪意味≫を考えたり、≪解釈≫したりする。このできごととはなんだろうと意味を付与する。意味を付与しないでは行動できない。だからのろいんです。つまり思想というのは最広義においてできごとに対する意味付与です。意味付与というのは価値判断だけでなく、「認識」や「解釈」もみんな意味付与の一つの形態です。できごとと意味付与との間に間隔がある。

これが「考える」ということなんです。人間は考える葦であるとパスカルがいったのはこの意味です。できごとに対する意味付与をしてはじめてそれに対して反応する。だからおそくなるんです。ところが、われわれが、たとえば朝起きて歯をみがくという時には、歯をみがくべきか、みがかざるべきかということはほとんど考えませんね。これは刺激に対してすぐ反応している例です。つまりこれはルーティンなんです。考えることは省くんです。われわれは日常生活で右すべきか左すべきか、歯をみがくべきかみがかざるべきか、顔を洗うべきか洗わざるべきかといちいち決断していたら神経衰弱になります。そのためにわれわれはルーティンを作って思考を節約するわけです。しかし大事なできごとに直面すると、われわれはいずれを選択するべきかのディレンマに立って決断する。そしてそこに思想というものが出てくる。ですから、思想というものは危機的な状況において生まれるともいえる。ルーティン通りにいかなくなる。きのうのごとく今日はいかなくなる。その時にこそ、われわれはいやでも考えなければいけない。今までの惰性的な意味付与ではやっていけなくなる。同じできごとに対しても、今までと違った意味付与をしなければならなくなる。あるいは今まで経験しなかったできごとが起こってくれば、これはなおさらのこと、いやおうなく新しい意味付与をしなければならない。そういう時に新しい思想というものが生まれてくるわけです。だから、われわれは思想自身の独自の意味はどこにあるか、あるいは人間の尊厳というものはどこにあるかを考えてみなければならない。そういう意味で、刺激と反応の間に距離があるということは、ある意味で不幸なんです。考えるということは人間を必ずしも幸福にしない。考える葦というのはまさに葦のように弱い。もしわれわれが動物のようにただ習性に従って反応していって、それに満足していればそのほうが幸福かもしれない。思考というのはその意味では人間を不幸にする。けれどもその不幸にこそ人間の尊厳がある。「樹木は自分が悲惨なことは知らない」「壊れた家屋は悲惨ではない」。これもパスカルの有名な言葉です。人間の特権は自分が悲惨であるということを知っていることだとパスカルはいう。これはむろんパラドックスでいっているわけです。けれども、この人間の不幸の源泉でもある「思考」を放棄して、ルーティンに従って、あるいは官能の赴くままに、すばやく反応する、そういうのは人間の特権を放棄するものです。われわれは刺激と反応の間にある距離をおいて、悩み、迷いつつ、選択して決断する。そこに人間の尊厳がある。そういうことをもういっぺん考えてみなければいけないのではないか。そこに新しい思想が生まれてくる源泉がある。そうでなくて、すべての生活をルーティンに還元すればわれわれは安心して行動できる。しかし社会が激変したときはそうはいきません。

幕末維新の時期にどうしてたくさんえらい人が出てきたか。偶然ではないんです。ああいう状況の下では、きのうのごとく今日はないんです。状況が非常に転変する。したがって各人がきのうの状況からほうり出される。ほうり出されるから、一人一人が自分で決断しなければならないチャンスが相対的に多いわけです。行動のルールがあらかじめ引かれているわけではないから、転変する状況の中で日々決断しなければならない。日々選択しなければならないという状況が各個人におとずれる。そういう経験の中からいわゆる「志士」というような人が生まれてくる。それは偶然ではないんです。官僚化された社会というのは、そういう意味では新しい思想および独立の精神をもった人間が生まれにくい状況です。というのは、すべてがルーティン化されている。したがってわたくしは現在のようにすべてがガッチリと制度化された社会では、そういう制度のルーティンというものによりかからないで、イマジネーションの駆使によってディレンマの状況というものを想定して自分の思想を練っていかなければいけないと思います。たとえばさきほど、日本の政治状況の認識の仕方について例を出しましたが、社会党なり共産党なり、あるいは国民の間の反戦運動が突然陥没したらどうなるかということは想像力の問題です。それを駆使することによって日本政治というものは本当にリアルに認識できる。所与の現実を不動の所与として受取らない。もしこうだったらと想像力を駆使することによって、われわれの現在もっている権利というものを生き生きと実感することができる。体験というものはそういうふうにして後世に相続されてくると思うんです。そうでなければ、だんだん社会が制度化されて官僚化されるにつれてだんだん動物的になります。文明が進歩するにしたがって動物的になるわけです。非常に抽象的な話になってしまいましたけれども・・・・。」(P.115 ~ P.119) 】

柄谷行人に『意味という病』という著作(未読)がありますが、日本及び日本人にとっては、どちらかというと「無意味という病」が適切かもしれませんね、「意味もなく」大騒ぎするのが大好きですから(東京オリパラ然り、ラグビーWC然り、テレビの馬鹿番組然り、その他その他)。また、東浩紀に『動物化するポストモダン』とか『動物化する世界の中で』なぞという著作(両書とも未読)がありますが、これも上記の丸山眞男のSR図式にそのまま当てはまるかも知れません、「パブロフの犬」そのものでしょう。「ベルを鳴らすと、涎をたらして」ご主人様になつくかもしれません、今の日本人は。

字数が足りませんので引用は出来ませんが、興味深く、啓発的な諸論稿を下記します。下記しないものは面白くない、のでは全くありませんので、悪しからず。

●「“社会不安”の解剖 ―― 丸山眞男氏に聞く ―― 」(P.3 ~ P.10)(女性新聞、1949年8月1日・11日号、日本基督教女子青年会)
●「私達は無力だろうか ―― 丸山眞男氏に聞く ―― 」(P.11 ~ P.25)(日本女子大学生新聞、1960年4月22日号)
●「5.19と知識人の「軌跡」 ―― 丸山眞男氏の思想と行動 ―― 」(P.27 ~ P.34)(週刊読書人、1960年9月19日号)
●「政治・学問・学生 ―― 丸山眞男教授との対話 ―― 」(P.35 ~ P.46)(東京大学新聞、1964年7月1日号)
●「如是閑さんと父と私 ―― 丸山眞男先生を囲む座談会 ―― 」(P.125 ~ P.218)(長谷川如是閑 ―― 人・時代・思想と著作目録、1985年11月、中央大学)

上記の座談会はけっこう長いですが、興味深い内容ですので、一気に読めます、一読勧めます。日本近現代史の勉強にもなります。

●「企画・編集にあたって(近代日本思想史講座)」(P.228 ~ P.231)(近代日本思想史講座、内容見本、1959年6月、筑摩書房)
●「戦争責任について ―― 思想の科学研究会1956年度総会における討論 ―― 」(P.323 ~ P.333)(思想の科学会報、16号、1956年11月、思想の科学研究会)