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オリーブの森で語りあう: ファンタジー・文化・政治 (同時代ライブラリー 66) 新書 – 1991/4/15
人類の危機が叫ばれるいまだからこそ,ポジティヴなユートピアの姿を思い浮べてみよう.現代人が失って久しいファンタジーの想像力によって.『モモ』のエンデが,政治家,演劇人とともに新しい生き方を語りあう.
- 本の長さ255ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1991/4/15
- ISBN-104002600661
- ISBN-13978-4002600666
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
夢を忘れた現代にこそ求められるユートピアとは…。エンデが、政治家、演劇人とともに、ファンタジー、意識の変革をうながす想像力と創造力、人類の危機を救う新しい生き方について、縦横に語り合う、刺激的な会話録。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1991/4/15)
- 発売日 : 1991/4/15
- 言語 : 日本語
- 新書 : 255ページ
- ISBN-10 : 4002600661
- ISBN-13 : 978-4002600666
- Amazon 売れ筋ランキング: - 118,014位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 18位ドイツのエッセー・随筆
- - 1,441位思想
- - 1,442位社会一般関連書籍
- カスタマーレビュー:
著者について
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1929‐95年。南ドイツ・ガルミッシュ生まれ。小説家。著書は各国で訳出され、幅広い年齢層に支持されている(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと (ISBN-13: 978-4006021566 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2008年1月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『モモ』『はてしない物語』で有名なドイツのファンタジー作家ミヒャエル・エンデが、同じドイツの政治家エアハルト・エプラー、演劇人のハンネ・テヒルと語り合った対談です。エンデというと現実離れのしたファンタジーを書く作家と言うイメージが強いように思われがちですが、この対談で彼は現実世界における「ポジティヴなユートピア」の可能性を見いだそうと、ほかの二人と意欲的な議論を戦わせています。科学偏重主義やマルクス主義の限界を意識し、「自由・平等・友愛」の三原則をそれぞれ文化・政治・経済に当てはめた未来社会を創ってゆこうという提案は、非常に説得力があります。今の社会の仕組みに疑問を感じながらも、どのように社会を変革していったらいいのかわからないと迷っている人に一読をおすすめします。この全集版は箱も製本もきれいで、魅力的な一冊に仕上がっています。
2018年11月19日に日本でレビュー済み
エンデ・エプラー・テヒル著 『オリーブの森で語り合う』
1「人間は時間をずっと泥棒され続けているのをなぜ放置しているのか。」
普段の生活を考えると、一日24時間、計画通りに進んでいる人はほんのわずかだろう。
お金を泥棒されると、警察に訴えて躍起となるが、お金を無駄にしても何とも思わない。
この時間、無駄だなと、思うだけでも進歩しているのではないか。その積み重ねで明日はこれをしないと、決めるだけでも。
ただ、僕も人間だから、時間通りに行うのは嫌だ。なぜなら、ロボットになるから。
一日の始まる、朝に計画を立てるのは良いが、そのスケジュール通り果たして、意味があるのか。堅苦しい。だから、おおよその計画を立て、自分の心にあったものを選択する。だから、選択するものを多く、頭にインプットしてみればよいと思う。
2 人間とはできる事にベストをつくして、死ぬのが最善か?
「フランチェスカがニンジンの種をまいていた。そこへ旅人が通りかかって、「かりに来週にも世界が滅び、そのニンジンを食べることができないとします。その時、何をなさいますか」
すると、聖フランチェスカはしばらく考えて、こう言った。「このまま種をまき続けるさ」と。
人間は自分のできることしか、できないんだ。僕たちの前には黒い城塞が立ちはだかっている。それは越えられそうにない。
マルテン・ルターが、これから植えようとするリンゴの木のことを話す時、おそらく聖フランチェスコから学んだのだろう。
「持ち時間はあるのか」と聞かれると、「わからない」と答える。わかっているのは、いま自分が何をしなければならないか、ということだけだ」と。
3 量に重きを置かないで、質に重きを置く時代はいつ来るのか。
「メリーゴーランドに乗っている人達は、いずれそのうち、乗り物ももろともに粉々になって四方八方に飛び散るしかない。少なくとも、そう予感している。ところが、自分になにができるかわからない。いや、もうなにも出来ないんだ。みんなは目を閉じている。
経済的自由主義から生まれてくるものは、いとも経済のダーウィニズムでしかなく、結局、つまらない勝負をさせられるだろう。こういう形の経済が有効に機能したのは、資源が無尽蔵にあると考えられ、また、利用し搾取するとのできる植民地や労働力や土地があったあいだだけの話だ」と。
「十六世紀になって、すべてを量で捕らえる思考が登場する。数えられるもの、計測、計量できるものだけが、正しいとされ、最後には質に関する現実までもがすっかり比定される。美というものは、測ることはできないが、存在する」と。
今までは、発展途上国の資源があり余っていたが、早かれ遅かれいずれ枯渇する。
毎年、襲う自然災害もそれを暗示してのことだろう。
今、世界は方向転換すべきではないか。
あまりにも、量を大事にし、その時に感じる質をおざなりにしていないか。
贅沢を避け、質素な生活をしてみてはいかがなものか。
断食をすれば、断食後の何でもない食べ物が何と美味しく感じられることか。それを忘れてしまった日本人。
苦あり後、楽あり。
客観的という言葉が正しいと同義語にされている。新聞などで、「それは客観的に正しい」という。逆に、主観的というレッテルは、錯覚の同義語になった。
マスメディアも客観的を過大視しており、各個人の主観はどうでもいい、と思ってはいないか。
4 新しいものと伝統的なものの融合がベストでは?
「ルネサンスは「古典古代に帰れ」という合言葉で始まった。宗教改革の合言葉は「聖書に帰れ」、プラハの春の合言葉は「マルクスに帰れ」だった。成熟した文化では、いつでも、新しいものは、古いものの復活と関係があるだろう」と。
現代は、新しい事だけが良いという風潮がある感じだ。
新製品は良いもので、古い製品は捨てる物というイメージがある。少しでも故障をして、部品を取り換えるとなると、下手をすると、新製品より高くなる。これはどうしてもおかしい現象だ。
スマホなど、二、三年もすれば、まだ、そんな物を持っているんですか、という感じで世間で見られているように思う。
5 何事もバランス感覚を大事にすべきでは?
「バランスは所有できないし、保存できない。絶えず新しく獲得していくしかない。創造のプロセスがずっと続く。ダンスのようだ。ダンスは、いつもバランスを崩しては、またつねに新しくバランスを手に入れるわけだからね」と。
一つの事に偏るのは出来るだけ避けたい。読書でも同じ系統の本ばかり読んでも、専門家になれるかしれないが、専門バカと言われる奴で、広大な世界のほんの一端を垣間見たに過ぎない。
どうも、広く浅く知る方が脳を活性化させると思う。
食事も、いろいろな健康食が紹介される。或る時は、糖質制限がよい、或る時は玄米菜食がよい、ある時は断食が良いなど。
しかし、どれもこれも間違っているのではないか。
反対に、これらの健康法をできるだけ取り入れ、日々、体調に合わせて、変えていくのが良い、と思っている。
6 雑念をはらって、待つと、達人に?
「ヘリンゲル師が『弓道の禅』で「木の葉に積もった雪が落ちるように、ひとりでに矢がはなたれるまで、力一杯引っぱったまま、雑念をはらって待つのだ」と。
この一文を読んで感じたのは、雑念をはらう一番よい方法は座禅だろう。
成功者の伝記を読むと、マインドフルネスをしている人がやたらと多い。
一日、五分でも腹に心をこめて、座禅をしてみては。
1「人間は時間をずっと泥棒され続けているのをなぜ放置しているのか。」
普段の生活を考えると、一日24時間、計画通りに進んでいる人はほんのわずかだろう。
お金を泥棒されると、警察に訴えて躍起となるが、お金を無駄にしても何とも思わない。
この時間、無駄だなと、思うだけでも進歩しているのではないか。その積み重ねで明日はこれをしないと、決めるだけでも。
ただ、僕も人間だから、時間通りに行うのは嫌だ。なぜなら、ロボットになるから。
一日の始まる、朝に計画を立てるのは良いが、そのスケジュール通り果たして、意味があるのか。堅苦しい。だから、おおよその計画を立て、自分の心にあったものを選択する。だから、選択するものを多く、頭にインプットしてみればよいと思う。
2 人間とはできる事にベストをつくして、死ぬのが最善か?
「フランチェスカがニンジンの種をまいていた。そこへ旅人が通りかかって、「かりに来週にも世界が滅び、そのニンジンを食べることができないとします。その時、何をなさいますか」
すると、聖フランチェスカはしばらく考えて、こう言った。「このまま種をまき続けるさ」と。
人間は自分のできることしか、できないんだ。僕たちの前には黒い城塞が立ちはだかっている。それは越えられそうにない。
マルテン・ルターが、これから植えようとするリンゴの木のことを話す時、おそらく聖フランチェスコから学んだのだろう。
「持ち時間はあるのか」と聞かれると、「わからない」と答える。わかっているのは、いま自分が何をしなければならないか、ということだけだ」と。
3 量に重きを置かないで、質に重きを置く時代はいつ来るのか。
「メリーゴーランドに乗っている人達は、いずれそのうち、乗り物ももろともに粉々になって四方八方に飛び散るしかない。少なくとも、そう予感している。ところが、自分になにができるかわからない。いや、もうなにも出来ないんだ。みんなは目を閉じている。
経済的自由主義から生まれてくるものは、いとも経済のダーウィニズムでしかなく、結局、つまらない勝負をさせられるだろう。こういう形の経済が有効に機能したのは、資源が無尽蔵にあると考えられ、また、利用し搾取するとのできる植民地や労働力や土地があったあいだだけの話だ」と。
「十六世紀になって、すべてを量で捕らえる思考が登場する。数えられるもの、計測、計量できるものだけが、正しいとされ、最後には質に関する現実までもがすっかり比定される。美というものは、測ることはできないが、存在する」と。
今までは、発展途上国の資源があり余っていたが、早かれ遅かれいずれ枯渇する。
毎年、襲う自然災害もそれを暗示してのことだろう。
今、世界は方向転換すべきではないか。
あまりにも、量を大事にし、その時に感じる質をおざなりにしていないか。
贅沢を避け、質素な生活をしてみてはいかがなものか。
断食をすれば、断食後の何でもない食べ物が何と美味しく感じられることか。それを忘れてしまった日本人。
苦あり後、楽あり。
客観的という言葉が正しいと同義語にされている。新聞などで、「それは客観的に正しい」という。逆に、主観的というレッテルは、錯覚の同義語になった。
マスメディアも客観的を過大視しており、各個人の主観はどうでもいい、と思ってはいないか。
4 新しいものと伝統的なものの融合がベストでは?
「ルネサンスは「古典古代に帰れ」という合言葉で始まった。宗教改革の合言葉は「聖書に帰れ」、プラハの春の合言葉は「マルクスに帰れ」だった。成熟した文化では、いつでも、新しいものは、古いものの復活と関係があるだろう」と。
現代は、新しい事だけが良いという風潮がある感じだ。
新製品は良いもので、古い製品は捨てる物というイメージがある。少しでも故障をして、部品を取り換えるとなると、下手をすると、新製品より高くなる。これはどうしてもおかしい現象だ。
スマホなど、二、三年もすれば、まだ、そんな物を持っているんですか、という感じで世間で見られているように思う。
5 何事もバランス感覚を大事にすべきでは?
「バランスは所有できないし、保存できない。絶えず新しく獲得していくしかない。創造のプロセスがずっと続く。ダンスのようだ。ダンスは、いつもバランスを崩しては、またつねに新しくバランスを手に入れるわけだからね」と。
一つの事に偏るのは出来るだけ避けたい。読書でも同じ系統の本ばかり読んでも、専門家になれるかしれないが、専門バカと言われる奴で、広大な世界のほんの一端を垣間見たに過ぎない。
どうも、広く浅く知る方が脳を活性化させると思う。
食事も、いろいろな健康食が紹介される。或る時は、糖質制限がよい、或る時は玄米菜食がよい、ある時は断食が良いなど。
しかし、どれもこれも間違っているのではないか。
反対に、これらの健康法をできるだけ取り入れ、日々、体調に合わせて、変えていくのが良い、と思っている。
6 雑念をはらって、待つと、達人に?
「ヘリンゲル師が『弓道の禅』で「木の葉に積もった雪が落ちるように、ひとりでに矢がはなたれるまで、力一杯引っぱったまま、雑念をはらって待つのだ」と。
この一文を読んで感じたのは、雑念をはらう一番よい方法は座禅だろう。
成功者の伝記を読むと、マインドフルネスをしている人がやたらと多い。
一日、五分でも腹に心をこめて、座禅をしてみては。