本書には、小林多喜二の「蟹工船」と「一九二八・三・一五」の2つの作品が収録されています。
「蟹工船」はプロレタリア文学を代表する傑作といえるでしょう。多喜二の天才が躍如としています。資本家と労働者の基本的な関係というか構図が浮き彫りにされ、それが多喜二の時代から100年あまりたった現在もほとんど変わってないことに気づかされます。その一方で、有給休暇とか週40時間労働といった現在当たり前のようになっている労働者の権利が、蟹工船に乗り組んでいた人々のような貧しい底辺の労働者の血と汗と涙の結晶であることを再認識させられました。
「一九二八・三・一五」は、その年・月・日におこなわれた国家権力による共産党員の一斉逮捕のようすが描かれています。まるでノンフィクションのような迫真性をもった筆致で、圧巻は詳細に語られる「拷問」の実態でしょう。読んでいると、現在の香港の実情が思い浮かんできます。「権力」対「個人の自由と権利」の関係もまた社会の普遍的な問題のようです。
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蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫 緑 88-1) ペーパーバック – 2003/6/14
小林 多喜二
(著)
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購入オプションとあわせ買い
おい地獄さえぐんだで-函館から出港する漁夫の方言に始まる「蟹工船」.小樽署の壁の日本共産党万歳! の落書に終わる「三・一五」.小林多喜二(1903-1933)25歳のときの2作は,地方性と党派性にもかかわらず思想評価をのりこえプロレタリア文学の古典となった.搾取と労働,組織と個人.歴史は未だ答えず.[解説=蔵原惟人]
- ISBN-104003108817
- ISBN-13978-4003108819
- 出版社岩波書店
- 発売日2003/6/14
- 言語日本語
- 寸法10.4 x 1.1 x 14.7 cm
- 本の長さ280ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2003/6/14)
- 発売日 : 2003/6/14
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 280ページ
- ISBN-10 : 4003108817
- ISBN-13 : 978-4003108819
- 寸法 : 10.4 x 1.1 x 14.7 cm
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2022年5月9日に日本でレビュー済み
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2015年12月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小林多喜二の「母」についての本を読んだので、多喜二の著書も読みたいと思って購入いた。あまりにも有名な「蟹工船」である。今なお労働者が「いいように使い捨て」られている状況と照らし合わせるも、極寒の海上、船上での「同じ人間」なのに「厳然たる格差」「命の軽さ」が腹立たしい。
多喜二の筆致は、彼の熱情だろうか、個人的には話の切り替えが息せき切っているという感じで、伝えたいことが沢山あるのだなと理解できた。特高にリンチされ殺されなければ、彼はその後何を書いただろうか、時代はどう変わっただろうかと残念に思うが、特段変わらぬまま、金が一番という社会はいつか破綻するのだろうと暗澹たる気持ちだ。
多喜二の筆致は、彼の熱情だろうか、個人的には話の切り替えが息せき切っているという感じで、伝えたいことが沢山あるのだなと理解できた。特高にリンチされ殺されなければ、彼はその後何を書いただろうか、時代はどう変わっただろうかと残念に思うが、特段変わらぬまま、金が一番という社会はいつか破綻するのだろうと暗澹たる気持ちだ。
2019年8月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
多くの論は、「1928年3月15日」で小林多喜二が特高警察の拷問を描いたことが、のちに特高によって多喜二自身が拷問され殺されることにつながるという。そうだろうか。
当時発刊された同書は、伏字だらけだが、その合間から手ひどい拷問が行われたことが、読者には容易にわかるようになっている。それぐらい、実は拷問シーンは丸ごと伏せられてはいない。しかも拷問された「渡」という活動家は極めて屈強でその拷問に屈服しない。しないどころか、作品の最後では、拷問で「とった」調書を予審でひっくり返されないように特高のほうこそ、“アカ”たちに気を使う。そこを知っている「渡」たち活動家は特高に大いにメシをおごらせるのだ。こうして見ていくと、権力にとっては、拷問を暴露されたことよりも、拷問が効力を発揮しないことを描写された、と言っていいだろう。当時「権力に殴られないと一端の活動家にはなれない」という“信仰”があったようで、そのことはこの作品にも出てくる。インテリ上がりの活動家に、たたき上げの労働者が“権力に殴られればもっとわかるようになる”と迫るシーンがある。
こうしてみていくと、1928.3.15で酷い拷問を暴露されたから多喜二は特高の目の敵にされた、というのはそのまま了解はできない。
ところで、小林多喜二は警察官・権力の手先をどう思っていたか。「1928年3月15日」では、特高による半殺しの拷問が描かれている一方で、下級警察官と活動家の間での労働者階級としてのまじわりが、かなりの分量をもって描かれている。
小樽の地元の巡査たちは、3・15事件で、「上層部」からこき使われる。もちろんそれは共産党関係者の逮捕、捜索、検挙者の付き添いという権力の手先としての「労働」である。しかし、その過酷さを多喜二はこのように書く。
「非番の巡査は例外なしに一日五十銭で狩り出された。そして朝から真夜中まで、身体がコンニャクのようになるほど馳けずり廻された。過労のために、巡査は付添の方に廻ると、すぐ居眠りをした。そしてまた自分達が検挙してきた者達に向かってさえ、巡査の生活の苦しさを洩らした。彼等によって拷問をされたり、また如何に彼等が反動的なものであるかという事を色々な機会にハッキリ知らされている者等にとって、そういう巡査を見せつけられることは「意外」な事だった。いや、さうだ、やはり「そこ」では一致しているのだ。」「これア案外そう俺達の敵ではなかったぞ」
そして、検挙された活動家と巡査の「階級的」会話として
「もう、どうでもいいから、とにかく決まってくれればいいと思うよ。」頭の毛の薄い巡査が、青いトゲトゲした顏をして、龍吉(注:活動家)に云つた。「ねえ、君、これで子供の顔を二十日も――ええ、二十日だよ――二十日も見ないんだから、冗談じゃないよ。」
「いや、本当に恐縮ですな。」
「非番に出ると――いや、引張り出されると、五十銭だ。それじゃ昼と晩飯でなくなって、結局ただで働かせられてる事になるんだ、――実際は飯代に足りないんだよ、人を馬鹿にしている。」
「ねえ、水戸部さん。(龍吉は名を知っていた。)貴方にこんな事をいうのはどうか、と思うんですが、僕等のやっていることっていうのは、つまり皆んな「そこ」から来ているんですよ。」
水戸部巡査は急に声をひそめた。(として、当時販売された本では47行も伏字扱い(省略)となる~この47行は権力が絶対許さない箇所とみなしたのであろう、編集者が削った。)
この略された47行はこんなあらすじである。
「本当のところ…実はちゃんとわかっている」と水戸部巡査は言う。前日、水戸部巡査は同僚と、共産党狩りに「出動」させられたが、もうクタクタだ。巡査同士「ストライキをやろう」という会話になる。“その道の先生が沢山いるんだから教わればいい”。やっちまおうぜ、ということになったが、結局やったことというのは、出動途中で派出所に行って、巡査同士一休みして雑談を「やらかしてきた」、ということだけだった。
しかし龍吉は「明かに興奮していた。これらのことこそ重大な事だ、と思った。彼は、今初めて見るように、水戸部巡査を見てみた。蜜柑箱を立てた台に、廊下の方を向いて腰を下している、厚い巾の広い、しかしまるく前こごみになっている肩の巡査は、彼には、手をぎっしり握りしめてやりたい親しみをもって見えた。頭のフケか、ホコリの目立つ肩章のある古洋服の肩を叩いて、「おい、ねえ君。」そう言いたい衝動を、彼は心一杯にワクワクと感じていた。」のである。
「目隠し」をされている巡査たちも、階級としては俺たちと同じ労働者じゃないか。この暴露は、権力、そして暴力装置にとっては許しがたいものであったろう。
東京の特高は多喜二を憎み、殺害予告をしていた。それは拷問をこの作品で暴露されたからだと言う。それもあるかもしれないが、それよりも権力者にとって最も恐るべきは、暴力装置の構成員にさせられた労働者階級~警官・兵士~が目覚めることであった。そのことの端緒、多喜二の「警官だって俺たちの仲間になりうる」という考えは、特高・権力にとって、恥をかかされていることであり、憎悪の対象であり、想像したくない恐怖の根源であったろう。これは絶対ひっかかると思った編集者はこの箇所をまるまる削ったのだと思われる。(それでもこの作品が掲載された「戦旗」は発禁になるのだが。)
この当時、拷問は、きっちり隠蔽するほどの犯罪とは思われていない。だとするなら、多喜二殺害は、拷問暴露よりも、多喜二が、警察官が階級性に目覚める萌芽を描いたからではないだろうか。
当時発刊された同書は、伏字だらけだが、その合間から手ひどい拷問が行われたことが、読者には容易にわかるようになっている。それぐらい、実は拷問シーンは丸ごと伏せられてはいない。しかも拷問された「渡」という活動家は極めて屈強でその拷問に屈服しない。しないどころか、作品の最後では、拷問で「とった」調書を予審でひっくり返されないように特高のほうこそ、“アカ”たちに気を使う。そこを知っている「渡」たち活動家は特高に大いにメシをおごらせるのだ。こうして見ていくと、権力にとっては、拷問を暴露されたことよりも、拷問が効力を発揮しないことを描写された、と言っていいだろう。当時「権力に殴られないと一端の活動家にはなれない」という“信仰”があったようで、そのことはこの作品にも出てくる。インテリ上がりの活動家に、たたき上げの労働者が“権力に殴られればもっとわかるようになる”と迫るシーンがある。
こうしてみていくと、1928.3.15で酷い拷問を暴露されたから多喜二は特高の目の敵にされた、というのはそのまま了解はできない。
ところで、小林多喜二は警察官・権力の手先をどう思っていたか。「1928年3月15日」では、特高による半殺しの拷問が描かれている一方で、下級警察官と活動家の間での労働者階級としてのまじわりが、かなりの分量をもって描かれている。
小樽の地元の巡査たちは、3・15事件で、「上層部」からこき使われる。もちろんそれは共産党関係者の逮捕、捜索、検挙者の付き添いという権力の手先としての「労働」である。しかし、その過酷さを多喜二はこのように書く。
「非番の巡査は例外なしに一日五十銭で狩り出された。そして朝から真夜中まで、身体がコンニャクのようになるほど馳けずり廻された。過労のために、巡査は付添の方に廻ると、すぐ居眠りをした。そしてまた自分達が検挙してきた者達に向かってさえ、巡査の生活の苦しさを洩らした。彼等によって拷問をされたり、また如何に彼等が反動的なものであるかという事を色々な機会にハッキリ知らされている者等にとって、そういう巡査を見せつけられることは「意外」な事だった。いや、さうだ、やはり「そこ」では一致しているのだ。」「これア案外そう俺達の敵ではなかったぞ」
そして、検挙された活動家と巡査の「階級的」会話として
「もう、どうでもいいから、とにかく決まってくれればいいと思うよ。」頭の毛の薄い巡査が、青いトゲトゲした顏をして、龍吉(注:活動家)に云つた。「ねえ、君、これで子供の顔を二十日も――ええ、二十日だよ――二十日も見ないんだから、冗談じゃないよ。」
「いや、本当に恐縮ですな。」
「非番に出ると――いや、引張り出されると、五十銭だ。それじゃ昼と晩飯でなくなって、結局ただで働かせられてる事になるんだ、――実際は飯代に足りないんだよ、人を馬鹿にしている。」
「ねえ、水戸部さん。(龍吉は名を知っていた。)貴方にこんな事をいうのはどうか、と思うんですが、僕等のやっていることっていうのは、つまり皆んな「そこ」から来ているんですよ。」
水戸部巡査は急に声をひそめた。(として、当時販売された本では47行も伏字扱い(省略)となる~この47行は権力が絶対許さない箇所とみなしたのであろう、編集者が削った。)
この略された47行はこんなあらすじである。
「本当のところ…実はちゃんとわかっている」と水戸部巡査は言う。前日、水戸部巡査は同僚と、共産党狩りに「出動」させられたが、もうクタクタだ。巡査同士「ストライキをやろう」という会話になる。“その道の先生が沢山いるんだから教わればいい”。やっちまおうぜ、ということになったが、結局やったことというのは、出動途中で派出所に行って、巡査同士一休みして雑談を「やらかしてきた」、ということだけだった。
しかし龍吉は「明かに興奮していた。これらのことこそ重大な事だ、と思った。彼は、今初めて見るように、水戸部巡査を見てみた。蜜柑箱を立てた台に、廊下の方を向いて腰を下している、厚い巾の広い、しかしまるく前こごみになっている肩の巡査は、彼には、手をぎっしり握りしめてやりたい親しみをもって見えた。頭のフケか、ホコリの目立つ肩章のある古洋服の肩を叩いて、「おい、ねえ君。」そう言いたい衝動を、彼は心一杯にワクワクと感じていた。」のである。
「目隠し」をされている巡査たちも、階級としては俺たちと同じ労働者じゃないか。この暴露は、権力、そして暴力装置にとっては許しがたいものであったろう。
東京の特高は多喜二を憎み、殺害予告をしていた。それは拷問をこの作品で暴露されたからだと言う。それもあるかもしれないが、それよりも権力者にとって最も恐るべきは、暴力装置の構成員にさせられた労働者階級~警官・兵士~が目覚めることであった。そのことの端緒、多喜二の「警官だって俺たちの仲間になりうる」という考えは、特高・権力にとって、恥をかかされていることであり、憎悪の対象であり、想像したくない恐怖の根源であったろう。これは絶対ひっかかると思った編集者はこの箇所をまるまる削ったのだと思われる。(それでもこの作品が掲載された「戦旗」は発禁になるのだが。)
この当時、拷問は、きっちり隠蔽するほどの犯罪とは思われていない。だとするなら、多喜二殺害は、拷問暴露よりも、多喜二が、警察官が階級性に目覚める萌芽を描いたからではないだろうか。
2016年2月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
北海道旅行に出かけた際に新人バスガイドさんの、小林多喜二についてのつたない説明を車中で聞き、作品と小林多喜二自身を知りたくなり、この本を購入しました。
少し活字から遠ざかっていたのですが、すぐに読破できました。
作品から、息づかいや匂い風景、さまざまな描写が、その場にいるかのように感じ取ることができ、苦しい時代に歯を食いしばって必死に生きた人々達の、思いが胸にささりました。
(現在も非正規雇用の問題、一部の企業のみが潤い民間の中小企業や個人経営は、依然として苦しいまま・・またお金と権力の癒着は、いつの世も切り離せない事なのだとも・・)
少し前、比較するつもりはないのですが、白洲次郎についての本を数冊読み、白洲次郎と小林多喜二は、生まれが1年しか違わないのに、生まれた環境や巡り合わせで、こんなにもかけ離れた人生をおくるのか・・・とも思いました。
それって、現在にも通じていて、生まれてきた子供が、経済力やある程度の地位をもった親元に生まれた子供と、ワーキングプアで何も持たない親元に生まれた子供では、生まれた時からおのずと将来が決まってしまう様なもので、余程の事がないかぎり、明るい未来は望めない・・・それでも、まだ多喜二の時代から比べたらいいのかも知れないと思いを馳せました。
少し活字から遠ざかっていたのですが、すぐに読破できました。
作品から、息づかいや匂い風景、さまざまな描写が、その場にいるかのように感じ取ることができ、苦しい時代に歯を食いしばって必死に生きた人々達の、思いが胸にささりました。
(現在も非正規雇用の問題、一部の企業のみが潤い民間の中小企業や個人経営は、依然として苦しいまま・・またお金と権力の癒着は、いつの世も切り離せない事なのだとも・・)
少し前、比較するつもりはないのですが、白洲次郎についての本を数冊読み、白洲次郎と小林多喜二は、生まれが1年しか違わないのに、生まれた環境や巡り合わせで、こんなにもかけ離れた人生をおくるのか・・・とも思いました。
それって、現在にも通じていて、生まれてきた子供が、経済力やある程度の地位をもった親元に生まれた子供と、ワーキングプアで何も持たない親元に生まれた子供では、生まれた時からおのずと将来が決まってしまう様なもので、余程の事がないかぎり、明るい未来は望めない・・・それでも、まだ多喜二の時代から比べたらいいのかも知れないと思いを馳せました。
2015年5月9日に日本でレビュー済み
小林多喜二を読んで共産主義に「かぶれるな」などと忠告する人が、21世紀になってもまだいる。
ソ連におけるその冷酷な歴史と、衛星国における振る舞い、「美しい日本」とやらを取り戻すとか言う安倍政権も何もしない日本人のシベリヤ抑留、究極的な破綻などを知った今、共産主義にかぶれることなどできるだろうか。この道しかないなどと言いながら、格差が広がるだけのイカサマな経済復興とやらに過敏にされ、絶望して過激な思想にかぶれるのでもなければ。
『蟹工船』に描かれているのは、多喜二に言わせれば、「殖民地に於ける資本主義の侵入史の一頁」であり、そう読めば十分だ。
歴史の展望の中に国策、国家機構、資本家、その手先きとでも呼べる警察と企業の現場の実態などを圧倒的に描いているからだ。その中でだまされ、酷使虐待され、殺されさえする人物の中に、たまたま近い海域で操業していたことと絡め、ロシアにわたり、どれほど素朴/粗雑であれ、新しい体制に触れる様子がほんのわずか描かれてはいる。が究極的には多喜二の共産党入党や党活動を主とした著作につながるとしても、『蟹工船』はそれ自体、著者の意図を文学表現として突きつける、情景といい人物といい見事な描写に満ち満ちた傑作だ。
☆を1つ値切ったのは、それこそ思想とでも呼べそうなものが、一つの作品として圧倒的に完結していないから。
ソ連におけるその冷酷な歴史と、衛星国における振る舞い、「美しい日本」とやらを取り戻すとか言う安倍政権も何もしない日本人のシベリヤ抑留、究極的な破綻などを知った今、共産主義にかぶれることなどできるだろうか。この道しかないなどと言いながら、格差が広がるだけのイカサマな経済復興とやらに過敏にされ、絶望して過激な思想にかぶれるのでもなければ。
『蟹工船』に描かれているのは、多喜二に言わせれば、「殖民地に於ける資本主義の侵入史の一頁」であり、そう読めば十分だ。
歴史の展望の中に国策、国家機構、資本家、その手先きとでも呼べる警察と企業の現場の実態などを圧倒的に描いているからだ。その中でだまされ、酷使虐待され、殺されさえする人物の中に、たまたま近い海域で操業していたことと絡め、ロシアにわたり、どれほど素朴/粗雑であれ、新しい体制に触れる様子がほんのわずか描かれてはいる。が究極的には多喜二の共産党入党や党活動を主とした著作につながるとしても、『蟹工船』はそれ自体、著者の意図を文学表現として突きつける、情景といい人物といい見事な描写に満ち満ちた傑作だ。
☆を1つ値切ったのは、それこそ思想とでも呼べそうなものが、一つの作品として圧倒的に完結していないから。
2005年3月25日に日本でレビュー済み
プロレタリア文学の金字塔『蟹工船』と日本共産党に対する大弾圧事件を描いた『一九二八・三・一五』を収録。実際の体験を下に活動家たちの際立つ個性を重層的に描いた後者に対し、前者は綿密な取材の下に被搾取者たちを集団としてダイナミックに描いています。
葉山嘉樹『海に生くる人々』の影響下にあるとはいえ、『蟹工船』はやはり素晴らしい。荒削りな文体、未熟な表現、素朴な擬音描写にもかかわらず、これらが輻輳して重厚で厳しい文学に結実しており読者の心を激しく揺さぶります。名作はその瑕瑾ですら魅力であるといわれますが、この作品はまさにその典型。
赤軍の血腥い犯罪行為や社会主義体制の崩壊を知る我々にとって、「組織」や「闘争」の論理に貫かれた本作品の剛直さには歴史的な古さ感じさせ、場合によっては皮肉な感情をも惹起します。しかし作品を貫く著者のヒューマニズムには時代を超えた普遍性があり、これからも読み継がれる力を持っていると思います。
葉山嘉樹『海に生くる人々』の影響下にあるとはいえ、『蟹工船』はやはり素晴らしい。荒削りな文体、未熟な表現、素朴な擬音描写にもかかわらず、これらが輻輳して重厚で厳しい文学に結実しており読者の心を激しく揺さぶります。名作はその瑕瑾ですら魅力であるといわれますが、この作品はまさにその典型。
赤軍の血腥い犯罪行為や社会主義体制の崩壊を知る我々にとって、「組織」や「闘争」の論理に貫かれた本作品の剛直さには歴史的な古さ感じさせ、場合によっては皮肉な感情をも惹起します。しかし作品を貫く著者のヒューマニズムには時代を超えた普遍性があり、これからも読み継がれる力を持っていると思います。
2013年2月9日に日本でレビュー済み
小林多喜二の「蟹工船」と「一九二八・三・一五」を読んだのは約30年前。
30年前も岩波文庫で読んだが、今度はワイド版。
最初に読んだときは、
漁夫たちは寝てしまってから、
「畜生、困った! どうしたって眠れないや!」と、体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜が立って!」
「どうしたら、ええんだ!」―終いに、そういって、勃起している睾丸を握りながら、裸で起き上がってきた。大きな体の漁夫の、そうするのを見ると、体のしまる、なにか凄惨な気さえした。度肝を抜かれた学生は、目だけで隅の方から、それを見ていた。(蟹工船 p56)
のような強烈な描写に圧倒され、それが小林多喜二の作品のイメージになっていたが、今回読んでみて、特に「一九二八・三・一五」のあちこちで繊細な描写や叙情性とユーモアのある表現に出会って、彼がどれだけ作家としての才能と可能性に恵まれていたかが分かった。
「一九二八・三・一五」は、警察権力による拷問を内容とする作品にもかかわらず、陰惨な印象はあまりしない。作者の労働運動に対する希望と確信から来るものだろうが、豊かで瑞々しい表現力によるところも大きいと思う。
それだけに最後の二章が編集者の蔵原惟人氏の判断で除かれ、原稿が戦争で消失してしまったことは実に残念。
30年前も岩波文庫で読んだが、今度はワイド版。
最初に読んだときは、
漁夫たちは寝てしまってから、
「畜生、困った! どうしたって眠れないや!」と、体をゴロゴロさせた。「駄目だ、伜が立って!」
「どうしたら、ええんだ!」―終いに、そういって、勃起している睾丸を握りながら、裸で起き上がってきた。大きな体の漁夫の、そうするのを見ると、体のしまる、なにか凄惨な気さえした。度肝を抜かれた学生は、目だけで隅の方から、それを見ていた。(蟹工船 p56)
のような強烈な描写に圧倒され、それが小林多喜二の作品のイメージになっていたが、今回読んでみて、特に「一九二八・三・一五」のあちこちで繊細な描写や叙情性とユーモアのある表現に出会って、彼がどれだけ作家としての才能と可能性に恵まれていたかが分かった。
「一九二八・三・一五」は、警察権力による拷問を内容とする作品にもかかわらず、陰惨な印象はあまりしない。作者の労働運動に対する希望と確信から来るものだろうが、豊かで瑞々しい表現力によるところも大きいと思う。
それだけに最後の二章が編集者の蔵原惟人氏の判断で除かれ、原稿が戦争で消失してしまったことは実に残念。
2014年2月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今でも,皆が監視していないと,ブラック企業の経営者(多くの経営者)は,同様な人事管理をし始める.基本はちっとも変わっていない.