分かりやすい口調で、維新前後の庶民からエリートまでの生活が生き生きと感じられる。福翁自伝と並ぶ、時代の証人!是非ご一読を!

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鳴雪自叙伝 (岩波文庫 緑 167-1) 文庫 – 2002/7/19
内藤 鳴雪
(著)
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幕末から明治維新,その後の社会変動を身をもって体験した内藤鳴雪(1847-1926)が,伊予松山藩の藩士として,教育行政官として,子規派俳句の重鎮として歩んだ生涯を詳らかに語る.おおらかで直截な語り口には独特のユーモアが漂い,幕末明治の士族の生活の様子など,著者ならではの貴重な見聞も多い.(解説=宗像和重)
- 本の長さ395ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2002/7/19
- ISBN-104003116712
- ISBN-13978-4003116715
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2002/7/19)
- 発売日 : 2002/7/19
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 395ページ
- ISBN-10 : 4003116712
- ISBN-13 : 978-4003116715
- Amazon 売れ筋ランキング: - 738,703位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
カスタマーレビュー
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5つのうち4.4つ
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上位レビュー、対象国: 日本
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- 2024年7月2日に日本でレビュー済みAmazonで購入面白い本です。
文章はあたかも小学生の夏休みの日記風で、分かりやすく微笑ましく何でも書いてるなぁと思わせて、飄逸な批評で魅了する。
例えば、鳴雪が七歳の頃ペリーがやってきて開国を迫った。幕府も諸藩も大騒ぎ、役に立つかどうか問わず、急いで武器を買い集めた。中には松の木を切り皮を剥ぎ墨を塗って大砲に見せかけたり、寺の釣鐘を外してお台場に据え付けた藩もあった。これを、素晴らしく大きな口径の砲に見えただろう、と書く。思わず爆笑。
その黒船騒ぎから九十年後、"大東亜戦争"が酣であった時、日本軍は遥か南方のニコバル諸島を占領した。ミャンマーとスマトラ島の間のインド洋に点々と浮かぶニコバル諸島は、インドを足場とするイギリス軍からシンガポールなど"大東亜共栄圏"を防衛する最前線だった。ところが日本からあまりに遠く分不相応に戦線を拡大したため、軍事物資を潤沢に送ることができない。そこで、椰子の木を切り倒し灰色の塗料を塗り、あたかも敵機を迎撃する高射砲の如く擬装したそうだ(『絶海の島 ニコバル諸島戦記』)。
松と椰子の違いこそあるが、その精神は同じだ。子供騙しの虚仮威しを、疑うことなく真面目に作ってのける、その精神はミャクミャクと受け継がれていたと知った。
とても面白い本です。
- 2019年12月25日に日本でレビュー済みAmazonで購入内藤鳴雪という人は俳人としての名しか知りませんでしたが、自叙伝を書いていたんですね。人の自伝ほど時代がわかるものはないですね。私は版籍奉還から廃藩置県のめぐるましく動く時代の流れを、各藩の士族たちはどう生きていたのだろうとかねがね思っていました。内藤家は伊予松山藩久松家という譜代大名に使えた家で、藩の中では中士の上くらい(?)の家なので、藩の動きもよくわかり、時代の情報満載の本でした。彼が生まれたのはお父さんがちょうど江戸定府になったばかりで江戸で幼年時代を送り、その後11歳のときお父さんの転勤で松山に帰ったり、またさらにお父さんが今度は京都藩邸の留守居役になったため京都に移り住んだりと、幕末から明治にかけてあちこちに住み、またそれに伴って道中も見ているわけで、当時の人としてはなかなか見分の広い人だったと思います。こういう時代と土地の風俗のわかる話は読んでいて興味がつきません。
- 2016年2月5日に日本でレビュー済み江戸時代末、四国の松山藩の名家に生まれ、父親が藩の要職にあったために江戸住まいも長く、幕末にもなると時代の要請で京都の地にもおよび、地方藩から見た維新の波乱の歴史をも社会風俗を交えて、地に足の着いた視野で淡々と描いた自伝。
特筆すべきは、この日本語の読み易さ。
明治末に口述筆記したものを加筆して連載したもので、まるで知っている老人が今語っているように判りやすくて面白い。
当時活字にされる日本語は、まだまだ漢文臭さがどうしても忍び込んで、今の読者は辟易することが多いのだが、口述といえども其の風はまるで無く、著者は松山藩でも漢学に優れて著名だったにも拘わらず、である。
漱石鴎外の文の方がまだ漢文くさいと言える。
松山と江戸の度重なる旅行の記録は興味深い。
安政の地震は江戸で被害にあい、広域火災を目の当たりにする。
第二次長州征伐では松山藩は大島出兵で島を占領するも、その後すぐ長州藩の奇兵隊に撃退される。
鳥羽伏見の後、松山藩には朝廷から討伐命令が下る。抗戦か降伏かでもめる中に土佐の仲裁が入る。
土佐家老から、
『今の薩摩長州の横暴には目に余るものがある、近い将来土佐を中心に決起することもあろうから、ここは力を残して降伏するのが良いのではないか』
と、いかにもありそうな話である。
また、廃藩置県では全国の藩主が東京行きを命ぜられ、替わって国から知事が任命されることになった。
藩主は公家達と同じく華族となって東京へ移住することになった。
長年親しんできた藩主が出て行ってしまう事になり、松山藩では民衆の不満が渦狭き、数々の説得も空しく、そのうち租税事務所が焼討され、ついには竹槍筵旗を挙げて一揆が藩庁を取り巻いて押し寄せそうになる。
明治期には教育行政に尽力し、老年に著者は東京に学ぶ松山の子弟寮の責任者となる。
その寮に入って来た20歳以上年下の正岡子規と出会い、その後に俳諧の運動に共鳴して、20歳以上年下にも拘わらず子規に弟子入りすることになる。
その後更に年が経ち、寮の責任者を後任に引き継ぐのだが、その後任が坂の上の雲の秋山好古である。
なによりも、読み易さ、解りやすさ。
著者は余り価値観を交えずに淡々と目の前の出来事を綴っていく。
今日的には批判されるような事象も多いかもしれないが、今批判的に読むのではなく、著者の事実を見る混じりっ気のない眼差しにこそ注目すべきだろう。
これは、もう一つの明治維新の歴史でもあるのだが、単なる一庶民一女性とかの単一視野でなく、現実に徳川方松山藩の中枢にいた人間のものだから、背景としての躍動的な広範な歴史が語られ、じつに興味深かったです。