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まど・みちお詩集 (岩波文庫) 文庫 – 2017/6/17
谷川 俊太郎
(編集)
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だれもが知ってる「ぞうさん」「やぎさん ゆうびん」「ドロップスの うた」――。子どもの世界、自然の不思議、すべてのものや生きものがそのものとして在ること、生かされてここにいることを、生まれて初めて世界をみたような驚きをもってうたいつづけた詩人まど・みちお(1909―2014)のエッセンス。エッセイをふくめた172篇を精選。
- 本の長さ448ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2017/6/17
- 寸法10.5 x 1.6 x 14.8 cm
- ISBN-104003120914
- ISBN-13978-4003120910
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著者について
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1931年、東京生まれ。詩人。詩集『二十億光年の孤独』を刊行以来、詩やエッセー、翻訳、脚本など幅広く活動する(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 かずのえほん いくつかな? (ISBN-13: 978-4774317434 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年4月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まどみちおさんの視点と優しさに触れることが出来ます。
2022年6月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
とても、可愛い詩集でした。
途中に、まど・みちおさんのエッセイが間間にあり、
そのエッセイに基づいてそれに続く詩が掲載され
より内容理解ができるようになっています。
大好きな「1年生になったら」が載っていたらもっと
良かったかなと思うので、★4つです。
途中に、まど・みちおさんのエッセイが間間にあり、
そのエッセイに基づいてそれに続く詩が掲載され
より内容理解ができるようになっています。
大好きな「1年生になったら」が載っていたらもっと
良かったかなと思うので、★4つです。
2022年2月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まど・みちおさんの戦前から平成までの主な詩が収録されています。物や生き物との対話が面白かったです。まどさんの文章も掲載されており、人柄などがよく分かります。ただ、個人的には、「ぼくがここに」が掲載されていれば、なお良かったと思います。
2022年9月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
新品なのにページが折れている。
2017年7月17日に日本でレビュー済み
まど・みちおの詩は知っている。しかし、私は読んだことがなかった。
読みながら思ったことは、他の人は、この詩集をどうよむのだろうか、ということ。
たとえば、有名な「ぞうさん」。
<blockquote>
ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ
</blockquote>
最初の「ぞうさん/ぞうさん」というのは誰のことばなのだろう。動物園で象を見た子どもの声なのか。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は、問いかけられた象の子どものことばだろうか。
しかし、私は、一度もそう感じたことがない。
私は、これを「子守歌」のように感じてしまう。
母親の象が、子どもの象を寝かせつけながら歌を歌う。「おはながながい」のが「ぞう」の特徴なんだよ、と教えている。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は「ほら、みてごらん、かあさんの鼻も長いでしょ? あなたと同じだよ」と言い聞かせている感じ。自分を愛することを教えていると言えばいいのかなあ。
<blockquote>
ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ
</blockquote>
これは、ふつうはやはり動物園に来た子どもが問いかけているように読むのかもしれない。あるいは子どもをつれてきた母親が、子どもの象に問いかけているとも読むことができる。
でも、私はここでも母親象が、子象に語りかけているような気がする。
子象は、まだ話せない。だからかわりに母親が語る。「あのね/かあさんがすきなのよ」と言うとき、その母親象は「あのね/あなたのことがいちばん好きなのよ」と言っている感じ。
どちらも重要(?)なのは、子象がまだ語ることができないということ。ことばを聞くだけということ。母親は子どもに、ことばを教えている。あるいはものの見方を教えている。そういう「気持ち」はないかもしれないけれど、まあ、本能として、教えている。それは、子どもにこんなふうに育ってほしいという「こころ」を語りかけるという感じかなあ。
かあさんも、あなたも、同じ。同じように鼻が長い。だから「親子」。そして、同じであることが「好き」。「好き」ということは言わなくてもわかることだけれど、「好き」と言った方がうれしいよ。楽しくなるよ、と語りかけている。「好き」と言われたことがない子どもは「好き」と言うことができないかもしれない。「好き」と言われつづけた子どもは、きっと「好き」ということばを自然に語る。
そんなことを願いながら、「子守歌」のように歌っている。
何と言えばいいのか、よくわからないが、まどは「対象」(象)を書きながら、対象書いていない。
「対象」になっている。
私が「子ぞう」になってしまうから、そういうことを感じるのかもしれない。まどの詩には、私を「書かれた対象」にしてしまう不思議な力がある。
*
谷川俊太郎は解説というのだろうか、あとがき風の文章「なんでもないこと」のなかで、
<blockquote>
言葉以前の<存在>をとらえようとするまどさん ( 347ページ)
</blockquote>
と書いている。「言葉以前の<存在>をとらえようとする」というのは谷川についてもあてはまるから、谷川はここでは谷川自身のことも語っていることになる。
で、その「言葉以前」にこだわっていうと。
「言葉以前の<存在>」というのは、「象」が「象」になる前の存在。象の親子がいる。その「親子」の感じのなかで、まどが象になって生まれてくる。そこに描かれているのは「象」であるけれど、「象」ではなく「愛」。「愛」をくぐって「象」になって生まれてくる。
キリンでも、ゴリラでも、犬でもいい。
ほら、まだことばを知らない(話せない)子どもの象にむかって「ぞうさん/ぞうさん」と母親が語りかけている(歌っている)と、だんだん「子ぞう」が「子ぞう」としてあらわれてくる。それって、自分が「子ぞう」になるようで、楽しくない?
あ、自分もこうやってことばを覚えたのかもしれないなあ、とうれしくなる。
「言葉以前の<存在>」というのは、正確にはあてはまらないのだけれど。
「言葉以前の<愛>」と言ってしまうと、母親の方には<愛>は最初からあるから違うのかもしれないけれど。でも子ども(子象)の方には、たぶん<愛>はまだない。生きる本能、欲望があるだけだろうと思う。その本能の形を整えるのが<愛>。
<愛>ということばをつかわず、<愛>を伝える。「言葉以前の<愛の存在>」を伝えるというと、なんだかややこしくなるんだけれど。
あ、ちょっと書きすぎたかもしれない。
「ぞうさん」に引き返して言うと、母親が子どもにむかって「大好き」と言い、子どもは「大好き」ということばを聞きながら人間(子ぞう)として生まれてくる。こういう生き方は誰もがしていること、「なんでもないこと」なんだけれど、とても大事。こういう「なんでもない大事なこと」が「思想」だと思う。
読みながら思ったことは、他の人は、この詩集をどうよむのだろうか、ということ。
たとえば、有名な「ぞうさん」。
<blockquote>
ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ
</blockquote>
最初の「ぞうさん/ぞうさん」というのは誰のことばなのだろう。動物園で象を見た子どもの声なのか。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は、問いかけられた象の子どものことばだろうか。
しかし、私は、一度もそう感じたことがない。
私は、これを「子守歌」のように感じてしまう。
母親の象が、子どもの象を寝かせつけながら歌を歌う。「おはながながい」のが「ぞう」の特徴なんだよ、と教えている。「そうよ/かあさんも ながいのよ」は「ほら、みてごらん、かあさんの鼻も長いでしょ? あなたと同じだよ」と言い聞かせている感じ。自分を愛することを教えていると言えばいいのかなあ。
<blockquote>
ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ
</blockquote>
これは、ふつうはやはり動物園に来た子どもが問いかけているように読むのかもしれない。あるいは子どもをつれてきた母親が、子どもの象に問いかけているとも読むことができる。
でも、私はここでも母親象が、子象に語りかけているような気がする。
子象は、まだ話せない。だからかわりに母親が語る。「あのね/かあさんがすきなのよ」と言うとき、その母親象は「あのね/あなたのことがいちばん好きなのよ」と言っている感じ。
どちらも重要(?)なのは、子象がまだ語ることができないということ。ことばを聞くだけということ。母親は子どもに、ことばを教えている。あるいはものの見方を教えている。そういう「気持ち」はないかもしれないけれど、まあ、本能として、教えている。それは、子どもにこんなふうに育ってほしいという「こころ」を語りかけるという感じかなあ。
かあさんも、あなたも、同じ。同じように鼻が長い。だから「親子」。そして、同じであることが「好き」。「好き」ということは言わなくてもわかることだけれど、「好き」と言った方がうれしいよ。楽しくなるよ、と語りかけている。「好き」と言われたことがない子どもは「好き」と言うことができないかもしれない。「好き」と言われつづけた子どもは、きっと「好き」ということばを自然に語る。
そんなことを願いながら、「子守歌」のように歌っている。
何と言えばいいのか、よくわからないが、まどは「対象」(象)を書きながら、対象書いていない。
「対象」になっている。
私が「子ぞう」になってしまうから、そういうことを感じるのかもしれない。まどの詩には、私を「書かれた対象」にしてしまう不思議な力がある。
*
谷川俊太郎は解説というのだろうか、あとがき風の文章「なんでもないこと」のなかで、
<blockquote>
言葉以前の<存在>をとらえようとするまどさん ( 347ページ)
</blockquote>
と書いている。「言葉以前の<存在>をとらえようとする」というのは谷川についてもあてはまるから、谷川はここでは谷川自身のことも語っていることになる。
で、その「言葉以前」にこだわっていうと。
「言葉以前の<存在>」というのは、「象」が「象」になる前の存在。象の親子がいる。その「親子」の感じのなかで、まどが象になって生まれてくる。そこに描かれているのは「象」であるけれど、「象」ではなく「愛」。「愛」をくぐって「象」になって生まれてくる。
キリンでも、ゴリラでも、犬でもいい。
ほら、まだことばを知らない(話せない)子どもの象にむかって「ぞうさん/ぞうさん」と母親が語りかけている(歌っている)と、だんだん「子ぞう」が「子ぞう」としてあらわれてくる。それって、自分が「子ぞう」になるようで、楽しくない?
あ、自分もこうやってことばを覚えたのかもしれないなあ、とうれしくなる。
「言葉以前の<存在>」というのは、正確にはあてはまらないのだけれど。
「言葉以前の<愛>」と言ってしまうと、母親の方には<愛>は最初からあるから違うのかもしれないけれど。でも子ども(子象)の方には、たぶん<愛>はまだない。生きる本能、欲望があるだけだろうと思う。その本能の形を整えるのが<愛>。
<愛>ということばをつかわず、<愛>を伝える。「言葉以前の<愛の存在>」を伝えるというと、なんだかややこしくなるんだけれど。
あ、ちょっと書きすぎたかもしれない。
「ぞうさん」に引き返して言うと、母親が子どもにむかって「大好き」と言い、子どもは「大好き」ということばを聞きながら人間(子ぞう)として生まれてくる。こういう生き方は誰もがしていること、「なんでもないこと」なんだけれど、とても大事。こういう「なんでもない大事なこと」が「思想」だと思う。
2023年1月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
浄土真宗のある住職が書く文章が深くて、何冊か読んできたが、その中で、何度か、まどみちおさんの名前が出てきた。「ぞうさん、ぞうさん、おはなが ながいのね」の、まどさんだ。
その理由は、谷川俊太郎さんの本書のあとがきにうかがえる。
「詩を書くとは言葉で、言葉に毒される以前の宇宙につながろうとする、初めから矛盾に満ちた力業だというのが、まどさんの詩作ではないか」(p.343)。
「言葉以前の〈存在〉を捉えようとするまどさん」(p.347)。
住職も、まどさんも、言葉以前の「宇宙」あるいは「存在」(そのもの)を目指すのだ。
まどさん自身はこう言っている。
小学校時代「五感に映るすべての物事が、なんとも新鮮で、神秘的で、そして寂しくてならず、子供のくせによく胸が切なくなりました」(p.15)。
「蝉の声のあの神秘さや寂しさ・・私たちこの世の生き物が自分で生きているのではなくて、なにかによって生かされているのだという紛れもない事実からの重圧・・・その重圧の、神々しいような、有難いような、悲しいような」(p.16)。
そらは、わたしたちへの重圧でしょうか、それとも、開放でしょうか。あるいは、開放は重圧でしょうか。窓から見えるものは空でしょうか。
「樹は空へ向いている・・・枝先は空に溶けてる」(p.23)。
「あたまの うえには/なんにも ないよ/なんにも ないけど/おそらが あるよ」(p.62)
「めだかの あくび/かえるの あくび/あくびの あぶくが/ぽろん ぽろん ぽろんと/はるの そらへ のぼる」(p.68)。
「なにかによって生かされているのだという紛れもない事実」は「重圧」なのだろうか。生かされていることは「神々しいような、有難いような」、しかし、「悲しいような」なのだろうか。
「このういういしさは/このつつましさは/天からのもの 地からのもの/はるかな はるかな はるかな…/なのに この草のもの/におうばかりに いまここに/ああ 天にも地にも かんけいない/あたしの ちゃちな ためいきよ」(p124)。
「さみしい みちを/いぬが あるいている/ついてくる かげぼうしにも/それを くださった おひさまにも/きがつかないで あるいている」(p.156)。
「うたは もえて もえて/こずえへのぼり くもへのぼり/くも つきぬけて/天へと のぼり/たいようの てに すくわれて/そのゆびに あそんで ちりこぼれ」(p.171)。
そういえば、まどのむこうには空がひろがっているけど、まどのこちらには影が差すよね。けれども、月影とは月の光のことだよね。そうすると、神々しいは悲しいでもあるよね。
その理由は、谷川俊太郎さんの本書のあとがきにうかがえる。
「詩を書くとは言葉で、言葉に毒される以前の宇宙につながろうとする、初めから矛盾に満ちた力業だというのが、まどさんの詩作ではないか」(p.343)。
「言葉以前の〈存在〉を捉えようとするまどさん」(p.347)。
住職も、まどさんも、言葉以前の「宇宙」あるいは「存在」(そのもの)を目指すのだ。
まどさん自身はこう言っている。
小学校時代「五感に映るすべての物事が、なんとも新鮮で、神秘的で、そして寂しくてならず、子供のくせによく胸が切なくなりました」(p.15)。
「蝉の声のあの神秘さや寂しさ・・私たちこの世の生き物が自分で生きているのではなくて、なにかによって生かされているのだという紛れもない事実からの重圧・・・その重圧の、神々しいような、有難いような、悲しいような」(p.16)。
そらは、わたしたちへの重圧でしょうか、それとも、開放でしょうか。あるいは、開放は重圧でしょうか。窓から見えるものは空でしょうか。
「樹は空へ向いている・・・枝先は空に溶けてる」(p.23)。
「あたまの うえには/なんにも ないよ/なんにも ないけど/おそらが あるよ」(p.62)
「めだかの あくび/かえるの あくび/あくびの あぶくが/ぽろん ぽろん ぽろんと/はるの そらへ のぼる」(p.68)。
「なにかによって生かされているのだという紛れもない事実」は「重圧」なのだろうか。生かされていることは「神々しいような、有難いような」、しかし、「悲しいような」なのだろうか。
「このういういしさは/このつつましさは/天からのもの 地からのもの/はるかな はるかな はるかな…/なのに この草のもの/におうばかりに いまここに/ああ 天にも地にも かんけいない/あたしの ちゃちな ためいきよ」(p124)。
「さみしい みちを/いぬが あるいている/ついてくる かげぼうしにも/それを くださった おひさまにも/きがつかないで あるいている」(p.156)。
「うたは もえて もえて/こずえへのぼり くもへのぼり/くも つきぬけて/天へと のぼり/たいようの てに すくわれて/そのゆびに あそんで ちりこぼれ」(p.171)。
そういえば、まどのむこうには空がひろがっているけど、まどのこちらには影が差すよね。けれども、月影とは月の光のことだよね。そうすると、神々しいは悲しいでもあるよね。