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回想のブライズヘッド 上 (岩波文庫 赤 277-2) 文庫 – 2009/1/16
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- ISBN-104003227727
- ISBN-13978-4003227725
- 出版社岩波書店
- 発売日2009/1/16
- 言語日本語
- 寸法10.5 x 1.2 x 14.8 cm
- 本の長さ303ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2009/1/16)
- 発売日 : 2009/1/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 303ページ
- ISBN-10 : 4003227727
- ISBN-13 : 978-4003227725
- 寸法 : 10.5 x 1.2 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 184,486位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2021年6月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
はっきりしたストーリーがある、今となっては古典的な小説でしたが、ブライズヘッド、ベニス、オックスフォードなど、情景が浮かんでくる感じがあり、登場人物もそれぞれに魅力的で、作者イーヴリン・ウォーの世界にはまり込むことができました。翻訳も丁寧なわかりやすい日本語でした。吉田健一さんの訳と小野寺健さんの訳を部分的に読み比べてみましたが、小野寺さんの訳の方がさっぱりした日本語で、原作者を身近に感じることができました。吉田さんの版は、入手しづらく、検索して図書館で借りました。
2024年4月24日に日本でレビュー済み
オクスフォードの場面はやや冗長だが、ウォーの語りを聞きながら、最後まで読了。カトリック教徒ではないので深くは理解できないが、しかし一家の主人のマーチメインが家を放置したせいで、妻はともかくもセバスチアンはアル中になりおかしくなり死んだも同然、ジューリアは金目当ての政治家に捕まり、次は主人公の画家ライダーにそそのかされて再婚しようとするも結局独り身になってしまう。コーデリアはそんな家族を教訓にしたのか自力した女性になる。一番かわいそうなのはセバスチアンで、おそらく発達障害かメンタルの病気かだったろうに、マーチメインが家族の面倒を見ていれば、セバスチアンはあそこまで落ちぶれずに済んだはず。ブライズヘッドは何をしているのか最後までよくわからなかった。
2017年8月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ヒトラーの足音の迫る中、旧社会の象徴の様にブライズヘッドの瀟洒な建物があります。
そこは、礼拝堂が併設されるなど、外見的にはカトリックの居城の様に見えます。
しかし、実態は「宗教」に対する疑問・反発も強く、「宗教」に対する帰依者は合い半ばする状況です。
語り手であるライダーは、独特の宗教観を持ち、ブライズヘッドへの反発から無神論的な考え方を持つセバスチャンと共に行動するようになります。
やがて、セバスチャンは放浪の旅に出てしまいます。
ライダーは、セバスチャンの妹ジューリアと再会し、親しくなってゆきます。
二人は、それぞれ離婚して一緒になることを決意します。
しかし、侯爵の死に直面し二人の道は分かれて行きます。
この本を終始支配しているのは、「宗教」です。
人は常に正しく生きてゆくことは不可能です。
その「救い」を「宗教」に求めるかどうか、どういう形で求めるかによって、生き方が変わってきます。
その問題こそが、この本の主題だと思いますが、難しい問題です。
そこは、礼拝堂が併設されるなど、外見的にはカトリックの居城の様に見えます。
しかし、実態は「宗教」に対する疑問・反発も強く、「宗教」に対する帰依者は合い半ばする状況です。
語り手であるライダーは、独特の宗教観を持ち、ブライズヘッドへの反発から無神論的な考え方を持つセバスチャンと共に行動するようになります。
やがて、セバスチャンは放浪の旅に出てしまいます。
ライダーは、セバスチャンの妹ジューリアと再会し、親しくなってゆきます。
二人は、それぞれ離婚して一緒になることを決意します。
しかし、侯爵の死に直面し二人の道は分かれて行きます。
この本を終始支配しているのは、「宗教」です。
人は常に正しく生きてゆくことは不可能です。
その「救い」を「宗教」に求めるかどうか、どういう形で求めるかによって、生き方が変わってきます。
その問題こそが、この本の主題だと思いますが、難しい問題です。
2014年12月23日に日本でレビュー済み
「僕はどういうものかあの悪い連中が好きなんですよ。昼の食事で酔っ払うのも好きなんだし、…」
イギリス特有のパブリックスクールでの、禁欲的で、精神的に早熟に育てられ、若い肉体の欲求を抑えた生活を潜り抜け、晴れてオックスフォードで学んでいる男というのは、そこでカタストロフを経験せざるを得ないのであろう。カタストロフを経験しつつ、実社会への適応を学んでいくのであろう。イギリス人というものを知らないわたしはそのオックスフォードやケンブリッジの雰囲気をこの小説でしか感じることが出来ない。しかしこの学府で学問を修めることの出来る頭の持ち主と、「ノーブレス・オブリージュ」として半ば義務的に通わされている者の違いというものはこの小説によって分かる。
青春のカタストロフ、何という美しく素晴らしい機会であろう。大学で経済を学びあまりカタストロフを味わうことのなかったわたしには、機会に「恵まれた」青年に嫉妬さえ覚えるのである。
主人公チャールズは「文化の大八車」を押すものにならんとして大学で学んでいたのだが、偶々彼の部屋に闖入したセバスチャンという同じオックスフォードの学生との出会いによって、その道を大きく転換することになる。初めに引いた台詞はそのチャールズが従兄弟のジャスパーに学問に身が入っていないところを見抜かれて説教を受け、抗弁する場面のものである。いかにもリリックな台詞である。悪い連中というのは、この物語の一人の名脇役となるいつも熊のぬいぐるみを抱えている、大貴族であり、かつおかしなお頭の弱い学生であるセバスチャンであったり、アントニーというユダヤ人で親の意向で英国流のジェントルマンに仕立てようとされ、イギリスのパブリックスクールで学んだ国籍不明のような男である。とりわけアントニーはその国籍不明さからくる経験の豊かさでなかなか面白い男に描かれている。このような彼らに魅惑されてチャールズは「身を持ち崩す」わけであるが、その彼には同情というより羨ましさを感じざるを得ない。しかし彼がイースター休暇でつかの間同じパブリックスクールで学んでいたコリンズという学究肌の学生とイタリアのラヴェンナで過ごしたときのことを、「まっしぐらに下降線をたどっていた中のつかの間の平坦な道であった」と愛惜をこめて述べている。
この小説はチャールズが大尉として、偶然改めてセバスチャンの故郷ブライズヘッド城に遭遇する場面より始まっている。チャールズはフーパーという中尉に嫌悪感を抱き、部下として持て余している。チャールズは、フーパーはチャールズの世代の男なら皆持っていたはずの「子供のころに凶暴な王党派のルパート王子と馬を並べてクロムウェル側の兵を蹴散らしたこともなければ、トロイのギリシャ軍陣地で焚き火を囲んだこともない」、つまり勇猛な妄想を抱く少年時代を送ったこともなく、そういった歴史にロマンチズムを感じたこともない「現代人」であり、40を目前にしてチャールズは時代の潮目というものを感じるのである。
そういったチャールズが「軍隊との愛」に別れを抱くようになったとき、皮肉にも彼の連隊は彼の青春の思い出の地に駐屯することになる。彼のロマンチズムは今は誰も残っていない彼の親友のセバスチャンのかつての貴族の邸宅に出会い、万感の思いを抱くのである。セバスチャンとの懐かしい思い出、そして彼の妹ジューリアとの愛と別れに、である。
話の前半はセバスチャンとの夏の想い出に、筆が費やされている。セバスチャンはチャールズに家族の人間が大事な物を皆奪っていくという思いを打ち明ける。だからセバスチャンは初め家族になかなかチャールズを合わせようとしなかった。とりわけ母親のマーチメイン公爵夫人はウォーによって辛辣に描かれている。彼女は敬虔なカトリックであり、セバスチャンの父親であるマーチメイン公爵との離婚を認めない。しかしマーチメイン公爵はヴェネチアでイタリア人の愛人を囲っており、事実上結婚生活は破綻しているのである。
チャールズはカトリックの信仰に対して「カトリックだといろんな馬鹿らしいことを信じなければならないんだろう?…つまりクリスマスだとか、星がどうしたとか、三人の王とか、牛や驢馬といった話をさ」とセバスチャンにぶつける。
「いや、信じるよ、美しいじゃないか」。チャールズの素朴でありながら、マーチメイン公爵夫人を始めとした家族というものへの不信から彼は魂をロマンチズムな方へ傾ける。そんなナイーブな魂を持つセバスチャンは、チャールズに対する信頼と愛を生きる希望として見出していたが、彼は結局この世界への絶望と極度の愛情への渇望ゆえに酒量が徐々に増え、やがてアルコールがなくては生きてはいけなくなってしまうのである。
ウォーの筆は、カトリックの熱烈な信仰を持つマーチメイン公爵夫人が、その熱烈な信仰ゆえにセバスチャンを追い込んでしまうことを残酷に綴っている。信仰というのは個人の糧であるということは理解できる。とりわけ夫人にとってそれが美徳であり、生きる支えそのものであるだろう。しかし周りの家族にとってそういう「美徳」が、家族への「愛情」というものに変わるかどうかというのは疑問符をつけざるを得ないだろう。結局夫人の求める美徳に満ちた生活が家族にとっては建前論で塗り固められた虚栄であったり、牢獄と感じさせることすらあるかもしれない。であるから息が詰まる思いがした公爵はイタリアに逃げ出したのであろう。しかし若いセバスチャンにとって家とはこのブライズヘッドの城だけであり、結局よりどころにするところもこの家族しかなかったのである。チャールズはきっとその痛みが理解できたに違いない。彼もロンドン近郊に邸宅があったが、彼の父親という人は彼に素直に愛情というものを示すことが出来ないシニカルな男であったからだ。そして従兄弟のジャスパーにしてもただ世間知だけを身に着けた、とるに足らない男であるからだ。そして何よりこの回想している現在において結婚生活は昔に破綻し、愛に溢れていたはずの新しい夫人である「軍隊生活」にももはや見棄てられ、寒々しい軍隊生活に身をおき、ただ青春の想い出を縁に生きているのである。
物語の後半は、虚栄に満ちた豪華客船でジューリアとチャールズが出会う場面から始まる。チャールズは、大学を退学し、パリの美術学校に入って、絵を描く生活となり、彼はブライズヘッド城のように時代から取り残されていく、古い館の数々を愛惜を持って描くことにより、皮肉にも世間から注目されるようになり、画家として順風満帆な滑り出しをする。それにより世間から得られたフェームは彼にとってつまらない物であり、彼はイギリスでの注文を断り、しばらく煩わしいイギリスを出て、南米の未開の地の古い建造物を描くことにしたのだった。大きな仕事を終え、彼の帰りを待った妻シーリアとチャールズはまさにこの客船の主人公であった。イギリスは偉業を行った彼をフェームから突き放すことが出来ないのだ。
そのような境遇に辟易とした中、カナダ出身の政治家レックスと結婚したジューリアとチャールズは偶然出会うのである。彼らはお互いを初めて意識しあい、つかの間の再開に胸を焦がしていく。思えばお互いにそれぞれの結婚生活は破綻しようとしていた。チャールズの妻シーリアは貞淑な妻を演じていたが彼女の不貞は彼に暗い影を落としていたし、社交的でフェームを何より誇りに思うシーリアをチャールズは内心嫌っていた。ジューリアの方もブライズヘッド家という家柄と政治的成功と金だけを目当てにした素直だが野心だけの男に結局愛想を尽かしていたのだ。
「レックスは一度でも悪意からわたしを苦しめたことはないのよ。…ただ人間としておかしいというだけのことなのね。あれはただいくつかの非常に発達した能力だけの人なの。その他には何もないのよ。新婚旅行からロンドンにかえって二ヶ月たったとき、あいかわらずブレンダ・チャンピオンとの仲が続いていることがわかっても、それがどれほどわたしを傷つけたか、想像もできなかったのですもの。」
「ぼくはシーリアの浮気を知ったときほっとした…これでシーリアを嫌ってもかまわないんだという気持になってね」
この出会いをきっかけに二人は背徳の恋に道を踏み外していく。セバスチャンがブライズヘッドの家にチャールズを連れてやってきて10年。二人はもう30になっていた。分別の盛りを過ぎた男と女の道ならぬ恋にはとても大きな代償がつく。そして都合の悪いことにブライズヘッド家はカトリックの家であったことだ。カトリックであることは彼女にとても辛い選択を最後にもたらすことになる。
その最後の場面はマーチメイン公爵の死に臨む場面である。その場面におけるカトリックという宗教の怖さをわたしはまざまざと思わされた。現世的な生活を謳歌したマーチメイン侯が死の床にあってカトリックへの信仰を誓わされるのである。わたしはなぜウォーがこれだけ過酷な場面を書きながらカトリックに宗派を変えたのか理解できない。そしてジューリアも宗教的な理由から、お互い離婚が成立しているのに、あれほど生き生きとして光り輝いていたわれわれの希望であるべき存在であったはずの彼女が、宗教的な生き方を選ぶのである。そう我らの美しきジューリアが、である。
ウォーは果たしてカトリック的生き方に沿って生きることを美として描いているのであろうか。しかしウォーは数々の日本人には考えられないほど度が過ぎたシニカルな小説を上梓している。そこには彼のカトリック信心としてのモラルが裏づけされていたのであろうか。あえてイギリスにおいてマイノリティであるカトリックを選んだのは、カトリックの精神に生きる糧を見出したためなのであろうか。それは例えば、初めの現在の軍隊生活のシーンのように永遠に続く愛というものに挫折したチャールズが、偶然にもブライズヘッドという青春の地を見出したように、ウォーの希望が、カトリックという信仰がもしかしたら知的爛熟を体現したような例えばアントニーのような存在とは正反対の、自分の存在意義を求め、そして愛を求め愚直に苦悩するセバスチャンのような男により愛を傾けることに、あるいはチャールズが見慣れたイギリスの洗練された邸宅より当時のイギリスから見れば素朴で迷妄に満ちた南米の地に存在する美しい建造物に惹かれたことに投影されているのではないか。そうこのウォーの作品の中の例外的に「読みうる」小説にはそのようなウォーの思索が満ちているように思われるのである。
イギリス特有のパブリックスクールでの、禁欲的で、精神的に早熟に育てられ、若い肉体の欲求を抑えた生活を潜り抜け、晴れてオックスフォードで学んでいる男というのは、そこでカタストロフを経験せざるを得ないのであろう。カタストロフを経験しつつ、実社会への適応を学んでいくのであろう。イギリス人というものを知らないわたしはそのオックスフォードやケンブリッジの雰囲気をこの小説でしか感じることが出来ない。しかしこの学府で学問を修めることの出来る頭の持ち主と、「ノーブレス・オブリージュ」として半ば義務的に通わされている者の違いというものはこの小説によって分かる。
青春のカタストロフ、何という美しく素晴らしい機会であろう。大学で経済を学びあまりカタストロフを味わうことのなかったわたしには、機会に「恵まれた」青年に嫉妬さえ覚えるのである。
主人公チャールズは「文化の大八車」を押すものにならんとして大学で学んでいたのだが、偶々彼の部屋に闖入したセバスチャンという同じオックスフォードの学生との出会いによって、その道を大きく転換することになる。初めに引いた台詞はそのチャールズが従兄弟のジャスパーに学問に身が入っていないところを見抜かれて説教を受け、抗弁する場面のものである。いかにもリリックな台詞である。悪い連中というのは、この物語の一人の名脇役となるいつも熊のぬいぐるみを抱えている、大貴族であり、かつおかしなお頭の弱い学生であるセバスチャンであったり、アントニーというユダヤ人で親の意向で英国流のジェントルマンに仕立てようとされ、イギリスのパブリックスクールで学んだ国籍不明のような男である。とりわけアントニーはその国籍不明さからくる経験の豊かさでなかなか面白い男に描かれている。このような彼らに魅惑されてチャールズは「身を持ち崩す」わけであるが、その彼には同情というより羨ましさを感じざるを得ない。しかし彼がイースター休暇でつかの間同じパブリックスクールで学んでいたコリンズという学究肌の学生とイタリアのラヴェンナで過ごしたときのことを、「まっしぐらに下降線をたどっていた中のつかの間の平坦な道であった」と愛惜をこめて述べている。
この小説はチャールズが大尉として、偶然改めてセバスチャンの故郷ブライズヘッド城に遭遇する場面より始まっている。チャールズはフーパーという中尉に嫌悪感を抱き、部下として持て余している。チャールズは、フーパーはチャールズの世代の男なら皆持っていたはずの「子供のころに凶暴な王党派のルパート王子と馬を並べてクロムウェル側の兵を蹴散らしたこともなければ、トロイのギリシャ軍陣地で焚き火を囲んだこともない」、つまり勇猛な妄想を抱く少年時代を送ったこともなく、そういった歴史にロマンチズムを感じたこともない「現代人」であり、40を目前にしてチャールズは時代の潮目というものを感じるのである。
そういったチャールズが「軍隊との愛」に別れを抱くようになったとき、皮肉にも彼の連隊は彼の青春の思い出の地に駐屯することになる。彼のロマンチズムは今は誰も残っていない彼の親友のセバスチャンのかつての貴族の邸宅に出会い、万感の思いを抱くのである。セバスチャンとの懐かしい思い出、そして彼の妹ジューリアとの愛と別れに、である。
話の前半はセバスチャンとの夏の想い出に、筆が費やされている。セバスチャンはチャールズに家族の人間が大事な物を皆奪っていくという思いを打ち明ける。だからセバスチャンは初め家族になかなかチャールズを合わせようとしなかった。とりわけ母親のマーチメイン公爵夫人はウォーによって辛辣に描かれている。彼女は敬虔なカトリックであり、セバスチャンの父親であるマーチメイン公爵との離婚を認めない。しかしマーチメイン公爵はヴェネチアでイタリア人の愛人を囲っており、事実上結婚生活は破綻しているのである。
チャールズはカトリックの信仰に対して「カトリックだといろんな馬鹿らしいことを信じなければならないんだろう?…つまりクリスマスだとか、星がどうしたとか、三人の王とか、牛や驢馬といった話をさ」とセバスチャンにぶつける。
「いや、信じるよ、美しいじゃないか」。チャールズの素朴でありながら、マーチメイン公爵夫人を始めとした家族というものへの不信から彼は魂をロマンチズムな方へ傾ける。そんなナイーブな魂を持つセバスチャンは、チャールズに対する信頼と愛を生きる希望として見出していたが、彼は結局この世界への絶望と極度の愛情への渇望ゆえに酒量が徐々に増え、やがてアルコールがなくては生きてはいけなくなってしまうのである。
ウォーの筆は、カトリックの熱烈な信仰を持つマーチメイン公爵夫人が、その熱烈な信仰ゆえにセバスチャンを追い込んでしまうことを残酷に綴っている。信仰というのは個人の糧であるということは理解できる。とりわけ夫人にとってそれが美徳であり、生きる支えそのものであるだろう。しかし周りの家族にとってそういう「美徳」が、家族への「愛情」というものに変わるかどうかというのは疑問符をつけざるを得ないだろう。結局夫人の求める美徳に満ちた生活が家族にとっては建前論で塗り固められた虚栄であったり、牢獄と感じさせることすらあるかもしれない。であるから息が詰まる思いがした公爵はイタリアに逃げ出したのであろう。しかし若いセバスチャンにとって家とはこのブライズヘッドの城だけであり、結局よりどころにするところもこの家族しかなかったのである。チャールズはきっとその痛みが理解できたに違いない。彼もロンドン近郊に邸宅があったが、彼の父親という人は彼に素直に愛情というものを示すことが出来ないシニカルな男であったからだ。そして従兄弟のジャスパーにしてもただ世間知だけを身に着けた、とるに足らない男であるからだ。そして何よりこの回想している現在において結婚生活は昔に破綻し、愛に溢れていたはずの新しい夫人である「軍隊生活」にももはや見棄てられ、寒々しい軍隊生活に身をおき、ただ青春の想い出を縁に生きているのである。
物語の後半は、虚栄に満ちた豪華客船でジューリアとチャールズが出会う場面から始まる。チャールズは、大学を退学し、パリの美術学校に入って、絵を描く生活となり、彼はブライズヘッド城のように時代から取り残されていく、古い館の数々を愛惜を持って描くことにより、皮肉にも世間から注目されるようになり、画家として順風満帆な滑り出しをする。それにより世間から得られたフェームは彼にとってつまらない物であり、彼はイギリスでの注文を断り、しばらく煩わしいイギリスを出て、南米の未開の地の古い建造物を描くことにしたのだった。大きな仕事を終え、彼の帰りを待った妻シーリアとチャールズはまさにこの客船の主人公であった。イギリスは偉業を行った彼をフェームから突き放すことが出来ないのだ。
そのような境遇に辟易とした中、カナダ出身の政治家レックスと結婚したジューリアとチャールズは偶然出会うのである。彼らはお互いを初めて意識しあい、つかの間の再開に胸を焦がしていく。思えばお互いにそれぞれの結婚生活は破綻しようとしていた。チャールズの妻シーリアは貞淑な妻を演じていたが彼女の不貞は彼に暗い影を落としていたし、社交的でフェームを何より誇りに思うシーリアをチャールズは内心嫌っていた。ジューリアの方もブライズヘッド家という家柄と政治的成功と金だけを目当てにした素直だが野心だけの男に結局愛想を尽かしていたのだ。
「レックスは一度でも悪意からわたしを苦しめたことはないのよ。…ただ人間としておかしいというだけのことなのね。あれはただいくつかの非常に発達した能力だけの人なの。その他には何もないのよ。新婚旅行からロンドンにかえって二ヶ月たったとき、あいかわらずブレンダ・チャンピオンとの仲が続いていることがわかっても、それがどれほどわたしを傷つけたか、想像もできなかったのですもの。」
「ぼくはシーリアの浮気を知ったときほっとした…これでシーリアを嫌ってもかまわないんだという気持になってね」
この出会いをきっかけに二人は背徳の恋に道を踏み外していく。セバスチャンがブライズヘッドの家にチャールズを連れてやってきて10年。二人はもう30になっていた。分別の盛りを過ぎた男と女の道ならぬ恋にはとても大きな代償がつく。そして都合の悪いことにブライズヘッド家はカトリックの家であったことだ。カトリックであることは彼女にとても辛い選択を最後にもたらすことになる。
その最後の場面はマーチメイン公爵の死に臨む場面である。その場面におけるカトリックという宗教の怖さをわたしはまざまざと思わされた。現世的な生活を謳歌したマーチメイン侯が死の床にあってカトリックへの信仰を誓わされるのである。わたしはなぜウォーがこれだけ過酷な場面を書きながらカトリックに宗派を変えたのか理解できない。そしてジューリアも宗教的な理由から、お互い離婚が成立しているのに、あれほど生き生きとして光り輝いていたわれわれの希望であるべき存在であったはずの彼女が、宗教的な生き方を選ぶのである。そう我らの美しきジューリアが、である。
ウォーは果たしてカトリック的生き方に沿って生きることを美として描いているのであろうか。しかしウォーは数々の日本人には考えられないほど度が過ぎたシニカルな小説を上梓している。そこには彼のカトリック信心としてのモラルが裏づけされていたのであろうか。あえてイギリスにおいてマイノリティであるカトリックを選んだのは、カトリックの精神に生きる糧を見出したためなのであろうか。それは例えば、初めの現在の軍隊生活のシーンのように永遠に続く愛というものに挫折したチャールズが、偶然にもブライズヘッドという青春の地を見出したように、ウォーの希望が、カトリックという信仰がもしかしたら知的爛熟を体現したような例えばアントニーのような存在とは正反対の、自分の存在意義を求め、そして愛を求め愚直に苦悩するセバスチャンのような男により愛を傾けることに、あるいはチャールズが見慣れたイギリスの洗練された邸宅より当時のイギリスから見れば素朴で迷妄に満ちた南米の地に存在する美しい建造物に惹かれたことに投影されているのではないか。そうこのウォーの作品の中の例外的に「読みうる」小説にはそのようなウォーの思索が満ちているように思われるのである。
2011年8月27日に日本でレビュー済み
原文で読むより面白いです。
原文の魅力に翻訳者の文学センスが加わった、 ウォーと小野寺健の合作といってもいいくらいの素晴らしい作品です。
現代文学の一つの頂点です。
原文の魅力に翻訳者の文学センスが加わった、 ウォーと小野寺健の合作といってもいいくらいの素晴らしい作品です。
現代文学の一つの頂点です。
2009年10月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
他の人の書評を読んで期待したのですが、ちょっと期待はずれでした。消え去っていく英国の貴族社会へのノスタルジーといった感じですが、多彩な登場人物の中にカズオ・イシグロの「日の名残り」のような情感は得られませんでした。特に、会話部分の翻訳で表現に統一に欠けたところ、−丁寧語の表現が、あるところでぞんざいな表現になっていたり−がみられたのは、読んでいて気になりました。
2009年3月27日に日本でレビュー済み
第二次世界大戦下、英軍将校である主人公が偶然、かつての友人の屋敷があるブライズヘッドの陣地に着任した事から、オックスフォード大での青春時代が語られ始める。
全編を通じ、キリスト教の話題が出てくるため、ヘンリー八世の離婚騒動以降、プロテスタント(英国教会)が主流となった英国に於けるマイノリティーとしてのカトリック信者の位置付けを頭に入れておくと読みやすいだろう。
作者、イーヴリン・ウォー(Evelyn Waugh: 1903-1966)は、英国の小説家。
本人は否定しているものの、オックスフォードのハートフォード・カレッジを中退、従軍経験、カトリックへの改宗の経緯等、その経歴は、本作の語り手、C.ライダーと通じる部分がある。
上流社会に対する風刺の効いた作風で知られ、他に「一握の砂」、「黒いいたずら」なども邦訳されている。
原題の直訳は、「Brideshead Revisited(ブライズヘッド再訪)」だが、他の方もレビューに書かれているように、小説の翻訳や映像化の際、何故かそのまま訳されず、様々な邦題となる事が多い。
1981年、英・グラナダTVでドラマ化され、NHKが放映した際には、「華麗なる貴族」(この時の出演者は、J.アイアンズ、L.オリヴィエ、J.ギールグッド等。)となり、VHS化されている。
また、原書に挑戦したい方には、J.アイアンズによる朗読CDもある。
原作に比べるとストーリーは相当脚色されているものの、2008年再映像化され、「情愛と友情」の題でDVDも入手可能。(出演者:E.トンプソン、M.ガンボン等。)
本書・小野寺氏訳に先行し、元・首相、吉田茂の子息、吉田健一氏訳「ブライヅヘッドふたたび」の邦題でも名訳(筑摩書房)がある。
吉田氏の訳は、漢字も多用され、一文も長いが、特徴のある文体が美しく、全体的にクラシックで格調高い印象。
小野寺版は、現代風で読みやすい一方、多少味わいに欠ける点もあり、どちらを選ぶかは好き嫌いが分かれるところ。
他、本書には、後年原作者ウォーが書き足した「序文」が添えられている点も、吉田版との差異。
全編を通じ、キリスト教の話題が出てくるため、ヘンリー八世の離婚騒動以降、プロテスタント(英国教会)が主流となった英国に於けるマイノリティーとしてのカトリック信者の位置付けを頭に入れておくと読みやすいだろう。
作者、イーヴリン・ウォー(Evelyn Waugh: 1903-1966)は、英国の小説家。
本人は否定しているものの、オックスフォードのハートフォード・カレッジを中退、従軍経験、カトリックへの改宗の経緯等、その経歴は、本作の語り手、C.ライダーと通じる部分がある。
上流社会に対する風刺の効いた作風で知られ、他に「一握の砂」、「黒いいたずら」なども邦訳されている。
原題の直訳は、「Brideshead Revisited(ブライズヘッド再訪)」だが、他の方もレビューに書かれているように、小説の翻訳や映像化の際、何故かそのまま訳されず、様々な邦題となる事が多い。
1981年、英・グラナダTVでドラマ化され、NHKが放映した際には、「華麗なる貴族」(この時の出演者は、J.アイアンズ、L.オリヴィエ、J.ギールグッド等。)となり、VHS化されている。
また、原書に挑戦したい方には、J.アイアンズによる朗読CDもある。
原作に比べるとストーリーは相当脚色されているものの、2008年再映像化され、「情愛と友情」の題でDVDも入手可能。(出演者:E.トンプソン、M.ガンボン等。)
本書・小野寺氏訳に先行し、元・首相、吉田茂の子息、吉田健一氏訳「ブライヅヘッドふたたび」の邦題でも名訳(筑摩書房)がある。
吉田氏の訳は、漢字も多用され、一文も長いが、特徴のある文体が美しく、全体的にクラシックで格調高い印象。
小野寺版は、現代風で読みやすい一方、多少味わいに欠ける点もあり、どちらを選ぶかは好き嫌いが分かれるところ。
他、本書には、後年原作者ウォーが書き足した「序文」が添えられている点も、吉田版との差異。