18世紀ドイツの啓蒙主義思想家レッシングの書いた戯曲。 舞台はエルサレム、サラディン王が支配し、十字軍と戦っている時代である。ユダヤ人のナータン、ナータンに育てられたキリスト教徒の娘、イスラムの王サラディンとその兄にそっくりな十字軍の神殿騎士などが登場し、最後にはそれぞれの関係が明らかになってめでたし、めでたし、となる劇進行は、テンポも良く、笑いもあり、どこかシェークスピアの喜劇を見るかのようである。作者自身の関係した宗教論争の中から生まれた作品で、宗教に互いを認める寛容を説いたものであるが、お説教じみておらず、なかなか楽しい。
サラディン王に「最もよしとするのはどんな信仰か。」と質問され、その窮地(自らの属するユダヤ教といえば王の宗教を否定する、王のイスラム教と言えば改宗を迫られる、うんぬん)を脱するのに用いられる[「三個の指輪」のたとえ話はボッカッチョの「デカメロン」から借りられたものだそうである。この話を使って賢人ナータンはサラディン王の謎かけの窮地から逃れる、というところで作者はこの作品の主旨である「ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三宗教に互いを認める寛容」を説く。どのように説くのか、がお話の一つの山場である。「デカメロン」に載っている話を知らなくても大丈夫。知りたい人にはもとのあらすじも「解説」に書かれている。
著者はただ「みな平等」と理念的に説くばかりではない。ひたすらに「キリスト教徒に生まれたのだから、キリスト教徒であらねばならない」と説得し、養父を捨てさせようとする侍女を評して「愛する余りに私を苦しめる善くって悪い人」と娘に何度も言わせるところなどは、自分の正しさだけを押し付けることで生じる悲しい出来事がいくらもあること、それをも人間であることを思い出させて胸が痛くなる。
作者はナータンに「皮膚の色、衣服、姿形の違いは大したことではない」「宗旨が違っても人情は一つ」などと何箇所かで言わせている。書かれた時代を考えると、宗教の違いはない、ということを通し、人びとの平等を説いたのだろう。
作者自身の身辺的な事情かもしれないが、キリスト教の悪い部分ばかりがかなり強く書かれていることなど、気になるところがないとは言えない。それでも、この時代にこんなことを書いていたのか、と興味深く、しかも楽しく読める戯曲である。始まりを同じくする一神教である三宗教については「皆平等、どれが正統かを争うことはない」と作者は説いたのだが、多神教や、物質論的無神論にはどのように答えただろうか、ちょっと意地悪にも聞いてみたい気もする。
この三宗教の間でも人びとの争いは今もまだ終わってはいない。なかなか皮肉なものである。
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賢人ナータン (岩波文庫 赤 404-2) 文庫 – 1958/8/5
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- 本の長さ236ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1958/8/5
- ISBN-104003240421
- ISBN-13978-4003240427
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1958/8/5)
- 発売日 : 1958/8/5
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 236ページ
- ISBN-10 : 4003240421
- ISBN-13 : 978-4003240427
- Amazon 売れ筋ランキング: - 602,822位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 78位ドイツの戯曲・シナリオ
- - 3,548位岩波文庫
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2006年10月11日に日本でレビュー済み
2004年5月17日に日本でレビュー済み
レッシングは牧師の息子だというのだから、キリスト教の傲慢を身に染みて感じていたのだろう。それにしても1779年にこのような戯曲を綴るというのは、相当危険なことだったのではないだろうか。本書に登場する三つの指輪の話は、「デカメロン」が原拠らしいが、解説を読む限り、レッシングは原作をより深化させて描いている。オチの肉親ネタは、まあ前近代的な物語によくあるものだが、それでも緊張感が持続しているのは、やはり宗教的寛容の問題が作品全体を貫いているからだろう。悪人、少なくとも思慮の足りない人間は、皆キリスト教徒であるというのも痛烈な皮肉だ。寛容を説くキリスト教が、どうして自己のみを絶対として、他者を時には死を持って排斥するのか、というレッシングの思いが伝わる。逆説的に言えば、こういう人間を有しているからこそ、キリスト教は強いのだろう。
2021年4月15日に日本でレビュー済み
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18世紀啓蒙主義時代の人、レッシングの戯曲 。そのさわりの部分に感動した。
「舞台は12世紀のエルサレム。イスラム教徒の王サラディンが支配しているが、十字軍とともにやってきて1部分を占領しているキリスト教徒のテンプル騎士団の占領地域とユダヤ人の地域と、イスラム教徒の地域が併存している。サラディンは、賢人と評判のユダヤ人商人ナータンを呼び出して言いがかりをつけ、高額の資金拠出を申しつけようとする。そして、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の何れがもっとも優れているか」と難問を吹っ掛ける。
ナータンはたとえ話をする。要旨つぎのようなものである。
ある父親が三人の息子を持っていた。代々跡継ぎ一人に宝石をちりばめたみごとな指輪を渡す習わしにしていた。しかし、この父親は依怙贔屓できなくてまったく見分けのつかない模造品を二つ作って、三人ともに指輪を渡した。父の死後、三人は裁判官のところへ行って、自分こそ正当な相続者だと主張した。裁判官はこういった。「父親はお前たち三人を分け隔てなく愛していたに違いない。だから、お前たちのうちの一人だけをひいきして、ほかの二人を苦しめたくなかったのだ。さあ! いずれも精出して、身びいきのない無我の愛を欣求するがよい。めいめいが自分の指輪にちりばめてある宝石の力を堅持するように励み合いなさい、―――そして柔和な心映え、やわらぎの気持ち、善行、神への心からなる帰依をもってその力を助成しなさい。そして宝石にそなわるもろもろの力がおまえたちの子孫の大に発揮されたら、数千年後のその時にこそ、わしはお前たちをこの裁判官席の前に召喚しよう。その時には、わしより賢明な人が、この席に座ってこういう判決を下すだろう―――退廷してよい!」」
何千年にもわたる事実の判定に委ねるという信頼を私たちがもち得るだろうか。
そして、本物という裁定を受けられるだろうか。
「舞台は12世紀のエルサレム。イスラム教徒の王サラディンが支配しているが、十字軍とともにやってきて1部分を占領しているキリスト教徒のテンプル騎士団の占領地域とユダヤ人の地域と、イスラム教徒の地域が併存している。サラディンは、賢人と評判のユダヤ人商人ナータンを呼び出して言いがかりをつけ、高額の資金拠出を申しつけようとする。そして、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の何れがもっとも優れているか」と難問を吹っ掛ける。
ナータンはたとえ話をする。要旨つぎのようなものである。
ある父親が三人の息子を持っていた。代々跡継ぎ一人に宝石をちりばめたみごとな指輪を渡す習わしにしていた。しかし、この父親は依怙贔屓できなくてまったく見分けのつかない模造品を二つ作って、三人ともに指輪を渡した。父の死後、三人は裁判官のところへ行って、自分こそ正当な相続者だと主張した。裁判官はこういった。「父親はお前たち三人を分け隔てなく愛していたに違いない。だから、お前たちのうちの一人だけをひいきして、ほかの二人を苦しめたくなかったのだ。さあ! いずれも精出して、身びいきのない無我の愛を欣求するがよい。めいめいが自分の指輪にちりばめてある宝石の力を堅持するように励み合いなさい、―――そして柔和な心映え、やわらぎの気持ち、善行、神への心からなる帰依をもってその力を助成しなさい。そして宝石にそなわるもろもろの力がおまえたちの子孫の大に発揮されたら、数千年後のその時にこそ、わしはお前たちをこの裁判官席の前に召喚しよう。その時には、わしより賢明な人が、この席に座ってこういう判決を下すだろう―――退廷してよい!」」
何千年にもわたる事実の判定に委ねるという信頼を私たちがもち得るだろうか。
そして、本物という裁定を受けられるだろうか。