一般的に『オブローモフ』や、あるいは『日本渡航記』(『フレガート艦パルラダ号』からの抄訳)でその名が知られている、ドストエフスキーら19世紀ロシア文学の作家たちと同時代人であるイワン・ゴンチャロフの処女作です。
ゴンチャロフ自身、作家業との二足のわらじを履く形で、政府の役人として勤務する生活を送っていたせいか、彼の作品には「現実の世界を生きて行くために必要な処世術」や、「そういった術に長けた極めて現実的な(下手をすると俗物とも見えるような)人物」といった要素がよく登場します。そして作家自身がそのような「現実的な世界」を実地に見ているだけに、多くの場合その筆は非常に冴え渡っています。
このような「処世術」の描写に関しては、およそ150年以上前のロシアと今の日本とでさほど変わりが無いのか、今読んでみても大いに頷けるものだと思います。そしてこの作品においては、そのような今読んでも共感できる「現実的な」要素を一手に引き受けているのが、主人公であるアレクサンドルの叔父のピョートルという人物です。彼が作中見せる、この現実世界を生きて行くために必要なプラクティカルな処世術に関しては、その割り切り方や明快さも伴って、時に笑いを交えながら共感することができるでしょう。
そのような「現実的な」ピョートルとの対比によって、主人公である若きアレクサンドルの「夢想家・理想家」振りは際立ちます。田舎育ちの彼は、多くの人が送る「現実の生活」を知らないままに、ひたすら彼の想像の中での「真の生活」を追い求めています。それは芸術的なインスピレーションや、俗世的な処世術を越えた「真善美」の追求、そして身を焦がすような恋愛といったものを含む、極めてロマンティックなものです。そして彼はそのような「真の生活」を実現するべく、ペテルブルクという「現実的な生」に満ちた大都会に出て行きます(今の日本で言うと、理想的かつ頭でっかちな夢想家が、そのような「理想的な生活」を打ち立てるべく東京の都心に打って出ていく、といったところでしょうか)。
この『平凡物語』の見どころは、そのようなアレクサンドルの「夢想的・理想的」な価値観と、徹頭徹尾「現実的」な叔父ピョートルの価値観の衝突、そしてそれがもたらす(主にアレクサンドルの浮世離れ振りに伴う)「喜劇性」にあると言えるでしょう。海千山千のピョートルの前にあって、頭でっかちのアレクサンドルが巻き起こす壮大な「一人相撲」の様子は、下手をすると笑いを堪えることができないほどのおかしみをもたらす事もあると思います。
しかしこの作品においては、そんな未熟で頭でっかちなアレクサンドルが、決して単に「喜劇的な人物」としてのみ描写されている訳ではありません(それはまた、「現実的」なピョートルが作中で「単なる俗物」に落ちる事が無いこととも共通していると言えるでしょう)。作者の筆はそんなアレクサンドルの右往左往ぶりを描く時ですらどこか優しく、まるで作者自身心の底では彼に共感(あるいは同情)しているかのようです。そしてそんな作者のアレクサンドルに対する「共感」が、アレクサンドルと言う青年に一種のドン・キホーテ的な「悲劇性」をも付与しているかのようです。
文章表現は極めて読みやすく、様々な個性を持つ登場人物たちを描く筆はとても生き生きとしています。また訳文も優れていると思います。今読んでもその「悲喜劇」に共感できる、時代を超えた傑作だと思います。
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平凡物語(上) (岩波文庫) (岩波文庫 赤 606-5) 文庫 – 2010/6/17
『平凡物語』(1847年)はゴンチャロフ(1812-1891)の出世作であり、『オブローモフ』『断崖』とともに長篇三部作を成す。ロマンチシズムを抱く感激屋で未経験な青年アレクサンドル。人生経験豊富で海千山千の叔父ピョートル。両極端な2人のやり取りが、ユーモアをまじえながら対比的に描かれる。(全2冊)
- 本の長さ300ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2010/6/17
- ISBN-104003260651
- ISBN-13978-4003260654
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2010/6/17)
- 発売日 : 2010/6/17
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 300ページ
- ISBN-10 : 4003260651
- ISBN-13 : 978-4003260654
- Amazon 売れ筋ランキング: - 97,267位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 101位ロシア・ソビエト文学 (本)
- - 740位岩波文庫
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2013年7月31日に日本でレビュー済み
2014年12月29日に日本でレビュー済み
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田舎出の純朴な青年が、世間擦れしたおじさんに反発しつつ生き方を学んでいくお話。
青年の痛々しい様といったら、とても他人事とは思えず笑。一気に読んでしまった。
青年の痛々しい様といったら、とても他人事とは思えず笑。一気に読んでしまった。
2020年2月8日に日本でレビュー済み
19世紀ロシアの小説家で『オブローモフ』でも知られるゴンチャロフ(1812ー1891)の処女長編小説、1834年。
或る極端な形の青春とその終焉を描いた物語。全ての人間は、自己の内面に沈潜しそこに自閉しようとする空想家アレクサンドルと、世俗的な価値観で身を包んだ俗物ピョートルと、その両極端のグラデーションの内のどこかに位置しているだろう。そして一般的には、青年時代はアレクサンドルの側の極に近く、そして恋愛・友情・精神的野心・世俗的野心に挫折し、現実というものに対して徹底的に幻滅する過程で、次第にピョートルの側の極へと遷移していくだろう。
アレクサンドル的な人間の困難は「現実世界において何者にもなり得ていないこと」に起因するが、同時に彼の自我が最も恐れていることは「現実世界において或る何者かとして限定されてしまうこと」であると思う。自由=無限の可能性=自己超越の可能性=不定態、その否定としての社会的役割。
アレクサンドルの青春の蹉跌は、一言で云えば「感情のアナーキー」によるものと云える。何者でもない彼は、潔癖であろうとすることを自己の拠り所としようとした。彼は、精神の無限性を計量可能な有限性に切り詰めてしまう打算・計算的理性・功利性といったものを徹底的に峻拒すると同時に、市民的節制という中庸の裡に身を律することも潔しとせず、どこまでも極端に走り観念に潜り独善へと強張っていく。彼は自己の内的領域を極大化しようとし、同時に世界と他者の領域を極小化しようとする。肥大化した自惚れは傲慢と自己卑下の両極端に揺れるが、いづれにせよ「内面=全」の自己中心主義がこの空想的なロマンチストの正体か。
□
青年アレクサンドルの言動の中に、それを批評する世慣れした大人たちの言葉の中に、嘗ての自分の姿が認められる。彼のような青年期を人生のうちにもったことのある者にとって、これは苦い読書体験になる。
「誰か若くして愚かならざる者あらんや! ですよ。決して実現の見込みのない、変な、いわゆる秘めし思いを持たない者がありましょうか? ・・・。僕は天から創作の才を授かっていると考えて、世界に前人未到の秘密を知らせてやろうと思っていたのですが、それが秘密でもなく、僕は預言者でもないことなど疑っても見なかったのです。われわれは誰でも滑稽なんです。しかし一つ伺いますが、わが身をかえりみて赤面することなしに、こうした少年期のいくらか度はずれたところはあっても、高尚で熱烈な空想をののしり辱める者がありましょうか? さらにそれぞれ無駄な空想も抱かず、自分を勇敢な壮図や仰々しい頌歌や、雷名とどろく小説の主人公と空想しなかった者がありましょうか? 高尚でうるわしいものに共鳴して泣かなかった者がありましょうか?」(下巻p357ー358)。
「人生を見つめ、心と頭に疑問を投げて、彼がぞっとした思いで覚ったことは、どちらを向いても何ひとつ薔薇色の希望がなくなっていることであった。すべてはもはや昔のこととなっていた。もはや晴れて、眼前にはむき出しの現実が草原のようにひろがっていた。おお! それは何という無限の空間だろう! なんという退屈な、悲しげな光景だろう! 過去は亡び、未来はみすぼらしく、幸福はなく、すべては幻なのに、しかもなお生きて行かねばならないのだ!」(下巻p200ー201)。
間延びしすぎた青春の日々が精神的にも生理的にもいよいよ持ち堪えられなくなり、その終わりが予感されるとき、人は、アレクサンドル同様の「平凡な結末」を迎えることになるのだろうか。
或る極端な形の青春とその終焉を描いた物語。全ての人間は、自己の内面に沈潜しそこに自閉しようとする空想家アレクサンドルと、世俗的な価値観で身を包んだ俗物ピョートルと、その両極端のグラデーションの内のどこかに位置しているだろう。そして一般的には、青年時代はアレクサンドルの側の極に近く、そして恋愛・友情・精神的野心・世俗的野心に挫折し、現実というものに対して徹底的に幻滅する過程で、次第にピョートルの側の極へと遷移していくだろう。
アレクサンドル的な人間の困難は「現実世界において何者にもなり得ていないこと」に起因するが、同時に彼の自我が最も恐れていることは「現実世界において或る何者かとして限定されてしまうこと」であると思う。自由=無限の可能性=自己超越の可能性=不定態、その否定としての社会的役割。
アレクサンドルの青春の蹉跌は、一言で云えば「感情のアナーキー」によるものと云える。何者でもない彼は、潔癖であろうとすることを自己の拠り所としようとした。彼は、精神の無限性を計量可能な有限性に切り詰めてしまう打算・計算的理性・功利性といったものを徹底的に峻拒すると同時に、市民的節制という中庸の裡に身を律することも潔しとせず、どこまでも極端に走り観念に潜り独善へと強張っていく。彼は自己の内的領域を極大化しようとし、同時に世界と他者の領域を極小化しようとする。肥大化した自惚れは傲慢と自己卑下の両極端に揺れるが、いづれにせよ「内面=全」の自己中心主義がこの空想的なロマンチストの正体か。
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青年アレクサンドルの言動の中に、それを批評する世慣れした大人たちの言葉の中に、嘗ての自分の姿が認められる。彼のような青年期を人生のうちにもったことのある者にとって、これは苦い読書体験になる。
「誰か若くして愚かならざる者あらんや! ですよ。決して実現の見込みのない、変な、いわゆる秘めし思いを持たない者がありましょうか? ・・・。僕は天から創作の才を授かっていると考えて、世界に前人未到の秘密を知らせてやろうと思っていたのですが、それが秘密でもなく、僕は預言者でもないことなど疑っても見なかったのです。われわれは誰でも滑稽なんです。しかし一つ伺いますが、わが身をかえりみて赤面することなしに、こうした少年期のいくらか度はずれたところはあっても、高尚で熱烈な空想をののしり辱める者がありましょうか? さらにそれぞれ無駄な空想も抱かず、自分を勇敢な壮図や仰々しい頌歌や、雷名とどろく小説の主人公と空想しなかった者がありましょうか? 高尚でうるわしいものに共鳴して泣かなかった者がありましょうか?」(下巻p357ー358)。
「人生を見つめ、心と頭に疑問を投げて、彼がぞっとした思いで覚ったことは、どちらを向いても何ひとつ薔薇色の希望がなくなっていることであった。すべてはもはや昔のこととなっていた。もはや晴れて、眼前にはむき出しの現実が草原のようにひろがっていた。おお! それは何という無限の空間だろう! なんという退屈な、悲しげな光景だろう! 過去は亡び、未来はみすぼらしく、幸福はなく、すべては幻なのに、しかもなお生きて行かねばならないのだ!」(下巻p200ー201)。
間延びしすぎた青春の日々が精神的にも生理的にもいよいよ持ち堪えられなくなり、その終わりが予感されるとき、人は、アレクサンドル同様の「平凡な結末」を迎えることになるのだろうか。
2010年8月10日に日本でレビュー済み
19世紀半ば、ツルゲーネフやドストエフスキーらの同時代にとても読まれていたゴンチャロフ。その出世作の待望の文庫化。田舎に住む空想的な青年アレクサンドルは都会に出ていくが、現実的な叔父ピョートルにやりこめられてばかり。実際に仕事も恋も叔父のいう通りに進んでいき、この世のはかなさに絶望するが、、、、という話。ロマンチックな夢想が現実に敗れる姿を「喜劇」的に描くところがすばらしい。誰もがもつ夢のような理想と、それを現実化する手腕の話です。訳文もとても読みやすい。
主人公と叔父の対立には、理想と現実の対立に世代間対立が加わっているのですが、叔父(現実)の勝利で終わりそうなところを、最後の最後に逆転しながらすれ違うというのもおもしろい。理想と現実の一瞬の交錯。
歴史的には、フランス革命以後、大志を抱いた主人公が成長していく「教養小説」の時代ははっきりと終わりを告げている。ナポレオンは主人公ではなくパロディの対象になった(スタンダール「赤と黒」)。農奴制が残るとはいえロシアだって近代社会に突入しようとしているのですから、この流れのなかで書かれた小説です。
日本ではロシア文学から出発して文体、内容ともに近代文学を先駆けた二葉亭四迷がハマったという歴史的に重要な作品でもあります。読みながら、二葉亭「浮雲」の特に前半部分(深刻な自意識にからめとられて「悲劇」になっていく後半ではなく)、青年の空想と現実の落差がユーモアを持って描かれるあたりを想起するはずです。名作。
主人公と叔父の対立には、理想と現実の対立に世代間対立が加わっているのですが、叔父(現実)の勝利で終わりそうなところを、最後の最後に逆転しながらすれ違うというのもおもしろい。理想と現実の一瞬の交錯。
歴史的には、フランス革命以後、大志を抱いた主人公が成長していく「教養小説」の時代ははっきりと終わりを告げている。ナポレオンは主人公ではなくパロディの対象になった(スタンダール「赤と黒」)。農奴制が残るとはいえロシアだって近代社会に突入しようとしているのですから、この流れのなかで書かれた小説です。
日本ではロシア文学から出発して文体、内容ともに近代文学を先駆けた二葉亭四迷がハマったという歴史的に重要な作品でもあります。読みながら、二葉亭「浮雲」の特に前半部分(深刻な自意識にからめとられて「悲劇」になっていく後半ではなく)、青年の空想と現実の落差がユーモアを持って描かれるあたりを想起するはずです。名作。