東洋及び日本の文学・哲学に関する豊富な参照を含み、また「異なる二つの因果系列の邂逅」という九鬼による「偶然」の定義は、彼固有のエロティシズムを強く印象づけるとは言え、「偶然性の問題」は、あくまでも西洋形而上学の、そのただ中に打ちたてられ業績と言うべきだ。
すなわち「存在」が、常に非存在/無との関係においてある以上、「存在を超えて無に行くことが、形而上学の核心的意味」である。ならば偶然性こそが、「有と無との接触面に介在する極限的存在」として、解明の俎上に載せられなければならない。
その為に九鬼が選択した方法は、「定言的/仮説的/離接的」という、まさに形而上学の可能性そのものを問うたカントに借りた悟性の判断形式である。それは能う限り緻密で、時に極めて晦渋だ。(坂部恵は、これを「一種のパロディ」とまで、その九鬼論で述べている)。
その文脈の全てを追うのは簡単ではないが、結語に近く、「無をうちに蔵して滅亡の運命を有する偶然性に永遠の運命の意味を付与するには、未来によって瞬間を生かしむるほかはない。」という高揚した一文にまで至れば、その結論を確かなものにする為に、つまり「偶然性の存在論的構造」を明らかにする為には、この厳密なプロセスが是非とも必要であったことが理解できる。
西洋哲学史で看過されて来たと言われる「偶然性」だが、十九世紀末以降、理性的なものの急激な揺らぎの中で、多くの鋭敏な知性の意識に、ある恐れと共に前面に登場する。例えば、九鬼の視野には、S.マラルメという名も入っていたはずだ。マラルメにとって、詩作とは「一語一語偶然を征服すること」(ディヴァガシオン)であった。あるいは「骰子一擲/賽の一振り 断じてそれが 廃滅せしめぬ 偶然」。
一方の九鬼は詩の押韻に「偶然の邂逅」の魅惑を見た。存在と無、言葉と虚無、あるいは定型と自由詩。その狭間に出現する「偶然性」を巡る思考は、時に重なりつつ、時に不協和を奏でる。その錯綜を辿ることもまた、刺激的な読書体験になるだろう。
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偶然性の問題 (岩波文庫) 文庫 – 2012/11/17
九鬼 周造
(著)
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あらゆる事象はゆくりないめぐり逢いであり、その邂逅の源泉に原始偶然が厳存する――。古今東西にわたる驚嘆すべき文献的研究と実質的具体的な現実観察に拠り、偶然性を定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然の三つに大別してユニークな形而上学的思索を展開し、偶然性の本質を解明した九鬼周造(1888―1941)の主著。(注解・解説=小浜善信)
- 本の長さ480ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2012/11/17
- 寸法10.5 x 1.8 x 15 cm
- ISBN-104003314638
- ISBN-13978-4003314630
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2012/11/17)
- 発売日 : 2012/11/17
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 480ページ
- ISBN-10 : 4003314638
- ISBN-13 : 978-4003314630
- 寸法 : 10.5 x 1.8 x 15 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 79,336位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 547位岩波文庫
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2022年10月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2012年3月4日に日本でレビュー済み
初版は1935年で1967年版は第七刷。
問題は第三章の離接的偶然で、運命論として扱はれるが実は「無」の論である。
− 運命は必然的ヘイマルメネーであり偶然的なテュケ幸運やアウトマトンではない。
〔各様相の時間的性格〕
可能性の未来的時間性格=Vorlaufen。必然性の過去的時間性格 = ト・ティ・エーン・エイナイ、アナムネシス。
に対し偶然性は現在。『可能は可能性によつて現實と成る。現實は必然へ展開する。さうして一般に可能が現實面へ出遇ふ場合が広義の偶然である。』 それは哲学の始めである驚異タウマゼインである。265頁
〔有と無〕
偶然は無に近い存在。離接的(選言的)肯定はその裏面に離接的否定を有つてゐる。
絶対者が「必然―偶然者」であることは絶対者が絶対有であると共に絶対無であることを語つてゐる。313頁
『偶然性は有と無の境界線に危く立脚する極限的存在にほかならない。』314
可能性と必然性は實在性の次元にあつて濃度の違ひ(大小對当)でしかない。
偶然性は虚無性の次元にあつて不可能性と濃度の違ひ。
必然性を追ふものは無を自覚すること少なく、可能性のみ追求する者は缺如として無を知る場合が多い。
偶然性の官能を持つものは無を直感する。314『偶然は無の可能を意味する』315
可能性は「非現實性」によつて不可能性に結ばれてゐるが、「無」は却つて不可能性と偶然性を『包消』してゐる。317 − 貴族的な九鬼が田舎の百姓高橋里美と同じ『包消』といふ言葉を使用してるのは面白い。
言明的assertologisch 或は確然的apodiktischな命題を 問題的problematischにするのが離接的disjunctive判断。320
『離接的偶然の核心的意味は「無いことの可能」としての「無いことの必然」へ近迫すること。偶然性は不可能性の無の性格を帯びた現實である。さうして現在における驚異の情緒は實存にとつて運命を通告する。
なほ可能的離接肢の全體は勝義カタ・エクソメンにおいて形而上学的絶対者を意味し・・・「必然―偶然者」として解明される。
また絶対者と有限者を繋ぐものが運命である限り、運命もまた「必然―偶然者」の性格を擔つて実存の中核を震撼する』322f
定言的偶然の核心的意味は微表差異exiguumによる「個物および個々の事象」、
仮説的偶然は「一つの系列と他の系列の邂逅」、
離接的偶然は「無いことの可能」。322
これらすべてにの偶然の根源的意味は、一者としての必然性に対する他者の措定。
必然性とは同一性つまり一者の様相であり、偶然性は一者と他者の二元性の邂逅Zusammentreffen(間主観性)。324 無いことの可能は選択に基づく二元を予想。325
偶然性はアリストテレスにとつても学的認識の限界を形成。しかしこの限界は実存に対して端初Urzufall。326 − これは勿論アリストテレスからアヴィセンナ経由トマス・アクイナスに引き継がれた、存在(現実存在existentia)はaccident偶然による、或は神esseの対象を存在させる行為actus essendiによるといふ哲学史の復習。
経験に整合と統一を與へる理論的體系の根源的意味は他者の偶然性を捉へてその具体性において一者の同一性へ同化・内面化する。
汝の我への具體的内面的同一化であり、偶然を満喫した宇宙論でなくてはならない。329
問題は第三章の離接的偶然で、運命論として扱はれるが実は「無」の論である。
− 運命は必然的ヘイマルメネーであり偶然的なテュケ幸運やアウトマトンではない。
〔各様相の時間的性格〕
可能性の未来的時間性格=Vorlaufen。必然性の過去的時間性格 = ト・ティ・エーン・エイナイ、アナムネシス。
に対し偶然性は現在。『可能は可能性によつて現實と成る。現實は必然へ展開する。さうして一般に可能が現實面へ出遇ふ場合が広義の偶然である。』 それは哲学の始めである驚異タウマゼインである。265頁
〔有と無〕
偶然は無に近い存在。離接的(選言的)肯定はその裏面に離接的否定を有つてゐる。
絶対者が「必然―偶然者」であることは絶対者が絶対有であると共に絶対無であることを語つてゐる。313頁
『偶然性は有と無の境界線に危く立脚する極限的存在にほかならない。』314
可能性と必然性は實在性の次元にあつて濃度の違ひ(大小對当)でしかない。
偶然性は虚無性の次元にあつて不可能性と濃度の違ひ。
必然性を追ふものは無を自覚すること少なく、可能性のみ追求する者は缺如として無を知る場合が多い。
偶然性の官能を持つものは無を直感する。314『偶然は無の可能を意味する』315
可能性は「非現實性」によつて不可能性に結ばれてゐるが、「無」は却つて不可能性と偶然性を『包消』してゐる。317 − 貴族的な九鬼が田舎の百姓高橋里美と同じ『包消』といふ言葉を使用してるのは面白い。
言明的assertologisch 或は確然的apodiktischな命題を 問題的problematischにするのが離接的disjunctive判断。320
『離接的偶然の核心的意味は「無いことの可能」としての「無いことの必然」へ近迫すること。偶然性は不可能性の無の性格を帯びた現實である。さうして現在における驚異の情緒は實存にとつて運命を通告する。
なほ可能的離接肢の全體は勝義カタ・エクソメンにおいて形而上学的絶対者を意味し・・・「必然―偶然者」として解明される。
また絶対者と有限者を繋ぐものが運命である限り、運命もまた「必然―偶然者」の性格を擔つて実存の中核を震撼する』322f
定言的偶然の核心的意味は微表差異exiguumによる「個物および個々の事象」、
仮説的偶然は「一つの系列と他の系列の邂逅」、
離接的偶然は「無いことの可能」。322
これらすべてにの偶然の根源的意味は、一者としての必然性に対する他者の措定。
必然性とは同一性つまり一者の様相であり、偶然性は一者と他者の二元性の邂逅Zusammentreffen(間主観性)。324 無いことの可能は選択に基づく二元を予想。325
偶然性はアリストテレスにとつても学的認識の限界を形成。しかしこの限界は実存に対して端初Urzufall。326 − これは勿論アリストテレスからアヴィセンナ経由トマス・アクイナスに引き継がれた、存在(現実存在existentia)はaccident偶然による、或は神esseの対象を存在させる行為actus essendiによるといふ哲学史の復習。
経験に整合と統一を與へる理論的體系の根源的意味は他者の偶然性を捉へてその具体性において一者の同一性へ同化・内面化する。
汝の我への具體的内面的同一化であり、偶然を満喫した宇宙論でなくてはならない。329
2019年10月14日に日本でレビュー済み
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九鬼周造の核心にふれる一冊です。
2013年7月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本には偶然と必然について九鬼独自の答えが書かれています。私達の人生において滅多に起きないような出来事が現実に起こる。これは偶然なのか必然なのか。統計的に確率論からみて誤差は偶然か?必然か?
九鬼によれば偶然性とは必然性の否定である。必然的なものの中にはアリストテレスやスピノザでいう不変なる同一的なものが出現していて永遠である。
必然という規定を細分すると、1)概念性 2)理由性 3)全体性の認識から3つに分けることができるように、同様に偶然性を1)定言的偶然 2)仮説的偶然 3)離接的偶然から分け、区別することができるそうだ。久鬼による本書は類似の解説や比較的難しい構成があるため、印象に残った部分をレビューでは取り上げることにした。
第二章八 目的なき目的 目的は積極的偶然にあって「目的なき目的」が強い影響を現している。ベルグソンは善霊と悪霊が働いているような気にさせることから、善霊と悪霊と呼んだ。九鬼は例として無敵艦隊山田艦長と巡洋艇五十鈴が写っている写真から、山田と五十鈴が結合し映画女優山田五十鈴と同名な存在が現れたのだが、これは人々に強いインパクトを与えた。何が必然的なもののように感じられるのか、実は「目的なき目的」の強調の結果、偶然は偶然でないような相を呈し、自己否定の志向的構造を取るようになる。武者小路実篤の「その妹」と言う小説にも「あの日あなたの処へ行ったのは偶然とは思えない気がします」という文章があるが、「目的なき-目的」の後者の強調のあまり目的なきが影響力を失った例である。
第三章九 偶然性の時間性格 簡単に表記してしまうと時間の過去から未来までの流れと、過去に必然性、現在に偶然性、未来に可能性があると考えている。ヘーゲルも偶然とは現実が同時に単に可能として規定されているものであると述べている。
第三章十二 偶然と運命 偶然が人間の実存性にとって核心的全人格的意味を持つとき偶然は運命と呼ばれるのである。ここに「必然-偶然者」の構造がある。国木田独歩の小説にもあるように運命と偶然は同一のものであることが前提となる。これはヘラクレイトスやショーペンハウエル、カントなどによってもすでに証明されている。
第三章十三 形而上的絶対者 あまり長すぎないよう自重して(笑)簡潔に記すと偶然性と必然性がクロスし、その交点が運命の通る道である。偶然は無に近い存在であり、当てにならない。現実が無に直面し現実を危うくするとき我々は「何故?」の問いを発するのである。
私も完全には理解していませんが、じっくりと腰を据えて読むのに、人生を考えるという観点からも良い書物だと思います。
九鬼によれば偶然性とは必然性の否定である。必然的なものの中にはアリストテレスやスピノザでいう不変なる同一的なものが出現していて永遠である。
必然という規定を細分すると、1)概念性 2)理由性 3)全体性の認識から3つに分けることができるように、同様に偶然性を1)定言的偶然 2)仮説的偶然 3)離接的偶然から分け、区別することができるそうだ。久鬼による本書は類似の解説や比較的難しい構成があるため、印象に残った部分をレビューでは取り上げることにした。
第二章八 目的なき目的 目的は積極的偶然にあって「目的なき目的」が強い影響を現している。ベルグソンは善霊と悪霊が働いているような気にさせることから、善霊と悪霊と呼んだ。九鬼は例として無敵艦隊山田艦長と巡洋艇五十鈴が写っている写真から、山田と五十鈴が結合し映画女優山田五十鈴と同名な存在が現れたのだが、これは人々に強いインパクトを与えた。何が必然的なもののように感じられるのか、実は「目的なき目的」の強調の結果、偶然は偶然でないような相を呈し、自己否定の志向的構造を取るようになる。武者小路実篤の「その妹」と言う小説にも「あの日あなたの処へ行ったのは偶然とは思えない気がします」という文章があるが、「目的なき-目的」の後者の強調のあまり目的なきが影響力を失った例である。
第三章九 偶然性の時間性格 簡単に表記してしまうと時間の過去から未来までの流れと、過去に必然性、現在に偶然性、未来に可能性があると考えている。ヘーゲルも偶然とは現実が同時に単に可能として規定されているものであると述べている。
第三章十二 偶然と運命 偶然が人間の実存性にとって核心的全人格的意味を持つとき偶然は運命と呼ばれるのである。ここに「必然-偶然者」の構造がある。国木田独歩の小説にもあるように運命と偶然は同一のものであることが前提となる。これはヘラクレイトスやショーペンハウエル、カントなどによってもすでに証明されている。
第三章十三 形而上的絶対者 あまり長すぎないよう自重して(笑)簡潔に記すと偶然性と必然性がクロスし、その交点が運命の通る道である。偶然は無に近い存在であり、当てにならない。現実が無に直面し現実を危うくするとき我々は「何故?」の問いを発するのである。
私も完全には理解していませんが、じっくりと腰を据えて読むのに、人生を考えるという観点からも良い書物だと思います。
2014年10月6日に日本でレビュー済み
選言的判断の限界が標準的な論理の限界である。偶然性ないし必然性のアイデンティフィケーションは、選言的判断を基礎としない。然るに、選言的判断を基礎とした本書の論述は、破綻している。
九鬼周造に先行する学術的研究としては、カントの研究があり、記号論理学成立以前であるという憂いはあるものの九鬼周造同様、期待される成果を生んでいない。本書の九鬼周造の研究成果は、本質的にはカントの研究の範囲内であり、進展が見られない。ただし、当時の時代状況を考慮すれば、自身を俎上に載せたジャーナリスティックな情緒の記録としては評価できる。
偶然性ないし必然性に対する予断に反して、偶然性ないし必然性は標準的な論理から逸脱している。これに着眼して、ジャーナリスティックな情緒の記録を残したとすれば、九鬼周造はカントに代表される近代ヨーロッパの学術的な基礎から、大きく逸れたものではなかったと見ることも可能だろう。
偶然性の問題は本質的には、選言的判断の限界の問題である。
九鬼周造に先行する学術的研究としては、カントの研究があり、記号論理学成立以前であるという憂いはあるものの九鬼周造同様、期待される成果を生んでいない。本書の九鬼周造の研究成果は、本質的にはカントの研究の範囲内であり、進展が見られない。ただし、当時の時代状況を考慮すれば、自身を俎上に載せたジャーナリスティックな情緒の記録としては評価できる。
偶然性ないし必然性に対する予断に反して、偶然性ないし必然性は標準的な論理から逸脱している。これに着眼して、ジャーナリスティックな情緒の記録を残したとすれば、九鬼周造はカントに代表される近代ヨーロッパの学術的な基礎から、大きく逸れたものではなかったと見ることも可能だろう。
偶然性の問題は本質的には、選言的判断の限界の問題である。