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狂気について 他二十二篇(渡辺一夫評論選) (岩波文庫 青 188-2) 文庫 – 1993/10/18
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暴力に対する嫌悪,人間の機械化に対する嫌悪,そして人間に対する愛を心に抱いて生きること――ユマニスムを生涯の思想とした著者(一九〇一―七五)の静かな祈願のことばは,読む者の胸に深い感動を呼び覚ます.真の知性の眼をもって人間性の根源を洞察するエッセイ・評論二十三篇を収録.(解題 清水 徹/解説 大江健三郎)
- 本の長さ336ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1993/10/18
- 寸法10.5 x 1.4 x 14.8 cm
- ISBN-10400331882X
- ISBN-13978-4003318829
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1993/10/18)
- 発売日 : 1993/10/18
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 336ページ
- ISBN-10 : 400331882X
- ISBN-13 : 978-4003318829
- 寸法 : 10.5 x 1.4 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 28,113位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 163位岩波文庫
- - 606位近現代日本のエッセー・随筆
- - 1,154位評論・文学研究 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年11月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」
この章だけでも読んでいただきたい。
いつの時代もそうかもしれないが、相手を敵と認定したら一切の情けなく叩くという風潮がある。
現代は物理的な暴力は少なくなってきたかもしれないが、ネット空間の言葉の暴力はひどいものだ。自分を自制すること、相手を思いやることなど全く見られない。
この本には、不寛容と対峙したとき基本的には説得と自己反省しかないが、暴力をやむなく用いる際は「涙をふるって」最低限の暴力を用いる、と書かれている。
この「涙をふるって」、「涙を飲んで」という精神の緊張を持っている人がどれだけいるのか。
人間が思いやりを失い、機械のようになってしまっている今日このごろだ。
この章だけでも読んでいただきたい。
いつの時代もそうかもしれないが、相手を敵と認定したら一切の情けなく叩くという風潮がある。
現代は物理的な暴力は少なくなってきたかもしれないが、ネット空間の言葉の暴力はひどいものだ。自分を自制すること、相手を思いやることなど全く見られない。
この本には、不寛容と対峙したとき基本的には説得と自己反省しかないが、暴力をやむなく用いる際は「涙をふるって」最低限の暴力を用いる、と書かれている。
この「涙をふるって」、「涙を飲んで」という精神の緊張を持っている人がどれだけいるのか。
人間が思いやりを失い、機械のようになってしまっている今日このごろだ。
2022年7月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本のクリーニングが雑。自分で少しやったら簡単に綺麗になりました。本に対する愛情が全く感じられず、この店は信頼できません。
2012年4月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
渡辺一夫先生の本分が、16世紀フランス(文学)研究、とりわけ、フランソワ・ラブレー研究にあることはよく知られたところですが、先生はまた、軽妙な筆致の、それでいて深い内容を湛えたエッセイを数多く遺されており、僕も、どちらかといえば、そのようなエッセイをとおして、先生の文章のいわば「ファン」となった一人です。
本書『狂気について』には、膨大な数にのぼる(『著作集』10,11,12巻には、合計約300ものエッセイが収められています)先生のエッセイのなかから、精選された23本が収録されています。
それらは、
一:ラブレー関係(5本)、
二:フランスルネッサンス関係(3本)、
三:戦前、戦中、戦後に書かれた時局批評など(8本)、
四:先生がこよなく愛された「本」をめぐるエッセイ(4本)、
五:晩年、渡仏を期にさらに興味を深められたフランスルネッサンスに関する簡潔な考証(2本)、
六:先生が最晩年に書かれた回想(1本)、
から構成されており、様々な側面から、渡辺先生のものの見方、考え方が分かるように構成されていると思います。
個人的には、三の冒頭に置かれた「トーマス・マン『五つの証言』に寄せて」という文章が、特に素晴らしいと思っています(著作集には「一九四六年の跋」として収録)。僕は、これほど美しく、かつ、力強い日本語は他になかなか見当たらないのでないか、とすら思っているほど、内容はもとより、この手紙の形式を借りて表現された文章・文体そのものを偏愛しています。一流の外国文学者であるためには、練達の日本語の使い手でもなければならない、ということを何度でも再認識させられます。
他には、先生の生涯の思想たる<ユマニスム>の結晶ともいえるであろう「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」や、先生の本への愛情が溢れた「本を読みながら」「買書地獄」、あるいは、式亭三馬の作品の読解をとおして自己の立ち位置を見つめなおした「戯作者の精神」など、どこから読んでも、何かを考えさせられ、読む人の<心の栄養>となってくれるであろう名文がずらりと並んでいます。
ぜひ、一度手にとって読んでみていただきたい素晴らしい本です。
本書『狂気について』には、膨大な数にのぼる(『著作集』10,11,12巻には、合計約300ものエッセイが収められています)先生のエッセイのなかから、精選された23本が収録されています。
それらは、
一:ラブレー関係(5本)、
二:フランスルネッサンス関係(3本)、
三:戦前、戦中、戦後に書かれた時局批評など(8本)、
四:先生がこよなく愛された「本」をめぐるエッセイ(4本)、
五:晩年、渡仏を期にさらに興味を深められたフランスルネッサンスに関する簡潔な考証(2本)、
六:先生が最晩年に書かれた回想(1本)、
から構成されており、様々な側面から、渡辺先生のものの見方、考え方が分かるように構成されていると思います。
個人的には、三の冒頭に置かれた「トーマス・マン『五つの証言』に寄せて」という文章が、特に素晴らしいと思っています(著作集には「一九四六年の跋」として収録)。僕は、これほど美しく、かつ、力強い日本語は他になかなか見当たらないのでないか、とすら思っているほど、内容はもとより、この手紙の形式を借りて表現された文章・文体そのものを偏愛しています。一流の外国文学者であるためには、練達の日本語の使い手でもなければならない、ということを何度でも再認識させられます。
他には、先生の生涯の思想たる<ユマニスム>の結晶ともいえるであろう「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」や、先生の本への愛情が溢れた「本を読みながら」「買書地獄」、あるいは、式亭三馬の作品の読解をとおして自己の立ち位置を見つめなおした「戯作者の精神」など、どこから読んでも、何かを考えさせられ、読む人の<心の栄養>となってくれるであろう名文がずらりと並んでいます。
ぜひ、一度手にとって読んでみていただきたい素晴らしい本です。
2015年12月29日に日本でレビュー済み
渡辺一夫は大江健三郎の師であり、ラブレーの翻訳・研究で知られるフランス文学の泰斗である。ユマニストの立場から暴力を嫌悪し、寛容の精神を説いたが、戦後民主主義の象徴である平和主義の旗色悪い昨今、次第に顧みられることの少なくなった思想家ではある。渡辺のユマニスムは確かに「甘っちょろい」。この点から渡辺を毛嫌いする保守派知識人(例えば同じ東大名誉教授でルネサンス文学研究者の平川祐弘)は多く、彼らの批判もあながち的外れとは言えない。だが、渡辺の思想が「甘っちょろい」ことは渡辺自身が自覚していたし、社会主義陣営の崩壊という歴史的事実の高みに立って、その現実認識の甘さを断罪してみてもあまり生産的ではないだろう。
渡辺のユマニスムにはその追蹤者にはないある種の強靭さとしなやかさがある。一つには渡辺のユマニスムの「甘さ」そのもの、あるいは「甘さ」の自覚である。渡辺は王侯貴族に取り入って無心を繰り返すラブレーの「いやしさ」を肯定し、生き延びるために弟子を見捨てたエラスムスを「あまりに人間的過ぎる思想をその肉体に宿したために、その行為は非人間的になった」と擁護する。ここに戦争に徹底的に抗することができなかった戦中世代の屈折を読み取ることもできようが、自らの弱さを自覚しない偽善的ヒューマニズムだけは免れている。
今一つは、より重要な点だが、オートマティズムへの警戒である。人間が自ら生み出した思想や制度の機械になり下がることを渡辺は忌避したが、そうした忌避自体がともすれば硬直的となり、自らの反対物へと転化する危険性を渡辺は見通していた。渡辺に学んだ戦後民主主義が渡辺から学ばなかったのは、この懐疑をも懐疑する精神であり、これこそユマニスムの真髄であると思う。この点が最もよく表れて味わい深いのが「戯作者の精神」というエッセイだ。スノビズムへの風刺がもう一つのスノビズムに堕すことを戒めている。
モンテーニュを読めば分かるように(『 エセー〈3〉社会と世界 (中公クラシックス) 』)、ユマニスム自体は右でも左でもない。評者は大江健三郎の政治的主張にひとかけらも共感しないが、人間の内奥にうごめく狂気を直視し、それを鎮め、希望をつなぐために破壊と創造を繰り返す彼の文学的営為には敬意を表するし、そこに師渡辺の精神は受け継がれているように思う。本書と合わせ『 フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫) 』の一読を勧めたい。
渡辺のユマニスムにはその追蹤者にはないある種の強靭さとしなやかさがある。一つには渡辺のユマニスムの「甘さ」そのもの、あるいは「甘さ」の自覚である。渡辺は王侯貴族に取り入って無心を繰り返すラブレーの「いやしさ」を肯定し、生き延びるために弟子を見捨てたエラスムスを「あまりに人間的過ぎる思想をその肉体に宿したために、その行為は非人間的になった」と擁護する。ここに戦争に徹底的に抗することができなかった戦中世代の屈折を読み取ることもできようが、自らの弱さを自覚しない偽善的ヒューマニズムだけは免れている。
今一つは、より重要な点だが、オートマティズムへの警戒である。人間が自ら生み出した思想や制度の機械になり下がることを渡辺は忌避したが、そうした忌避自体がともすれば硬直的となり、自らの反対物へと転化する危険性を渡辺は見通していた。渡辺に学んだ戦後民主主義が渡辺から学ばなかったのは、この懐疑をも懐疑する精神であり、これこそユマニスムの真髄であると思う。この点が最もよく表れて味わい深いのが「戯作者の精神」というエッセイだ。スノビズムへの風刺がもう一つのスノビズムに堕すことを戒めている。
モンテーニュを読めば分かるように(『 エセー〈3〉社会と世界 (中公クラシックス) 』)、ユマニスム自体は右でも左でもない。評者は大江健三郎の政治的主張にひとかけらも共感しないが、人間の内奥にうごめく狂気を直視し、それを鎮め、希望をつなぐために破壊と創造を繰り返す彼の文学的営為には敬意を表するし、そこに師渡辺の精神は受け継がれているように思う。本書と合わせ『 フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫) 』の一読を勧めたい。
2009年2月1日に日本でレビュー済み
浪人時代に読んで、自分の人生が変わるくらいの影響を与えられた本です。
ユマニズムーという耳慣れない言葉を理解したとき、絶望ばかりの人生に一筋の希望を見た気がしました。
後々読んだ大江健三郎、辻邦夫、清水眞砂子、加藤周一・・・といった、やはり自分に影響を与えた方々の心の師匠だったことを知り、その都度この本のことを思い出します。
再び希望が見えなくなりそうな時代だからこそ、是非再び読み直されて欲しい本です。
ユマニズムーという耳慣れない言葉を理解したとき、絶望ばかりの人生に一筋の希望を見た気がしました。
後々読んだ大江健三郎、辻邦夫、清水眞砂子、加藤周一・・・といった、やはり自分に影響を与えた方々の心の師匠だったことを知り、その都度この本のことを思い出します。
再び希望が見えなくなりそうな時代だからこそ、是非再び読み直されて欲しい本です。
2010年11月23日に日本でレビュー済み
「ユマニストのいやしさ」をはじめ、フランスルネッサンス人たちに対する論考は、そのまま自身の戦争体験の批判と同時に弁明になっているのだが、「俺は馬鹿だから反省しない」と居直ったほぼ同年代の小林秀雄と比較したときに深く考えさせられるものがある。
2011年4月9日に日本でレビュー済み
フランス・ルネサンス研究やラブレーの翻訳で知られる仏文学者 渡辺一夫の随筆集。暴力・狂気(非理性)・不寛容を静かに峻拒し続けたユマニスト(人文主義者、ヒューマニスト)。渡辺は理性的であることの良質な部分を決して手放そうとはしなかった。彼は、宗教戦争が酸鼻を極めた16世紀フランスに於いて穏当な理性と健全な懐疑主義と寛容とを保持したラブレー、エラスムス、モンテーニュを評価する。
モンテーニュ『エセー』からの次のような引用は、現代日本に於ける排他的愛国心の跳梁を思うにつけ、実に印象的である。"私は一切の人間を同胞と考え、・・・民族的な関係をば、全世界的な一般的な関係の後に置く。・・・我々の獲得したこの純粋な友情は、共通な風土や血液によって結合された友愛に普通立ち勝っている。自然は、我々を自由に、また束縛せずに、この世に置いてくれた。しかるに我々はペルシヤの王たちのように、我々自身をある狭い地域に跼蹐せしめているのだ。このペルシヤ王たちはコアスペス河の水より他に水を飲まないという誓いを立てて、愚かにも他の一切の水を用いる権利を自ら抛棄し、従って彼らから見れば、他の世界はすべて涸渇しているわけであった。"
「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」
平和時の人間に物質主義的堕落を見て戦争を精神主義的に賛美しようとする議論に対して、モーパッサンを引きながら、戦争を起こして利益を得ようとすることこそが物質主義であるとする箇所は、極めて痛快であり、昨今の幼稚な反平和的言辞に対する鋭い批判である。物質主義が戦争を求め、不寛容が戦争を支持する。
「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」
政治・経済・法律・社会・宗教・学問 etc. の諸制度が物象化して官僚制に堕するとき、人間は制度の手段として巨大機構の歯車と化してしまう。諸制度を常にヒューマナイズし続けることが必要だ。つまり、人間性の観点から批判し続けること。
「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」
異物排除の欲望に覆われた社会は、次の文章を読んで寛容について再考すべきではないか。"秩序は守られねばならず、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当る人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果して永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々の中には、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。"
不寛容が溢れる現代に於いてこそ貴重な、懐の深い理性に包まれた評論集である。
モンテーニュ『エセー』からの次のような引用は、現代日本に於ける排他的愛国心の跳梁を思うにつけ、実に印象的である。"私は一切の人間を同胞と考え、・・・民族的な関係をば、全世界的な一般的な関係の後に置く。・・・我々の獲得したこの純粋な友情は、共通な風土や血液によって結合された友愛に普通立ち勝っている。自然は、我々を自由に、また束縛せずに、この世に置いてくれた。しかるに我々はペルシヤの王たちのように、我々自身をある狭い地域に跼蹐せしめているのだ。このペルシヤ王たちはコアスペス河の水より他に水を飲まないという誓いを立てて、愚かにも他の一切の水を用いる権利を自ら抛棄し、従って彼らから見れば、他の世界はすべて涸渇しているわけであった。"
「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」
平和時の人間に物質主義的堕落を見て戦争を精神主義的に賛美しようとする議論に対して、モーパッサンを引きながら、戦争を起こして利益を得ようとすることこそが物質主義であるとする箇所は、極めて痛快であり、昨今の幼稚な反平和的言辞に対する鋭い批判である。物質主義が戦争を求め、不寛容が戦争を支持する。
「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」
政治・経済・法律・社会・宗教・学問 etc. の諸制度が物象化して官僚制に堕するとき、人間は制度の手段として巨大機構の歯車と化してしまう。諸制度を常にヒューマナイズし続けることが必要だ。つまり、人間性の観点から批判し続けること。
「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」
異物排除の欲望に覆われた社会は、次の文章を読んで寛容について再考すべきではないか。"秩序は守られねばならず、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当る人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果して永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々の中には、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。"
不寛容が溢れる現代に於いてこそ貴重な、懐の深い理性に包まれた評論集である。