原著は1937年。著者は溥儀の家庭教師だったレジナルド・F・ジョンストン(1874-1938)。原題は「Twilight in the forbidden city」である。本書は、1912年の共和国成立から、溥儀が馮玉祥によって紫禁城を追われる1924年頃までを対象として描く。
曰く・・・
孫文らの蜂起により中華民国が成立。しかし、共和主義勢力は弱体であり、北方の保守勢力との妥協を余儀なくされ、孫文は大総統の地位を袁世凱に譲る。袁世凱は帝政を目指すが失敗し、失意のうちに病没。共和派は広東に政府を樹立し、北京の名目上の中華民国政府と対立する。地方長官や軍人たちは自立を図り、諸外国の思惑も結びついて軍閥が抗争する時代となる。1917年に張勲が日本の指示のもとに帝政復活を企てるが失敗。1919年に廃帝溥儀(13歳)の家庭教師としてジョンストンは紫禁城に入る。
徐世昌総統は、溥儀少年に西洋風の教育を受ける機会を与えるべきと考える。共和制が人民の意に適う安定した政府を樹立することに失敗したあかつきには、立憲君主制の新しい中国を建設する上で皇帝にはそれだけの能力を蓄えておいて欲しい、と考えたのだろう。
ジョンストンが出会った頃の溥儀は快活で、理解力と人間味がある。紫禁城の外に出たことはない。毎日の学問所への往復さえ儀式化されている。
満州族は中国に入る前からシャーマニズムに親しんでおり、宮廷生活の片隅には巫女や霊媒たちがいた。
北京はひとつの巨大な寺院である。その奥深い祭壇すなわち紫禁城におわす神、それが皇帝である(アンリ・ボレール)。
清朝を弱めた元凶は内務府である。宦官は内務府の一部にすぎず、本来は権力もなく、危険でもない。宦官は皇帝の召使いというよりは内務府の使用人である。
親王たちは広大な領地を私有しているが、彼らは領地の広さもその所在すらも知らない。すべて執事の手に委ねられている。親王たちは、執事たちに盗まれているのではないかと疑っているが手の施しようがないと匙を投げている。執事を解雇すると、自分が負債の泥沼に落ちることがわかっている。親王は、執事が、彼の要求に応じて必要な現金を用意し、債権者に対するクッションとして振舞ってくれれば満足している。
清室にとっての執事みたいなものが内務府の役人。数学についての知識がない。その一方で算盤を使いこなす人たちもいる。しかし、これは商業に従事している人以外にはめったに習得されない技術である。
前帝の未亡人の一人が亡くなると、宦官たちは泣きさけぶ。といいつつ、彼女に仕えていた宦官たちは遺品の宝石や骨董品を掠奪している。
溥儀は、辮髪を自ら切る。皇族たちはとっくに辮髪を切ってしまっているのに、皇帝だけは彼らの伝統に敬意を示すために辮髪をぶらさげていなければならない、と言い聞かせていた。
満州の一部の地域に住む人たちは、辮髪は自分たちが中国人に強制したのではなく、自分たちの祖先が中国の習慣をまねたのだと思い込んでいた。1911年に革命が勃発すると、彼らは中国人の反逆に対する怒りのしるしとして自分たちの辮髪を切り捨てるという妙なこともしている。
少なくとも1922年までは、張作霖は、王政復古を目指していた。しかし、張作霖はそのうち、皇帝に対してはともかく、満州朝廷とは関係悪化する。
1922年に徐世昌は突然民国大総統を辞任して北京を去る。事実上の逃亡。彼は政治家というより学者肌の君子だった。もし、時に利あり、道義がゆるすなら、彼はよろこんで玉座のもとにひざまずいたのではないか。徐は、その後、天津の英国租界で隠遁した。
宮殿の美術品は宮廷費用の赤字を埋めるため、内務府の手によってそのときどきで売却されていた。
皇帝溥儀は、紫禁城の資産調査を命じる。その後、出火があり、溥儀は宦官を追放する。
溥儀は紫禁城脱出を計画するが失敗。溥儀ではなく、その周りにいた親王が首謀者らしい。皇帝を張作霖に渡そうとしたのではないか。
関東大震災のとき溥儀は心を痛め、相当量の美術品を日本公使に送ってこれを売却して義捐金に当ててもらおうとした。
馮玉祥がクーデターを起こす。馮玉祥は紫禁城を包囲する。満州貴族はパニックになり、皇帝夫妻は殺されたというデマも流れた。馮玉祥はやがて惨敗し、モスクワへ行き、レーニンの肖像を描いて過ごしたという。

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紫禁城の黄昏 (岩波文庫 青 448-1) 文庫 – 1989/2/16
- 本の長さ507ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1989/2/16
- ISBN-104003344812
- ISBN-13978-4003344811
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1989/2/16)
- 発売日 : 1989/2/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 507ページ
- ISBN-10 : 4003344812
- ISBN-13 : 978-4003344811
- Amazon 売れ筋ランキング: - 202,999位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 150位中国史
- - 491位東洋史
- - 1,212位その他の歴史関連書籍
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年10月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
東京裁判の資料として採用されなかったが、清朝の末期の状態を知るのは良い本との情報により購入しましたが、
本が物理的に相当古い上に、冒頭から著書が清朝の古い伝統に圧倒されている印象があって、文学的な価値は別
として、歴史資料として価値があるかについては疑問を感じました。著者の主観的な思いがあり過ぎる感じです。
本が物理的に相当古い上に、冒頭から著書が清朝の古い伝統に圧倒されている印象があって、文学的な価値は別
として、歴史資料として価値があるかについては疑問を感じました。著者の主観的な思いがあり過ぎる感じです。
2019年8月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ラストエンペラーの悲哀と逞しさを感じました。映画ラストエンペラーをまた、違った視点で見ることができます。
2015年12月16日に日本でレビュー済み
マンジュ族の溥儀が漢族の領土では無い故郷(マンジュ)に帰り、マンジュ国皇帝になったという至極当前の話。
祥伝社黄金文庫版のレビュー 完訳 紫禁城の黄昏(上) (祥伝社黄金文庫) の際つけたタイトルをそのまま持ってきましたが、本当にこういうことです。
「中国の一部である東北地方を日本が侵略した」「日本は溥儀を利用し皇帝にして傀儡国家を作った」
という中華人民共和国と日本国内の御用学者が流布している喧伝が、いかにデタラメなのかが解る非常に有用な書です。
是非多くの日本人に「紫禁城の黄昏」を読んで欲しいと思いますが、本書の岩波訳は全くお薦めできません。
中華人民共和国の建前に反しないよう、読者に知られると都合の悪い重要部分を改竄捏造し、事実を意図的に隠蔽歪曲しているからです。
訳者である入江春名両氏が、正に「中華人民共和国の御用学者」の典型だったのです。
そもそも権力者におもねり、卑劣な歴史捏造行為をしてる時点で学者として失格だと思いますが。
・何を改竄捏造したのか
第一章から第十章までを全削除、第十六章を全削除、序章の一部(康有為に関して述べた部分)を削除、原著者注も訳さず全削除。
読者をミスリードさせるために意図的な誤訳を施す。
岩波訳「皇帝がだれかに庇護を求めるとすれば、世界中で一番最後に頼る人物が蒋介石と張学良であることは、あらためていうまでもない。」(p437)
原文直訳「皇帝が庇護を求める場合、誰に頼るとしても、世界中でこの人たちだけには絶対頼りたくないのが蒋介石と張学良だった。」
祥伝社訳「言うまでもないことだが、どう転んでも、皇帝は蒋介石や張学良のような連中に避難所を求めるはずがない。」
皇帝とは溥儀のことです。岩波訳は原文直訳・祥伝社訳と比べると正反対の意味になっていることが解ります。
・第一章から第十章の内容
1894年の日清戦争敗北から、1917年の張勲による溥儀復辟事件まで、溥儀の家庭教師にして本書の著者であるジョンストンと出会うまでの内容。
なんですが、まず大事なのが、著者が「シナ」と「中国」を根拠をあげて使い分けていることと言えるでしょう。
シナとは「清国の領土の最大部分」。中国とは中央の王国、もしくは中華民国の略称で王朝名ではない。
完訳版を読み進めていけば、マンジュ族がハン族(漢族)の領土を征服して大帝国が出来上がったのであって、
元々マンジュ(満洲)がシナの領土の一部であったということでは無いと理解できるでしょう。
何故日清戦争敗北後からなのかというと、日清戦争の敗北は、清の社会と外交制度の根幹を揺るがす大事件だったからです。
1840年のアヘン戦争、1857年の第二次アヘン戦争、そして太平天国の乱などの国内の叛乱など、英国に限らず外夷との戦いで
負けることはあっても、伝統的制度を改革しようなどという運動は起こりませんでした。
しかし日清戦争が同国に与えた影響は甚大でした。支配体制の改革を目指す変法派の活動が活発になり、その中心人物が康有為です。
著者が、戊戌政変を第一章にしたことは見過ごしてはいけないでしょう。
著者は康有為ら変法派の態度に共感していて、第五章では明治天皇を「同時代の傑出した日本人」と称えています。
第四章では、1900年頃の満洲は「地名以外は完全にロシア領」と化していた。日本が日露戦争で勝利して、ロシアから勝ち取った
権益や特権は保持したものの、満洲の東三省は満洲王朝に返還したという。満洲王朝の政府を「シナ政府」と表現するのは間違いだという。
岩波と入江春名両氏が削除した理由がはっきりと解ります。この「シナ」と「中国」の使い分けが都合が悪かった。
中華人民共和国は、日本人が「シナ」と呼称することを禁じて、「中国」と呼べと一方的に主張しています。
しかしこれをごっちゃにすると、清国時代も「中国史」という括りに入れられ、
あたかも中華人民共和国の歴史の一部であるかの様相を呈します。清は既に滅んだ王朝なのだから中華人民共和国との間に歴史の関連性などあるはずもない。当然領土の連続性も無く、マンジュ(満洲)はマンジュ族の土地という至極普通の結論に落ち着く。「シナ」と「中国」を使い分けると中国領である満洲を日本が侵略したなどという戯言が成立しなってしまうのです。
・第十六章の内容
かなり重要な章だと言えます。第一章から第十章の内容を受けて、マンジュ族の溥儀が先祖の地マンジュに戻る可能性について、
当時どのような報道や記録があったのかの、第一級資料です。
みなが中華民国にうんざりしていた。日本の保護下で満洲独立のシナリオ。などの新聞報道が目白押しです。
日本政府が一切関与してないうちに満洲独立の気運は相当盛り上がっていたようです。
以下は祥伝社黄金文庫版のレビューより転載
ジョンストン自身の見識はこうです。
「遅かれ早かれ、日本が満洲の地で二度も戦争をして獲得した莫大な権益を、シナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が
必ず訪れると確信する者は大勢いた。日本と中華民国(特に満洲で共和国の代表と主張する者たち)が抗争すれば、自分たちが待ち望む好機が
訪れるだろうと君主制主義者は考えていた。」
正に現在の日中間の歴史の歪みを言い当て、なかんずく中華人民共和国側が日本の満洲政策を侵略と批判することの欺瞞をあぶり出してる文章と言えます。
・「満洲」と「満州」は全く違う言葉 祥伝社黄金文庫版のレビューより転載
これは本書の内容とは関係ありませんが、読者の中に「満洲」と「満州」の区別と、その前提が間違ってるといけないので予備知識として書いておきたい。
東洋史学者の宮脇淳子氏によると、
ヌルハチの時代「マンジュ・グルン」と呼ばれていた国名の「マンジュ」という音を漢字でうつした言葉が「満洲」。「グルン」は国。
「マンジュ・グルン」で満洲国。1932年にマンジュ族の地に成立した国名が満洲国になったのは、実に理にかなってるというかそのままの理由です。
ところがこれを「満州」と呼称すると途端にある誤解が起こります。「満州」とは「満人の土地or満ちている国」という意味で「マンジュ」とは意味が全く違います。それこそ漢代の昔から、荊州益州涼州といった行政区分の中に「満州」というのがあって、
遥か昔から「満州」という地名で呼ばれていた。それで「満州」は昔から「中国」の領土だったのか、という誤解です。
いや今誤解が起こらなくても、いつかは起こるかもしれない。少なくとも起こる可能性はある。
なまじ満洲と漢字で書くから、マンジュ族が漢族の一部族であるかの印象を抱かせる原因になるので、
日本では本来ならウイグル・チベット・モンゴルに倣い、カタカナでマンジュと呼称するべきなんでしょうが。
そういう訳で「満洲」とは「マンジュ」という固有名詞の音訳であるから、「満州」と呼称するのは歴史的に見ても正確ではなく、
あらぬ誤解を抱かせるので歴史用語としても不適切であり使用は避けた方が良い、というものです。
私は宮脇氏の学説の全てに賛同というわけではありませんが、これに関しては、なるほど区別しないとまずいなと思いました。
岩波訳では一環して「満州」「満州国」です。当時(1989年)の慣行に従ったそうです。しかしこの点は当然岩波書店だけの問題ではありません。
他の書籍でも「満州」「満州国」となっているのを目にします。
・日本人にとって満洲国とは何だったのか
1919年パリ講和会議で日本が「人種平等案」を提出、しかし米英の猛反対で却下された国際連盟という組織がありました。
それは満洲国が掲げた他民族共和という理想からかけ離れた、有色人種を差別をする欧州の小国が自国の権利を主張する、
理想も力も無いくだらない組織でした。
「日本は国際連盟を脱退して世界から孤立した」というのは戦後の詐欺史観。当時の世界とは白人世界のことで、
国際協調とは欧米の白人の価値観、人種偏見を前提とした体制を維持すること意味しました。
脱退はしましたが国際社会から孤立したわけではありませんし、むしろ人種差別を肯定する組織など脱退して正解ですね。
「日本は世界で初めて人種平等を提唱した国」。このことを念頭に置いて近現代史を俯瞰すれば、満洲国に対する見方が変わると思います。
人種差別が当たり前の時代、日本から分離独立してでも、人種差別の無い理想郷を作りたいと願う日本人達がいた。
日本国籍を捨ててでも、王道楽土の国を建設し欺瞞に満ちた世界に見せ付けてやろうと夢見る日本人達がいた。
そんな理想に共感したマンジュ族・モンゴル族・ハン族・チョソン族・ヤマト族が一致団結して「満洲人」となりました。
そして「自分の自由意志で」天津から満洲へと渡り、北に向かう途中地方官吏やその他の役人が敬意を表するのを許したため、
たびたび停車することなった特別列車に乗った溥儀が到着し、
満洲の地に差別の無い王道楽土の見本国家「満洲国」が成立しました。
資源豊富だった満洲国では、日本からの投資により重工業を徹底して育成され、建国13年半後には重工業の中心地となっていました。
戦後毛沢東が国民党に勝てたのは、豊かな満洲国をスターリンから掠め取ったからで、
毛沢東本人も「仮に全ての根拠地を失っても、東北さえあれば社会主義革命を成功させることが出来る」と語りました。
中華人民共和国とは全く関係無い土地に、差別の無い理想郷を作ろうと夢見た日本人達がいた。
近代化と共に人種差別とたった一人で戦い続けた日本の、人種差別を断ち切る最後の手段にして希望。それが満洲国の建国でした。
日本人は動物ではない。有色人種は獣ではない。有色人種の中で当時、どの国がそのことを示す力を持っていたか。
アジア・アフリカの中で、人種差別に打ち克とうとリーダッシップを取れるほど近代化された国が日本以外にあったのか。
事実を調べていけば「中国の一部である東北地方を日本が侵略した」などのプロパガンダは全く鼻で笑える戯言です。
袁世凱も張作霖も呉佩孚も張学良も蒋介石も毛沢東も、みな中華世界の天下を取ることだけしか頭に無く、それ以外はどうでもいいと考えていました。
日本人は中国人同士がいがみあっている間に人種差別と戦っていたんだ、と胸を張って答えればいい。
満洲国に関して日本が卑屈にならなきゃいけない理由など一つもありません。
・岩波訳をどう評価するか
私は基本的に誤植の類は気にしないのですが、外国勢力におもねって読者にペテンをかけるが如き行為となると気にもなります。
そしてこれは岩波文庫設立の理念から著しく外れた卑劣行為として見て取れます。
即ち、本行為は活仏ボグド・ゲゲーン聖人様のレビューの通り
「かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった」
という宣言に明らかに反し、岩波自身が民を愚昧ならしめるために学芸を最も狭き堂宇に隠蔽しているし、
特定の政治勢力におもねり、原著者の歴史観の前面を意図的に排除・誤訳したりするが如きはNowhereman様のレビューの通り
「千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか」という宣言に反している。
つまり読者の迷惑より先に、著者ジョンストンに対する最大の侮辱行為であり、かつ古典作品に対する冒涜行為であると。
普段から岩波文庫を愛読している身としては、腹立たしいし情けないし、遅きに失してますが完全訳で汚名返上していただきたいものですが、
それも叶わぬ願いとなるでしょう。
岩波としては「シナと中国の区別」などタブーだし、歴史観も大陸に進出する日本と、それに対する中国民族主義という
単純な二次元的構図で中華人民共和国にベッタリだし、完訳を読めばそんな単純な図式になどならないと解るはずです。
そもそもこの行為を問題としてとらえていない可能性もある。公式に何かアナウンスがあったわけでもないようなので。
※2015年12月20日追記 通州虐殺事件の歴史を抹殺
昭和12(1937)年7月29日、北京東方の通州で、シナ人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件が起こりました。
その殺され方は酸鼻を極めた残虐なもので、およそ人間の仕業とは思えないものでした。
この虐殺事件ですが、祥伝社訳の監修を務めた渡部昇一氏によると、
岩波書店の『近代日本総合年表』(三版・1991年)には7月28日まであって、事件のあった29日から8月9日までは空白だそうです。
この事件一つ取っても「悪の日本と正義の中国」という構図が崩壊するわけですが、載っていないとはどういうことか。
岩波としてもこの虐殺事件が日本人に知れ渡るのが都合が悪い?その為に隠蔽までするのか?
南京大虐殺という虚構は、通州事件を相対化する為に、通州事件を参考に作り出されたのではないか、
それ故日本人に隠蔽するために削除したのではないかという想像はさておき、
品性下劣な手口を知りました。「歴史の削除」は岩波のお家芸のようです。
祥伝社黄金文庫版のレビュー 完訳 紫禁城の黄昏(上) (祥伝社黄金文庫) の際つけたタイトルをそのまま持ってきましたが、本当にこういうことです。
「中国の一部である東北地方を日本が侵略した」「日本は溥儀を利用し皇帝にして傀儡国家を作った」
という中華人民共和国と日本国内の御用学者が流布している喧伝が、いかにデタラメなのかが解る非常に有用な書です。
是非多くの日本人に「紫禁城の黄昏」を読んで欲しいと思いますが、本書の岩波訳は全くお薦めできません。
中華人民共和国の建前に反しないよう、読者に知られると都合の悪い重要部分を改竄捏造し、事実を意図的に隠蔽歪曲しているからです。
訳者である入江春名両氏が、正に「中華人民共和国の御用学者」の典型だったのです。
そもそも権力者におもねり、卑劣な歴史捏造行為をしてる時点で学者として失格だと思いますが。
・何を改竄捏造したのか
第一章から第十章までを全削除、第十六章を全削除、序章の一部(康有為に関して述べた部分)を削除、原著者注も訳さず全削除。
読者をミスリードさせるために意図的な誤訳を施す。
岩波訳「皇帝がだれかに庇護を求めるとすれば、世界中で一番最後に頼る人物が蒋介石と張学良であることは、あらためていうまでもない。」(p437)
原文直訳「皇帝が庇護を求める場合、誰に頼るとしても、世界中でこの人たちだけには絶対頼りたくないのが蒋介石と張学良だった。」
祥伝社訳「言うまでもないことだが、どう転んでも、皇帝は蒋介石や張学良のような連中に避難所を求めるはずがない。」
皇帝とは溥儀のことです。岩波訳は原文直訳・祥伝社訳と比べると正反対の意味になっていることが解ります。
・第一章から第十章の内容
1894年の日清戦争敗北から、1917年の張勲による溥儀復辟事件まで、溥儀の家庭教師にして本書の著者であるジョンストンと出会うまでの内容。
なんですが、まず大事なのが、著者が「シナ」と「中国」を根拠をあげて使い分けていることと言えるでしょう。
シナとは「清国の領土の最大部分」。中国とは中央の王国、もしくは中華民国の略称で王朝名ではない。
完訳版を読み進めていけば、マンジュ族がハン族(漢族)の領土を征服して大帝国が出来上がったのであって、
元々マンジュ(満洲)がシナの領土の一部であったということでは無いと理解できるでしょう。
何故日清戦争敗北後からなのかというと、日清戦争の敗北は、清の社会と外交制度の根幹を揺るがす大事件だったからです。
1840年のアヘン戦争、1857年の第二次アヘン戦争、そして太平天国の乱などの国内の叛乱など、英国に限らず外夷との戦いで
負けることはあっても、伝統的制度を改革しようなどという運動は起こりませんでした。
しかし日清戦争が同国に与えた影響は甚大でした。支配体制の改革を目指す変法派の活動が活発になり、その中心人物が康有為です。
著者が、戊戌政変を第一章にしたことは見過ごしてはいけないでしょう。
著者は康有為ら変法派の態度に共感していて、第五章では明治天皇を「同時代の傑出した日本人」と称えています。
第四章では、1900年頃の満洲は「地名以外は完全にロシア領」と化していた。日本が日露戦争で勝利して、ロシアから勝ち取った
権益や特権は保持したものの、満洲の東三省は満洲王朝に返還したという。満洲王朝の政府を「シナ政府」と表現するのは間違いだという。
岩波と入江春名両氏が削除した理由がはっきりと解ります。この「シナ」と「中国」の使い分けが都合が悪かった。
中華人民共和国は、日本人が「シナ」と呼称することを禁じて、「中国」と呼べと一方的に主張しています。
しかしこれをごっちゃにすると、清国時代も「中国史」という括りに入れられ、
あたかも中華人民共和国の歴史の一部であるかの様相を呈します。清は既に滅んだ王朝なのだから中華人民共和国との間に歴史の関連性などあるはずもない。当然領土の連続性も無く、マンジュ(満洲)はマンジュ族の土地という至極普通の結論に落ち着く。「シナ」と「中国」を使い分けると中国領である満洲を日本が侵略したなどという戯言が成立しなってしまうのです。
・第十六章の内容
かなり重要な章だと言えます。第一章から第十章の内容を受けて、マンジュ族の溥儀が先祖の地マンジュに戻る可能性について、
当時どのような報道や記録があったのかの、第一級資料です。
みなが中華民国にうんざりしていた。日本の保護下で満洲独立のシナリオ。などの新聞報道が目白押しです。
日本政府が一切関与してないうちに満洲独立の気運は相当盛り上がっていたようです。
以下は祥伝社黄金文庫版のレビューより転載
ジョンストン自身の見識はこうです。
「遅かれ早かれ、日本が満洲の地で二度も戦争をして獲得した莫大な権益を、シナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が
必ず訪れると確信する者は大勢いた。日本と中華民国(特に満洲で共和国の代表と主張する者たち)が抗争すれば、自分たちが待ち望む好機が
訪れるだろうと君主制主義者は考えていた。」
正に現在の日中間の歴史の歪みを言い当て、なかんずく中華人民共和国側が日本の満洲政策を侵略と批判することの欺瞞をあぶり出してる文章と言えます。
・「満洲」と「満州」は全く違う言葉 祥伝社黄金文庫版のレビューより転載
これは本書の内容とは関係ありませんが、読者の中に「満洲」と「満州」の区別と、その前提が間違ってるといけないので予備知識として書いておきたい。
東洋史学者の宮脇淳子氏によると、
ヌルハチの時代「マンジュ・グルン」と呼ばれていた国名の「マンジュ」という音を漢字でうつした言葉が「満洲」。「グルン」は国。
「マンジュ・グルン」で満洲国。1932年にマンジュ族の地に成立した国名が満洲国になったのは、実に理にかなってるというかそのままの理由です。
ところがこれを「満州」と呼称すると途端にある誤解が起こります。「満州」とは「満人の土地or満ちている国」という意味で「マンジュ」とは意味が全く違います。それこそ漢代の昔から、荊州益州涼州といった行政区分の中に「満州」というのがあって、
遥か昔から「満州」という地名で呼ばれていた。それで「満州」は昔から「中国」の領土だったのか、という誤解です。
いや今誤解が起こらなくても、いつかは起こるかもしれない。少なくとも起こる可能性はある。
なまじ満洲と漢字で書くから、マンジュ族が漢族の一部族であるかの印象を抱かせる原因になるので、
日本では本来ならウイグル・チベット・モンゴルに倣い、カタカナでマンジュと呼称するべきなんでしょうが。
そういう訳で「満洲」とは「マンジュ」という固有名詞の音訳であるから、「満州」と呼称するのは歴史的に見ても正確ではなく、
あらぬ誤解を抱かせるので歴史用語としても不適切であり使用は避けた方が良い、というものです。
私は宮脇氏の学説の全てに賛同というわけではありませんが、これに関しては、なるほど区別しないとまずいなと思いました。
岩波訳では一環して「満州」「満州国」です。当時(1989年)の慣行に従ったそうです。しかしこの点は当然岩波書店だけの問題ではありません。
他の書籍でも「満州」「満州国」となっているのを目にします。
・日本人にとって満洲国とは何だったのか
1919年パリ講和会議で日本が「人種平等案」を提出、しかし米英の猛反対で却下された国際連盟という組織がありました。
それは満洲国が掲げた他民族共和という理想からかけ離れた、有色人種を差別をする欧州の小国が自国の権利を主張する、
理想も力も無いくだらない組織でした。
「日本は国際連盟を脱退して世界から孤立した」というのは戦後の詐欺史観。当時の世界とは白人世界のことで、
国際協調とは欧米の白人の価値観、人種偏見を前提とした体制を維持すること意味しました。
脱退はしましたが国際社会から孤立したわけではありませんし、むしろ人種差別を肯定する組織など脱退して正解ですね。
「日本は世界で初めて人種平等を提唱した国」。このことを念頭に置いて近現代史を俯瞰すれば、満洲国に対する見方が変わると思います。
人種差別が当たり前の時代、日本から分離独立してでも、人種差別の無い理想郷を作りたいと願う日本人達がいた。
日本国籍を捨ててでも、王道楽土の国を建設し欺瞞に満ちた世界に見せ付けてやろうと夢見る日本人達がいた。
そんな理想に共感したマンジュ族・モンゴル族・ハン族・チョソン族・ヤマト族が一致団結して「満洲人」となりました。
そして「自分の自由意志で」天津から満洲へと渡り、北に向かう途中地方官吏やその他の役人が敬意を表するのを許したため、
たびたび停車することなった特別列車に乗った溥儀が到着し、
満洲の地に差別の無い王道楽土の見本国家「満洲国」が成立しました。
資源豊富だった満洲国では、日本からの投資により重工業を徹底して育成され、建国13年半後には重工業の中心地となっていました。
戦後毛沢東が国民党に勝てたのは、豊かな満洲国をスターリンから掠め取ったからで、
毛沢東本人も「仮に全ての根拠地を失っても、東北さえあれば社会主義革命を成功させることが出来る」と語りました。
中華人民共和国とは全く関係無い土地に、差別の無い理想郷を作ろうと夢見た日本人達がいた。
近代化と共に人種差別とたった一人で戦い続けた日本の、人種差別を断ち切る最後の手段にして希望。それが満洲国の建国でした。
日本人は動物ではない。有色人種は獣ではない。有色人種の中で当時、どの国がそのことを示す力を持っていたか。
アジア・アフリカの中で、人種差別に打ち克とうとリーダッシップを取れるほど近代化された国が日本以外にあったのか。
事実を調べていけば「中国の一部である東北地方を日本が侵略した」などのプロパガンダは全く鼻で笑える戯言です。
袁世凱も張作霖も呉佩孚も張学良も蒋介石も毛沢東も、みな中華世界の天下を取ることだけしか頭に無く、それ以外はどうでもいいと考えていました。
日本人は中国人同士がいがみあっている間に人種差別と戦っていたんだ、と胸を張って答えればいい。
満洲国に関して日本が卑屈にならなきゃいけない理由など一つもありません。
・岩波訳をどう評価するか
私は基本的に誤植の類は気にしないのですが、外国勢力におもねって読者にペテンをかけるが如き行為となると気にもなります。
そしてこれは岩波文庫設立の理念から著しく外れた卑劣行為として見て取れます。
即ち、本行為は活仏ボグド・ゲゲーン聖人様のレビューの通り
「かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった」
という宣言に明らかに反し、岩波自身が民を愚昧ならしめるために学芸を最も狭き堂宇に隠蔽しているし、
特定の政治勢力におもねり、原著者の歴史観の前面を意図的に排除・誤訳したりするが如きはNowhereman様のレビューの通り
「千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか」という宣言に反している。
つまり読者の迷惑より先に、著者ジョンストンに対する最大の侮辱行為であり、かつ古典作品に対する冒涜行為であると。
普段から岩波文庫を愛読している身としては、腹立たしいし情けないし、遅きに失してますが完全訳で汚名返上していただきたいものですが、
それも叶わぬ願いとなるでしょう。
岩波としては「シナと中国の区別」などタブーだし、歴史観も大陸に進出する日本と、それに対する中国民族主義という
単純な二次元的構図で中華人民共和国にベッタリだし、完訳を読めばそんな単純な図式になどならないと解るはずです。
そもそもこの行為を問題としてとらえていない可能性もある。公式に何かアナウンスがあったわけでもないようなので。
※2015年12月20日追記 通州虐殺事件の歴史を抹殺
昭和12(1937)年7月29日、北京東方の通州で、シナ人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件が起こりました。
その殺され方は酸鼻を極めた残虐なもので、およそ人間の仕業とは思えないものでした。
この虐殺事件ですが、祥伝社訳の監修を務めた渡部昇一氏によると、
岩波書店の『近代日本総合年表』(三版・1991年)には7月28日まであって、事件のあった29日から8月9日までは空白だそうです。
この事件一つ取っても「悪の日本と正義の中国」という構図が崩壊するわけですが、載っていないとはどういうことか。
岩波としてもこの虐殺事件が日本人に知れ渡るのが都合が悪い?その為に隠蔽までするのか?
南京大虐殺という虚構は、通州事件を相対化する為に、通州事件を参考に作り出されたのではないか、
それ故日本人に隠蔽するために削除したのではないかという想像はさておき、
品性下劣な手口を知りました。「歴史の削除」は岩波のお家芸のようです。
2006年1月28日に日本でレビュー済み
英国殖民省の官吏ジョンストンは、李鴻章の息子との交友関係を通じて廃帝溥儀の英語教師に登用されます。以後、ジョンストンは数年間に亘り、紫禁城の事実上の住人として溥儀の身辺に仕えることになりますが、その間には、ジョンストンの位置付けも単なる家庭教師から側近へと次第に変化していきます。そうした中で彼が見た小宮廷の実態は、当時の西洋の人々には想像するべくもない「不思議の国」でした。
廃帝を食い物にしようとする前朝の遺臣や宦官たち、彼らの牙城である内務府の腐敗と堕落、保身と体面だけが念頭を離れない皇族や大官たち。紫禁城は正に魍魎跋扈する伏魔殿の様相を呈しています。また、溥儀の巻き込みを図る王政復古派の陰謀や、溥儀の政治的価値を利用しようとする軍閥たちの政治的蠢動も後を絶ちません。
そうした陰謀と腐敗と不安が渦巻く中にあっても、清朝二百有余年の威光を担う幼き真龍は、開明と民主を志向する良心的な青年に成長していきます。しかしながら、そんな溥儀もまた、やがては歴史の大きな流れに押し流されていくのでした。
ジョンストンの言葉をどれほど信用して良いのか、今となっては知る由はありませんが、本書は、小宮廷と溥儀の日常、民国政府と小宮廷の関係、更には張作霖をはじめとする各政治勢力からの小宮廷に対する政治的働きかけなどにつき、著者自身の見聞として詳細に語るものです。ノンフィクションとして面白いだけでなく、この時代の政治の流れを考える上でも大いに興味をひく内容と言えるのではないでしょうか。
廃帝を食い物にしようとする前朝の遺臣や宦官たち、彼らの牙城である内務府の腐敗と堕落、保身と体面だけが念頭を離れない皇族や大官たち。紫禁城は正に魍魎跋扈する伏魔殿の様相を呈しています。また、溥儀の巻き込みを図る王政復古派の陰謀や、溥儀の政治的価値を利用しようとする軍閥たちの政治的蠢動も後を絶ちません。
そうした陰謀と腐敗と不安が渦巻く中にあっても、清朝二百有余年の威光を担う幼き真龍は、開明と民主を志向する良心的な青年に成長していきます。しかしながら、そんな溥儀もまた、やがては歴史の大きな流れに押し流されていくのでした。
ジョンストンの言葉をどれほど信用して良いのか、今となっては知る由はありませんが、本書は、小宮廷と溥儀の日常、民国政府と小宮廷の関係、更には張作霖をはじめとする各政治勢力からの小宮廷に対する政治的働きかけなどにつき、著者自身の見聞として詳細に語るものです。ノンフィクションとして面白いだけでなく、この時代の政治の流れを考える上でも大いに興味をひく内容と言えるのではないでしょうか。
2003年1月19日に日本でレビュー済み
最後の皇帝に仕えた外国人家庭教師レジナルド・ジョンストンの回想録。(ちなみに、本物は映画のピーター・オトゥールのようにかっこよくはない)
何と言っても実際に見てきた人間の記録であり、当時の色々な内部資料(宮廷新聞=コート・ガゼット)なども引用されていて興味深い。だがまだまだ歴史的考証が必要な部分もあるし、ところどころ今から考えると踏み込みの甘い部分もある。
ラスト・エンペラー本人の『わが半生』と合わせて、2つの視点から考えてみることをおすすめする。
何と言っても実際に見てきた人間の記録であり、当時の色々な内部資料(宮廷新聞=コート・ガゼット)なども引用されていて興味深い。だがまだまだ歴史的考証が必要な部分もあるし、ところどころ今から考えると踏み込みの甘い部分もある。
ラスト・エンペラー本人の『わが半生』と合わせて、2つの視点から考えてみることをおすすめする。