本書岩波文庫版、篠田英雄さんの訳は、やはり手堅い。これに行き着きます。篠田英雄訳と比較対照してみると光文社新訳文庫の中山元訳は危なっかしいと私には感じられました。
私としては岩波文庫版の篠田訳のほうをお薦めします。
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プロレゴメナ (岩波文庫 青 626-3) 文庫 – 1977/10/17
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本書の題名「およそ学として現われ得る限りの将来の形而上学の為のプロレゴメナ(序論)」に示されるように,前著『純粋理性批判』における「形而上学の批判」のカントの真意の曲解に対する反駁として書かれ,『批判』の要旨を簡潔平明に論述しながら,真に学的な形而上学の成立の諸前提を設定しようとしたものである.
- 本の長さ317ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1977/10/17
- ISBN-104003362632
- ISBN-13978-4003362631
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1977/10/17)
- 発売日 : 1977/10/17
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 317ページ
- ISBN-10 : 4003362632
- ISBN-13 : 978-4003362631
- Amazon 売れ筋ランキング: - 92,322位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 105位ドイツ・オーストリアの思想
- - 173位西洋哲学入門
- - 671位岩波文庫
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上位レビュー、対象国: 日本
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2022年4月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2013年9月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は、『純粋理性批判』の手引き書として書かれました。カント本人も「『プロレゴメナ』は、『純粋理性批判』の予習として参考に」と書いています。しかし『プロレゴメナ』を読めば、『純粋理性批判』はいらないという人もいたりして、カントがそれを知れば憤怒したことでしょう。カントは『純粋理性批判』が難解だとの不満者にこの『プロレゴメナ』を書いたのであり、この書によってより形而上学の研究が盛んになるように希望しているからです。巻末に「付録」が収録されています。なんのことはない、要は「二通りの判断」P255があるとして、「研究もされないで下される判断」と、「研究し下される判断」があるといい、「私の研究である「批判」が批評家らはまったく理解していない」P257で、批評されてきたと不満をぶちまけ、次のようにいうのである。
批評家は「私の「批判」における原則を正しいと認めるか、さもなければこれらの原則が無効であることを証明するか、そのいずれかをとる義務がある」P269、「私の「批判」は研究せられねばならない」P271、「匿名での批難をやめよ」という。つまり、私の『純粋理性批判』が批評家らはまったく理解もせず批評されてきた、批評をするならちゃんと研究し理解した上で、匿名を用いずに批難してくれ、と長々と述べているのである。この『プロレゴメナ』は、カントの憤怒、反論の手引き書なのである。
カントはいう。
本書を著わした意図は、「いったい形而上学のようなものは可能であるのかどうか」P10という問いを提起することが是非とも必要だという。
「本書が提起しているいくつかの要求が満たされない限り、形而上学という学は存在し得ない、ということを確信するにいたるであろう」P12
「ヒュームは、形而上学だけにある唯一の、しかしこの学にとって重要な概念――すなわち原因と結果との必然的連結という概念(中略)を、彼の考察の主たる出発点とした。」、そして原因の概念、ヒュームの証明が続き、カントは、ヒュームの推論を「およそ形而上学なるものは存在しない、またいかなる形而上学も存在し得るものでない、と言うに等しい。」P15といい、ヒュームは「結論を急ぎ過ぎた」P16という。
ヒュームが問題としたところのもの(「原因と結果との必然的連結という概念」P21)を最大限に拡張し仕立てたのが『純粋理性批判』P22である、といい「世人は、私の「批判」に不当な判断を下すだろう、彼らは「批判」を理解しない」、「自分でみっちり考えぬく気がないから」という。『プロレゴメナ』は、『純粋理性批判』の予習として参考に供せられるにすぎない。
次にカントの主張を適当に列記しておく。
・「分析的方法」と「綜合的方法」がある。
・「形而上学的認識は、ア・プリオリな判断だけを含まなければならない、この認識の特異性がこのことを要求するからである」P32
・解明的「黄金は黄色の金属である」は「分析的判断」で「すべて矛盾律にもとづき」、「ア・プリオリな認識」P34に属する。
・拡張的 <7+5=12>などの「数学的判断」は、「すべて綜合的判断」で「経験的認識」、「ア・ポステリオリ」P35-36に属する。
・「本来の形而上学的判断は、すべて綜合的判断である」P43 、「形而上学に属する判断には多くの分析的判断が含まれているため「区別」せねばならない」、「分析的判断は本来の形而上学的判断ではない」
・「物において実体であるところのものは、すべて常住不変である」(形而上学に独自の綜合的命題)P44
・結論「形而上学がほんらい究明せねばならないのはア・プリオリな綜合的命題であり、綜合的命題だけが形而上学の主たる目的なのである」P44
・「形而上学はどうして可能なのか、また理性が形而上学に到るためにはどうすればよいのか」と問い、「最高存在者と来世との認識を見出」すこと。
・「我々は、学としての形而上学が実際に存在しているということは承認できない、しかし或る種の純粋でア・プリオリな綜合的認識なら実際に与えられていることを確信し得る」といい、「純粋数学と純粋自然科学である」P52という、ゆえに認識が可能であり、「どうして可能かを問いさえすればよい、そうすれば、ほかのいっさいの認識の可能性をも導来できるわけである」P53 、「純粋数学と純粋自然科学だけが、対象を直感において示すことができる」(認識と客観との一致)P62
ここで重要なのは、綜合的判断、綜合的方法、綜合的命題、綜合的認識の違いを理解することであろうか。私は「ア・プリオリな綜合的命題」P54と書かれて、「分析的」ではと勘違いしたくらいであるから。
この後、カントは以下の「四件の課題の解決」を論説していく。
一 純粋数学はどうして可能か
二 純粋自然科学はどうして可能か
三 形而上学一般はどうして可能か
四 学としての形而上学はどうして可能か
ところで話は変わるのだが、私が前に書いた光文社文庫の『 純粋理性批判 』のレビューがどうも不評なのである。レビューでは、読み易いという語句の言い回しが逆に分かり難いという指摘と、カントの定義をニュートンの万有引力の法則を例えに説明したのであるが、私としては好評を得ると思っていたのであるが……、(実際にカントは『純粋理性批判』の「分析論」で、ニュートンの万有引力の法則に従って説明することは悟性界を例示することになるだろうと述べている)
『プロレゴメナ』では、「純粋数学と純粋自然科学だけが、対象を直感において示すことができる」(認識と客観との一致)P62と述べ、命題「空気は弾力性をもつ」P101と、命題「太陽が石を照らすと、石は熱くなる」P106とで、これら(純粋数学と純粋自然科学)について説明している。そこで、この命題の「空気は弾力性をもつ」と「太陽が石を照らすと、石は熱くなる」を、私の例えた「りんごが木から落ちる」や「りんごが熟し過ぎると、木から落ちる」にしてみると、あながち変ではないと思うのだが。(私からすれば、厳格な純粋数学と純粋自然科学を挙げ、熱いなどの主観的要素で命題の事情が変わる「太陽が石を照らすと、石は熱くなる」などよりは、ニュートンの万有引力の法則を例えに説明した方が分かり易いように思えるのだが……、)
『プロレゴメナ』の「純粋数学はどうして可能か」は、『純粋理性批判』の「先験的感性論」において論じられ、『プロレゴメナ』の「純粋自然科学はどうして可能か」は、『純粋理性批判』の「先験的論理学」において論じられている。
まあ、『プロレゴメナ』が理解できないと、とうてい『純粋理性批判』は理解できないということなのだろうか。
カントはいう。
「ひとたび「批判」の味わいを知った人は、およそいっさいの独断的な饒舌を永久に嫌悪する」P242といい、「私は保証するが、――私が「批判」において示した諸原則を、この「プロレゴメナ」において精考し理解した人であれば、再び旧来の詭弁的なえせ学問[形而上学]に退転することはまずあるまい」といい、「ここにおいて形而上学は完成」P243せられるというのだが……、興味のある人はどうぞ。
批評家は「私の「批判」における原則を正しいと認めるか、さもなければこれらの原則が無効であることを証明するか、そのいずれかをとる義務がある」P269、「私の「批判」は研究せられねばならない」P271、「匿名での批難をやめよ」という。つまり、私の『純粋理性批判』が批評家らはまったく理解もせず批評されてきた、批評をするならちゃんと研究し理解した上で、匿名を用いずに批難してくれ、と長々と述べているのである。この『プロレゴメナ』は、カントの憤怒、反論の手引き書なのである。
カントはいう。
本書を著わした意図は、「いったい形而上学のようなものは可能であるのかどうか」P10という問いを提起することが是非とも必要だという。
「本書が提起しているいくつかの要求が満たされない限り、形而上学という学は存在し得ない、ということを確信するにいたるであろう」P12
「ヒュームは、形而上学だけにある唯一の、しかしこの学にとって重要な概念――すなわち原因と結果との必然的連結という概念(中略)を、彼の考察の主たる出発点とした。」、そして原因の概念、ヒュームの証明が続き、カントは、ヒュームの推論を「およそ形而上学なるものは存在しない、またいかなる形而上学も存在し得るものでない、と言うに等しい。」P15といい、ヒュームは「結論を急ぎ過ぎた」P16という。
ヒュームが問題としたところのもの(「原因と結果との必然的連結という概念」P21)を最大限に拡張し仕立てたのが『純粋理性批判』P22である、といい「世人は、私の「批判」に不当な判断を下すだろう、彼らは「批判」を理解しない」、「自分でみっちり考えぬく気がないから」という。『プロレゴメナ』は、『純粋理性批判』の予習として参考に供せられるにすぎない。
次にカントの主張を適当に列記しておく。
・「分析的方法」と「綜合的方法」がある。
・「形而上学的認識は、ア・プリオリな判断だけを含まなければならない、この認識の特異性がこのことを要求するからである」P32
・解明的「黄金は黄色の金属である」は「分析的判断」で「すべて矛盾律にもとづき」、「ア・プリオリな認識」P34に属する。
・拡張的 <7+5=12>などの「数学的判断」は、「すべて綜合的判断」で「経験的認識」、「ア・ポステリオリ」P35-36に属する。
・「本来の形而上学的判断は、すべて綜合的判断である」P43 、「形而上学に属する判断には多くの分析的判断が含まれているため「区別」せねばならない」、「分析的判断は本来の形而上学的判断ではない」
・「物において実体であるところのものは、すべて常住不変である」(形而上学に独自の綜合的命題)P44
・結論「形而上学がほんらい究明せねばならないのはア・プリオリな綜合的命題であり、綜合的命題だけが形而上学の主たる目的なのである」P44
・「形而上学はどうして可能なのか、また理性が形而上学に到るためにはどうすればよいのか」と問い、「最高存在者と来世との認識を見出」すこと。
・「我々は、学としての形而上学が実際に存在しているということは承認できない、しかし或る種の純粋でア・プリオリな綜合的認識なら実際に与えられていることを確信し得る」といい、「純粋数学と純粋自然科学である」P52という、ゆえに認識が可能であり、「どうして可能かを問いさえすればよい、そうすれば、ほかのいっさいの認識の可能性をも導来できるわけである」P53 、「純粋数学と純粋自然科学だけが、対象を直感において示すことができる」(認識と客観との一致)P62
ここで重要なのは、綜合的判断、綜合的方法、綜合的命題、綜合的認識の違いを理解することであろうか。私は「ア・プリオリな綜合的命題」P54と書かれて、「分析的」ではと勘違いしたくらいであるから。
この後、カントは以下の「四件の課題の解決」を論説していく。
一 純粋数学はどうして可能か
二 純粋自然科学はどうして可能か
三 形而上学一般はどうして可能か
四 学としての形而上学はどうして可能か
ところで話は変わるのだが、私が前に書いた光文社文庫の『 純粋理性批判 』のレビューがどうも不評なのである。レビューでは、読み易いという語句の言い回しが逆に分かり難いという指摘と、カントの定義をニュートンの万有引力の法則を例えに説明したのであるが、私としては好評を得ると思っていたのであるが……、(実際にカントは『純粋理性批判』の「分析論」で、ニュートンの万有引力の法則に従って説明することは悟性界を例示することになるだろうと述べている)
『プロレゴメナ』では、「純粋数学と純粋自然科学だけが、対象を直感において示すことができる」(認識と客観との一致)P62と述べ、命題「空気は弾力性をもつ」P101と、命題「太陽が石を照らすと、石は熱くなる」P106とで、これら(純粋数学と純粋自然科学)について説明している。そこで、この命題の「空気は弾力性をもつ」と「太陽が石を照らすと、石は熱くなる」を、私の例えた「りんごが木から落ちる」や「りんごが熟し過ぎると、木から落ちる」にしてみると、あながち変ではないと思うのだが。(私からすれば、厳格な純粋数学と純粋自然科学を挙げ、熱いなどの主観的要素で命題の事情が変わる「太陽が石を照らすと、石は熱くなる」などよりは、ニュートンの万有引力の法則を例えに説明した方が分かり易いように思えるのだが……、)
『プロレゴメナ』の「純粋数学はどうして可能か」は、『純粋理性批判』の「先験的感性論」において論じられ、『プロレゴメナ』の「純粋自然科学はどうして可能か」は、『純粋理性批判』の「先験的論理学」において論じられている。
まあ、『プロレゴメナ』が理解できないと、とうてい『純粋理性批判』は理解できないということなのだろうか。
カントはいう。
「ひとたび「批判」の味わいを知った人は、およそいっさいの独断的な饒舌を永久に嫌悪する」P242といい、「私は保証するが、――私が「批判」において示した諸原則を、この「プロレゴメナ」において精考し理解した人であれば、再び旧来の詭弁的なえせ学問[形而上学]に退転することはまずあるまい」といい、「ここにおいて形而上学は完成」P243せられるというのだが……、興味のある人はどうぞ。
2021年5月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
カントの3大批判等は、隠喩を解くだけでは
一角の男ぐらいなだけだ、だったのですね。
厳格話法に勝つためには、平易にして読み易くすればいいとか、
もっと厳格にしたら勝てるかな???とか、難しいと思いますが、
レヴィナス、デリダ、ドゥルーズ、等、読み難い哲学書で
もっと高度な事を書いて来させるための布石で有り、ユーモアな生活上でのカント。
一角の男ぐらいなだけだ、だったのですね。
厳格話法に勝つためには、平易にして読み易くすればいいとか、
もっと厳格にしたら勝てるかな???とか、難しいと思いますが、
レヴィナス、デリダ、ドゥルーズ、等、読み難い哲学書で
もっと高度な事を書いて来させるための布石で有り、ユーモアな生活上でのカント。
2023年1月17日に日本でレビュー済み
カント哲学をリーマン幾何学的に捉えるとスピノザ哲学もポスト構造主義哲学もカント哲学に含まれることになると思います。だからカントは無神論者でカントの言う神とは実体のない自然科学の法則のことです。
2020年7月8日に日本でレビュー済み
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『プロレゴメナ』は、『純粋理性批判』の要約版として書かれた書物です。いきなり『純粋理性批判』を読むと挫折しそうだと思ったので、私は『プロレゴメナ』から先に読みました。NHKブックスの『カント哲学の核心 「プロレゴーメナ」から読み解く』は本当に素晴らしい本で、参考書としておすすめしたいです。
私は在野の素人なのであまり偉そうな事は言えませんが、一応『プロレゴメナ』の内容をレビューさせていただきます。
『プロレゴメナ』では、「形而上学は可能なのか」という問題が提起されています。『プロレゴメナ』において、形而上学はア・プリオリな綜合的命題と関わりを持つ学問だとされます。ア・プリオリな綜合的命題は経験に依存せず、既に考えられた認識をさらに大きくする事によって得られる命題です。
『プロレゴメナ』の主要問題は、三部に分かれています。私が読んだ限り、第一部の主題は純粋数学と感性。第二部の主題は純粋自然学と悟性。第三部の主題は形而上学と理性。…だと思います。ア・プリオリな綜合的判断が現れている学問という事で、純粋数学と純粋自然学が扱われています。空間と時間は人間の感性の形式であるという本文前半の主張が、第一・第二アンチノミーの解決に活用されているところに感銘を受けました。現象と物自体を区別することによって、第三・第四アンチノミーも鮮やかに解決されていました。
私は在野の素人なのであまり偉そうな事は言えませんが、一応『プロレゴメナ』の内容をレビューさせていただきます。
『プロレゴメナ』では、「形而上学は可能なのか」という問題が提起されています。『プロレゴメナ』において、形而上学はア・プリオリな綜合的命題と関わりを持つ学問だとされます。ア・プリオリな綜合的命題は経験に依存せず、既に考えられた認識をさらに大きくする事によって得られる命題です。
『プロレゴメナ』の主要問題は、三部に分かれています。私が読んだ限り、第一部の主題は純粋数学と感性。第二部の主題は純粋自然学と悟性。第三部の主題は形而上学と理性。…だと思います。ア・プリオリな綜合的判断が現れている学問という事で、純粋数学と純粋自然学が扱われています。空間と時間は人間の感性の形式であるという本文前半の主張が、第一・第二アンチノミーの解決に活用されているところに感銘を受けました。現象と物自体を区別することによって、第三・第四アンチノミーも鮮やかに解決されていました。
2016年7月24日に日本でレビュー済み
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カント著作はすべて読もうとの決意から購入。カント先生の散歩を読み、道徳形而上学原論に進み、この本にて理解が進んだ。
2005年4月13日に日本でレビュー済み
基本的な位置づけは、『純粋理性批判』の序論となるわけですが、執筆順としては、『純粋理性批判』の第一版(A版)→『プロレゴメナ』→『純粋理性批判』の第二版(B版)となります。それゆえこの著作は、カントの思想の遍歴を知るためにもよく用いられます。とくに、「経験判断」や「知覚判断」の件などは、『純粋理性批判』では特に述べられていないものであるだけに、カントの思想的一貫性に関して問題視されるところです。また、ところどころつけられている欄外注などのなかにも、カントの本音がポロリと顔を出すところがあり、なかなか面白いです。常に『純粋理性批判』へフィードバックしながら、「間違い探し」や「矛盾点」を探して読むと面白いと思います。