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我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1) 文庫 – 1979/1/16
マルティン・ブーバー
(著),
植田 重雄
(翻訳)
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孤高の宗教哲学者ブーバーによれば、世界は人間のとる態度によって〈われ‐なんじ〉〈われ‐それ〉の二つとなる。現代文明の危機は後者の途方もない支配の結果であって、〈われ〉と〈なんじ〉の全人格的な呼びかけと出会いを通じて人間の全き回復が可能となる。対話的思惟の重要性を通じて人間の在り方を根元的に問うた主著二篇。
- ISBN-104003365518
- ISBN-13978-4003365519
- 出版社岩波書店
- 発売日1979/1/16
- 言語日本語
- 本の長さ274ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1979/1/16)
- 発売日 : 1979/1/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 274ページ
- ISBN-10 : 4003365518
- ISBN-13 : 978-4003365519
- Amazon 売れ筋ランキング: - 65,665位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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2020年3月4日に日本でレビュー済み
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面白かった
2019年5月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は、ヒトの自己の意識について考えていて、「自分~親や隣人友人等の接点のある他~接点のない他。xxxその他には自分の内奥の自分」があるというふうに考えていた。ここでの「親や隣人友人等の接点のある他」が「汝」になり、「接点のない他」が「それ」になるのかなあとも思ったりした。ただ、接点のない他は、そこに神のようなものも含まれてしまい、神と意識したとたんに汝の要素を含むのではないか。そのとき、「神」は「内奥の自分」と触れ合っていて、自分はそれに気づいていないのかもとか思ったりした。
文法で、二人称と三人称があるということは、論理学・意識論の中で「我と汝。それ」は重要な要素になってるはずだ。こういったことをどうにかスカっと理解したい。そう思ってこの本を買いました。
読んでみての感想は、「サッパリ分からない」でした。ブーバーの考えが、私の問うている質問に適応するものなのかどうかすら見当つきません。
ときどき読み直して、理解を深めていこうと思います。
文法で、二人称と三人称があるということは、論理学・意識論の中で「我と汝。それ」は重要な要素になってるはずだ。こういったことをどうにかスカっと理解したい。そう思ってこの本を買いました。
読んでみての感想は、「サッパリ分からない」でした。ブーバーの考えが、私の問うている質問に適応するものなのかどうかすら見当つきません。
ときどき読み直して、理解を深めていこうと思います。
2015年5月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
世界に対する人のあり方を <われとなんじ> と <われとそれ> の関係に分けて解いた哲学書。
人前で緊張することを考えるとわかりやすい。
緊張する人は、自分と聴衆、自分の行うことと自分自身を切り分けることができない。聴衆との関係をすべてで受け止めようとしてしまうため、さながらこの世の終わりに近い恐怖を感じるのである。これが <われとなんじ> の関係である。自分のあらゆるものをかけた関わりであり、本質的に神の御前に立つに等しい。神を前にして、己が一部分だけを差し出すことは許されない。
そこで人は切り分けることで緊張を防ごうとする。聴衆との関わりは一部分だけの関わりに抑え、聴衆を自分から切り分け、自分を脅かさない部分的な存在に分類する。失敗しても否定されるのは自分の一部分に過ぎないよう留める。これが <われとそれ> の関係である。
緊張を防ぐために聴衆をかぼちゃだと思いこむ方法は、この典型であり、<われとなんじ> の関係から <われとそれ> の関係に置き換えようと試みているのである。
人前で緊張することを考えるとわかりやすい。
緊張する人は、自分と聴衆、自分の行うことと自分自身を切り分けることができない。聴衆との関係をすべてで受け止めようとしてしまうため、さながらこの世の終わりに近い恐怖を感じるのである。これが <われとなんじ> の関係である。自分のあらゆるものをかけた関わりであり、本質的に神の御前に立つに等しい。神を前にして、己が一部分だけを差し出すことは許されない。
そこで人は切り分けることで緊張を防ごうとする。聴衆との関わりは一部分だけの関わりに抑え、聴衆を自分から切り分け、自分を脅かさない部分的な存在に分類する。失敗しても否定されるのは自分の一部分に過ぎないよう留める。これが <われとそれ> の関係である。
緊張を防ぐために聴衆をかぼちゃだと思いこむ方法は、この典型であり、<われとなんじ> の関係から <われとそれ> の関係に置き換えようと試みているのである。
2017年8月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
真剣に呼び掛ける。
ここからはじめる。
また、呼び掛けることができない人はいない。
我あるところ必ず汝あり。
ここからはじめる。
また、呼び掛けることができない人はいない。
我あるところ必ず汝あり。
2021年7月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
翻訳が悪い。二人称の訳し方について、分かりやすく説明しろと言いたい。読みづらいフォント。岩波文庫の旧本だったが、新版はどうなのか。
2023年11月2日に日本でレビュー済み
ブーバーは私たちが接する世界は2つに分かれるという。ひとつは、「我―汝」(Ich-Du)という対話という関係性の世界、もうひとつは、「我―それ」(Ich-Es)という我の経験を対象とする世界がある。
そして、「我―汝」という関係の以下の3つの領域から成り立つ。
1)自然との共同生活
2)他人との共同生活
3)霊的存在との共同生活
1)の自然との共同生活には、1本の木であれ、動物であれ、「それ」として捉えるとそこには対話はなく、切り倒し、殺処分をする。しかし、「汝」と捉えれば、木の生命力からも、ペットと対話する関係性となる。2)の他人との共同生活を社会共同体で考えると、都市も会社も人為的な選択意志により分離された「我―それ」となる。人間本来の自然な本質意志による家族や共同体は「我ー汝」の関係性となる。3)は神と我の関係性が「我―汝」となるフェーズ。
この本での発見は、ユダヤ人で、ユダヤ教を熟知するブーバーは、3)霊的存在との共同生活においての「我―汝」の関係をキリスト教で、以下のように表現している点だ。
イエスの「我」は、「汝」を聖父と呼ぶ場合、必ず自分が「聖子」となり、それ以外のものとはならないような、絶対的関係におかれた「我」であった、と。つまり、明らかにブーバーは、イエスをひとりの人間として捉え、キリスト教の「三位一体」の立場とは異なるのだ。人間イエスは同時にユダヤ人イエスであるというユダヤ教のスタンスを「我―汝」の関係から解説することで、偉大なユダヤ人イエスをユダヤ教の側に奪還しようとしているとも言える。
さらに、ブーバーは意識していないが、彼の学んだキリスト教やユダヤ教の神秘主義ではない、イスラム教の神秘主義であるスーフィズムには、修行の最終段階で、日常的な「我」が消滅し第2の「我」、つまり「神的我」(人間的「我」が完全に消えた状態)が出現すると表現されるフェーズがある。
井筒俊彦氏によるとこのフェーズは、老荘の「道」、仏教の「空」、易の「太極」、大乗仏教の「真如」、禅の「無」、ヒンズーの「梵我一如」、ユングの「存在の元型」と同じだ、と。道元の言葉を借りると「仏道をならうというのは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」の「無の境地」が、1神教であれば「我」が「神的な我」となるペルソナ転換として意識するのか、ブーバーのように「汝」と意識するかの違いはあれども、霊的存在との共同生活を表しているのだろう。
井筒俊彦氏がイスラエルのユダヤ教神秘主義であるカバラ(ブーバーも学んだ)の研究者に対し、イスラームのスーフィズムの講演を行ったところ、「あまりにも共通点が多い、もっと早く知りたかった」と感想があったという。つまり、イスラエルにおけるユダヤ教、イスラームにおけるイスラム教は、「神秘主義」の領域では共通していて、それはさらに神の存在のない仏教でも、根源は共通している。これらの考察から、同じ1神教同士であるイスラエルとパレスチナの共生を考える上で、ブーバーの「我―汝」の関係は、それぞれの神秘主義者同士であれば、すぐに共鳴共振するのではないか、というのが私の仮説だ。
そして、「我―汝」という関係の以下の3つの領域から成り立つ。
1)自然との共同生活
2)他人との共同生活
3)霊的存在との共同生活
1)の自然との共同生活には、1本の木であれ、動物であれ、「それ」として捉えるとそこには対話はなく、切り倒し、殺処分をする。しかし、「汝」と捉えれば、木の生命力からも、ペットと対話する関係性となる。2)の他人との共同生活を社会共同体で考えると、都市も会社も人為的な選択意志により分離された「我―それ」となる。人間本来の自然な本質意志による家族や共同体は「我ー汝」の関係性となる。3)は神と我の関係性が「我―汝」となるフェーズ。
この本での発見は、ユダヤ人で、ユダヤ教を熟知するブーバーは、3)霊的存在との共同生活においての「我―汝」の関係をキリスト教で、以下のように表現している点だ。
イエスの「我」は、「汝」を聖父と呼ぶ場合、必ず自分が「聖子」となり、それ以外のものとはならないような、絶対的関係におかれた「我」であった、と。つまり、明らかにブーバーは、イエスをひとりの人間として捉え、キリスト教の「三位一体」の立場とは異なるのだ。人間イエスは同時にユダヤ人イエスであるというユダヤ教のスタンスを「我―汝」の関係から解説することで、偉大なユダヤ人イエスをユダヤ教の側に奪還しようとしているとも言える。
さらに、ブーバーは意識していないが、彼の学んだキリスト教やユダヤ教の神秘主義ではない、イスラム教の神秘主義であるスーフィズムには、修行の最終段階で、日常的な「我」が消滅し第2の「我」、つまり「神的我」(人間的「我」が完全に消えた状態)が出現すると表現されるフェーズがある。
井筒俊彦氏によるとこのフェーズは、老荘の「道」、仏教の「空」、易の「太極」、大乗仏教の「真如」、禅の「無」、ヒンズーの「梵我一如」、ユングの「存在の元型」と同じだ、と。道元の言葉を借りると「仏道をならうというのは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」の「無の境地」が、1神教であれば「我」が「神的な我」となるペルソナ転換として意識するのか、ブーバーのように「汝」と意識するかの違いはあれども、霊的存在との共同生活を表しているのだろう。
井筒俊彦氏がイスラエルのユダヤ教神秘主義であるカバラ(ブーバーも学んだ)の研究者に対し、イスラームのスーフィズムの講演を行ったところ、「あまりにも共通点が多い、もっと早く知りたかった」と感想があったという。つまり、イスラエルにおけるユダヤ教、イスラームにおけるイスラム教は、「神秘主義」の領域では共通していて、それはさらに神の存在のない仏教でも、根源は共通している。これらの考察から、同じ1神教同士であるイスラエルとパレスチナの共生を考える上で、ブーバーの「我―汝」の関係は、それぞれの神秘主義者同士であれば、すぐに共鳴共振するのではないか、というのが私の仮説だ。
2020年5月26日に日本でレビュー済み
友達が絶賛していて、さらに別の友達が「ブーバー知ってる?」って聞いてきたので、これは読んでみなくてはと思った。
最初に言いたいことを言っておく。宗教に関わる人、興味がある人は是非読んでほしい。自分の感想なんて気にしないで、とにかく読んで欲しい。読めばどうしてそんなことをいうのかわかるだろう。
”根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる”
”根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない”
いきなりなんのことだろうなのだが、これを読み進めていくと、〈なんじ〉の世界が開けてくる。対象とするのではない。関係性なのだ。
『我と汝』の第一部は初めて読むとむずかしいが、一回『我と汝』と『対話』を読み終わった後、再度読むといいと思う。
ブーバーはユダヤ教系宗教学者でユダヤ教を主として書いているので、「神」という表現がでてくるが、どうしてどうして真宗に通じるものを感じざるを得ない。そこはナチュラルな脳内変換で読み進められる。
仏教に関しても知識がある。ユダヤ教、キリスト教、仏教を対比させている部分もあった。
これ以上引用はできない。なぜなら気になったところがほぼ毎ページで付箋で本がふっさふさだからだ。
仏教徒である自分が読んでもどうしようもなく惹きつけられるものがある。きっと様々な宗教のバックグラウンドを持つ人が読んでもそうなんじゃないだろうか。そう思うと、宗教というものの深いところにあるものって、みんな似通っているのではないだろうかということを考えさせられる。
『対話』もいい。
自分は相手と『対話』しているか。〈われーなんじ〉で対話をするということ。この本を読むこと自体が対話なんだ。一行一行に引き込まれる。深く深く入っていくことをイメージした。根源的な関係性。相手ではない。
読み進む喜びは西田幾多郎の『善の研究』以上だった。
これは、何度でも読める。そして何度でも気づかせられる。
読み進めるうちに、これはあのことを、ここはあの法話で言っていることではないか。どんどん自分の中で何かがつながっていく。情報量が多くなって前に進めない。流して読んでも感じるものがあるけれど、普通に読むといろいろ考え出してしまう。思考じゃない。気がつくことがとまらない。
それぞれの宗教の、求道の軌跡がこの本の中で蘇るような瞬間があると思う。ああ、あのことはこれであったかと。そんな感じがする本だ。
「言葉」で真如の世界との関係性を語ろうとしている。むずかしいけれど、こんなにいろいろなものを自分の中に沸き立つものを発見できるのかと思う。
とにかく、読んで、『我と汝』、『対話』を知って欲しい。
大絶賛。
最初に言いたいことを言っておく。宗教に関わる人、興味がある人は是非読んでほしい。自分の感想なんて気にしないで、とにかく読んで欲しい。読めばどうしてそんなことをいうのかわかるだろう。
”根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる”
”根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない”
いきなりなんのことだろうなのだが、これを読み進めていくと、〈なんじ〉の世界が開けてくる。対象とするのではない。関係性なのだ。
『我と汝』の第一部は初めて読むとむずかしいが、一回『我と汝』と『対話』を読み終わった後、再度読むといいと思う。
ブーバーはユダヤ教系宗教学者でユダヤ教を主として書いているので、「神」という表現がでてくるが、どうしてどうして真宗に通じるものを感じざるを得ない。そこはナチュラルな脳内変換で読み進められる。
仏教に関しても知識がある。ユダヤ教、キリスト教、仏教を対比させている部分もあった。
これ以上引用はできない。なぜなら気になったところがほぼ毎ページで付箋で本がふっさふさだからだ。
仏教徒である自分が読んでもどうしようもなく惹きつけられるものがある。きっと様々な宗教のバックグラウンドを持つ人が読んでもそうなんじゃないだろうか。そう思うと、宗教というものの深いところにあるものって、みんな似通っているのではないだろうかということを考えさせられる。
『対話』もいい。
自分は相手と『対話』しているか。〈われーなんじ〉で対話をするということ。この本を読むこと自体が対話なんだ。一行一行に引き込まれる。深く深く入っていくことをイメージした。根源的な関係性。相手ではない。
読み進む喜びは西田幾多郎の『善の研究』以上だった。
これは、何度でも読める。そして何度でも気づかせられる。
読み進めるうちに、これはあのことを、ここはあの法話で言っていることではないか。どんどん自分の中で何かがつながっていく。情報量が多くなって前に進めない。流して読んでも感じるものがあるけれど、普通に読むといろいろ考え出してしまう。思考じゃない。気がつくことがとまらない。
それぞれの宗教の、求道の軌跡がこの本の中で蘇るような瞬間があると思う。ああ、あのことはこれであったかと。そんな感じがする本だ。
「言葉」で真如の世界との関係性を語ろうとしている。むずかしいけれど、こんなにいろいろなものを自分の中に沸き立つものを発見できるのかと思う。
とにかく、読んで、『我と汝』、『対話』を知って欲しい。
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