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雇用,利子および貨幣の一般理論 下 (岩波文庫 白 145-2) 文庫 – 2008/3/14
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- ISBN-104003414527
- ISBN-13978-4003414521
- 出版社岩波書店
- 発売日2008/3/14
- 言語日本語
- 本の長さ314ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2008/3/14)
- 発売日 : 2008/3/14
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 314ページ
- ISBN-10 : 4003414527
- ISBN-13 : 978-4003414521
- Amazon 売れ筋ランキング: - 58,721位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 67位経済思想・経済学説 (本)
- - 405位岩波文庫
- カスタマーレビュー:
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2020年6月28日に日本でレビュー済み
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想定以上に良品で大変満足しています。
2023年1月27日に日本でレビュー済み
第五篇 貨幣賃金と物価
第一九章 貨幣賃金の変化
付論 ピグー教授の『失業の理論』
第二〇章 雇用関数
第二一章 物価の理論
第六篇 一般理論の示唆するもの ―― 短い覚書
第二二章 景気循環に関する覚書
第二三章 重商主義、高利禁止法、スタンプ付き貨幣および過少消費理論に関する覚書
第二四章 一般理論の誘う社会哲学 ―― 結語的覚書
のうちわけです。
第一九章 貨幣賃金の変化
付論 ピグー教授の『失業の理論』
第二〇章 雇用関数
第二一章 物価の理論
第六篇 一般理論の示唆するもの ―― 短い覚書
第二二章 景気循環に関する覚書
第二三章 重商主義、高利禁止法、スタンプ付き貨幣および過少消費理論に関する覚書
第二四章 一般理論の誘う社会哲学 ―― 結語的覚書
のうちわけです。
2023年6月1日に日本でレビュー済み
上巻は18章から構成されていますが、下巻はわずか6章分です。その内の以下の4章が興味深かったです。
20章『雇用関数』では、雇用量に対する需要増加の影響を分析していますが、数式として関数の形を導出しているわけではありません。主要な点は(1)需要の増加に対して、雇用弾力性の高い産業と低い産業が存在しており、需要の増加が雇用全体に及ぼす影響は複雑であること、(2)雇用弾力性の低い産業に対して需要が増加した場合、雇用はあまり増加せず、製品価格の上昇により企業の利潤が増加する。
21章『物価の理論』においても20章と同様に、様々な角度から分析して、需要の増加は雇用と共に物価を上昇させると述べています。IS-LMモデルは物価を固定しているので、需要と物価の関係については、IS-LMモデルに含まれていない項目です。
22章『景気循環に関する覚書』では、景気循環の最大の要因は資本の限界効率であると述べています。資本の限界効率の突然の崩壊が恐慌を引き起こし、3~5年間は不況が続く傾向があるとのことです。不況がこの位の期間に落ち着く理由として、(1)正常な成長率と比べた耐久資産の寿命と(2)余剰ストックの持越費用(保管料や陳腐化を防ぐための費用など)を挙げています。つまり、不況によって低下した資本の限界効率が上昇するには一定期間を要しますが、耐久資産の耐用年数が長ければ新規投資は見送られることになり、逆に短い場合、資本の限界効率の回復と共に投資が実施されます。また、余剰ストックが存在すると、持越費用の負担を強いられるので、製品価格を下げてでも余剰ストックを一掃することで、生産再開のための条件の一つが満たされます。
24章『一般理論の誘う社会哲学』では、有名な公共投資の必要性を次の様に述べています。「最適な投資率を決定するうえで、銀行政策の利子率に対する影響力はただそれだけでは十分であるとは思われない。それゆえ私は、完全雇用に近い状態を確保するには投資を多少なりとも包括的な形で社会化するより他に途はないと考えている。とはいえ、公共当局が民間の創意工夫を活かそうとして行う妥協と工夫をことごとく排除してしまう必要はない」
20章『雇用関数』では、雇用量に対する需要増加の影響を分析していますが、数式として関数の形を導出しているわけではありません。主要な点は(1)需要の増加に対して、雇用弾力性の高い産業と低い産業が存在しており、需要の増加が雇用全体に及ぼす影響は複雑であること、(2)雇用弾力性の低い産業に対して需要が増加した場合、雇用はあまり増加せず、製品価格の上昇により企業の利潤が増加する。
21章『物価の理論』においても20章と同様に、様々な角度から分析して、需要の増加は雇用と共に物価を上昇させると述べています。IS-LMモデルは物価を固定しているので、需要と物価の関係については、IS-LMモデルに含まれていない項目です。
22章『景気循環に関する覚書』では、景気循環の最大の要因は資本の限界効率であると述べています。資本の限界効率の突然の崩壊が恐慌を引き起こし、3~5年間は不況が続く傾向があるとのことです。不況がこの位の期間に落ち着く理由として、(1)正常な成長率と比べた耐久資産の寿命と(2)余剰ストックの持越費用(保管料や陳腐化を防ぐための費用など)を挙げています。つまり、不況によって低下した資本の限界効率が上昇するには一定期間を要しますが、耐久資産の耐用年数が長ければ新規投資は見送られることになり、逆に短い場合、資本の限界効率の回復と共に投資が実施されます。また、余剰ストックが存在すると、持越費用の負担を強いられるので、製品価格を下げてでも余剰ストックを一掃することで、生産再開のための条件の一つが満たされます。
24章『一般理論の誘う社会哲学』では、有名な公共投資の必要性を次の様に述べています。「最適な投資率を決定するうえで、銀行政策の利子率に対する影響力はただそれだけでは十分であるとは思われない。それゆえ私は、完全雇用に近い状態を確保するには投資を多少なりとも包括的な形で社会化するより他に途はないと考えている。とはいえ、公共当局が民間の創意工夫を活かそうとして行う妥協と工夫をことごとく排除してしまう必要はない」
2016年6月7日に日本でレビュー済み
上巻の翻訳についてではあるけれど、翻訳家山岡洋一氏の書評がネッットでいまでも参照可能です。この当時の雰囲気もあって酷評に過ぎると思わなくもないですが、それ以前に同氏のコメントが適切とも思えない節があります。著名な翻訳者の仰ることなので手短に一部とりあげこれを手始めに間宮氏訳の特徴を明らかにしたいと思います。
次のケインズの原文
Author’s Footnotes
“4. The practice, usually considered prudent, by which an investment trust or an insurance office frequently calculates not only the income from its investment portfolio but also its capital valuation in the market, may also tend to direct too much attention to short-term fluctuations in the latter.”
最初に意味をとっておくとこれは
「(注が付された本文にあるような常識的守旧的な監視監督下にある長期投資やその機関、例えば)投資信託や保険会社(an insurance office)で実務上一般に思慮深いとされるやり方では、投資したポートフォリオからの上がりだけでなく元手である投資ポートフォリオ自体の証券市場での値上がり値下がりも、多くの場合勘定に入れることになりますが(frequently calculates)、このことも同じように短期的値動きばかりをやたら気に掛けさせている(direct too much attention to)ていのことかもしれんでしょうね(may tend to) 。」
という意味です。
この脚注の岩波版訳文への森岡氏コメントは次のように容赦ないものです。ちょっと長くなりますが見てみましょう。
--------------------(ここから)--------------------------------------
解読不可能な訳文
つぎにとりあげるのは、間宮訳 では解読が不可能だと思われる箇所である。意外なことに、間宮訳にはこうした部分が少なからずあった。典型例を紹介しよう。第一二章のうち、資本市場の性格を論じた有名な部分に、以下の注がついている。
例4
間宮訳
(1) 投資信託や保険会社は投資ポートフォリオの生む所得の計算だけでなく、その市場に おける資本評価の計算をも業務とするのがしばしばである。このような業務はふつうは節度を旨とすると考えられているが、後者〔市場における資本評 価〕の短期的変動にも度はずれた注意を払っているようだ。(同上218ページ)[6]
塩野谷祐一訳
(1) 投資信託や保険会社がしばしば投資証券からの所得だけでなく、市場における資本評 価をも計算する場合のやり方は、通常慎重であると考えられているけれども、後者の短期的変動にあまりにも多くの注意を向ける傾向がある。(同上156ページ)
[A]間宮訳のうち、「その市場における資本評価の計算をも業務とする」というのが具体的に 何を意味するのか、分かるだろうか。正直なところ、さっぱり分からない。内容は分からないが「資本評価」いう(ママ)仕事があって、それを企業か投資家の依頼を受 けて行っているのだろうかとでも想像するしかない。
ところが、原文を読むと何ということもないことが書かれているように思えてならない。 投資ポートフォリオのインカムだけでなく、時価評価額も算出するのが慎重な姿勢だと考えられているため、短期的なキャピタル・ゲイン(ロス)に注目しすぎ る結果になっているというのではないだろうか。この解釈が正しいとすると、塩野谷祐一訳では理解に苦労し、間宮訳ではまず、解読が不可能だと思える。
[B]それ以上の問題がある。塩野谷 祐一訳は原文のほぼ正確な逐語訳になっている。ところが間宮訳では、この原文からこの訳がなぜでてくるのか、理解に苦しむ。たとえば、「このような業務は ふつうは節度を旨とすると考えられているが」という訳がどうしてでてくるのか分からない。また、原文のtend toをどう解釈したか が分からない。
*注1
--------------------(ここまで、但しかぎ括弧のアルファベットは引用者が挿入)----------------------------
[A']ここで森岡氏が「具体的に 何を意味するのか、分かるだろうか。正直なところ、さっぱり分からない。」とされているのは「時価評価額も算出するのが慎重な姿勢だと考えられているため」というような理解に同氏が止まられているので、森岡氏には皆目見当がつかぬだけのことで、ある意味本質をつくところが間宮氏訳には垣間見えます。
ただこの箇所は、間宮氏が前書きでつづられていた様な翻訳の際苦慮されたことの痕跡と考えられ、時間の制約から訳文を練りきれなかったものと忖度されます。「さっぱり分からない」は聊か酷評に過ぎており、この脚注が付された段落を見れば明白ですが、ここでは森岡氏のいうような「時価評価額」の「算出」といったスタティックな会計的概念や決算プロセスが問題とされているわけではありません。敢えて言えば「算出」という言葉を選んだ時点で森岡氏の誤読であることがよくわかります。
短期的、投機思惑的で社会的合理性を欠く投資とこれに対する長期的投資とが比較されるコンテクストで投資に臨む姿勢や動態が具体的に問題にされている箇所なので、ここの”calculates”は「計算する」という狭い意味ではなく比喩的な「見込む」の方の意味です。たしかに間宮氏の「資本評価の計算をも業務とする」では筆が滑った印象ですが、「資本評価も計算にいれて業務をする」と「てにをは」など軽微な修正を施すと、もう一方の「業務」がない塩野屋氏訳よりグッとケインズの真意に近づいてきます。ある意味本質をつくところが間宮氏訳には垣間見えます。
[B']また、「このような業務は ふつうは節度を旨とすると考えられているが」という訳は、間宮氏が無意識にに”calculates”の正しい意味を捉えており、「計算する」という誤解を与えかねない直訳調を「業務」という言葉を敢えて挿入し、文章全体で意味の補正をされようとしているのでこう訳されていると容易に想像できますので、上述の軽微な修正を施したほうがよいとはいえ、「分からない」とは申せません。森岡氏が分からぬのは”calculates”を「時価評価額」の「算出」などと誤読している所為です。
また、森岡氏が「原文のtend toをどう解釈したか が分からない」というのもややつれなく、ここを間宮氏はおそらく修辞と解釈されて同氏の追われた文脈で意訳調とされたと考えられます。森岡氏は「逐語訳は通常、翻訳調、学者訳などとも いわれ、「平明な日本語」とは矛盾する 」と認識されながら上記引用箇所より前で間宮氏の「『逐語訳』は、やはり翻訳調のことなのかと思わざる をえない」とすげないですが、間宮氏は、もともと矛盾することではあるけれど、敢えて混在させているよう思えます。 構成次第で相入れない要素が混在することはありうるのはハイデガーの「存在と時間」など典型でしょう。
間宮氏の混在が悪いと思えないのは、例えば12章6節冒頭段落後半の「産業投資が主流で、投機家がその流れに浮かぶ泡沫なら問題ないが、逆に産業投資のほうが投機の渦に浮かぶあぶくになっちゃうんじゃ具合が悪い」という文章と「Wall Streetを古典派のドグマ、美名もとで糊塗したところで、奴らの銭ゲバの品性みえみえ」という主旨の皮肉な文章の間に挟まっている”When the capital development of a country becomes a by-product of the activities of a casino, the job is likely to be ill-done”のコンマ以下の意訳は既存のものでは流れを止めないという意味で最良だからです。
”the job is likely to be ill-done”
の意味をとるとこれは
株屋はいい仕事をやってない虞があります(=証券市場は見えざる手によって最適な資源配分を達成していない)。
で
(1)”the job”は特定の仕事をすることがもたらした成果(「いい仕事してますね〜」という時の仕事)を表し
(2)"be likely to"は、「ありそうな, 起りそうな;[S is ~ to do;it is ~ (that)節]〈人・物・事は〉…しそうである, たぶん…するであろう」 ではなく、修辞の表現 「虞があります 」です。こうした言い回しは弁護士事務所から来るレターなどで頻繁にお目にかかります。
他の多く翻訳者のように”the job”の意味をはっきり捉えられず"be likely to"を「…しそうである」とか「たぶん…するであろう」と誤読すると、文脈が破壊されよく読むと話がつながらなくなりますが、間宮氏はこれを直感的に回避され聊かアクロバティックな意訳をされています。これは下巻をご覧ください。
なお、ここのくだりの数ある翻訳の中でわけても最低なのは『危機の中で〈ケインズ〉から学ぶ――資本主義とヴィジョンの再生を目指して 』のなかの伊東氏インタビュー後の若田部というひとの埋め草2頁にある「一国の資本発展はうまく達成されそうにない」 というものです(これについての詳細は同書にかかるコメントをご覧ください)。
出版当初、間宮氏翻訳への罵詈讒謗は猖獗を極めていましたが、殆どが本当に英語が読めているかどうか極めて疑わしいヤマカン語学と思しき人によるもので、しかも上例や講談社学術文庫版の翻訳者のように、そうした人によくあるように自らを省みることも無く、単なる悪口を出版物にのっけるなどという常軌を逸したものでした。しかし、これがクワスのお国自慢で彼らの翻訳をみると読むに耐えない、まったく出鱈目、噴飯ものでしたから、往時の異常さは本当に不快でした。
森岡氏の著書を拝見するとそのストイックな態度には共感致しますが、彼の翻訳したスキデルスキーの『なにがケインズを復活させたのか? 』にもケインズの『貨幣改革論』からの引用箇所(「長期において人は皆死ぬ」というくだりで"current affairs”を正しく「時務」の意味にとれていない )には、口ぶりを真似ると「原文を読むと何ということもないことが書かれているところに」意味不明な誤訳がありここも「正直なところ、さっぱり分からない」と申せましょう。
別に翻訳者は神様でも何でもありませんし、ハチャメチャの限りでもない限りいちいち目くじらを立てるには及ばないと思います。むしろ、他のレビューで御指摘の通り岩波文庫版にはハードルを下げる工夫が複数あるライトファーデンとしての長所があります。ですが、翻訳に誤訳は付き物なので、読了後は原書にあたることは避けえませんが、それは著名な岩井克人氏が回想されるような夢中になる体験となるかもしれません。
ただ入門者が避けるべきは、講談社学術文庫版ようなのフィーリング翻訳で文脈が追えず何回読んでも意味がわからないようなものに時間とお金を浪費することです。まるで頓珍漢なので、「他山の石以て」というのも叶わないでしょう。まさに以ての外というわけで。。。。
この下巻には、高名な宇沢氏の解題がついてこれだけでも入門者にとっては大分見通しが良くなります。なかんずく、そこで同氏が(また高名な伊東光晴氏も)指摘されているようにケインズの英語ではヴェブレンのと同様、その華麗な修辞と深い含蓄を見誤ってはいけません。また、経済理論に詳しいというだけという人がそれをちゃんと汲み取れるとはとうてい思えません。星は英語が読めてなさそうな人の偏向を考慮して5つとしました。次善ということではあるかもしれませんが入門者にとって翻訳の選択肢は現状これしかありません。
注1
森岡氏がこの箇所を取り上げるのは、この英語の「注がついている段落の」間宮氏の「解釈に問題があると思えるから」とされ、さらに辛口の批判を展開されます。長くなるのでコメントしませんが、間宮氏が「ケインズのファンダメンタルズに立脚する投機での苦境エピソード」を踏まえられていることは明らかで、間宮氏が少し舌足らずの印象はありますが、森岡氏の口ぶりはやや熾烈にすぎます。
注2
講談社学術文庫版翻訳者の「冒頭脚注の翻訳」も、例によって例のごとく、勿論誤訳です。” calculates”の意味が取れてませんし、「助長する」なんてことは原文のどこにも書いてありません。
また、この翻訳者では下巻の21章第3節のつぎの有名な箇所もわけが分からないことになってます。
It is a great fault of symbolic pseudo-mathematical methods of formalising a system of economic analysis, such as we shall set down in section vi of this chapter, that they expressly assume strict independence between the factors involved and lose all their cogency and authority if this hypothesis is disallowed; whereas, in ordinary discourse, where we are not blindly manipulating but know all the time what we are doing and what the words mean, we can keep 'at the back of our heads' the necessary reserves and qualifications and the adjustments which we shall have to make later on, in a way in which we cannot keep complicated partial differentials 'at the back' of several pages of algebra which assume that they all vanish. Too large a proportion of recent 'mathematical' economics are merely concoctions, as imprecise as the initial assumptions they rest on, which allow the author to lose sight of the complexities and interdependencies of the real world in a maze of pretentious and unhelpful symbols.
意味をとると
経済を分析するのに整然とした手順でそれを定式化するようなやり方(formalising a system of economic analysis)、すなわち(of )、数学記号をつかった擬似数学的手法を本章第6節の説明でも用いますが、これにはひとつ大きな欠点があります。つまり関係がある入り組んだ諸事象を変数(factors involved)として相互に独立と明示的に仮定するので、もしこれが認められなければ、説得力( cogency and authority )がまったくありません。そういうことなので、経済を分析するならいつも(in ordinary discourse)、機械的に数式を用いて通り一遍でやっつける(blindly manipulating)のではなく、今、一体何をやっているのかまた、使っている各用語が意味するところは何かちゃんと自覚して、後からしなくちゃならないだろうし手を抜いてもいけない保留や限定や修正のことを、常に「頭の片隅(at the back of our heads)」に、置いとかないといけません(can)。といっても、xやyを使った式をもともと長々書かなきゃいけないページ(several pages of algebra)で、そこでやる込み入った偏微分を、いくら眼光徹すべき紙背とはいってもそこへうっちゃって、ページ上から(at the back)全部消して見えなくしちゃいけません(cannot)。それはそれとしても、近頃の「数理」経済学ってのは、数式を扱い単に細かく精緻に論ずる ばかり(merely concoctions)で、それがよってたつ初っ端の根拠がない仮定(initial assumptions)と同じくここで述べてきたような肝とな る入念な考察を欠いている(imprecise)ので、現実が複雑に絡み合って相互に関係している姿(sight of the complexities and interdependencies of the real world )を見失い(lose)、うわべだけで現実にある連関を顧みないから助けにならない(pretentious and unhelpful)数学記号で造り上げた(of)迷宮でやってる当人も迷子(lose in a maze)になっちゃてると思いますよ(allow the author to)。
となりますが、講談社学術文庫版の翻訳者では次のとおり変なものになってます。
経済分析システムの定式化として使われる、記号重視の数学もどき手法(本章のセクションIV でやるようなものです)の大きなまちがいは、関連要素同士が厳密に独立だとはっきり想定してしまい、その仮説が許されない場合には説得力や意義が一切失われてしまうということなのです。これに対して、普通の言葉での表現だと、やみくもに操作を行うだけではなく、常に自分が何をしていて言葉が何を意味しているか知っているので、後で考慮すべき留保条件や但し書きや調整をすべて「頭の後ろに」持っておけるのです。でもややこしい偏微分方程式を何ページにもわたる数式(しかもその偏微分がすべて消えてしまうと想定しているもの)の「後ろ」に置いておくことなどできません。最近の「数理」経済学のあまりに大きな部 分は、単なる作り物でしかなく、その根底にある当初の想定と同じくらい厳密性に欠け、著者はもったいぶった役立たずな記号の迷路の中で、現実世界の複雑性 や相互依存性を見失ってしまうのです。
これではそもそも日本語としておかしいし、さきに意味をとった箇所で英単語を併記したところは(誤訳を全部指摘したわけではありませんが)、明らかに英語が読めていません。翻訳もどきです。これだけ高密度で誤訳されるとイタコでもない限りケインズが何が言いたいのかは分かりようがありません。数学が得意でないロバートソンが耳を貸さず3章の総需要-総供給 model を”mumbo jumbo ”としたのは致し方ないですが、この訳では数学が得意なひとにも”Abracadabr ”でしょう。
ここで「ややこしい偏微分方程式を何ページにもわたる数式(しかもその偏微分がすべて消えてしまうと想定しているもの)の「後ろ」に置」くとはいったい具体的にどのようなことなのでしょうか?”equation”とかいう単語は原文には見当たりませんし、” algebra”は、主ぶらぶら「代数」を解くのほうか、「骨つぎ」のいずれかしか意味が普通ありませんが、いつから数式一般をさすこんな意味となったのしょうか?これではあまりに馬鹿げています。これを読んで唖然としない人がはたしているのでしょうか?こうした誤訳を忍耐の末読んだとしても仁和寺にある法師ならずとも極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰り、山までは見ずということになりかねない。
なお、この箇所の間宮氏訳は下巻64ページにあります。時間上の制約の所為か翻訳は十全とはいえませんが、本格的に取り組む前に取り敢えず雰囲気をつかむことはできます。 最後に講談社学術文庫版の誤訳の指摘ばかりすることになったのですこしバランスをとっておけば、講談社学術文庫版所収のケインズ同様華麗な修辞と深い含蓄のヴェブレンの著作の翻訳などはその拙劣なケインズものと比べるとまったく趣を異にしさながら月と何とかで、出来不出来は出版社にはよらず翻訳者次第であることを申し添えておきます。
次のケインズの原文
Author’s Footnotes
“4. The practice, usually considered prudent, by which an investment trust or an insurance office frequently calculates not only the income from its investment portfolio but also its capital valuation in the market, may also tend to direct too much attention to short-term fluctuations in the latter.”
最初に意味をとっておくとこれは
「(注が付された本文にあるような常識的守旧的な監視監督下にある長期投資やその機関、例えば)投資信託や保険会社(an insurance office)で実務上一般に思慮深いとされるやり方では、投資したポートフォリオからの上がりだけでなく元手である投資ポートフォリオ自体の証券市場での値上がり値下がりも、多くの場合勘定に入れることになりますが(frequently calculates)、このことも同じように短期的値動きばかりをやたら気に掛けさせている(direct too much attention to)ていのことかもしれんでしょうね(may tend to) 。」
という意味です。
この脚注の岩波版訳文への森岡氏コメントは次のように容赦ないものです。ちょっと長くなりますが見てみましょう。
--------------------(ここから)--------------------------------------
解読不可能な訳文
つぎにとりあげるのは、間宮訳 では解読が不可能だと思われる箇所である。意外なことに、間宮訳にはこうした部分が少なからずあった。典型例を紹介しよう。第一二章のうち、資本市場の性格を論じた有名な部分に、以下の注がついている。
例4
間宮訳
(1) 投資信託や保険会社は投資ポートフォリオの生む所得の計算だけでなく、その市場に おける資本評価の計算をも業務とするのがしばしばである。このような業務はふつうは節度を旨とすると考えられているが、後者〔市場における資本評 価〕の短期的変動にも度はずれた注意を払っているようだ。(同上218ページ)[6]
塩野谷祐一訳
(1) 投資信託や保険会社がしばしば投資証券からの所得だけでなく、市場における資本評 価をも計算する場合のやり方は、通常慎重であると考えられているけれども、後者の短期的変動にあまりにも多くの注意を向ける傾向がある。(同上156ページ)
[A]間宮訳のうち、「その市場における資本評価の計算をも業務とする」というのが具体的に 何を意味するのか、分かるだろうか。正直なところ、さっぱり分からない。内容は分からないが「資本評価」いう(ママ)仕事があって、それを企業か投資家の依頼を受 けて行っているのだろうかとでも想像するしかない。
ところが、原文を読むと何ということもないことが書かれているように思えてならない。 投資ポートフォリオのインカムだけでなく、時価評価額も算出するのが慎重な姿勢だと考えられているため、短期的なキャピタル・ゲイン(ロス)に注目しすぎ る結果になっているというのではないだろうか。この解釈が正しいとすると、塩野谷祐一訳では理解に苦労し、間宮訳ではまず、解読が不可能だと思える。
[B]それ以上の問題がある。塩野谷 祐一訳は原文のほぼ正確な逐語訳になっている。ところが間宮訳では、この原文からこの訳がなぜでてくるのか、理解に苦しむ。たとえば、「このような業務は ふつうは節度を旨とすると考えられているが」という訳がどうしてでてくるのか分からない。また、原文のtend toをどう解釈したか が分からない。
*注1
--------------------(ここまで、但しかぎ括弧のアルファベットは引用者が挿入)----------------------------
[A']ここで森岡氏が「具体的に 何を意味するのか、分かるだろうか。正直なところ、さっぱり分からない。」とされているのは「時価評価額も算出するのが慎重な姿勢だと考えられているため」というような理解に同氏が止まられているので、森岡氏には皆目見当がつかぬだけのことで、ある意味本質をつくところが間宮氏訳には垣間見えます。
ただこの箇所は、間宮氏が前書きでつづられていた様な翻訳の際苦慮されたことの痕跡と考えられ、時間の制約から訳文を練りきれなかったものと忖度されます。「さっぱり分からない」は聊か酷評に過ぎており、この脚注が付された段落を見れば明白ですが、ここでは森岡氏のいうような「時価評価額」の「算出」といったスタティックな会計的概念や決算プロセスが問題とされているわけではありません。敢えて言えば「算出」という言葉を選んだ時点で森岡氏の誤読であることがよくわかります。
短期的、投機思惑的で社会的合理性を欠く投資とこれに対する長期的投資とが比較されるコンテクストで投資に臨む姿勢や動態が具体的に問題にされている箇所なので、ここの”calculates”は「計算する」という狭い意味ではなく比喩的な「見込む」の方の意味です。たしかに間宮氏の「資本評価の計算をも業務とする」では筆が滑った印象ですが、「資本評価も計算にいれて業務をする」と「てにをは」など軽微な修正を施すと、もう一方の「業務」がない塩野屋氏訳よりグッとケインズの真意に近づいてきます。ある意味本質をつくところが間宮氏訳には垣間見えます。
[B']また、「このような業務は ふつうは節度を旨とすると考えられているが」という訳は、間宮氏が無意識にに”calculates”の正しい意味を捉えており、「計算する」という誤解を与えかねない直訳調を「業務」という言葉を敢えて挿入し、文章全体で意味の補正をされようとしているのでこう訳されていると容易に想像できますので、上述の軽微な修正を施したほうがよいとはいえ、「分からない」とは申せません。森岡氏が分からぬのは”calculates”を「時価評価額」の「算出」などと誤読している所為です。
また、森岡氏が「原文のtend toをどう解釈したか が分からない」というのもややつれなく、ここを間宮氏はおそらく修辞と解釈されて同氏の追われた文脈で意訳調とされたと考えられます。森岡氏は「逐語訳は通常、翻訳調、学者訳などとも いわれ、「平明な日本語」とは矛盾する 」と認識されながら上記引用箇所より前で間宮氏の「『逐語訳』は、やはり翻訳調のことなのかと思わざる をえない」とすげないですが、間宮氏は、もともと矛盾することではあるけれど、敢えて混在させているよう思えます。 構成次第で相入れない要素が混在することはありうるのはハイデガーの「存在と時間」など典型でしょう。
間宮氏の混在が悪いと思えないのは、例えば12章6節冒頭段落後半の「産業投資が主流で、投機家がその流れに浮かぶ泡沫なら問題ないが、逆に産業投資のほうが投機の渦に浮かぶあぶくになっちゃうんじゃ具合が悪い」という文章と「Wall Streetを古典派のドグマ、美名もとで糊塗したところで、奴らの銭ゲバの品性みえみえ」という主旨の皮肉な文章の間に挟まっている”When the capital development of a country becomes a by-product of the activities of a casino, the job is likely to be ill-done”のコンマ以下の意訳は既存のものでは流れを止めないという意味で最良だからです。
”the job is likely to be ill-done”
の意味をとるとこれは
株屋はいい仕事をやってない虞があります(=証券市場は見えざる手によって最適な資源配分を達成していない)。
で
(1)”the job”は特定の仕事をすることがもたらした成果(「いい仕事してますね〜」という時の仕事)を表し
(2)"be likely to"は、「ありそうな, 起りそうな;[S is ~ to do;it is ~ (that)節]〈人・物・事は〉…しそうである, たぶん…するであろう」 ではなく、修辞の表現 「虞があります 」です。こうした言い回しは弁護士事務所から来るレターなどで頻繁にお目にかかります。
他の多く翻訳者のように”the job”の意味をはっきり捉えられず"be likely to"を「…しそうである」とか「たぶん…するであろう」と誤読すると、文脈が破壊されよく読むと話がつながらなくなりますが、間宮氏はこれを直感的に回避され聊かアクロバティックな意訳をされています。これは下巻をご覧ください。
なお、ここのくだりの数ある翻訳の中でわけても最低なのは『危機の中で〈ケインズ〉から学ぶ――資本主義とヴィジョンの再生を目指して 』のなかの伊東氏インタビュー後の若田部というひとの埋め草2頁にある「一国の資本発展はうまく達成されそうにない」 というものです(これについての詳細は同書にかかるコメントをご覧ください)。
出版当初、間宮氏翻訳への罵詈讒謗は猖獗を極めていましたが、殆どが本当に英語が読めているかどうか極めて疑わしいヤマカン語学と思しき人によるもので、しかも上例や講談社学術文庫版の翻訳者のように、そうした人によくあるように自らを省みることも無く、単なる悪口を出版物にのっけるなどという常軌を逸したものでした。しかし、これがクワスのお国自慢で彼らの翻訳をみると読むに耐えない、まったく出鱈目、噴飯ものでしたから、往時の異常さは本当に不快でした。
森岡氏の著書を拝見するとそのストイックな態度には共感致しますが、彼の翻訳したスキデルスキーの『なにがケインズを復活させたのか? 』にもケインズの『貨幣改革論』からの引用箇所(「長期において人は皆死ぬ」というくだりで"current affairs”を正しく「時務」の意味にとれていない )には、口ぶりを真似ると「原文を読むと何ということもないことが書かれているところに」意味不明な誤訳がありここも「正直なところ、さっぱり分からない」と申せましょう。
別に翻訳者は神様でも何でもありませんし、ハチャメチャの限りでもない限りいちいち目くじらを立てるには及ばないと思います。むしろ、他のレビューで御指摘の通り岩波文庫版にはハードルを下げる工夫が複数あるライトファーデンとしての長所があります。ですが、翻訳に誤訳は付き物なので、読了後は原書にあたることは避けえませんが、それは著名な岩井克人氏が回想されるような夢中になる体験となるかもしれません。
ただ入門者が避けるべきは、講談社学術文庫版ようなのフィーリング翻訳で文脈が追えず何回読んでも意味がわからないようなものに時間とお金を浪費することです。まるで頓珍漢なので、「他山の石以て」というのも叶わないでしょう。まさに以ての外というわけで。。。。
この下巻には、高名な宇沢氏の解題がついてこれだけでも入門者にとっては大分見通しが良くなります。なかんずく、そこで同氏が(また高名な伊東光晴氏も)指摘されているようにケインズの英語ではヴェブレンのと同様、その華麗な修辞と深い含蓄を見誤ってはいけません。また、経済理論に詳しいというだけという人がそれをちゃんと汲み取れるとはとうてい思えません。星は英語が読めてなさそうな人の偏向を考慮して5つとしました。次善ということではあるかもしれませんが入門者にとって翻訳の選択肢は現状これしかありません。
注1
森岡氏がこの箇所を取り上げるのは、この英語の「注がついている段落の」間宮氏の「解釈に問題があると思えるから」とされ、さらに辛口の批判を展開されます。長くなるのでコメントしませんが、間宮氏が「ケインズのファンダメンタルズに立脚する投機での苦境エピソード」を踏まえられていることは明らかで、間宮氏が少し舌足らずの印象はありますが、森岡氏の口ぶりはやや熾烈にすぎます。
注2
講談社学術文庫版翻訳者の「冒頭脚注の翻訳」も、例によって例のごとく、勿論誤訳です。” calculates”の意味が取れてませんし、「助長する」なんてことは原文のどこにも書いてありません。
また、この翻訳者では下巻の21章第3節のつぎの有名な箇所もわけが分からないことになってます。
It is a great fault of symbolic pseudo-mathematical methods of formalising a system of economic analysis, such as we shall set down in section vi of this chapter, that they expressly assume strict independence between the factors involved and lose all their cogency and authority if this hypothesis is disallowed; whereas, in ordinary discourse, where we are not blindly manipulating but know all the time what we are doing and what the words mean, we can keep 'at the back of our heads' the necessary reserves and qualifications and the adjustments which we shall have to make later on, in a way in which we cannot keep complicated partial differentials 'at the back' of several pages of algebra which assume that they all vanish. Too large a proportion of recent 'mathematical' economics are merely concoctions, as imprecise as the initial assumptions they rest on, which allow the author to lose sight of the complexities and interdependencies of the real world in a maze of pretentious and unhelpful symbols.
意味をとると
経済を分析するのに整然とした手順でそれを定式化するようなやり方(formalising a system of economic analysis)、すなわち(of )、数学記号をつかった擬似数学的手法を本章第6節の説明でも用いますが、これにはひとつ大きな欠点があります。つまり関係がある入り組んだ諸事象を変数(factors involved)として相互に独立と明示的に仮定するので、もしこれが認められなければ、説得力( cogency and authority )がまったくありません。そういうことなので、経済を分析するならいつも(in ordinary discourse)、機械的に数式を用いて通り一遍でやっつける(blindly manipulating)のではなく、今、一体何をやっているのかまた、使っている各用語が意味するところは何かちゃんと自覚して、後からしなくちゃならないだろうし手を抜いてもいけない保留や限定や修正のことを、常に「頭の片隅(at the back of our heads)」に、置いとかないといけません(can)。といっても、xやyを使った式をもともと長々書かなきゃいけないページ(several pages of algebra)で、そこでやる込み入った偏微分を、いくら眼光徹すべき紙背とはいってもそこへうっちゃって、ページ上から(at the back)全部消して見えなくしちゃいけません(cannot)。それはそれとしても、近頃の「数理」経済学ってのは、数式を扱い単に細かく精緻に論ずる ばかり(merely concoctions)で、それがよってたつ初っ端の根拠がない仮定(initial assumptions)と同じくここで述べてきたような肝とな る入念な考察を欠いている(imprecise)ので、現実が複雑に絡み合って相互に関係している姿(sight of the complexities and interdependencies of the real world )を見失い(lose)、うわべだけで現実にある連関を顧みないから助けにならない(pretentious and unhelpful)数学記号で造り上げた(of)迷宮でやってる当人も迷子(lose in a maze)になっちゃてると思いますよ(allow the author to)。
となりますが、講談社学術文庫版の翻訳者では次のとおり変なものになってます。
経済分析システムの定式化として使われる、記号重視の数学もどき手法(本章のセクションIV でやるようなものです)の大きなまちがいは、関連要素同士が厳密に独立だとはっきり想定してしまい、その仮説が許されない場合には説得力や意義が一切失われてしまうということなのです。これに対して、普通の言葉での表現だと、やみくもに操作を行うだけではなく、常に自分が何をしていて言葉が何を意味しているか知っているので、後で考慮すべき留保条件や但し書きや調整をすべて「頭の後ろに」持っておけるのです。でもややこしい偏微分方程式を何ページにもわたる数式(しかもその偏微分がすべて消えてしまうと想定しているもの)の「後ろ」に置いておくことなどできません。最近の「数理」経済学のあまりに大きな部 分は、単なる作り物でしかなく、その根底にある当初の想定と同じくらい厳密性に欠け、著者はもったいぶった役立たずな記号の迷路の中で、現実世界の複雑性 や相互依存性を見失ってしまうのです。
これではそもそも日本語としておかしいし、さきに意味をとった箇所で英単語を併記したところは(誤訳を全部指摘したわけではありませんが)、明らかに英語が読めていません。翻訳もどきです。これだけ高密度で誤訳されるとイタコでもない限りケインズが何が言いたいのかは分かりようがありません。数学が得意でないロバートソンが耳を貸さず3章の総需要-総供給 model を”mumbo jumbo ”としたのは致し方ないですが、この訳では数学が得意なひとにも”Abracadabr ”でしょう。
ここで「ややこしい偏微分方程式を何ページにもわたる数式(しかもその偏微分がすべて消えてしまうと想定しているもの)の「後ろ」に置」くとはいったい具体的にどのようなことなのでしょうか?”equation”とかいう単語は原文には見当たりませんし、” algebra”は、主ぶらぶら「代数」を解くのほうか、「骨つぎ」のいずれかしか意味が普通ありませんが、いつから数式一般をさすこんな意味となったのしょうか?これではあまりに馬鹿げています。これを読んで唖然としない人がはたしているのでしょうか?こうした誤訳を忍耐の末読んだとしても仁和寺にある法師ならずとも極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰り、山までは見ずということになりかねない。
なお、この箇所の間宮氏訳は下巻64ページにあります。時間上の制約の所為か翻訳は十全とはいえませんが、本格的に取り組む前に取り敢えず雰囲気をつかむことはできます。 最後に講談社学術文庫版の誤訳の指摘ばかりすることになったのですこしバランスをとっておけば、講談社学術文庫版所収のケインズ同様華麗な修辞と深い含蓄のヴェブレンの著作の翻訳などはその拙劣なケインズものと比べるとまったく趣を異にしさながら月と何とかで、出来不出来は出版社にはよらず翻訳者次第であることを申し添えておきます。
2013年3月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
特に雇用問題への慧眼には敬服する。中でも第20章の雇用関数はすばらしい。
2008年12月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
下巻ではケインズが批判の対象にしたピグーの「失業の理論」を取り上げています。最後はケインズの社会哲学に触れていますが、これを読むと、ケインズがこの本を書くまでに、過去の多くの経済学者の考えを学んだ上で自ら消化していることが感じられるでしょう。
また、巻末の宇沢弘文氏の解題は非常に価値のあるものです。この上下巻を読む前に、この解題を読んでおいた方が、より理解が深まると思います。
この本は「一般理論」という題名になっていますが、ケインズ自身は、当時の世界的な大恐慌下と言う特殊な状況を意識して書いたある種「どんな状況にでも当てはまるのではなく、必ずしも一般的とは言えない」”一般理論”であると言うことはよく意識しておいていただきたいと思います。もしも、今、ケインズが生きていたら「一般理論」は、別の書物のごとく全面的に改訂されることは間違いないと思います。他のケインズの書物にも言えることですが、ケインズはその時その時の経済状況・制度等に応じてベストな内容の書物や膨大な数の論文を書き続けていたのです。
最後に、ケインズの本を読むにあたっては、決して訓詁学的に読んでほしくないと思います。
官庁エコノミストの大物の金森さんの回想によると「一般理論」を何度も読み込んでいた宮沢喜一さんが経済企画庁長官の時、「金森君 こういう場合、ケインズだったらどうするだろうね」と何度もおっしゃったそうです。これこそ、「一般理論」を訓詁学的に読むのではなく、そこからケインズ的考えを学んだ素晴らしい例だと思います。
また、巻末の宇沢弘文氏の解題は非常に価値のあるものです。この上下巻を読む前に、この解題を読んでおいた方が、より理解が深まると思います。
この本は「一般理論」という題名になっていますが、ケインズ自身は、当時の世界的な大恐慌下と言う特殊な状況を意識して書いたある種「どんな状況にでも当てはまるのではなく、必ずしも一般的とは言えない」”一般理論”であると言うことはよく意識しておいていただきたいと思います。もしも、今、ケインズが生きていたら「一般理論」は、別の書物のごとく全面的に改訂されることは間違いないと思います。他のケインズの書物にも言えることですが、ケインズはその時その時の経済状況・制度等に応じてベストな内容の書物や膨大な数の論文を書き続けていたのです。
最後に、ケインズの本を読むにあたっては、決して訓詁学的に読んでほしくないと思います。
官庁エコノミストの大物の金森さんの回想によると「一般理論」を何度も読み込んでいた宮沢喜一さんが経済企画庁長官の時、「金森君 こういう場合、ケインズだったらどうするだろうね」と何度もおっしゃったそうです。これこそ、「一般理論」を訓詁学的に読むのではなく、そこからケインズ的考えを学んだ素晴らしい例だと思います。
2009年1月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
一回目に読んだ時にはチンプンカンプン。巻末の解説、さらに他のケインズの解説本を読んだ後、再度読み返してみてほぼ納得したものの、まだ解らない箇所あり。それほど難解ですが、読み込む価値は十二分にある本です。
古典と言うよりは今明らかに通用する提言がなされており、今回の世界金融危機でケインズが見直されることは間違いないでしょう。下巻では貨幣賃金の切り下げがどんな弊害をもたらすか、詳しく論じられています。日本の失敗ぶりなんてまさに「教科書通り」で、「お見事!」と呆れるしかありません。。。
古典と言うよりは今明らかに通用する提言がなされており、今回の世界金融危機でケインズが見直されることは間違いないでしょう。下巻では貨幣賃金の切り下げがどんな弊害をもたらすか、詳しく論じられています。日本の失敗ぶりなんてまさに「教科書通り」で、「お見事!」と呆れるしかありません。。。
2011年12月23日に日本でレビュー済み
(上巻に関しては、レビューに同じタイトルで登録済み)
上巻と異なり、下巻のボリュームは、実質3分の2である。解題と題された宇沢弘文氏の論文と、著者自身の覚書が、最後に付加されている他、索引が上巻もまとめて、下巻に配置されているからである。
純粋に一般理論だけを読みたい読者にとっては、解題が必要であるか、疑問は残る。もっと、ボリュームを薄くして、1冊にまとめるとか、上下巻に分けるにしてもより薄く、価格を安く仕上げることができたと思う。
ただ、はるか昔に読んだ一般理論が読みやすい現代版としてよみがえり、塩野谷九十九氏の訳も思い出させてくれた。訳の対比から、見えてくるものもある。個人的には、一般理論は、100通りの訳がでてきてもよいと思う。読者は、この本を読んだ後で、仕上げとして原著の「The General Theory」を読み、独自の一般理論像を確立してほしい。
上巻と異なり、下巻のボリュームは、実質3分の2である。解題と題された宇沢弘文氏の論文と、著者自身の覚書が、最後に付加されている他、索引が上巻もまとめて、下巻に配置されているからである。
純粋に一般理論だけを読みたい読者にとっては、解題が必要であるか、疑問は残る。もっと、ボリュームを薄くして、1冊にまとめるとか、上下巻に分けるにしてもより薄く、価格を安く仕上げることができたと思う。
ただ、はるか昔に読んだ一般理論が読みやすい現代版としてよみがえり、塩野谷九十九氏の訳も思い出させてくれた。訳の対比から、見えてくるものもある。個人的には、一般理論は、100通りの訳がでてきてもよいと思う。読者は、この本を読んだ後で、仕上げとして原著の「The General Theory」を読み、独自の一般理論像を確立してほしい。