夏目漱石は本書『文学論』において、F(Focus)とf(feeling)の組み合わせで文学を説明しようとする。「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものと云ひ得べし」と提示されている。これを現在の脳科学等の知見を加味して、以下のように解釈してみた。
日常的に経験される無数の感覚(f)、視覚、聴覚、触覚、身体感覚などに焦点を与え、統合された認知をもたらすのがF(Focus)である。Fは漱石によって観念と呼ばれる。この認知プロセスは、例えば目の前の本の場合、見た目も、叩いた時の音も、この手触りからして(f)、これは本だとの観念(F)を持つと一般的に説明される。もしそうなら、漱石は(f→F)と書いたはずだ。そうではなく(F+f)としたのが、漱石認識論のミソである。→を+にしたことばかりでなく、Fをfの前にしたことも漱石の独創である。
Fがfの前にある理由は、言語を用いる文学においては、その表現手段である文字はFの機能をあらかじめ有しているからである。また、→を+にした理由は、日常の経験、つまりfによってFとfの結びつきが解体されることもあれば、fの集積が新たなFとfの結びつきが形成されることもあるからである。
『文学論』においては科学と文学の違いも重要な主題となっている(第一編第三章)。科学論文はFのみで構成することが可能だが、文学は情緒的要素(f)が欠かせないが、fだけで構成されるものではない。だから(F+f)なのだ。つまり「悲しみ」という観念がなければ「かなしみ」という感情経験はないのだ。(リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる─脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』より;情動を経験したり知覚したりするには、情動概念が必要とされる(p.236)。)
第四編第八章 間隔論では、読者、作家、作中人物の隔たり・距離が論じられる。文学はこの三者の距離を縮める。縮める手段としてもっとも典型的なのが人称代名詞の転換であるという。「彼」と「汝」と「余」が比較され、「余に至つて作者と篇中人物とは全く同化するが故に読者への距離は尤も短縮せるものなり」となる。『文学論』以前、1905年に「ホトトギス」に発表された『吾輩は猫である』は、この「余」の成功例といえよう。だれも余が猫であるとは思わない。余は作者の漱石に違いないのだ。
小説は、他者(作者)の目から世界を見るトレーニングである。これは道徳的な行為ということができる。小説ばかりでなく芸術は美を追求するが、それは常に他者を配慮するという善につながっている。漱石の小説がどれほど我々を導いたか、計り知れない。
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文学論 上 (岩波文庫 緑 11-17) 文庫 – 2007/2/16
夏目 漱石
(著)
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- 本の長さ405ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2007/2/16
- 寸法10.5 x 2.5 x 14.8 cm
- ISBN-104003600142
- ISBN-13978-4003600146
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2007/2/16)
- 発売日 : 2007/2/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 405ページ
- ISBN-10 : 4003600142
- ISBN-13 : 978-4003600146
- 寸法 : 10.5 x 2.5 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 350,024位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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(1867-1916)1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。
帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表し大評判となる。
翌年には『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。
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2008年2月16日に日本でレビュー済み
漱石の文学論。
漱石は力量においては、中学の3年間だけで英検一級程度の語学力に上昇したという非常な秀才であったらしいが、英国留学においてはコミニケーションがうまくいかず苦悩したあげく、発狂のうわさが帰国の留学生から伝えられるほどだったと云われていた。
この本の序文にはそのときの苦い思い出つづられて、自分は官命によって留学し英語を学ぶつもりが果たしてかなわず、下宿に篭って英文学研究に勤しんだことが書かれている。序文はつとに有名らしいが、その後半に帰朝後も「神経衰弱にして兼狂人」にして親戚のものすらこれを認めたとある。この狂気が天才と紙一重的な作品を生み出したかは宮城音弥の「天才」を読むとその構造がわかるというものだが、たしかに狂気は作品を生みえる土壌と漱石自身が捉えていたことに、まず驚いた。
しかし、それにしても、本書をとりあえず見てほしいところだが、「文学的内容の形式は「F+f」なることを要す」に始まり、容赦なく文学をこの式でズタズタにしていき、文学を数量的関係にみたてたり、分類してゆく。類型論というかジュネットという感じで構造主義の先駆のようだが、これほど読みにくくする必要はないだろう。気負いすぎである。こうした思いは当時の東大の学生にもあったようで、逆にその不評が当時の漱石いたく傷つけたようで「坊ちゃん」などにも恨みをぶつけているところが顕れているところだが、不評は無理もない。
しかし、この文学論にぶつかって会得することはあるに違いない。なにしろ、漱石の文学を生んだのはこの文学論以降なのだから。
漱石は力量においては、中学の3年間だけで英検一級程度の語学力に上昇したという非常な秀才であったらしいが、英国留学においてはコミニケーションがうまくいかず苦悩したあげく、発狂のうわさが帰国の留学生から伝えられるほどだったと云われていた。
この本の序文にはそのときの苦い思い出つづられて、自分は官命によって留学し英語を学ぶつもりが果たしてかなわず、下宿に篭って英文学研究に勤しんだことが書かれている。序文はつとに有名らしいが、その後半に帰朝後も「神経衰弱にして兼狂人」にして親戚のものすらこれを認めたとある。この狂気が天才と紙一重的な作品を生み出したかは宮城音弥の「天才」を読むとその構造がわかるというものだが、たしかに狂気は作品を生みえる土壌と漱石自身が捉えていたことに、まず驚いた。
しかし、それにしても、本書をとりあえず見てほしいところだが、「文学的内容の形式は「F+f」なることを要す」に始まり、容赦なく文学をこの式でズタズタにしていき、文学を数量的関係にみたてたり、分類してゆく。類型論というかジュネットという感じで構造主義の先駆のようだが、これほど読みにくくする必要はないだろう。気負いすぎである。こうした思いは当時の東大の学生にもあったようで、逆にその不評が当時の漱石いたく傷つけたようで「坊ちゃん」などにも恨みをぶつけているところが顕れているところだが、不評は無理もない。
しかし、この文学論にぶつかって会得することはあるに違いない。なにしろ、漱石の文学を生んだのはこの文学論以降なのだから。
2022年8月27日に日本でレビュー済み
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26歳の時、角川文庫版漱石を全読した。数十年後再読にあたり漱石の文学観の指標になればと思い購入。結果、一筋縄ではいかない、本体は大学の講義ですから、英文学の英文による引用が沢山あり英文解釈力も要求され難読です。自分は上下巻同時購入でしたが途中で手に余る方もおられるのではと杞憂するほど難解です。が、理解した時の喜びも大きい。なおいつの日にか全小説再読がかなってここが生かされていたなんて詳述できたならレビューの改訂をするかもしれません。