本書には、人間が作り出したイデオロギー、ならびに、これまた人間の手による不条理の愚かしさが、スターリン時代のソビエト全体主義を通して、ものの見事に結晶化されている。テキストはさることならがら、訳文もまたすこぶる素晴らしい。400ページをこえる大著にもかかわらず、一挙に、読了してしまったのは、レビューワー自身にも驚きであった(笑)。
にもかかわらず、これは断っておいたほうがよいだろう→この本のコンテンツは決してpositiveといえるものではない。それでも、著者アーサー・ケストラーの力量たるや畏怖すべきもので、彼の手にかかるや、完璧なるnegativeな内容が、反転回帰的に、『巨大な生のエネルギー』へと反響してくるのである。
結果、これを読む者は、〜なんと形容したらよいのだろうか〜、ある意味潔い、かつ明朗な諦観的勇気を与えられることになる。まさにタイトルのとおり、『真昼の暗黒』、そのものに違いない。
このような陰陽表裏一体の喜びを体感させてくれる本というのは、なかなか希少である。ぜひ多くの読者には本書に身を委ねていただきたい。
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真昼の暗黒 (岩波文庫 赤 N 202-1) 文庫 – 2009/8/18
独房No.404に収監された元人民委員ルバショフ。覚えのない罪への三回の審問と獄中の回想、壁越しの囚人同士の交信に浮かぶ古参党員の運命。No.1とは誰か。なぜ自白は行われたか。スターリン時代の粛清の論理と戦慄のモスクワ裁判を描いて世界を震撼させたベストセラー。心理小説の傑作(1940年刊)。【解説=岡田久雄】
- 本の長さ432ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2009/8/18
- 寸法10.5 x 1.7 x 15 cm
- ISBN-104003720210
- ISBN-13978-4003720219
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2009/8/18)
- 発売日 : 2009/8/18
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 432ページ
- ISBN-10 : 4003720210
- ISBN-13 : 978-4003720219
- 寸法 : 10.5 x 1.7 x 15 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 344,920位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2021年9月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2013年9月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
架空の共産主義国家の権力闘争の過程で、どんなこと恐ろしいことがおこなわれてきたかが、描かれている。
実際、どこの共産主義国家でもあることで、理想的なイデオロギーと現実のひどさに、人類にとって、どんな国家がいいのか考えさせられる。
実際、どこの共産主義国家でもあることで、理想的なイデオロギーと現実のひどさに、人類にとって、どんな国家がいいのか考えさせられる。
2015年5月12日に日本でレビュー済み
おそらく、30年前にこの小説を読んでいたら、
共産圏の独裁とはげに恐ろしきものよと他人事で終わっていたであろうが、ふと気がつけば、我々の住むこの国が「真昼の暗黒」に向かって進行中なのかもしれない。
将来の日本においても、たくさんのルバショフが、彼よりも劣性なるグレトキンによって尋問調書を取られていく日が近づいているような気がする。
「目的のために手段を選ぶことなく。」
章の初めに書かれた以下のの引用は、現在も生きている。
「教会の存続が危機にある時は、
教会は道徳の掟から解き放たれる。目的に合致すれば、狡猾、裏切り、暴力、聖職売買、幽閉、暗殺などの手段さえ正当化される。なぜなら、全ての秩序は共同体のものであって、個人は、共同の利益のために犠牲にされねばならないからである。」
フェルデンの司教 フリードリヒ・フォン・ニーハイム
「教会の分裂について」第三巻 1411年
「往々にして、言葉は事実を隠蔽するために使われねばならない。しかしこれは、何人もそれに近づかぬように実行されねばならない。あるいは、気づかれた場合には、直ちに言い訳ができるようにしておかねばならない。」
マキャベリ「ラファエロ・ジローラミへの教訓」
共産圏の独裁とはげに恐ろしきものよと他人事で終わっていたであろうが、ふと気がつけば、我々の住むこの国が「真昼の暗黒」に向かって進行中なのかもしれない。
将来の日本においても、たくさんのルバショフが、彼よりも劣性なるグレトキンによって尋問調書を取られていく日が近づいているような気がする。
「目的のために手段を選ぶことなく。」
章の初めに書かれた以下のの引用は、現在も生きている。
「教会の存続が危機にある時は、
教会は道徳の掟から解き放たれる。目的に合致すれば、狡猾、裏切り、暴力、聖職売買、幽閉、暗殺などの手段さえ正当化される。なぜなら、全ての秩序は共同体のものであって、個人は、共同の利益のために犠牲にされねばならないからである。」
フェルデンの司教 フリードリヒ・フォン・ニーハイム
「教会の分裂について」第三巻 1411年
「往々にして、言葉は事実を隠蔽するために使われねばならない。しかしこれは、何人もそれに近づかぬように実行されねばならない。あるいは、気づかれた場合には、直ちに言い訳ができるようにしておかねばならない。」
マキャベリ「ラファエロ・ジローラミへの教訓」
2013年3月2日に日本でレビュー済み
一人称の使い方。「われわれ」ではなく、単数「わたし」を使うことは、党と人民への裏切り行為である。
イギリスの作家アーサー・ケストラーの小説。
共産主義全盛期の、ロシア人か東欧世界を想像していたのだが、イギリス人とは意外であった。
解説によると、スターリンの容赦ない粛清時代、「ブハーリン裁判」をモデルにしているらしい。
古参の党員で、革命の英雄でもある男(ルバショフ)が、ある日、いきなり逮捕され、独房で罪の告白を強要される。
審問は繰り返され、身の覚えのない「罪」を自白していく。つねに正しい党のため、誰かが「告白」しなくてはならない。
哀しいのは、革命を起こした(ルバショフたちの)第一世代は、古い時代の礼節を知っているのに対して、新しい世代の子ども達は、党の教育(思想教育)によって、まるで温かみのない人間へとなっているのだ。自分の親でさえも、密告するような。
ルバショフは、独房のなかで、記憶を呼び起こしていく。反体制運動のなかで、何度も監獄は経験している。だが、今度ばかりは違う。なにしろ、裁く側も裁かれるルバショフも。かつての仲間、同志である点である。
ルバショフ自身も、党の幹部であった頃、党の方針に沿って、多くの同志を見殺しにしてきた。リチャードという若者、小男のローウィ、ルバショフの個人秘書だったアルロヴァ。党の命令で、裁く側だった男が、今や、脆くも裁かれる側になる。彼ら、彼女との思い出が、独房で回想されていく。
牢獄の散髪屋さんで、襟元に入れられたメッセージには、「黙って死ね」と書かれていた。壮絶である。
審問が行われていく。
第一回審問、第二回審問と。審問を行うのは、ルバショフの友人イワノフである。だが、イワノフも・・。
第三回審問が行われ、とうとうルバショフは、屈する。
ルバショフの自白を引き出すことができた審問官(グレトキン)は、言い放つ。
「睡眠不足に肉体的疲労。全ては体質の問題だよ。」
グレトキンの、ルバショフへの告白も怖ろしいものだ。グレトキンは、無知や貧困を知っている。民衆とは何なのか。認識のズレは、子どもの頃に時計を与えられていたのか、いないのかが、目印となる。
隣の独房との会話は、「方形アルファベット」で行われる。402号に収監されている友人との会話は、他愛ないものだ。だが、誰かが処刑されるときには、伝言ゲームのように壁伝いに、情報が送られていく。
最終章は、文法的虚構。
門番のワシリーは、ルバショフがパルチザン部隊隊長だったときの部下だった。若い頃のルバショフを知っている。
ワシリーの娘は、思想教育を受けた新しい世代である。
物語の終わりは、ワシリーへの娘の”密告”を予感させるようで、薄ら寒い気持ちになった。
イギリスの作家アーサー・ケストラーの小説。
共産主義全盛期の、ロシア人か東欧世界を想像していたのだが、イギリス人とは意外であった。
解説によると、スターリンの容赦ない粛清時代、「ブハーリン裁判」をモデルにしているらしい。
古参の党員で、革命の英雄でもある男(ルバショフ)が、ある日、いきなり逮捕され、独房で罪の告白を強要される。
審問は繰り返され、身の覚えのない「罪」を自白していく。つねに正しい党のため、誰かが「告白」しなくてはならない。
哀しいのは、革命を起こした(ルバショフたちの)第一世代は、古い時代の礼節を知っているのに対して、新しい世代の子ども達は、党の教育(思想教育)によって、まるで温かみのない人間へとなっているのだ。自分の親でさえも、密告するような。
ルバショフは、独房のなかで、記憶を呼び起こしていく。反体制運動のなかで、何度も監獄は経験している。だが、今度ばかりは違う。なにしろ、裁く側も裁かれるルバショフも。かつての仲間、同志である点である。
ルバショフ自身も、党の幹部であった頃、党の方針に沿って、多くの同志を見殺しにしてきた。リチャードという若者、小男のローウィ、ルバショフの個人秘書だったアルロヴァ。党の命令で、裁く側だった男が、今や、脆くも裁かれる側になる。彼ら、彼女との思い出が、独房で回想されていく。
牢獄の散髪屋さんで、襟元に入れられたメッセージには、「黙って死ね」と書かれていた。壮絶である。
審問が行われていく。
第一回審問、第二回審問と。審問を行うのは、ルバショフの友人イワノフである。だが、イワノフも・・。
第三回審問が行われ、とうとうルバショフは、屈する。
ルバショフの自白を引き出すことができた審問官(グレトキン)は、言い放つ。
「睡眠不足に肉体的疲労。全ては体質の問題だよ。」
グレトキンの、ルバショフへの告白も怖ろしいものだ。グレトキンは、無知や貧困を知っている。民衆とは何なのか。認識のズレは、子どもの頃に時計を与えられていたのか、いないのかが、目印となる。
隣の独房との会話は、「方形アルファベット」で行われる。402号に収監されている友人との会話は、他愛ないものだ。だが、誰かが処刑されるときには、伝言ゲームのように壁伝いに、情報が送られていく。
最終章は、文法的虚構。
門番のワシリーは、ルバショフがパルチザン部隊隊長だったときの部下だった。若い頃のルバショフを知っている。
ワシリーの娘は、思想教育を受けた新しい世代である。
物語の終わりは、ワシリーへの娘の”密告”を予感させるようで、薄ら寒い気持ちになった。
2011年10月24日に日本でレビュー済み
全く何の予備知識もなく読み始めましたが,話に引き込まれて,面白くて一気に読みきりました。
内容は,今では他にも似たものがありそうといえばありそうなストーリーかもしれませんが
読後に,この作品が書かれた年代を知って,心の底から驚きました。
あまり知られてない本ですが,名著だと思います。
内容は,今では他にも似たものがありそうといえばありそうなストーリーかもしれませんが
読後に,この作品が書かれた年代を知って,心の底から驚きました。
あまり知られてない本ですが,名著だと思います。
2012年2月15日に日本でレビュー済み
この作品が上梓された1950年代は東西の冷戦たけなわ、ソ連のお家事情を覗き見る尺度において、週刊誌ネタを含め現代の北朝鮮の動向を注視する感があった。
世界的ベストセラーになり、日本でもいち早く翻訳され論壇や世評に一陣の旋風を起こしたと言われる。
スターリン時代の粛清裁判については半ば公然化された虚々実々の情報が世界的な周知であったとは言い条、比喩的にもせよこのような作品が表玄関を賑わせたの
は西側にとっては予期しない恰好なソ連批判の贈り物であった。
それから20年後、作家ソルジェニティンによる「ガン病棟」「ラーゲリ群島」といったソ連体制告発作品が堂々ノーベル賞を受賞、氏が国外追放となったのは記憶に
新しい。
「真昼の暗黒」をもって文学作品におけるソ連体制批判の嚆矢とする位置づけに異存はない。だから言わんこっちゃない、社会主義共産主義なんてのはこんな程度な
んだ・・・・と、しかし政治制度の不備や幻滅感のみを巨視的にとらえ民主主義の優位を下地に反面教師的に顔をほころばせた時代は過去のことである。
レビュー諸氏が述べられているように、この作品は人間断罪の書である。
私見ではあるが、「第三回審問 1 N・S・ルバチョフの日記からの抜粋」は今でも不整脈のように疼いている。
世界的ベストセラーになり、日本でもいち早く翻訳され論壇や世評に一陣の旋風を起こしたと言われる。
スターリン時代の粛清裁判については半ば公然化された虚々実々の情報が世界的な周知であったとは言い条、比喩的にもせよこのような作品が表玄関を賑わせたの
は西側にとっては予期しない恰好なソ連批判の贈り物であった。
それから20年後、作家ソルジェニティンによる「ガン病棟」「ラーゲリ群島」といったソ連体制告発作品が堂々ノーベル賞を受賞、氏が国外追放となったのは記憶に
新しい。
「真昼の暗黒」をもって文学作品におけるソ連体制批判の嚆矢とする位置づけに異存はない。だから言わんこっちゃない、社会主義共産主義なんてのはこんな程度な
んだ・・・・と、しかし政治制度の不備や幻滅感のみを巨視的にとらえ民主主義の優位を下地に反面教師的に顔をほころばせた時代は過去のことである。
レビュー諸氏が述べられているように、この作品は人間断罪の書である。
私見ではあるが、「第三回審問 1 N・S・ルバチョフの日記からの抜粋」は今でも不整脈のように疼いている。
2010年3月7日に日本でレビュー済み
2009年のベストワンはこの小説かもしれない。
1937年のブハーリン裁判とスペイン内戦時代の作家自身の死刑宣告と投獄経験を重ね合わせた小説。
本作に就いては、みすず書房のPR誌『みすず』恒例の読書アンケート特集(2010年1・2月合併号)での冨原眞弓の紹介が簡潔にして秀逸だ(同誌p44)。
なるほど冨原も指摘するように、ユートピアの希求がなぜに収容所(ディストピア)へと帰結するのかを問う本作は、徐々に形而上学的な色彩を帯びてくるが、「スターリンやトロツキーを知らなくても、ジャコバン主義やスペインの異端審問のことを知らなくても、哲学史にまったく興味がなくても、読書の愉しみは一ミリグラムもそこなわれない」とは至言であり、この点ではドストエフスキー作品と同様とも言えようか。
革命の理想や倫理的高尚は常に頓挫する。権力は絶対的に腐敗する定めであるが、人間的倫理・徳目である義侠は背信へと、理性は迷妄へと、矜持は怯懦へと変節していくのは何故なのか? 結局のところ、革命の目的意志における倫理的な要請と革命後の統治システムは別のものと見なければならないということではないのか。
西郷隆盛やゲバラ、さらにはあろうことかカストロをも倫理的・道徳的大人として称揚する樋口篤三(『社会運動の仁義・道徳』同時代社)あたりの「左翼指導者=道徳家」論は無効且つ不毛ということではないか? 犯罪的と言ってよいかもしれない。
ドストエフスキーの「水晶宮」(『地下生活者の手記』)が一番に想起される。人間は何にでも慣(狎)れてくるものであり(『罪と罰』)、なおかつどこかに行くべきところがなければ生きていかれず(同)、「ににんがし、2×2=4(=死)」と成り果てる。
それは慟哭にも価する悲惨であるが、人間の腐敗は個人的な資質を排除できないにしても、それに全的に責を負わせることもまた無理があろう。「我らの歪んだ英雄」たちは、その実、英雄でもなんでもなく、一人の卑小な人間に過ぎないのだから。尤も当事者の免責が担保されるわけではないのだが。
この点を回避しようとした統治システムの一環として、柄谷行人が提議した統治者選びの「くじ引き」には一理あるようにも思われる。
1937年のブハーリン裁判とスペイン内戦時代の作家自身の死刑宣告と投獄経験を重ね合わせた小説。
本作に就いては、みすず書房のPR誌『みすず』恒例の読書アンケート特集(2010年1・2月合併号)での冨原眞弓の紹介が簡潔にして秀逸だ(同誌p44)。
なるほど冨原も指摘するように、ユートピアの希求がなぜに収容所(ディストピア)へと帰結するのかを問う本作は、徐々に形而上学的な色彩を帯びてくるが、「スターリンやトロツキーを知らなくても、ジャコバン主義やスペインの異端審問のことを知らなくても、哲学史にまったく興味がなくても、読書の愉しみは一ミリグラムもそこなわれない」とは至言であり、この点ではドストエフスキー作品と同様とも言えようか。
革命の理想や倫理的高尚は常に頓挫する。権力は絶対的に腐敗する定めであるが、人間的倫理・徳目である義侠は背信へと、理性は迷妄へと、矜持は怯懦へと変節していくのは何故なのか? 結局のところ、革命の目的意志における倫理的な要請と革命後の統治システムは別のものと見なければならないということではないのか。
西郷隆盛やゲバラ、さらにはあろうことかカストロをも倫理的・道徳的大人として称揚する樋口篤三(『社会運動の仁義・道徳』同時代社)あたりの「左翼指導者=道徳家」論は無効且つ不毛ということではないか? 犯罪的と言ってよいかもしれない。
ドストエフスキーの「水晶宮」(『地下生活者の手記』)が一番に想起される。人間は何にでも慣(狎)れてくるものであり(『罪と罰』)、なおかつどこかに行くべきところがなければ生きていかれず(同)、「ににんがし、2×2=4(=死)」と成り果てる。
それは慟哭にも価する悲惨であるが、人間の腐敗は個人的な資質を排除できないにしても、それに全的に責を負わせることもまた無理があろう。「我らの歪んだ英雄」たちは、その実、英雄でもなんでもなく、一人の卑小な人間に過ぎないのだから。尤も当事者の免責が担保されるわけではないのだが。
この点を回避しようとした統治システムの一環として、柄谷行人が提議した統治者選びの「くじ引き」には一理あるようにも思われる。
2009年11月24日に日本でレビュー済み
全体主義国家(ソ連を連想させる)内部における人間性の問題を取り扱っている。
主人公はかつての革命の英雄。しかし現在の指導者に忠誠心を疑われ投獄。そのなかでかつての戦友や新世代(革命を闘っていないにもかかわらず、その正当性に疑問を挟まない世代)との対話の中で徐々に精神を削られていく。
最後はやってもいない罪を自白させられ、死刑台へ送られる。
徐々に精神を削られていく人間の心理描写が圧倒的。
また、その対話の中で「目的は手段を正当化するのか」など我々が生活の中でふと考えさせられるような問題を取り扱い、読んだ人間の心に深い感動をもたらす。
「類人猿は華麗に枝を伝って空中を舞い、地べたを這うネアンデルタール人を馬鹿にした。しかし、最も優雅であったはずの類人猿はネアンデルタール人によって淘汰された。我々の国民は今この過程にあるのだろうか。他国から最貧国として見下されても、この大虐殺と貧窮は進化の一過程にすぎないのだろうか。目的は手段を正当化するのだろうか。」
主人公はかつての革命の英雄。しかし現在の指導者に忠誠心を疑われ投獄。そのなかでかつての戦友や新世代(革命を闘っていないにもかかわらず、その正当性に疑問を挟まない世代)との対話の中で徐々に精神を削られていく。
最後はやってもいない罪を自白させられ、死刑台へ送られる。
徐々に精神を削られていく人間の心理描写が圧倒的。
また、その対話の中で「目的は手段を正当化するのか」など我々が生活の中でふと考えさせられるような問題を取り扱い、読んだ人間の心に深い感動をもたらす。
「類人猿は華麗に枝を伝って空中を舞い、地べたを這うネアンデルタール人を馬鹿にした。しかし、最も優雅であったはずの類人猿はネアンデルタール人によって淘汰された。我々の国民は今この過程にあるのだろうか。他国から最貧国として見下されても、この大虐殺と貧窮は進化の一過程にすぎないのだろうか。目的は手段を正当化するのだろうか。」