この小説の価値は、二人称で書かれた最初期の長編小説であるという点にあります。二人称だけでなく、それに応じた一人称や三人称も使っているし、「レオン」という主人公の名前が、ピークでおそらく小説中一度だけ出てくることも、文学的また形式的な効果を出しています。文学を志す人には何らかのヒントを与えてくれるでしょう。
文学を志す人には、というのは、内容が面白くはないからです。主人公と女性二人の関係もありきたりで、文章は無駄に長く、句点を打つべきところも読点で続け、車内や景色やローマの描写が本筋を引き立たせる以上に多すぎます。主人公は不倫しておいて最後まで主体性のない甘ちゃんです。読書を楽しみたいという人にはおすすめできません。そもそも作者は読者を楽しませようとあまり意識していないように思えます。形式に酔っていて。
そして、肝心の二人称という形式ですら、小説の内容を面白くするためには機能していません。小説の可能性や多様性の提示といった役割以上のものを、この二人称形式は示せていないように思えます。二人称小説としては成功していても、小説としては成功していない。二人称という形式が面白さの足を引っぱってすらいる。
というのも、これは結局、一人称小説の不自然な変形であるからです。著者ミシェル・ビュトールは「その人物がある事態をしだいに意識してゆく過程が主題となるのですから、その人物は〈わたし〉と語ってはなりません」と言っています。最後まで読むとわかるのですが、この小説は「きみ」と語られてきた主人公が「きみ自身」の小説を書く決意をする、という物語です。そして「きみ」という形式を採用して書いていったわけです。
どこか矛盾していませんか?
「きみ」が「きみ」の物語を書き始めるときは、すでに「ある事態を意識してゆく過程」の終わりまできたときで、この小説の終盤になって「わたし」という人称がちらちら現れ出してのちのことです。つまり、「きみ」が「わたし」を獲得してから書くわけで、獲得したから小説を書こうという決意に至ったわけですよね。冒頭からの「きみ」の目に映ることの非常に細かい描写や、「きみ」の生活のことや、なぜ汽車に乗ることになったのかや、心理描写は、ある事態をすでに意識している「わたし」でなければ書くことはできません。
小説の終盤で「きみ」は「わたし」を獲得したのに、なぜ「きみ」は「わたし」の小説を書かなければならないのでしょうか?「わたし」を獲得した時点でそれまで語られてきた小説で終わっていいはずですし、「わたし」をまだ獲得していないなら新たに小説は書けないですよね。
なら、二人称で、主人公がある事態をしだいに意識していき、小説を書く決意をするまでの小説を書くのではなく、一人称で、はじめから事態を意識している語り手が、主人公が二人の女性との関係に折り合いをつける決意をするまでの小説を書けば、このような不自然さを生まずに、かつ実質的に同じ内容で、読者を最後まで物語に集中させることができます。
一方で、訳者清水徹は解説で、「〜(「きみ」と呼ばれる主人公である)レオン・デルモンは〜とてもこの「本」は書けそうにない」「この「本」を書こうと考えるのは「きみ=読者」なのだ」と言っていて、ビュトールも「自分ではないだれかにどうしてもその書物を書いてもらわねばならぬ」と言っています。
とすると、〜小説を読んだ読者が書いた小説を読んだ読者が書いた小説を読んだ読者が書いた小説を読んだ読者が書いた〜と無限後退の構造になり、結局、誰が最初に書いたの?なんで「きみ」を見てられるの?きみを見てる「わたし」って誰?という疑問に回答を得られません。それは、明示されない語り手が「彼」を語っていく三人称小説をわかりにくくしたものと同じです。
ですから、この二人称小説は、実は解決できない矛盾をはらんでいて、二人称小説としてすら厳密には成立していない、成功していないと言えます。それに気づかせてくれたことは感謝です。
以上のことから、この小説を人称で定義するとしたら、二人称的一人称小説、もしくは二人称的三人称小説、ということになります。どちらも不自然で不可解で、読んでいてもやもやするものであり、わざわざ採用する必要がないと一般読者には感じさせる形式でしょう。一方で、小説の形式や人称や文体に興味のある方には、あるいは不倫男の葛藤や1950年代のローマやパリの街並みに興味のある方には、一読する価値のある小説だと思います。
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心変わり (岩波文庫) 文庫 – 2005/11/16
ミシェル・ビュトール
(著),
清水 徹
(翻訳)
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「きみ」は早朝の列車に乗り込む。ローマに住む愛人と離婚してパリで同棲しようと申し出るために。2人で探索したローマの遺跡群をはじめ、さまざまな楽しい期待や思い出が車中の「きみ」に浮ぶ。だが、旅の疲労とともに決意は暗く変わり… 1950年代フランス文壇に二人称の語りで颯爽と登場したルノードー賞受賞作。
- 本の長さ482ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2005/11/16
- ISBN-104003750616
- ISBN-13978-4003750612
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2005/11/16)
- 発売日 : 2005/11/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 482ページ
- ISBN-10 : 4003750616
- ISBN-13 : 978-4003750612
- Amazon 売れ筋ランキング: - 127,632位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 181位フランス文学 (本)
- - 949位岩波文庫
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2023年4月29日に日本でレビュー済み
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2013年11月17日に日本でレビュー済み
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心理描写がまだよく解りません。
もっと読み込まないとと思っています。
もっと読み込まないとと思っています。
2007年7月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『心変わり』
著者・ミシェル・ビュトール
訳・清水 徹 / 岩波書店
ISBN : 4003750616
¥900
「ヌーヴォー・ロマン」と呼称される、1950年代以降の膨大な文学作品群のなかにおいても最高レヴェルを誇るハイ・ファイな画質を脳内に流入させる、1957年発表の<2人称小説=フィルム>。
「言語に拠る人類救済」をも目的としていたマラルメを私淑していたミシェル・ビュトールにとって、「生きているテクスト」を「建築する」という命題は決して一笑に臥されるものでは無かった筈だ。
我々読者と主人公の男性とを共に「きみは〜」と定位し上映されてゆく本作品は、読者である「きみ」自身がこの「フィルム内世界」におけるアクター/アクトレスとして生き、逡巡し、愛することを可能たらしめる。
パリからローマへと向かう三等列車の窓に滴り落ちる雨の雫から、柔らかなベッドの中にてささやく愛人の表情のわずかな翳り、といった細部にまで至る、「肉眼と完全に同質の光景」と「作品世界内の時間」らが読むものの意識に侵入してくる様は、「真夜中にまざまざと上映される、DVD並みに鮮明な夢」の知覚を遥かに凌駕していると云っても過言では無い。
この小さな書物のページを手繰ってゆくあなた=主人公「きみ」の「現在」の意識内容と、「過去」の回想、そして「未来]への回想。この書は”生きている”。
この書物の内部へ呑み込まれた「きみ」(読者であるあなたの事だ)と愛人「セシル」との逢瀬、愛の歓び、ローマの美しき陽射しと光景、荘厳さを湛えた古代美術、それら総てが内包する≪聖なるもの≫(ロジェ・カイヨワ)が、読者であるあなたのおぼろげな記憶と混ざり合い、混濁し境界線の消失した反/非時間だけが透明な静けさのなかにゆるやかと流れてゆく。
著者・ミシェル・ビュトール
訳・清水 徹 / 岩波書店
ISBN : 4003750616
¥900
「ヌーヴォー・ロマン」と呼称される、1950年代以降の膨大な文学作品群のなかにおいても最高レヴェルを誇るハイ・ファイな画質を脳内に流入させる、1957年発表の<2人称小説=フィルム>。
「言語に拠る人類救済」をも目的としていたマラルメを私淑していたミシェル・ビュトールにとって、「生きているテクスト」を「建築する」という命題は決して一笑に臥されるものでは無かった筈だ。
我々読者と主人公の男性とを共に「きみは〜」と定位し上映されてゆく本作品は、読者である「きみ」自身がこの「フィルム内世界」におけるアクター/アクトレスとして生き、逡巡し、愛することを可能たらしめる。
パリからローマへと向かう三等列車の窓に滴り落ちる雨の雫から、柔らかなベッドの中にてささやく愛人の表情のわずかな翳り、といった細部にまで至る、「肉眼と完全に同質の光景」と「作品世界内の時間」らが読むものの意識に侵入してくる様は、「真夜中にまざまざと上映される、DVD並みに鮮明な夢」の知覚を遥かに凌駕していると云っても過言では無い。
この小さな書物のページを手繰ってゆくあなた=主人公「きみ」の「現在」の意識内容と、「過去」の回想、そして「未来]への回想。この書は”生きている”。
この書物の内部へ呑み込まれた「きみ」(読者であるあなたの事だ)と愛人「セシル」との逢瀬、愛の歓び、ローマの美しき陽射しと光景、荘厳さを湛えた古代美術、それら総てが内包する≪聖なるもの≫(ロジェ・カイヨワ)が、読者であるあなたのおぼろげな記憶と混ざり合い、混濁し境界線の消失した反/非時間だけが透明な静けさのなかにゆるやかと流れてゆく。
2013年3月30日に日本でレビュー済み
あるいは読みやすい小説なのかもしれない。ローマ観光小説とも言える側面があり、列車に乗ってなめらかで精緻な文章が進んでゆく。
目玉は「二人称」で語られることである。ほぼ全編「きみ」で語られるのであり、時に他の人物が主人公に「きみ」で語る重層的な表現も見られる。
最後の方で、「一冊の本」が書かれるべきだというプルースト的サルトル的吐露があるが、なんとなく安直な感じを受けたと思っていたら、訳者あとがきでは「自分ではなく誰かに書いてもらいたい一冊」つまりここでも「きみ」を使い、読者に書いてもらいたいそれぞれの経験の照応、というものなのであった。
もっともわからないのは、主人公を「きみ」と言っている「わたし」は何者か、ということだ。あとがきでも詳しい分析はなされていない。だが、もし物語の最後で「きみ」の舞台に「わたし」が登場したらそれはそれで面白くなったような気がした。その場合「わたし」は恋愛の対象的なものかもとか想像も出来た。まあ本文に現れない限り妄想だが。
目玉は「二人称」で語られることである。ほぼ全編「きみ」で語られるのであり、時に他の人物が主人公に「きみ」で語る重層的な表現も見られる。
最後の方で、「一冊の本」が書かれるべきだというプルースト的サルトル的吐露があるが、なんとなく安直な感じを受けたと思っていたら、訳者あとがきでは「自分ではなく誰かに書いてもらいたい一冊」つまりここでも「きみ」を使い、読者に書いてもらいたいそれぞれの経験の照応、というものなのであった。
もっともわからないのは、主人公を「きみ」と言っている「わたし」は何者か、ということだ。あとがきでも詳しい分析はなされていない。だが、もし物語の最後で「きみ」の舞台に「わたし」が登場したらそれはそれで面白くなったような気がした。その場合「わたし」は恋愛の対象的なものかもとか想像も出来た。まあ本文に現れない限り妄想だが。
2021年5月18日に日本でレビュー済み
まだパラパラ読んでる最中だが「時間割」よりとっつきにくい。倉橋由美子の「暗い旅」がこの作品の模倣という批評があるのでこちらを読んでみた。あちらは京都だかこちらはローマでスケールが違う感あり。両作品のかかれた年代があまり違わないのに驚く。
2008年11月27日に日本でレビュー済み
1957年。フランスのいわゆる「ヌーボーロマン」として発表された二人称小説。「二人称」といっても「あなた」と呼びかける書簡体ではなく、「私」と書かれるべきところが「きみ」になっている。「きみは電車に乗り込んだ」みたいな。すると途端に「きみ」と呼びかけている誰か(語り手)が別にいることになって、語り手(主人公)が二重化しています。さらに、「きみ」とは端的に読者のわれわれでもあるので、われわれが主人公であるかのような、われわれの心の中をあらかじめ規定されているかのような、居心地の悪い、しかし決して不快ではない気分になります。むずむずする。
「不快でない」のは、パリに住む妻子持ちの主人公がローマに住む愛人の元へいく電車の旅、というロマンチックな話がメインになっているからでもありますが、この旅がまたすごい。愛人がいるからには何度も往復している路線なのですが、その度ごとの出来事が、順不同で想起されます。読んでいると「これはいつのことか」がそうやすやすとはわからない仕掛け。パリとローマとその間の路線が、記憶で多重化されている(結論には異論もありますが、それはこの際なかったことにします)。
こうした二重化、多重化は、主人公の愛人のバロック趣味とも同調しています。バロックとは分裂であり、その苦しみであるからです(ジル・ドゥルーズに『襞―ライプニッツとバロック』という感動的な本があります)。妻と愛人、パリとローマ、語り手ときみ。いくつもの分裂、いくつもの記憶。すばらしい!!
こんな本を読んでいなかったこと、まだ残されていたことに感動です。訳者の清水さん本人が約50年ぶりに全面改訳していて読みやすい。現代小説ファンとしては読まずにはいられない魅惑の小説です。特に多和田葉子ファン必読!
「不快でない」のは、パリに住む妻子持ちの主人公がローマに住む愛人の元へいく電車の旅、というロマンチックな話がメインになっているからでもありますが、この旅がまたすごい。愛人がいるからには何度も往復している路線なのですが、その度ごとの出来事が、順不同で想起されます。読んでいると「これはいつのことか」がそうやすやすとはわからない仕掛け。パリとローマとその間の路線が、記憶で多重化されている(結論には異論もありますが、それはこの際なかったことにします)。
こうした二重化、多重化は、主人公の愛人のバロック趣味とも同調しています。バロックとは分裂であり、その苦しみであるからです(ジル・ドゥルーズに『襞―ライプニッツとバロック』という感動的な本があります)。妻と愛人、パリとローマ、語り手ときみ。いくつもの分裂、いくつもの記憶。すばらしい!!
こんな本を読んでいなかったこと、まだ残されていたことに感動です。訳者の清水さん本人が約50年ぶりに全面改訳していて読みやすい。現代小説ファンとしては読まずにはいられない魅惑の小説です。特に多和田葉子ファン必読!
2015年4月5日に日本でレビュー済み
わざわざこんなヌーヴォーロマンの古い小説を読むのは、普通の小説に飽きた物好きな読書家のきみくらいだろう、自分でもよく知っているようにきみは読解力には自信を持っているので、この平坦なタイトルの本を読むことくらい簡単だと考えるかもしれない、
ただ、注意してほしい、きみがこれから読むビュトールの心変わりは450ページもあり長いのだ。そのくせ、内容は妻子持ちの中年サラリーマン、セールスマンの男が不倫相手のもとに走ろうとするが、という心変わりを克明に描いたものとなっていて、その自問自答はきみを退屈させるかもしれない、
ローマの街や建築、美術に興味があり、延々と続く電車内での描写、これは電車内での苛々させる時間を再現させているという点ではよくできているが、それにフランス小説の気障ったらしい修辞や回想に耐えられるのであれば、むしろそれらに魅力を感じるのであれば、きみにとって楽しい読書の時間になるかもしれない、上司や待遇に対する不満というのは現代の日本の会社員と変わらないかもしれない、
きみは、きみの手元の本を開き、この本を読み始めて――
ただ、注意してほしい、きみがこれから読むビュトールの心変わりは450ページもあり長いのだ。そのくせ、内容は妻子持ちの中年サラリーマン、セールスマンの男が不倫相手のもとに走ろうとするが、という心変わりを克明に描いたものとなっていて、その自問自答はきみを退屈させるかもしれない、
ローマの街や建築、美術に興味があり、延々と続く電車内での描写、これは電車内での苛々させる時間を再現させているという点ではよくできているが、それにフランス小説の気障ったらしい修辞や回想に耐えられるのであれば、むしろそれらに魅力を感じるのであれば、きみにとって楽しい読書の時間になるかもしれない、上司や待遇に対する不満というのは現代の日本の会社員と変わらないかもしれない、
きみは、きみの手元の本を開き、この本を読み始めて――
2010年9月25日に日本でレビュー済み
ヌーヴォー・ロマンの代表作家の一人ということなので、読みづらさを覚悟して取り組んだのである。
さて、その結果は拍子抜けなところもあった。ロブ=グリエやクロード・シモンの作品世界がともかく難解であったのに対して、この作品で語られる内容は、むしろ通俗不倫恋愛小説的なのである。
ただし書き方が普通ではない。主人公の「きみ」(フランス語では"Vous"だそうなので、むしろていねいな「あなた」にあたるが)がパリからイタリア行き急行列車に乗るところから話は始まる。そして現在、過去、さらに将来の計画が時間的順番を無視して入り乱れるのだ。
文章がまたヌーヴォー・ロマンらしく1文がやたら長い。段落を分ける部分でも句点が使われていない部分がかなりある。解説にも書いてあるが、訳者は苦労しただろう。
大きく3部に分かれた第2部の終わりあたりから、「きみ」の「心変わり」が始まり、第3部になると内容自体もわけのわからない感じになってくる。そして夢うつつの状態をとおして「彼」の登場。
それでも、ヌーヴォー・ロマンにしてはかなり読みやすい作品であった。
さて、その結果は拍子抜けなところもあった。ロブ=グリエやクロード・シモンの作品世界がともかく難解であったのに対して、この作品で語られる内容は、むしろ通俗不倫恋愛小説的なのである。
ただし書き方が普通ではない。主人公の「きみ」(フランス語では"Vous"だそうなので、むしろていねいな「あなた」にあたるが)がパリからイタリア行き急行列車に乗るところから話は始まる。そして現在、過去、さらに将来の計画が時間的順番を無視して入り乱れるのだ。
文章がまたヌーヴォー・ロマンらしく1文がやたら長い。段落を分ける部分でも句点が使われていない部分がかなりある。解説にも書いてあるが、訳者は苦労しただろう。
大きく3部に分かれた第2部の終わりあたりから、「きみ」の「心変わり」が始まり、第3部になると内容自体もわけのわからない感じになってくる。そして夢うつつの状態をとおして「彼」の登場。
それでも、ヌーヴォー・ロマンにしてはかなり読みやすい作品であった。