時枝国語学を理解するのに最適。
文庫で、深淵な世界の入り口に立てるのは手軽で便利。
主体的立場と観察的立場の役割が要点だという理解で読み進んでいます。
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国語学原論 上 (岩波文庫 青 N 110-1) 文庫 – 2007/3/16
時枝 誠記
(著)
- 本の長さ346ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2007/3/16
- ISBN-104003815017
- ISBN-13978-4003815014
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2007/3/16)
- 発売日 : 2007/3/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 346ページ
- ISBN-10 : 4003815017
- ISBN-13 : 978-4003815014
- Amazon 売れ筋ランキング: - 435,876位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2012年1月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
マルクスを理解するには、ヘーゲルを理解しなくてはならず、
ヘーゲルを理解するには、カントや、プラトンやアリストテレスを
理解する必要がある。
同じように三浦つとむを理解するには
時枝誠記を理解しなくてはならない。
昭和16年発行の本書で、すでにソシュールの誤りは
はっきりと証明されている。
とくに掛詞(かけことば)の研究について、
ソシュール学説はまったく役に立たない。
時枝が言語過程説を駆使して掛詞を解明するところは、
読者をうならせるだろう。
三浦つとむは、時枝の「言語過程説」を
天文学におけるコペルニクスの出現に匹敵する
画期的な学説と述べている。
どうして時枝以後もソシュール学説が
日本語研究者間で幅を利かすようなことがあり得るのだろうか?
江戸時代の和算家は円周率の小数第24位まで正しい値を
計算していた。(1722(享保7)年鎌田俊清『宅間流円理』)。
ところが、これが後世に伝わらない。
1680年代までには3.14が定着したかに見られたものの
文政年間(1818〜30)には再び3.16が復活してくる。
( 日本における科学研究の萌芽と挫折 より)
時枝学説やそれを受け継ぐ三浦つとむが忘れ去られるのは
π=3.14が忘れ去られる過程を思わせるところがある。
日本の学者は自分で考えることができず、
外国の権威に頼る。
そして深く理解もせずに次々と新流行の学説に飛びつく。
こうした習性が江戸時代からまったく変わらず
受け継がれていることを痛感する。
ヘーゲルを理解するには、カントや、プラトンやアリストテレスを
理解する必要がある。
同じように三浦つとむを理解するには
時枝誠記を理解しなくてはならない。
昭和16年発行の本書で、すでにソシュールの誤りは
はっきりと証明されている。
とくに掛詞(かけことば)の研究について、
ソシュール学説はまったく役に立たない。
時枝が言語過程説を駆使して掛詞を解明するところは、
読者をうならせるだろう。
三浦つとむは、時枝の「言語過程説」を
天文学におけるコペルニクスの出現に匹敵する
画期的な学説と述べている。
どうして時枝以後もソシュール学説が
日本語研究者間で幅を利かすようなことがあり得るのだろうか?
江戸時代の和算家は円周率の小数第24位まで正しい値を
計算していた。(1722(享保7)年鎌田俊清『宅間流円理』)。
ところが、これが後世に伝わらない。
1680年代までには3.14が定着したかに見られたものの
文政年間(1818〜30)には再び3.16が復活してくる。
( 日本における科学研究の萌芽と挫折 より)
時枝学説やそれを受け継ぐ三浦つとむが忘れ去られるのは
π=3.14が忘れ去られる過程を思わせるところがある。
日本の学者は自分で考えることができず、
外国の権威に頼る。
そして深く理解もせずに次々と新流行の学説に飛びつく。
こうした習性が江戸時代からまったく変わらず
受け継がれていることを痛感する。
2007年6月3日に日本でレビュー済み
ソシュールに代表される西洋言語学への批判を通し、独自の「言語過程説」を
展開した名著の待望の文庫化。
ソシュールへの批判としては例えば次のようなもの。
・観察によってみいだされた言語(ラング)概念の実体化。
・原子論的単位としての言語観
・個々の言語行為(パロール)を派生とみなし捨象。
「言語過程説」は、発話・書記・聴取等の主体的プロセスそのものを言語として
扱う、言わば言語を「こと」=過程(プロセス)として扱う立場を言う。
畢竟、それは主体と切り離された構成的な原子論ではなく、主体の表出の現場を
テーマとすることになる・・・。
何より驚くのは、難しい主題にも関わらず、素晴らしい喩えを交えたわかり易い
文章。ものの見方で素材をかえて繰り返し変奏される「原子論」と「プロセス論」
だが、「具体者置き違えの誤謬」(ホワイトヘッド)は言語についてもいえるの
かもしれない。
展開した名著の待望の文庫化。
ソシュールへの批判としては例えば次のようなもの。
・観察によってみいだされた言語(ラング)概念の実体化。
・原子論的単位としての言語観
・個々の言語行為(パロール)を派生とみなし捨象。
「言語過程説」は、発話・書記・聴取等の主体的プロセスそのものを言語として
扱う、言わば言語を「こと」=過程(プロセス)として扱う立場を言う。
畢竟、それは主体と切り離された構成的な原子論ではなく、主体の表出の現場を
テーマとすることになる・・・。
何より驚くのは、難しい主題にも関わらず、素晴らしい喩えを交えたわかり易い
文章。ものの見方で素材をかえて繰り返し変奏される「原子論」と「プロセス論」
だが、「具体者置き違えの誤謬」(ホワイトヘッド)は言語についてもいえるの
かもしれない。
2009年2月27日に日本でレビュー済み
学校国語へと連なる従来型、というか常識としての国語学、語彙・文法、文の分析とは一線を画した、いわゆる「時枝言語学」ともいわれる独特の国語学原論。明治以来の言語学が西洋の学説の吸収と模倣に終始し、国語学をも西洋由来の言語学の一分科として研究してきた経緯を著者は激しく批判し、著者自身は定家以来のてにをは研究から得た視点で「言語過程論」を打ち立てる。それはソシュールを筆頭とする「言語構成論」と強い対照を示していて、両者は日本語と印欧語、それぞれの特徴の上に立っているという。
この上巻では、従来の国語学および日本の言語学についての批判と、彼ら研究者の偶像と化していたソシュールの学説に批判を加えることに多くの紙数が割かれているが、下巻においてより大掛かりに展開していく「言語過程論」の前提となる三つの環境、主体・場面・素材の指摘は、後を知りたいという欲求を強く刺激してくれる。
激しいソシュール批判は執筆当時にあってはきっとぜひ必要なものであったと思うし、ソシュールの重要性は、後世、レヴィ=ストロースやロラン=バルトなど異分野の人々に転用されることによってその値を高めた気味もあり、日本語が使われる仕組みと働きについては時枝氏の議論のほうが遥かに現実適合的に思われる。
より刺激的な下巻に続く、刺激的な一冊。
この上巻では、従来の国語学および日本の言語学についての批判と、彼ら研究者の偶像と化していたソシュールの学説に批判を加えることに多くの紙数が割かれているが、下巻においてより大掛かりに展開していく「言語過程論」の前提となる三つの環境、主体・場面・素材の指摘は、後を知りたいという欲求を強く刺激してくれる。
激しいソシュール批判は執筆当時にあってはきっとぜひ必要なものであったと思うし、ソシュールの重要性は、後世、レヴィ=ストロースやロラン=バルトなど異分野の人々に転用されることによってその値を高めた気味もあり、日本語が使われる仕組みと働きについては時枝氏の議論のほうが遥かに現実適合的に思われる。
より刺激的な下巻に続く、刺激的な一冊。
2007年3月20日に日本でレビュー済み
長らく入手困難であった名著の待望の文庫化。
国語学主流の橋本進吉などとは一線を画した、「言語過程説」などの独特の国語学理論を味わうことができる。ソシュールを批判的検討した上で展開するその学説は、「詞」「辞」といった独特の用語や、入れ子型の構造がもっとも特徴的である。
また、その態度や方法がしばしば現代の言語学理論の先駆とされ、評価されることも多いが、実際に本書を読んで感じるとることができる。
よく指摘されるように、そのソシュール理解に問題があるとされるが、これも各自で読んで判断されたい。
国語学主流の橋本進吉などとは一線を画した、「言語過程説」などの独特の国語学理論を味わうことができる。ソシュールを批判的検討した上で展開するその学説は、「詞」「辞」といった独特の用語や、入れ子型の構造がもっとも特徴的である。
また、その態度や方法がしばしば現代の言語学理論の先駆とされ、評価されることも多いが、実際に本書を読んで感じるとることができる。
よく指摘されるように、そのソシュール理解に問題があるとされるが、これも各自で読んで判断されたい。