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現代日本の思想: その五つの渦 (岩波新書 青版 257) 新書 – 絵本, 1956/11/17
- 本の長さ233ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1956/11/17
- ISBN-104004120411
- ISBN-13978-4004120414
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1956/11/17)
- 発売日 : 1956/11/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 233ページ
- ISBN-10 : 4004120411
- ISBN-13 : 978-4004120414
- Amazon 売れ筋ランキング: - 335,402位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,594位岩波新書
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年9月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私は主に Ⅳ日本の超国家主義ー昭和維新の思想 を中心に読みました。天皇について、北一輝について、吉野作造についてなど、激動の昭和、超国家主義とは何なのか、私は疑問に思っていました。昭和という時代は、国内でテロリズムが多発し、二度の世界大戦に挑んだという「歪んだ思想」がはびっこった、今考えてみると「おかしな」時代だったと私は思います。そんな昭和の「おかしな」思想を教えてくれる本書は良書だと私は思います。
2016年4月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
戦後すぐに出版されたものとは思えないほど、日本近代の思想が的確にとらえられている。日本の多くの知識人が1927年の大恐慌を資本主義の没落、共産主義の急速な台頭と信じて、憂いたり大喜びしてたりなんて、目からうろこ。
2022年12月31日に日本でレビュー済み
日本の思想の流れを、白樺派、日本共産党、生活綴り方運動、昭和維新、戦後の世相、に分けて取り上げています。ここで言う「思想」は、現状を変えよう(良くしよう)、という考えのことを言うようです。昭和維新の章では、伊藤博文が作り上げた国家システム(天皇制の「顕教」と「密教」の使い分け)に対し、軍部だけは「顕教」を固守し、「密教」征伐によって、伊藤の国家システムをメチャメチャにした、と分析しています。人の頭の中の観念が現実世界を物理的に動かし、何百万人もの人を殺戮し、国まで破壊する。これはまるでSFの超能力ですね。
2020年8月29日に日本でレビュー済み
戦後11年たった時点での日本の思想状況を紹介する(遺産目録の計算と評価、と前書きで書かれている)と言う形で、5つの思想流派、観念論(白樺派)、唯物論(日本共産党の思想)、プラグマティズム(生活綴り方運動)、超国家主義(昭和維新の思想)、実存主義(戦後の世相)を取り上げ、あくまでも日本においての「それ」について主だった内容及び影響、盛衰説明してくれていて、時代性を反映したものとして貴重な本であろう。もちろん、「あとがき」で書かれているが、論じ残された思想集団は非常に多い。例えば、人格主義、社会主義、無政府主義、啓蒙主義・・・・・・・など、改めて論じられなければならない、としている。思想は時代によって変わり、また、浮き沈みがあるものであり、また、理念型や実践型その折衷もあり、色いろ参考になることが多い。そして、自分の考え方はどれに近いのかな、とも考えながら読ませていただいた。暫時、こういう本は必要であると思う。特に、第4章は久野収氏が書いたもので、力作である。
2009年4月29日に日本でレビュー済み
思想とは思想家の頭のなかにある。なにせ「思想家」なのだから。−−こう考える人は、本書の冒頭からして目眩を覚える。最初に論じられるのは、白樺派である。それはまずもって、日本の芸術運動として知られる。著者は彼らの芸術、また「新しき村」という社会運動のなかに思想を見ていく。著者にとって、思想とはこのように現実を動かすものである。思想とは、すでに起こっている現実を抽象して考えられるものではないのだ。
本書を貫くのはこの視点である。この視点によって論じられる「思想」は次の通り。日本共産党の結党以来の運動。地方を中心として教師の間に起こった、生活綴り方運動。伊藤博文の作った明治期の国家システムが崩壊していく先を見据えた、吉野作造と北一輝の思想。そして戦後直後の実存主義である。
本書は久野収と鶴見俊輔の共著だ。特に鶴見俊輔は第4章を除く、4つの章を執筆している。その論理的で極めて明晰な文章に驚かされる。そしてまた、冷静な批判と客観的な視点に。例えば日本共産党に関して鶴見は、一貫して批判する。しかしながら、政府・軍部の徹底的な弾圧、社会からの無理解にもかかわらず、結党以来一貫して天皇制反対を守り続けたことを大きく評価する。これは久野には無い態度である。冷静・客観的でありながら、熱のこもった鶴見の筆致。それは生活綴り方運動の記述の仕方に特に見られる。徐々にマルクス主義に傾斜していくその過程を、当時の子供の文章を引用しながら明らかにする。極めて効果的な論じ方だ。
とはいえ、二つの疑問が残った。一つは、綴り方運動の位置づけについて。鶴見によれば、生活綴り方運動はプラグマティズムである。しかしそれは、本家アメリカのプラグマティズムと極めて僅かなつながりしかない。生活綴り方運動をプラグマティズムと称することは、私には違和感があった。むしろそれが「主義」としては不定だったからこそ、マルクス主義に傾斜していったのだろう。もう一つは、実存主義について。鶴見によれば、彼が呼ぶ実存主義は戦後すぐの時代にしかない。鶴見が論じた時期(1956年)でさえ、「それを生み出した戦後的社会条件が既に終わった」(p.207)。だが、いわゆる実存主義思想の隆盛はもう少し後の時代である。日本での実存主義は、戦後日本が徐々に立ち直ってきた時代から、「68年」まで続くのではないか。
本書は原著1956年であるから、だいぶ古い本だ。だが、その視点はまったく色褪せていない。そして論じられた思想も、現在でも日本社会を規定し、影を残している。この本の続編となるような本が、今こそ必要なのではないか。ミネルヴァの梟は夕方に飛び立つのではない。朝に飛び立ち、人々を導いていくのだ。
本書を貫くのはこの視点である。この視点によって論じられる「思想」は次の通り。日本共産党の結党以来の運動。地方を中心として教師の間に起こった、生活綴り方運動。伊藤博文の作った明治期の国家システムが崩壊していく先を見据えた、吉野作造と北一輝の思想。そして戦後直後の実存主義である。
本書は久野収と鶴見俊輔の共著だ。特に鶴見俊輔は第4章を除く、4つの章を執筆している。その論理的で極めて明晰な文章に驚かされる。そしてまた、冷静な批判と客観的な視点に。例えば日本共産党に関して鶴見は、一貫して批判する。しかしながら、政府・軍部の徹底的な弾圧、社会からの無理解にもかかわらず、結党以来一貫して天皇制反対を守り続けたことを大きく評価する。これは久野には無い態度である。冷静・客観的でありながら、熱のこもった鶴見の筆致。それは生活綴り方運動の記述の仕方に特に見られる。徐々にマルクス主義に傾斜していくその過程を、当時の子供の文章を引用しながら明らかにする。極めて効果的な論じ方だ。
とはいえ、二つの疑問が残った。一つは、綴り方運動の位置づけについて。鶴見によれば、生活綴り方運動はプラグマティズムである。しかしそれは、本家アメリカのプラグマティズムと極めて僅かなつながりしかない。生活綴り方運動をプラグマティズムと称することは、私には違和感があった。むしろそれが「主義」としては不定だったからこそ、マルクス主義に傾斜していったのだろう。もう一つは、実存主義について。鶴見によれば、彼が呼ぶ実存主義は戦後すぐの時代にしかない。鶴見が論じた時期(1956年)でさえ、「それを生み出した戦後的社会条件が既に終わった」(p.207)。だが、いわゆる実存主義思想の隆盛はもう少し後の時代である。日本での実存主義は、戦後日本が徐々に立ち直ってきた時代から、「68年」まで続くのではないか。
本書は原著1956年であるから、だいぶ古い本だ。だが、その視点はまったく色褪せていない。そして論じられた思想も、現在でも日本社会を規定し、影を残している。この本の続編となるような本が、今こそ必要なのではないか。ミネルヴァの梟は夕方に飛び立つのではない。朝に飛び立ち、人々を導いていくのだ。
2006年11月16日に日本でレビュー済み
「現代日本の思想」という題名だが、初版は1956年である。
では、書の中身はやはり色褪せてしまっているのかといえば、そのような事は感じられない。明治時代から戦後までの思想を国家的政治レベルから大衆的レベルまで、幅広く縦横に五つの枠で捉えているからだ。旧いどころか逆に独自な着眼による興味深い発見が詰まっている。
また、日本の思想は、海外から輸入されたものが多く、それが当時の社会背景をもとにどう結びついて変容したのかがどうしても注目されてしまうが、それらに拠らずとも、視点の角度を変えると、独自に日本で生み出された思想のかたちや人々の活動が見えてくることを教えてくれる。
著者は、まえがきとあとがきで「思想」について自問自答を繰り返している。
「私たちは、ひとつの思想流派をえらんだからといって、まなびうる遺産がその思想流派の過去と現在だけにしかないとは考えない。思想は、そんなきゅうくつなものではない。」
「自分が自分であることを立証しなければならない…自分をうしなう思想は…生命のなくなった死物である。」
果てしない終わりのない変化を続ける「思想」。それに向き合うために必要な強い覚悟と意思を、本書は読者に問い続ける。
では、書の中身はやはり色褪せてしまっているのかといえば、そのような事は感じられない。明治時代から戦後までの思想を国家的政治レベルから大衆的レベルまで、幅広く縦横に五つの枠で捉えているからだ。旧いどころか逆に独自な着眼による興味深い発見が詰まっている。
また、日本の思想は、海外から輸入されたものが多く、それが当時の社会背景をもとにどう結びついて変容したのかがどうしても注目されてしまうが、それらに拠らずとも、視点の角度を変えると、独自に日本で生み出された思想のかたちや人々の活動が見えてくることを教えてくれる。
著者は、まえがきとあとがきで「思想」について自問自答を繰り返している。
「私たちは、ひとつの思想流派をえらんだからといって、まなびうる遺産がその思想流派の過去と現在だけにしかないとは考えない。思想は、そんなきゅうくつなものではない。」
「自分が自分であることを立証しなければならない…自分をうしなう思想は…生命のなくなった死物である。」
果てしない終わりのない変化を続ける「思想」。それに向き合うために必要な強い覚悟と意思を、本書は読者に問い続ける。
2005年11月3日に日本でレビュー済み
著者らが選定した「五つの思想」は、もはや現代日本において訴求力を失ってしまっていることはいうまでもないだろう。さらに、本書は当時における第一級の知識人とみなされていたふたりの著者における社会認識を知る意味では意味があるが、表題の意味においてはもはや死んだ書物になってしまっていると言ってしまってもいいだろう。評者としては、分担執筆において、久野氏よりも鶴見氏のほうに、よりマルクス主義への共感が感じられたことは少々意外であった。やはりこの時代を大きく左右したのは共産主義思想であったのだ。そしてその呪縛をかれらも逃れられなかったということか。