基本的に言語学の素養のある人を想定していると思われる本ですが、一般読者にとっても有用な本なので一般向読者向け留意点を中心に紹介文を書いてみました。
①概要
19世紀の言語学史を対象としています。目次章題にあるように、重要な貢献をした研究者の業績毎に紹介してゆくスタイルなので、流れはつかみやすいのですが、後半になるほど、言語学の知識がないと理解できない内容が増えてゆくためこの点注意です。あくまで研究者の「業績」の紹介である言語学史であり、言語学者史でも人物列伝でもありません。エピソード的なものは殆どなく、登場する学者の生没年さえほとんど記載がなく、主要登場人物でさえ経歴は1頁程度しかありません(もっとも長いシュライヒャーで4頁)。事実上印欧語の歴史変遷研究学史となってしまっていますが、これは19世紀における近代言語学の誕生が、印欧語の比較言語学研究を足場に行われたためです。本書に言及はありませんが、恐らく印欧語以外の主要言語の近代言語学誕生は、印欧語研究で成立した近代言語学を適用する形で行われた(ということと推測される)ため、本書では印欧語以外の言語学については言及がないものと思われます(著者の世代では単なる無意識の西洋中心主義ということなのかも知れないが)。以下目次です。
序章 言語の親族関係―比較言語学とは何か―(1)
第1章 類似の発見―言語の「共通の源」に向かって―(13)
第2章 比較文法の誕生―シュレーゲルと「比較文法」―(33)
第3章 印欧語の世界(43)
第4章 言語は変化する―ボップ、ラスク、グリム(75)
第5章 印欧祖語の再建―シュライヒャーの試み(121)
第6章 言語学と文献学―クルティウス、ブルークマン(159)
第7章 「音法則に例外なし」―青年文法学派の人々(171)
第8章 新しい波―ソシュールの「覚え書」(211)
あとがき(239)
用語補記
人名索引
②全体的な流れ
第1章のみ18世紀の前史の概説です。主にウィリアム・ジョーンズ(英:1746-1794年)中心に当時のヨーロッパ人の世界の言語に関する知識状況が列挙されています。2章以降業績史となり、概ね以下の五世代にわけて紹介されてゆきます。
(1)シュレーゲル(1.重要な学術分野として語彙の比較より文法を比較し共通構造を見出すことを目的とする「比較文法」を提唱(『インド人の言語と知性について』(1808年))、2.サンスクリットを現存最古印欧語と想定)
(2)比較言語学(当時の用語では「比較文法」学)の学術研究を行い学問分野を確立(ラスク、グリム、ボップ、重要な書籍が1814-22年に出版)
(3)19世紀前半の比較文法学の大成(シュライヒャー(最初の印欧祖語の再建文章と系統樹を作成))と次世代への指針(言語変化の個別歴史解析/音声学や文献学との連携)の提唱。、(シュライヒャー、クルティウス)
(4)青年文法学派(ブルークマン(文献学の導入※)、パウル、オストホーフ、ジーファース(音声学の導入))
(5)ソシュール
※クルティウスは文献学が主で言語学は従、弟子のブルークマンは言語学が主で文献学が従との相違(対立)があった
言語学の背後にある時代思潮や各学者や学派の方法論は、世代ごとに概ね以下のようにまとめられます。
(2-3)ラスク、ボップ、グリム、シュライヒャー:ロマン主義、言語有機体説(歴史学でいえば19世紀の社会進化論や文明論等に対応)
(3-4)反青年文法学派(クルティウス、シュミット、シューハルト)VS青年文法学派(歴史学でいえば19世紀末における歴史主義VS社会科学を用いた歴史研究(セニョボスVSシミアン論争))
(5)ソシュール(構造主義)
言語有機体説とは、言語は生物のように成長/死滅のサイクルを持ち、言語は自然科学のような法則を持つと前提する思潮です。言語哲学といってもいいかも知れません。しかしこの言語観は、一部の語彙変化の事例から言語法則を帰納すると同時に、想定する法則に合わない事例は例外とする、言語哲学が実証に優先する研究に留まってしまいました。これに対して青年文法学派とは、文法の変化を抽象的な自然法則(と彼らが考えるもの)に帰せず、規則的変化は音声生理学(調音音声学)を用いて科学的に分析し、不規則な変化は、一語一語毎に語彙の変化をその語彙固有の歴史事情を文献学を用いて歴史学的に解明し、語彙の変化の説明に一切の例外を認めない、という「音法則に例外なし(p186)」を方法論とする学派です。
反青年文法学派は、音声学で解明された音法則を、「言語に内在する法則ではない」(p194)と見なし、音法則はあくまで歴史上の音変化を説明するものであって、「音法則はその結果をくり返し見直さなければならない」ものと考えている点が青年文法学派との相違です。反青年文法学派は、歴史的事実が音法則に優先し、青年文法学派は、現在の人々が日常的に話をしている言語と発話研究から解明或いは想定される音法則がマクロレベルの歴史的展開でも演繹的に基本原理として実在し、法則を逸脱する場合は、歴史的固有の事情の解明については文献学を採用する、という点で対立があり、この点が19世紀末の歴史学における歴史主義VS社会科学論争とパラレルとなっています((社会科学で得られた知見を演繹的に過去の歴史現象の解明に適用する、という点が音声学で得られた規則を過去の文法変化に適用する青年文法学派との論争と同じ構造となっている)。
私は言語学に無知でしたので、近代言語学はかなり早い段階から音声学等との連携や統語論、同時代の人々の発話や会話を対象とした研究が過去の言語研究である比較言語学にも導入されていると思い込んでいました。こうした現在の学問内容のバイアスがいくつもあったため、上述のマクロ的方法論的展開が理解できたのは終盤第七章の青年文法学派と反青年文法学派の論争のくだりになってからでした。上述の各世代の方法論の基底にある思想や思潮のまとまった解説が、冒頭か、4章の前あたりにあると、もっとわかり易かったかも知れません。巻末の用語補説(最初に読んでおいた方が良い)で専門用語の解説があるとはいえ1頁と少なく、重要な項目の解説が後の方で登場したため(例:言語自然有機体説(p36,p40.p109-114,p121,p127-9)、類推(p203-7)、音声学の導入(p197)、統語論の導入の遅れ(p210)など)、3章の後は7章と8章に飛び、その後4-6章を読んだ方が頭に入り易かったかも知れないと思いました。4章と7章の章題は、個人的には以下の方が相応しいように思えます。
4章 ロマン主義言語学の時代
7章 1876年―実証主義言語学の誕生
(※p200にも「それまでのロマンチシズムの華やかな香りは消え、ここに自然科学の進展に平行した実証主義の時代がはじまることになる」とあります。
その他にも以下4点も、の全体の流れの解説として冒頭にあると良かった。
(1)印欧祖語の発想は英ジョーンズの当初からあったのにも関わらず、比較言語学の確立と印欧語研究のメインがドイツに移行したシュレーゲルとグリムの世代では、サンスクリットが最も古い印欧語だとの想定のもとに研究が進んでいた(p38,p141)、
(2)ギリシア・ローマ時代以来の文法学は、規範となる文語文法研究であり、近代言語学の誕生後もそれは続いた。話ことばが言語学の対象となったのは比較言語学において音声学の重要性が指摘されたのと同根の19世紀末(p53-4)。
(3)グリムの法則について「その段階では意味の同じ各語派の形を並べたにすぎない」(p119)とバッサリ書いていて、「なんでグリムの法則とやらの前に書いておいてくれなかったの。「法則」をまとめた対応表(p102-3)がどのような「法則」なのかなめまわすように見てしまいましたよ」と思いまたし、「文献学者にいわせれば、比較文法は自分たちに都合のよい形だけをとりあげている」(p167)とあるのを見て、「もっと早くいってよ!」と思いました。
(4)近代言語学の成立までには、古代の古典文法学(ギリシア・ラテン語)→近世西欧語文法学→比較文法学(過去の印欧語研究)→同時代の人々の発話や会話を対象とした言語研究の成立(19世紀末)という流れがあるのですが、私は、近世西欧語文法学とともに同時代の人々の発話や会話を対象とした言語研究がなされていると思い込んでいたので、近代言語学では、印欧語研究という過去の言語研究の方が先に成立したことが、本書の後半になるまでわかりませんでした(比較言語学はあくまで同時代の発話や会話の研究を含む「言語学」の一分野として成立したのだと思い込んでいたのです)
これら私が冒頭にあると良いと考えるものが文中各所に散在しているということは、本書は基本的に言語学の基本的知識を有する読者(言語学専攻の学生等)を想定した書籍であると指摘できるのではないかと思います(サンスクリットの r̥※など説明なしに何度も登場し、ソナントの説明があるのはp179)。後の世代の研究で前の世代の業績が批判され相対化される時点の記述に至ってはじめて前世代の研究の本質が理解できることになったものの、その度前の部分を読み返して頭の中で全体の中の位置付けを整理する必要があり、4章以降は事実上2度読むことになりました。
※r の下に・がつく文字(サンスクリット第七母音)です。
③その他留意点
(1)言語学の基礎知識を前提にしているところがあり、言語学徒なら気にもならないのかも知れませんが、一般読者の感覚からすると、音韻変化の具体例が多数登場して急に記述内容が細かく深くなる部分が何か所かあります。それでも用語補記と第七章を4章の前に読んでおけば、4章以降の音変化の具体例の内容が理解しやすいかも知れません。
(2)現在の比較言語学は知りませんが、本書では19世紀の比較言語学=印欧語研究となっていて、セム語の比較言語学の成立事情や進展具合への言及は一切ありません(セム語比較言語学は、「比較セム語学」と有徴で表記しないといけないようです)。世界主要言語の近代言語学の誕生史も言及はありません。
人物伝ではないため、主要登場人物の生没年はほとんど言及されていないので、以下に記載します。
フリードリッヒ・シュレーゲル(独)1772-1829年)
ラムサス・ラスク(デ) 1787-1832年
フランツ・ボップ(独) 1791-1867年
ヤーコプ・グリム(独) 1785-1863年
アウグスト・シュライヒャー(独)1821-1868年
ゲオルク・クルティウス(独) 1820-1885年
カール・ブル-クマン(独) 1849-1919年
デールブリュック(独) 1842-1922年
フェルディナン・ド・ソシュール(ス) 1857-1913年
新書で読める20世紀の言語学史の本では『20世紀言語学入門 (講談社現代新書)』(1995年/加賀野井 秀一)があります。比較セム語学史の日本語概説書もあるといいな、と思いました。
※本書の題名は『言語学の誕生―比較言語学小史』となっていて、比較言語学が誕生し、その歴史の中で近代言語学が誕生した、という風に読めます。実際読了後の印象もこの通りなのですが、もしかしたら同時代の言語を研究する学問も19世紀のうちに誕生していたのかも知れません。そうだとすると、本書は19世紀言語学のうちの比較言語学(のうちの更に比較印欧語学)のみを扱っているだけなのかもしれず、もしそうだとすると比較印欧語学だけで「言語学の誕生」を代表させるのはミスリードとなりますので☆4ということになるのですが、現段階では、どうも近代言語学は比較言語学から開始した(しかも印欧語だけの))、との情報しか見つけられていないため、☆5とする次第です。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
言語学の誕生: 比較言語学小史 (岩波新書 黄版 69) 新書 – 1978/12/20
風間 喜代三
(著)
- 本の長さ233ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1978/12/20
- ISBN-104004200695
- ISBN-13978-4004200697
この商品を見た後に買っているのは?
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1978/12/20)
- 発売日 : 1978/12/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 233ページ
- ISBN-10 : 4004200695
- ISBN-13 : 978-4004200697
- Amazon 売れ筋ランキング: - 434,498位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 983位言語学 (本)
- - 1,966位岩波新書
- - 28,985位語学・辞事典・年鑑 (本)
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2013年4月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
学生時代に言語学のテキストとして使用していました。
非常に説明がわかりやすく、読みやすいのが特徴です。
転居を重ね、うかつにも紛失してしまったので、こちらで見つけた時はうれしかったです。
状態は、おせじにも良いとは言えませんでしたが、満足です。
非常に説明がわかりやすく、読みやすいのが特徴です。
転居を重ね、うかつにも紛失してしまったので、こちらで見つけた時はうれしかったです。
状態は、おせじにも良いとは言えませんでしたが、満足です。
2018年1月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今から40年以上も前、昭和50年代の著書である。
残念ながら、過去の遺物である。
現代の変わりゆく学問の状況に対応できないどころか、弊害さえもある。
正直に申せば、おすすめできない。
残念ながら、過去の遺物である。
現代の変わりゆく学問の状況に対応できないどころか、弊害さえもある。
正直に申せば、おすすめできない。
2004年7月9日に日本でレビュー済み
今の言語学の世界では認知言語学や生成文法などの理論的なものが幅を利かせていて、比較言語学についてはあまり重視されない傾向にある。しかし、そもそも現代の言語学は比較言語学に端を発すると言っても過言でない以上、それを見過ごすことはできないであろう。
比較言語学というものがどのように誕生・発展してきたのか、先人たちの奮闘振りが伝わってくる。決して軽く読めるような内容ではないが、言語学に興味があるなら是非とも読んでおきたい一冊。
最近「日本語ブーム」に乗ってか、言語学(?)関連の本が多数出回っているが、こうしたちゃんとした本があるのだから、岩波書店には是非とも復刊していただきたいと思う。
比較言語学というものがどのように誕生・発展してきたのか、先人たちの奮闘振りが伝わってくる。決して軽く読めるような内容ではないが、言語学に興味があるなら是非とも読んでおきたい一冊。
最近「日本語ブーム」に乗ってか、言語学(?)関連の本が多数出回っているが、こうしたちゃんとした本があるのだから、岩波書店には是非とも復刊していただきたいと思う。