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マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書 新赤版 503) 新書 – 1997/5/20
山之内 靖
(著)
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いまヴェーバーはどう読まれるべきなのか.従来無視されてきたニーチェとの親縁性を明らかにし,ヴェーバー社会学の方法を解きほぐしながら,西欧の合理化過程が生みだした近代社会に根本的批判の目をむけ,知の不確実性を正面から見据えたヴェーバーの根本思想を浮き彫りにする.ヴェーバー像のラディカルな書き換えを迫る本格的入門書.
- 本の長さ248ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日1997/5/20
- 寸法11 x 2.4 x 17.5 cm
- ISBN-104004305039
- ISBN-13978-4004305033
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対象商品: マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書 新赤版 503)
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (1997/5/20)
- 発売日 : 1997/5/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 248ページ
- ISBN-10 : 4004305039
- ISBN-13 : 978-4004305033
- 寸法 : 11 x 2.4 x 17.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 247,690位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年9月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ヴェーバー像は、十分に研究が積み重ねられており、もう論じる必要のないものなのかと、ぼんやりとしたイメージを持って読み始めましたが、そんなイメージは見事に破砕されました。著者は、マルクス主義的立場からのヴェーバー像――ヴェーバーはブルジョワ社会に対して楽観的である云々――に対して、それを覆すために、学術的な戦闘態勢でこの本を書かれているように思われます。それゆえに、書誌情報やヴェーバー解釈史の整理情報が多く、(研究者を別にすれば)少し煩瑣な記述が多いという印象を持たれるかもしれません。が、著者が打ち出すヴェーバー像はそれだけに一層クリアなものになっており、近代社会に対する批判的意識を持つ人物像が打ち出されています。
2020年8月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ネット上で書籍を購入することが増えた今では、タイトルだけ見て購入することが多い。
最初に断っておくと、少なくとも普通の人が想像する「入門」ではない。大学で薦められて(or 課されて)ヴェーバーの著作を読んだ大学生が、あんまりよくわからなかったから、参考に読んでみようという意識では読みにくいかと思われる。レビュータイトルにある通り、あくまで研究の入門書といえる。
ただ、本書の面白いところが、研究の入門である要素が強いにも関わらず、知識が足りずとも比較的読みやすい点である。「へぇ、ヴェーバーの解釈はこうやって変わってきたのか」「なんか大学からヴェーバーを読めって言われたのは、こういう意味があるのか」というのが見えてくるのは面白い。社会科学系の学部に入ると、とりあえず読んどけ的な形でヴェーバーの著作を薦められることは多いと思うが、ヴェーバーの著作を自分なりに「いま」の視点で読んでしまうことの危険性を、本書は教えてくれる。ヴェーバーは単に「ヨーロッパ中心主義」と切り捨てて良いのか、単にプロテスタント教義に忠実な学者と切り捨てて良いのか、等々。
やや、本書のタイトルには疑問を覚えるが、すぐにでもヴェーバーに関して読書感想文を書かないとならないといった、切迫した目的がない限り読んで損のない新書である。
最初に断っておくと、少なくとも普通の人が想像する「入門」ではない。大学で薦められて(or 課されて)ヴェーバーの著作を読んだ大学生が、あんまりよくわからなかったから、参考に読んでみようという意識では読みにくいかと思われる。レビュータイトルにある通り、あくまで研究の入門書といえる。
ただ、本書の面白いところが、研究の入門である要素が強いにも関わらず、知識が足りずとも比較的読みやすい点である。「へぇ、ヴェーバーの解釈はこうやって変わってきたのか」「なんか大学からヴェーバーを読めって言われたのは、こういう意味があるのか」というのが見えてくるのは面白い。社会科学系の学部に入ると、とりあえず読んどけ的な形でヴェーバーの著作を薦められることは多いと思うが、ヴェーバーの著作を自分なりに「いま」の視点で読んでしまうことの危険性を、本書は教えてくれる。ヴェーバーは単に「ヨーロッパ中心主義」と切り捨てて良いのか、単にプロテスタント教義に忠実な学者と切り捨てて良いのか、等々。
やや、本書のタイトルには疑問を覚えるが、すぐにでもヴェーバーに関して読書感想文を書かないとならないといった、切迫した目的がない限り読んで損のない新書である。
2023年9月7日に日本でレビュー済み
プロローグ―近代知の限界点に立って
神なき時代の社会科学
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神再訪―悲劇の精神
精神の病―死と再生のドラマ
古代史再発見―回帰する時間の社会学
受苦者の連帯に向けて
神なき時代の社会科学
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神再訪―悲劇の精神
精神の病―死と再生のドラマ
古代史再発見―回帰する時間の社会学
受苦者の連帯に向けて
2014年5月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本が新しく、きれいで、嬉しかったです。買ってよかったと思いました。
2015年7月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、ヴェーバーのなかのニーチェ的契機を明らかにしつつ、その全体像を概観するものである。
「プロローグ――近代知の限界点に立って」は、本書の問題関心について。
第1章「神なき時代の社会科学」は、まず、社会科学を2つの潮流(アダム・スミスとカール・マルクスに代表される構造論的アプローチとヴェーバーの行為論的アプローチ)に整理する。次いで、ヴェーバーの合理化論の通説的解釈とそれに対する批判を中心に先行研究を整理する。
第2章「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』再訪――悲劇の精神」は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り上げ、それをニーチェ的観点から読み直す。以上のような読解の補助線として、「距離の感覚」「方法的不連続性」「資本主義精神起源論争」について述べる。
第3章「精神の病――死と再生のドラマ」は、妻のマリアンネによる伝記などを参照しつつ、ヴェーバーの方法論的展開を、これまであまり取り上げられてこなかった中期に焦点を当てて検討する。
第4章「古代史再発見――回帰する時間の社会学」は、中期の古代史研究を取り上げ、その中におけるヴェーバーの方法論的展開を明らかにする。
終章「受苦者の連帯に向けて」は、これまでのまとめと展望について。
以上のように、本書は、ヴェーバーをニーチェ的観点から読み直すという問題関心のもと、特に中期に焦点を当てることで、彼の古代史認識における転回を明らかにしつつ、そこから晩年の彼の近代に対する批判的認識の成立を見出そうとするものである。入門書という表題にもかかわらず、その内容は非常に多くの示唆に富み、有益である。一方、初学者には難しく感じるところはあるが、文章は平易で読みやすく、文献案内もある。特に、ニーチェを媒介にしつつフーコーとの関連を指摘する部分は、興味深く読めた。一読を薦めたい。
「プロローグ――近代知の限界点に立って」は、本書の問題関心について。
第1章「神なき時代の社会科学」は、まず、社会科学を2つの潮流(アダム・スミスとカール・マルクスに代表される構造論的アプローチとヴェーバーの行為論的アプローチ)に整理する。次いで、ヴェーバーの合理化論の通説的解釈とそれに対する批判を中心に先行研究を整理する。
第2章「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』再訪――悲劇の精神」は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り上げ、それをニーチェ的観点から読み直す。以上のような読解の補助線として、「距離の感覚」「方法的不連続性」「資本主義精神起源論争」について述べる。
第3章「精神の病――死と再生のドラマ」は、妻のマリアンネによる伝記などを参照しつつ、ヴェーバーの方法論的展開を、これまであまり取り上げられてこなかった中期に焦点を当てて検討する。
第4章「古代史再発見――回帰する時間の社会学」は、中期の古代史研究を取り上げ、その中におけるヴェーバーの方法論的展開を明らかにする。
終章「受苦者の連帯に向けて」は、これまでのまとめと展望について。
以上のように、本書は、ヴェーバーをニーチェ的観点から読み直すという問題関心のもと、特に中期に焦点を当てることで、彼の古代史認識における転回を明らかにしつつ、そこから晩年の彼の近代に対する批判的認識の成立を見出そうとするものである。入門書という表題にもかかわらず、その内容は非常に多くの示唆に富み、有益である。一方、初学者には難しく感じるところはあるが、文章は平易で読みやすく、文献案内もある。特に、ニーチェを媒介にしつつフーコーとの関連を指摘する部分は、興味深く読めた。一読を薦めたい。
2014年9月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
入門との言葉に引かれて購入。
読み始めて直ぐにこれは実際にヴェーバーの著書を読んでからでないと理解が出来ないと感じた。
読み始めて直ぐにこれは実際にヴェーバーの著書を読んでからでないと理解が出来ないと感じた。
2019年4月24日に日本でレビュー済み
1997年刊行というから、すでに20年以上も前の新書であるが、ヴェーバーについての解説として読んだ。
ヴェーバー(1864-1920)は、マルクス(1818-1883)より半世紀近く後の思想家・社会科学者であり、マルクスから多くのことを学びつつも社会主義・共産主義に賛同せず資本主義を妥当とし、さらにヨーロッパ、とくにキリスト教プロテスタンティズムの精神・倫理が資本主義の経済を推進してきたとし、ヨーロッパのキリスト教精神の優越性を説いた人物とされてきた。この本の著者山之内靖は、これらを誤解で浅薄な理解だとする。
社会科学は、思考する人間の価値判断を前提とするため、自然科学のような客観的中立性は不可能であり、知の不確実性をともなわざるを得ない。そのことをただしく自覚することが社会科学における「価値自由」の意味である。宗教的にこれを表現すると、社会科学の理解には「神々の闘争」をともない、主観も感情も繰り込んで思考せざるを得ず、その意味で「神学としての科学(=近代の社会科学)の脱構築」が必要だとする。
経済学の始祖たるアダム・スミスは、人間の行動原理を人間の利己心に一元化し、経済活動を固定的・客観的にとらえた。マルクスは、現在存在する資本主義は強固なものであるが、内在的に変化し崩壊するものであるとして、対象を固定化してとらえる近代知を否定した。しかしマルクスは、経済構造の変化に法則をみる点で、まだ近代知の枠内にとどまった。ヴェーバーは、アダム・スミスが説く市場メカニズムがそれ自体として存立・機能できるわけでなく、それを運用する人間の倫理・道徳的動機付けを必要とする、とする。すなわちヴェーバーは、経済的行為の理論として、それにかかわる人間の社会的行為の内面的動機付けに注目したのである。
この社会的行為の内面的動機付けとしてヴェーバーが取り上げたのが、ヨーロッパのプロテスタンティズムであり、とくに宗教改革カルヴァン派のピューリタンに代表される倫理であった。カルヴァンは、神のみが人間の行動・運命を決定するのであり、被造物者たる人間には一切の決定権がなく、人間は救済されるためにひたすら神の意に叶うべく「現世内的禁欲」を守り「神の道具」となって行動せざるを得ない。主観的に魂の救済を求めて宗教的救済へと向って行くこの激しい情熱が、意図せざる形で客観的に社会的・政治的・経済的な秩序の形成に向かう。こうして勤勉に働くことで人間は豊かになり、秩序のなかでひとまずの安定を得るが、そのように秩序付けられた社会では、人々は聖職者の官僚制の檻に閉じ込められて、なおかつ救済されるか否かも不明のままである。運命は不確実性をともない、未来への不安は避けられない。
このように、ヴェーバーが説く資本主義とそれを支えるプロテスタンティズムは、その経済制度やそれを突き動かす精神について、決して勝ち誇ったり謳歌したり、楽観するものではなく、不確実な運命の力を覚悟せねばならない、というある意味で暗いものである。
ヴェーバーは、マルクスとともにニーチェから大きな影響を受けたと山之内は言う。そして1864年生まれのヴェーバーの活動期間を、学位を得てハイデルベルク大学教授に就任し、父と激しく衝突して父が旅先で急死してしまう中で『古代農業事情 第2版』を発刊するまでの1897年(33歳)までを第1期、そのショックが契機となって神経症を発病し、大学を辞めイタリアに転地療養し、招待をうけて渡米し『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表し、『古代農業事情 第3版』を発刊する1909年(45歳)までを第2期、そして神経症から快癒に向かい、イタリアとイギリスに旅し『経済と社会』、『世界宗教の経済倫理』、『古代ユダヤ教』、『職業としての学問』、『職業としての政治』などを発表し、ミュンヘン大学教授に復帰してまもなく亡くなる1920年(56歳)までを第3期として、思想の展開と深まりを丁寧に追跡している。
人間の歴史をつき動かしてきた力として、マルクスが説いた「生産力」に加えて、ヴェーバーは「宗教的救済に向かう観念の力」、さらに「身体に源をもつディオニュソス的な力」の3つを説いている。
社会、とくに経済活動は、単純な生存維持・確保、金銭欲・奢侈への欲望などで理解しきれない要素があることは、私も感覚的に理解するが、ヴェーバーは宗教・倫理・道徳を持ち出して、さらに単純な合理化のイメージでは理解できないディオニュソス的なエネルギーを主張していることが、ヴェーバーの生涯の歩みを背景に解説されている。簡単な内容ではないが、記述は丁寧で良書であると思う。
ヴェーバー(1864-1920)は、マルクス(1818-1883)より半世紀近く後の思想家・社会科学者であり、マルクスから多くのことを学びつつも社会主義・共産主義に賛同せず資本主義を妥当とし、さらにヨーロッパ、とくにキリスト教プロテスタンティズムの精神・倫理が資本主義の経済を推進してきたとし、ヨーロッパのキリスト教精神の優越性を説いた人物とされてきた。この本の著者山之内靖は、これらを誤解で浅薄な理解だとする。
社会科学は、思考する人間の価値判断を前提とするため、自然科学のような客観的中立性は不可能であり、知の不確実性をともなわざるを得ない。そのことをただしく自覚することが社会科学における「価値自由」の意味である。宗教的にこれを表現すると、社会科学の理解には「神々の闘争」をともない、主観も感情も繰り込んで思考せざるを得ず、その意味で「神学としての科学(=近代の社会科学)の脱構築」が必要だとする。
経済学の始祖たるアダム・スミスは、人間の行動原理を人間の利己心に一元化し、経済活動を固定的・客観的にとらえた。マルクスは、現在存在する資本主義は強固なものであるが、内在的に変化し崩壊するものであるとして、対象を固定化してとらえる近代知を否定した。しかしマルクスは、経済構造の変化に法則をみる点で、まだ近代知の枠内にとどまった。ヴェーバーは、アダム・スミスが説く市場メカニズムがそれ自体として存立・機能できるわけでなく、それを運用する人間の倫理・道徳的動機付けを必要とする、とする。すなわちヴェーバーは、経済的行為の理論として、それにかかわる人間の社会的行為の内面的動機付けに注目したのである。
この社会的行為の内面的動機付けとしてヴェーバーが取り上げたのが、ヨーロッパのプロテスタンティズムであり、とくに宗教改革カルヴァン派のピューリタンに代表される倫理であった。カルヴァンは、神のみが人間の行動・運命を決定するのであり、被造物者たる人間には一切の決定権がなく、人間は救済されるためにひたすら神の意に叶うべく「現世内的禁欲」を守り「神の道具」となって行動せざるを得ない。主観的に魂の救済を求めて宗教的救済へと向って行くこの激しい情熱が、意図せざる形で客観的に社会的・政治的・経済的な秩序の形成に向かう。こうして勤勉に働くことで人間は豊かになり、秩序のなかでひとまずの安定を得るが、そのように秩序付けられた社会では、人々は聖職者の官僚制の檻に閉じ込められて、なおかつ救済されるか否かも不明のままである。運命は不確実性をともない、未来への不安は避けられない。
このように、ヴェーバーが説く資本主義とそれを支えるプロテスタンティズムは、その経済制度やそれを突き動かす精神について、決して勝ち誇ったり謳歌したり、楽観するものではなく、不確実な運命の力を覚悟せねばならない、というある意味で暗いものである。
ヴェーバーは、マルクスとともにニーチェから大きな影響を受けたと山之内は言う。そして1864年生まれのヴェーバーの活動期間を、学位を得てハイデルベルク大学教授に就任し、父と激しく衝突して父が旅先で急死してしまう中で『古代農業事情 第2版』を発刊するまでの1897年(33歳)までを第1期、そのショックが契機となって神経症を発病し、大学を辞めイタリアに転地療養し、招待をうけて渡米し『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表し、『古代農業事情 第3版』を発刊する1909年(45歳)までを第2期、そして神経症から快癒に向かい、イタリアとイギリスに旅し『経済と社会』、『世界宗教の経済倫理』、『古代ユダヤ教』、『職業としての学問』、『職業としての政治』などを発表し、ミュンヘン大学教授に復帰してまもなく亡くなる1920年(56歳)までを第3期として、思想の展開と深まりを丁寧に追跡している。
人間の歴史をつき動かしてきた力として、マルクスが説いた「生産力」に加えて、ヴェーバーは「宗教的救済に向かう観念の力」、さらに「身体に源をもつディオニュソス的な力」の3つを説いている。
社会、とくに経済活動は、単純な生存維持・確保、金銭欲・奢侈への欲望などで理解しきれない要素があることは、私も感覚的に理解するが、ヴェーバーは宗教・倫理・道徳を持ち出して、さらに単純な合理化のイメージでは理解できないディオニュソス的なエネルギーを主張していることが、ヴェーバーの生涯の歩みを背景に解説されている。簡単な内容ではないが、記述は丁寧で良書であると思う。
2016年7月31日に日本でレビュー済み
書名に「マックス・ヴェーバー入門」とあるが、本書で行われているのはヴェーバー概説ではなく、「近代合理主義の讃美者としての既存のヴェーバー解釈を批判し、近代批判者・ポストモダンの先駆としてのヴェーバー解釈の提起」である。
なので本当にマックス・ヴェーバーを知らない人が入門書として読むのはかなりきついだろう。
あえて言えば「再入門」といったところであろうか。
筆者の解釈で重要な役割を占めるのがニーチェとの類似性で、本書では『ツァラトゥストラ』や『悲劇の誕生』の引用が多数なされ、ヴェーバーとの類似性が繰り返し主張されている。
単純な近代讃美者としての解釈が妥当でなさそうだというのは筆者の指摘の通りではないかと思う。
しかし一方で、筆者が「ニーチェ=ヴェーバー親縁性」にこだわりすぎて、そこまで強い論拠があるとも思えないのに「ここも似ている」「ここはこう解釈した方がいいのでは」と半ば自らの説に合わせるための強引な解釈になっている面もやや垣間見える。
筆者がやや強めに解釈を打ち出したのは、既存解釈の批判と刷新の意図があるためかなと思うが、であればなおさら「入門」という感じではなく「上級」に近い。
本当にヴェーバーを知らない人は マックス・ウェーバーを読む (講談社現代新書) などの方がオーソドクスで平易だと思う。
一方の本書は、ヴェーバーをある程度知っている人には大いに楽しめる内容であろう。
なので本当にマックス・ヴェーバーを知らない人が入門書として読むのはかなりきついだろう。
あえて言えば「再入門」といったところであろうか。
筆者の解釈で重要な役割を占めるのがニーチェとの類似性で、本書では『ツァラトゥストラ』や『悲劇の誕生』の引用が多数なされ、ヴェーバーとの類似性が繰り返し主張されている。
単純な近代讃美者としての解釈が妥当でなさそうだというのは筆者の指摘の通りではないかと思う。
しかし一方で、筆者が「ニーチェ=ヴェーバー親縁性」にこだわりすぎて、そこまで強い論拠があるとも思えないのに「ここも似ている」「ここはこう解釈した方がいいのでは」と半ば自らの説に合わせるための強引な解釈になっている面もやや垣間見える。
筆者がやや強めに解釈を打ち出したのは、既存解釈の批判と刷新の意図があるためかなと思うが、であればなおさら「入門」という感じではなく「上級」に近い。
本当にヴェーバーを知らない人は マックス・ウェーバーを読む (講談社現代新書) などの方がオーソドクスで平易だと思う。
一方の本書は、ヴェーバーをある程度知っている人には大いに楽しめる内容であろう。