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小説の終焉 (岩波新書 新赤版 908) 新書 – 2004/9/22
川西 政明
(著)
- 本の長さ214ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2004/9/22
- ISBN-104004309085
- ISBN-13978-4004309086
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2004/9/22)
- 発売日 : 2004/9/22
- 言語 : 日本語
- 新書 : 214ページ
- ISBN-10 : 4004309085
- ISBN-13 : 978-4004309086
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,058,052位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 3,339位岩波新書
- - 129,159位ノンフィクション (本)
- - 189,535位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年7月14日に日本でレビュー済み
要するに、そういう事です。いま「文芸」と言ったら、全国の地方自治体や図書館公民館で年に1回位ほど編輯される、『文芸○○(地名)』といった素人作品の品評会で使われる言葉です。プロのライターは「文芸」などハナから目指さない。いま求められているのは、読書好きの人が時間つぶしになるような、作り物語のプロという意味であって、それ以上でもそれ以下でもない。いまどき作家の作り話なんか読んで、人生や社会の現実を知ろうとする人はいない。もしそういうことが知りたいのなら、大学の先生や専門家が書く「新書」、ノンフィクションライターのルポのほうが興味深いし信頼できる。つまり「文学者」は必要なくなったという事なのです。これは世界的な現象であって、ノーベル文学賞も実はたいした価値はないでしょう。ノーベル賞受賞者に多い第三世界の話なんか誰も興味ないし。
2004年11月25日に日本でレビュー済み
書名が刺激的であるが、小説の時代が終わるとかいった悲観論ではな
い。近代日本文学史を素描しながら、いかに日本の小説が豊かに主題を
展開してきたかを纏め上げる。島崎藤村、芥川龍之介、志賀直哉、川端
康成から現代活躍中の村上龍、村上春樹まで、作家が自分の生きざま
を見つめながら、作品を書いてきたまさに「必死の格闘」の跡が見え
る。こういう気迫ある小説を振り返れば、たしかに今後の小説は安易な
ものであっては滅びてしまうだろう。
読みやすい近代日本文学史である。
い。近代日本文学史を素描しながら、いかに日本の小説が豊かに主題を
展開してきたかを纏め上げる。島崎藤村、芥川龍之介、志賀直哉、川端
康成から現代活躍中の村上龍、村上春樹まで、作家が自分の生きざま
を見つめながら、作品を書いてきたまさに「必死の格闘」の跡が見え
る。こういう気迫ある小説を振り返れば、たしかに今後の小説は安易な
ものであっては滅びてしまうだろう。
読みやすい近代日本文学史である。
2010年8月5日に日本でレビュー済み
みずからを「日本で小説を一番多く読んでいる一人だと思う」文芸評論家の川西政明氏の『小説の終焉』を遅まきながら、読んだ。二葉亭四迷の『浮雲』から敗戦までの約60年(前期)、敗戦の日から現在までの約60年(後期)に、「多くの小説が書かれ、多くの実験が積み重ねられた」が、もはや小説の主題は「一九七〇 年代には書き終えられてしまった」のではないか、というのが論旨である。「私」も「家」も「神」も「性」その他これまで追求されてきた主題は、ことごとく切実さを喪っているだろう、ということである。
これらの主題を扱った作家、芥川龍之介、志賀直哉、川端康成、太宰治、大江健三郎、村上春樹らの仕事を整理し、いま同じ主題をとり上げる困難さを指摘する。さらに時代の課題であった「戦争」「革命」「原爆」「存在」「歴史(近代史)」についても、もはや小説における新たな表現は不可能な地点にあるのではないかと、時代の代表的作品の意義をまとめつつ問題提起している。あくまでもエッセイとして書かれた小品なので、作家論・作品論を期待しては物足りないが、これまでの川西氏の仕事を踏まえての指摘であるので、逡巡のない議論展開であり、説得力がある。むろん川西氏は、絶望を語りたいのでもなく、小説に引導を渡す意図でもない。「小説が存続するためには、この次の百年にこれまでの百二十年の小説の歴史を大きく凌駕する豊穣な世界が創作されなければならない」との願いで、その「判断の土台になるものを提示するために」本書を書いたそうである。志に敬意を表したいが、しかし、創作する立場に立つと、なかなかそんな展望になんぞ付き合ってもいられない。ひとは文学史のために小説を書くのではなく、書きたいことがあって書くのだからである。主題の喪失ということでいえば、『旧新約聖書』においてすでに文学的主題など書き尽くされているのではないかと、室生犀星の口吻にならって述べることもできるだろう。とはいえ、たしかにいま切実に書きたいものなどじつはないのである。さてどうしたものか。
これらの主題を扱った作家、芥川龍之介、志賀直哉、川端康成、太宰治、大江健三郎、村上春樹らの仕事を整理し、いま同じ主題をとり上げる困難さを指摘する。さらに時代の課題であった「戦争」「革命」「原爆」「存在」「歴史(近代史)」についても、もはや小説における新たな表現は不可能な地点にあるのではないかと、時代の代表的作品の意義をまとめつつ問題提起している。あくまでもエッセイとして書かれた小品なので、作家論・作品論を期待しては物足りないが、これまでの川西氏の仕事を踏まえての指摘であるので、逡巡のない議論展開であり、説得力がある。むろん川西氏は、絶望を語りたいのでもなく、小説に引導を渡す意図でもない。「小説が存続するためには、この次の百年にこれまでの百二十年の小説の歴史を大きく凌駕する豊穣な世界が創作されなければならない」との願いで、その「判断の土台になるものを提示するために」本書を書いたそうである。志に敬意を表したいが、しかし、創作する立場に立つと、なかなかそんな展望になんぞ付き合ってもいられない。ひとは文学史のために小説を書くのではなく、書きたいことがあって書くのだからである。主題の喪失ということでいえば、『旧新約聖書』においてすでに文学的主題など書き尽くされているのではないかと、室生犀星の口吻にならって述べることもできるだろう。とはいえ、たしかにいま切実に書きたいものなどじつはないのである。さてどうしたものか。
2006年3月31日に日本でレビュー済み
文学は例外だった。文学を学ぶこと(参照すること)が拡散され、全く体系だっていなかったために小説を書くに、読むにあたって学ぶことなど少なかった。学問を学ぶ意味での具体的な専門性はある意味乏しかった分野だ。現在において、自由に描ける(もともと自由とは拘束された中でしかないものだが)ことなど極端に少ない。文学の社会的な意味の喪失は時代的な要請によるものだ。それは他に語れる応用力を持っていなかったことをも意味する。今、何かを描こうとするならば何かを学んでいなければ描けない。感性だけで描ける時代はもう終わったのだ。それほど現代社会は複雑に分化した。応用力というのは何もスポーツや学問に限ったことではない。科学もしかり。サッカーではそれを瞬時に求められる。まさに応用力を常に必要としている。そうした柔軟さがこれまでの文学には足りなかった。今の状況とは自由に描けていたと思っていたことすらもが反復でしかなかった。ならば?問われているのはそこだ。哲学の世界ではもう40年近く前から言われてきたことだ。 私も小説は好きだし、そこに深い愛着も抱いてきたが、今や感性だけで描ける時代ではない。世界的には近代小説(他へと突き動かすもの)の終焉は1968年だ。日本でもその後、急速にそうしたものは衰えてゆく。今さら近代小説の終焉を言われても困るわけだが(海外ではそのように言う人はもはやいないに等しい状況だ)。柄谷行人にしても。その後の展望を語れなかったことこそが文学の弱さでもあった。なら?成熟期において何が問題か?現在、生きている人間にとって避けては通れないこと。気付いたらもうそこまで来てしまっていたのだ。恐らくもう小説家とは呼べない者こそが描いてゆくのだろう。だから仮に彼、彼女たちが出てきたとしてももう小説家です、作家ですとは呼ばないだろう。この眼鏡、3つ星と見た。ありがとうという気持ちは私も同じだが......。
2004年12月13日に日本でレビュー済み
日本の小説は誕生から今までの120年で終焉を迎えた、という驚くべき主張を掲げる著者が、小説に取り上げられた主要な主題毎にその主張を検証する。
「私」、「家」、「性」など日本の小説が主題としたそれぞれについて、作家と作品の推移を取り上げている点で、日本の小説を概観することができる点で優れた著作だ。個々の小説を単独のものとして読みがちな私としては、作家間の関連や、その時期の作家の主張などを作品とつなげることで、新たな視点で作品を眺めることができる。
小説が終焉したかと言えば、私はそうは思わないし著者自身もそれを信じているようには思えない。確かに書き尽くされた多くの主題があるが、個人や信仰、国際関係など尽くされていない主題もまだ多い。
「私」、「家」、「性」など日本の小説が主題としたそれぞれについて、作家と作品の推移を取り上げている点で、日本の小説を概観することができる点で優れた著作だ。個々の小説を単独のものとして読みがちな私としては、作家間の関連や、その時期の作家の主張などを作品とつなげることで、新たな視点で作品を眺めることができる。
小説が終焉したかと言えば、私はそうは思わないし著者自身もそれを信じているようには思えない。確かに書き尽くされた多くの主題があるが、個人や信仰、国際関係など尽くされていない主題もまだ多い。
2005年1月31日に日本でレビュー済み
目次を見ると驚く。15章すべての題名に「終焉」がついている。いくつかの章題を、「終焉」を略して記せば、私、性、芥川竜之介、大江健三郎、戦争、存在、などである。作家が同時代の社会的・政治的テーマを扱えば、それが時代の変遷によって、今日的なテーマでなくなるという意味では、終焉もあるだろう。また、一人の作家が死亡すれば、その新たな作品がもう世に出ることがないという意味では、その作家の終焉ではある。しかし、川西は、現存の作家についても終焉を迎えたとし、また、永続的なテーマにも終焉を宣言する。読者は、これはいったいどういうことかと、いぶかりながら読まされる。本書には、多くの小説家の人生とその作品がより合わせて巧みに紹介されている。著者はそうした紹介を通じて、それらの作品に扱われたテーマ、あるいは一つのテーマを追求した一小説家の役割が、狭い意味では終焉に至ったと見得ることを示すが、なお疑問は解けない。「おわりに」の章に到って、読者は著者の終末論の意図を知り、ようやく安堵する。そこには次のように書かれている。「小説が存続するためには、この次の百年にこれまでの百二十年の小説の歴史を大きく凌駕する豊饒な世界が創作されなければならない。」――これは、日本の近代小説の歴史を多数の小説のあらすじを通して紹介し、忙しい読者を楽しませる本である以上に、今後小説を書く人びとを鼓舞する本なのである。