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刀狩り: 武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 965) 新書 – 2005/8/19
藤木 久志
(著)
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- ISBN-104004309654
- ISBN-13978-4004309659
- 出版社岩波書店
- 発売日2005/8/19
- 言語日本語
- 寸法10.7 x 1 x 17.3 cm
- 本の長さ252ページ
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
秀吉の刀狩りによって民衆は武装解除されたという「常識」は本当だろうか? 秀吉からマッカーサーまで、刀狩りの実態を検証して、武装解除された「丸腰」の民衆像から、武器を封印する新たな日本民衆像への転換を提言する。
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2005/8/19)
- 発売日 : 2005/8/19
- 言語 : 日本語
- 新書 : 252ページ
- ISBN-10 : 4004309654
- ISBN-13 : 978-4004309659
- 寸法 : 10.7 x 1 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 66,254位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 166位日本史ノンフィクション
- - 173位東洋史
- - 196位地方別日本史の本
- カスタマーレビュー:
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カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年9月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「刀狩り」はほとんど「平和のための理念」で刀も鉄砲も普及したままだったようだが、現代人の認識を大きく誤らせている。相模、足柄あたりでは近年も猪、鹿、猿などによる獣害が甚だしい。当然江戸時代も同様だったはずで、幕末小田原藩で免許されていた漁師鉄砲が800以上もあったというのは肯けた。しかし、その鉄砲や銃弾・火薬がどこで製造されどのように流通していたのかについては記述されていない。県立博物館とか国友の鉄砲資料館に問い合わせたが要領は得られなかった。奥村正二さんの『火縄銃から黒船まで』は良書だが、戦国期と幕末期の間への関心が薄くほとんどわからない。武器としての鉄砲が関心事で広く普及していた「漁師鉄砲」が無視されているからだろう。私もこの本を読むのが遅すぎたと後悔している。
2022年1月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
刀狩りを通説の「武装解除」ではなく「身分制度の固定」と実証する試み。
豊臣の刀狩り、徳川期の武器所有、明治の廃刀令、と実証主義観点から説得力ある論考が続き成功してると思われます。
しかし、GHQによる武装解除から護憲まで話が展開されると「岩波的戦後民主主義」かと騙された心地がしますね。
豊臣の刀狩り、徳川期の武器所有、明治の廃刀令、と実証主義観点から説得力ある論考が続き成功してると思われます。
しかし、GHQによる武装解除から護憲まで話が展開されると「岩波的戦後民主主義」かと騙された心地がしますね。
2005年12月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
秀吉の刀狩は民衆の武装解除を狙ったものではなく、あくまで外見から
身分を固定しようとした試みであるという非常に新鮮な説が展開され実証される。
そして武器を持ってはいるが使わないという姿勢は江戸後期に入り、
一揆の際も農民・大名共に鉄砲は使わないという一種の冷戦下の通常戦争
のような形に発展した。この自主規制は明治までほとんど守られた。
これは日本人の持っている優れた特性である。
ここまではいいのだが、だから日本人は憲法9条を守り武器を持たない・使わない姿勢を
今後とも維持しつづけるべきだという議論の持っていき方には賛成できない。
武器を持っていてもよほどのことがないと使わないという優れた自制心があるのなら、
それこそ武器を持つにふさわしい国民なのではないのか?
(武器を持ちながら自制心のカケラもない国に囲まれている日本なのだ。)
この特性はやたら日本の軍国主義化を懸念する一部の国、並びに国内のマスコミ諸氏に
きちんと説明してやる点であって、変な憲法論議と絡ませるべきではない。
身分を固定しようとした試みであるという非常に新鮮な説が展開され実証される。
そして武器を持ってはいるが使わないという姿勢は江戸後期に入り、
一揆の際も農民・大名共に鉄砲は使わないという一種の冷戦下の通常戦争
のような形に発展した。この自主規制は明治までほとんど守られた。
これは日本人の持っている優れた特性である。
ここまではいいのだが、だから日本人は憲法9条を守り武器を持たない・使わない姿勢を
今後とも維持しつづけるべきだという議論の持っていき方には賛成できない。
武器を持っていてもよほどのことがないと使わないという優れた自制心があるのなら、
それこそ武器を持つにふさわしい国民なのではないのか?
(武器を持ちながら自制心のカケラもない国に囲まれている日本なのだ。)
この特性はやたら日本の軍国主義化を懸念する一部の国、並びに国内のマスコミ諸氏に
きちんと説明してやる点であって、変な憲法論議と絡ませるべきではない。
2021年6月4日に日本でレビュー済み
本社は、民間の武装解除を3つの軸(秀吉の刀狩・明治維新の廃刀令・GHQによる武装解除)で考察し、
刀狩令を武装解除令とみる通念は誤りだと説いています。
天草の乱後に天草を支配した大名が農民に武器を返していた事実や、
江戸での帯刀を禁じたが所持を認めた事実、害獣駆除のために銃の所持を認めた事実などを述べて
身分を明らかにするため帯刀は禁じたものの所持を認めていて、
真の武装解除はGHQが行ったと説きます。
説得力のある内容で、刀狩令を誤解していたことを理解しました。
本の内容は良かったのですが、岩波書店の本だけに最後の最後に岩波らしい記述があり、
不愉快でした。
刀狩令を武装解除令とみる通念は誤りだと説いています。
天草の乱後に天草を支配した大名が農民に武器を返していた事実や、
江戸での帯刀を禁じたが所持を認めた事実、害獣駆除のために銃の所持を認めた事実などを述べて
身分を明らかにするため帯刀は禁じたものの所持を認めていて、
真の武装解除はGHQが行ったと説きます。
説得力のある内容で、刀狩令を誤解していたことを理解しました。
本の内容は良かったのですが、岩波書店の本だけに最後の最後に岩波らしい記述があり、
不愉快でした。
2017年3月19日に日本でレビュー済み
「秀吉の刀狩りによって武士以外の人々は武装解除された」というイメージを持っている人は多いだろう。
実際歴史学の研究者でもそう考えてた人は多かったが、しかし筆者はそのイメージは誤っているという。
数多くの史料から見えてくるのは、武器を大量に保有している農民の姿である。
すべての武器ではなく刀・脇差のみがメインターゲットとされ、それさえも徴発は不十分なものが多かった。
実際、自衛や害獣駆除のために、鉄砲を含めた様々な武器は必要とされており、それらは多く保持されていた。
では刀狩りはなんだったかというと、基本的には身分統制である。
それまでは農民も刀・脇差を普通に持ち歩いていたが、それを原則禁止し、刀を差すのを武士だけにする、そういうシンボリックな形で身分を分けるのが刀狩りである。
また、刀の使用についてはこれを厳しく戒め、裁判による平和な解決を推奨する、というのも刀狩りの意味に含まれる。
とにかく武力を使った人間を双方罰することで武力行使を押さえるというあたりは 喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ) などにも見られる話である。
このような「刀は保持してもいいが持ち歩かない、使わない」というのは明治期の廃刀令でも同じで、シンボリックな刀の顕示を兵隊などに限定し、武士は表立って刀を使わせない、という点は刀狩りの流れと共通だとしている。
本当の意味での「武装解除」が行われるのは、マッカーサーによる刀狩りだというのが筆者の見解である。
「刀狩り」の実相を見せてくれる著書で、非常に面白い。
本題と関係ないところでも、(刀の使用による)村の人間の処罰の身代わりとして、普段面倒を見ている乞食を差し出す(そのための乞食を村では抱えている)という残酷なしたたかさのエピソードなど、興味深い話は多い。
一揆などでも刀は使わず、ある種のなれ合いがあるという話は 一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで などとも共通している。
ヨーロッパの平和令との共通性も最後に触れられており、こうした「身分を見た目で判断できるようにするための施策」は日本特有ではない、という指摘は、日本人の武器の位置づけを考えるうえで重要なことだと思う。
書き方としても読みやすい文章で、幅広い層におススメできる本だと思う。
実際歴史学の研究者でもそう考えてた人は多かったが、しかし筆者はそのイメージは誤っているという。
数多くの史料から見えてくるのは、武器を大量に保有している農民の姿である。
すべての武器ではなく刀・脇差のみがメインターゲットとされ、それさえも徴発は不十分なものが多かった。
実際、自衛や害獣駆除のために、鉄砲を含めた様々な武器は必要とされており、それらは多く保持されていた。
では刀狩りはなんだったかというと、基本的には身分統制である。
それまでは農民も刀・脇差を普通に持ち歩いていたが、それを原則禁止し、刀を差すのを武士だけにする、そういうシンボリックな形で身分を分けるのが刀狩りである。
また、刀の使用についてはこれを厳しく戒め、裁判による平和な解決を推奨する、というのも刀狩りの意味に含まれる。
とにかく武力を使った人間を双方罰することで武力行使を押さえるというあたりは 喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ) などにも見られる話である。
このような「刀は保持してもいいが持ち歩かない、使わない」というのは明治期の廃刀令でも同じで、シンボリックな刀の顕示を兵隊などに限定し、武士は表立って刀を使わせない、という点は刀狩りの流れと共通だとしている。
本当の意味での「武装解除」が行われるのは、マッカーサーによる刀狩りだというのが筆者の見解である。
「刀狩り」の実相を見せてくれる著書で、非常に面白い。
本題と関係ないところでも、(刀の使用による)村の人間の処罰の身代わりとして、普段面倒を見ている乞食を差し出す(そのための乞食を村では抱えている)という残酷なしたたかさのエピソードなど、興味深い話は多い。
一揆などでも刀は使わず、ある種のなれ合いがあるという話は 一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで などとも共通している。
ヨーロッパの平和令との共通性も最後に触れられており、こうした「身分を見た目で判断できるようにするための施策」は日本特有ではない、という指摘は、日本人の武器の位置づけを考えるうえで重要なことだと思う。
書き方としても読みやすい文章で、幅広い層におススメできる本だと思う。
2018年7月16日に日本でレビュー済み
秀吉による「検地」と並ぶ「刀狩り」は教科書的に言えば、兵農分離策であり、庶民の武装解除であったとされるけど、「刀を帯びる」スタイルを武士と庶民の差として表象することに意味があり、武装解除の意味は薄いという見立てを示す。確かに鳥獣害が身近にある中、鉄砲は一種の農具である。秀吉の試みが綱吉の時代に一つの節目を迎えるという見方は興味深い。昨今の「惣無事令」の及んだ範囲の研究を考えると限定的だったと見るのは妥当。明治の廃刀令、進駐軍の武装解除と3度の「刀狩り」があったにせよ、最後の時の印象が強烈に過ぎたのか。
2009年9月12日に日本でレビュー済み
言葉しか知らなかった「刀狩り」
歴史の検証をどうやったらいいかわからない。
そのため、何が真実で、何が隠されているかわからない。
それでも、言葉しか知らなかった状態から、考え始めることができた。
今の日本の平和の基礎を作ったと考えることができるかもしれない。
反面、交通戦争がなぜ防止できないかのヒントをここから考えたい。
ドライビングレコーダの義務付けのような「刀狩り」と同様の強制力が必要なのかもしれない。
歴史の検証をどうやったらいいかわからない。
そのため、何が真実で、何が隠されているかわからない。
それでも、言葉しか知らなかった状態から、考え始めることができた。
今の日本の平和の基礎を作ったと考えることができるかもしれない。
反面、交通戦争がなぜ防止できないかのヒントをここから考えたい。
ドライビングレコーダの義務付けのような「刀狩り」と同様の強制力が必要なのかもしれない。
2007年12月20日に日本でレビュー済み
司馬遼太郎の影響もあって一般に戦国〜江戸時代は大名や武将達の織り成す群雄伝として描かれ、結果、私達の持つ時代像もまたそのようなものとして認識してしまっている。権力者ばかりが脚光を浴び、民衆は統治され、戦禍に苦しみ、重い年貢に喘ぐ、という受動的で無力な客体ぐらいにしか認識していなかったように思う。
本書は歴史の時代把握におけるそのような「権力対民衆」の構図の非対称な叙述の仕方に「武器」を切り口にして一石を投じるものである。著者が言うように、一般的に刀狩りについては、秀吉の刀狩りという事実は万人の知るところである一方でそれがどのように民衆に受容されたのかには全く思いを至らせることもなく何となく刀狩りによって民衆は武装解除され丸腰になってしまったというイメージを持ってきた。本書は長年民衆史を研究してきた著者が学界までもが何の疑いもなく共有してきたそのようなイメージがいかに実態に反したものであったか実証的に明らかにするものである。
刀狩りによって全ての武器が民衆から没収されたわけではなかった。それは百姓の「帯刀権」を剥奪し武士に限定することで士農の身分を明確に分離することを企図したものであり、民衆の非武装化には程遠いものだったという。いかに江戸時代の村々が鉄砲などの多種多様な武器を大量に所持していたか、本書で示される事例には驚かされる。そのように大量の武器が民衆の間に温存されつつも、江戸時代二百年の間に一揆勢力と領主側との間で鉄砲が用いられた事例はほとんどないという。鉄砲を使えば相手方も鉄砲によって応酬する。徳川の平和は、鉄砲の使用によって戦国時代のごとき惨禍に逆行させてはならないという民衆の強い主体的な共同意思が社会の中で成立していたことによって維持されていたのだという。
明治の廃刀令、マッカーサーの「刀狩り」と銃刀法の成立についての記述もまた、駆け足に過ぎる感はあるものの非常に興味深く、読み物としても十分に楽しめる好著であった。と同時に、最近の長崎における銃乱射事件を契機に日本には許可制の下で意外にも大量の銃が存在している銃社会であることが露になったが、本書はまた、期せずしてそのことを考えるタイムリーな素材たりえるのかもしれない。
本書は歴史の時代把握におけるそのような「権力対民衆」の構図の非対称な叙述の仕方に「武器」を切り口にして一石を投じるものである。著者が言うように、一般的に刀狩りについては、秀吉の刀狩りという事実は万人の知るところである一方でそれがどのように民衆に受容されたのかには全く思いを至らせることもなく何となく刀狩りによって民衆は武装解除され丸腰になってしまったというイメージを持ってきた。本書は長年民衆史を研究してきた著者が学界までもが何の疑いもなく共有してきたそのようなイメージがいかに実態に反したものであったか実証的に明らかにするものである。
刀狩りによって全ての武器が民衆から没収されたわけではなかった。それは百姓の「帯刀権」を剥奪し武士に限定することで士農の身分を明確に分離することを企図したものであり、民衆の非武装化には程遠いものだったという。いかに江戸時代の村々が鉄砲などの多種多様な武器を大量に所持していたか、本書で示される事例には驚かされる。そのように大量の武器が民衆の間に温存されつつも、江戸時代二百年の間に一揆勢力と領主側との間で鉄砲が用いられた事例はほとんどないという。鉄砲を使えば相手方も鉄砲によって応酬する。徳川の平和は、鉄砲の使用によって戦国時代のごとき惨禍に逆行させてはならないという民衆の強い主体的な共同意思が社会の中で成立していたことによって維持されていたのだという。
明治の廃刀令、マッカーサーの「刀狩り」と銃刀法の成立についての記述もまた、駆け足に過ぎる感はあるものの非常に興味深く、読み物としても十分に楽しめる好著であった。と同時に、最近の長崎における銃乱射事件を契機に日本には許可制の下で意外にも大量の銃が存在している銃社会であることが露になったが、本書はまた、期せずしてそのことを考えるタイムリーな素材たりえるのかもしれない。