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日本語の歴史 (岩波新書 新赤版 1018) 新書 – 2006/5/19
山口 仲美
(著)
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- ISBN-104004310180
- ISBN-13978-4004310181
- 出版社岩波書店
- 発売日2006/5/19
- 言語日本語
- 寸法11.2 x 2.3 x 17.4 cm
- 本の長さ224ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2006/5/19)
- 発売日 : 2006/5/19
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4004310180
- ISBN-13 : 978-4004310181
- 寸法 : 11.2 x 2.3 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 58,647位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 36位日本語の語源・歴史・方言
- - 147位語学習得
- - 249位岩波新書
- カスタマーレビュー:
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2019年11月16日に日本でレビュー済み
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「日本語の歴史」 山口仲美著 岩波新書
p84 源氏物語は和歌的散文 薫大将がお忍びで月明かりの下を行く場面,「主しらぬ香」は古今和歌集の「主しらぬ 香こそにほへれ 秋の野に 誰がぬぎかけし 藤袴ぞ」による。秋に匂うフジバカマと,香を薫きしめた袴に掛けたものか?この香に寝ていた人々が目を覚ますと言うのも大げさだが,うまい表現。
p88 「係り結び」 あったなぁ,そういうの。未然,連用,終止,連体,已然,命令・・「ぞ」「なむ」「や」「か」は係助詞でこれがあれば終止形ではなく連体形で結ぶ。「こそ」なら已然形で結ぶ。と云われても,もう思い出せない。鎌倉・室町時代には消えていった表現だそうだ。
痕跡が残っているもの「仰げば尊し」の歌詞,「今こそ別れめ」の「こそ」と「め」がそれ。「め」は,意志を表す助動詞「む」の已然形。
他に「蛍の光」の「あけてぞけさは,別れゆく」の「ぞ」と「ゆく」,「ぞ」を受けて「ゆく」の連体形で結ぶ。そうだったのか・・山口先生の教え子にオランダから来た学生がいて,「蛍の光」の話をしたら「それはサッカーの応援歌です」と言ったそうで,勢いよく歌うのだそうだ。へぇ〜。
p112 平家物語では「コソ」〜「ケル」が登場し,本来「ケリ」の已然形がくずれ連体形になっている。その後,「ぞ-連体形」は消え,「こそ-已然形」が江戸時代まで残った。
p118 平安時代以降,終止形と連体形が同じになってしまった。「何々す」の終止形が「何々する」と連体形と同じになった。室町時代の末期には連体形で結ぶ係り結びがすべて消滅した。
p125 促音「ッ」と撥音「ン」は武士の言葉。「がっしがっし」「むんず」
p129 江戸時代,文中の話し言葉は会話文で書く様になった。→浮世風呂
庶民の会話の様子がわかる。父を「ちゃん」,女の子も「坊」と呼ぶ。ばばっちい,犬をわんわん,おんりしな,服をべべ,など。今もあるもの,ないものが散見。ただし「地の文」は書き言葉。江戸時代までは「じ」「ぢ」と「ず」「づ」の発音が違ったが,元禄年間に多くの土地で今と同じになった。「奥の細道」では区別がない。
p138 良く聞く話だがこの本に詳しく書いてあった。奈良時代以前ではハ行子音は今のパ行子音と同じだった。その後,ファ,フィ,フ,フェ,フォになり,江戸時代に今と同じハ行になった。「母」は,パパ,ファファ,ハハと発音するようになったという。その結果,「ヒ」と「シ」の区別ができなくなった。江戸語がその典型。他に江戸語では「アイ」が「エー」,「アエ」が「エー」。相当ひどくなったが,次第に緩和され,現在は「あぶねー」「うめー」,「おめー」「てめー」「おせーたげる」などに残っている。
p149 上方では江戸語の「観音様:かんのんさま」をけしからんと言っていた。なぜなら,「観音」の「か」は「くゎ」と発音していたので,「くゎんおんさま」と発音していた。江戸中期までは「火事」は「くゎじ」,「家事」は「かじ」と区別していた。今でも区別が残る地方がある。「kan-on」が「kannon」になるのは連声(れんじょう)という。
p152 「オメエ」「キサマ」はどんどん尊敬語の価値が下がって行った。「オレ:俺」は女も使った。「僕」は学者言葉で漢文から。→吉田松陰書簡では僕といっている。
p158 江戸末期の記録では武士達は互いに「ワタクシ」「ワタシ」「ワシ」「オレ」「テマエ」「キサマ」と言っていた。「オメー」は町人だけ。武士は公の場では「なんぢ」「貴殿」「貴所」「貴公」「御辺」「お身」「そのもと」「その方」「そち」など。自分は「それがし」「みども」「身」「われ」「拙者」など。現在の敬語表現は江戸時代から。
p169 言文一致 井上ひさしの戯曲「国語元年」(昔NHK:1985年 でやっていた。ちあきなおみの演技というか鹿児島弁が素晴らしかったのを思い出す)東京語を標準語としていく過程。(明治のおいこら警官はほとんど薩摩藩士だったので,薩摩っぽと蔑まれ,「まっぽ」は警官の俗語として今でも使う:luke注)
公用文を漢字カナ交じり文で書く。→五箇条の御誓文 カナが入ってきただけで画期的。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」は「かな交じり」と「カナ交じり」の両方がある。福沢はひらがなを推した。諭吉は「福翁自伝」以外は言文一致の文章はない。
言文一致は明治11年に再び文語文体に戻ってしまう。権威のため。
西周は外国語を翻訳,新しい漢語を量産したが,かえってこれが足かせになった。和語では長過ぎる。surviseは奉仕なら良いが,「つつしんでつかえる」では長過ぎる。
日本語をすべてかなにしようとか,ローマ字にするという運動もあった。
坪内逍遥のすすめで,二葉亭四迷は「浮雲」を書く。「です」「ます」ではなく「だ」調。
言文一致の動きに対抗する様に幸田露伴が雅俗折衷体で「風流仏」を書き,森鴎外の「舞姫」:明治23年 の雅文でこの動きを封じた。(舞姫などは何度読んでも美しい文章だと思う)
ついに新聞が「漢字かな交じり文」の文語文になってしまう。そのなかで,尾崎紅葉が言文一致の小説を書く。会話文と地の文が一致した方が読みやすい。〜である調。国定読本が口語文で書かれる様になった。言文一致会は明治43年に解散。
大正11年に大手新聞がすべて言文一致に。しかし,公用文が言文一致になったのは昭和20年。
本の最後に「です」「ます」調と「である」「だ」調とどちらを使うかは気分で変えてもよいし,文章の途中で織り込むこともよい,と山口先生は書かれている。なるほど,そうだったのか。ブログなどはいつもそれで悩む。悩まないで良いのだ。先人のお陰で現在は誰でも自由に文章が書ける。その通りだと思う。また分かち書きをしないでも読める文章は日本語くらいだろうと仰る。これもなるほど。
同じ漢字に複数の読みがある点や,外来語の扱い,語彙が多すぎる点など問題はたくさんあるが,日本語はまだ変化を続けていく。先生は書き言葉と話し言葉はどうしても乖離していくものなので,また問題が出て来る時がくるとおっしゃる。そうかもしれない。
p84 源氏物語は和歌的散文 薫大将がお忍びで月明かりの下を行く場面,「主しらぬ香」は古今和歌集の「主しらぬ 香こそにほへれ 秋の野に 誰がぬぎかけし 藤袴ぞ」による。秋に匂うフジバカマと,香を薫きしめた袴に掛けたものか?この香に寝ていた人々が目を覚ますと言うのも大げさだが,うまい表現。
p88 「係り結び」 あったなぁ,そういうの。未然,連用,終止,連体,已然,命令・・「ぞ」「なむ」「や」「か」は係助詞でこれがあれば終止形ではなく連体形で結ぶ。「こそ」なら已然形で結ぶ。と云われても,もう思い出せない。鎌倉・室町時代には消えていった表現だそうだ。
痕跡が残っているもの「仰げば尊し」の歌詞,「今こそ別れめ」の「こそ」と「め」がそれ。「め」は,意志を表す助動詞「む」の已然形。
他に「蛍の光」の「あけてぞけさは,別れゆく」の「ぞ」と「ゆく」,「ぞ」を受けて「ゆく」の連体形で結ぶ。そうだったのか・・山口先生の教え子にオランダから来た学生がいて,「蛍の光」の話をしたら「それはサッカーの応援歌です」と言ったそうで,勢いよく歌うのだそうだ。へぇ〜。
p112 平家物語では「コソ」〜「ケル」が登場し,本来「ケリ」の已然形がくずれ連体形になっている。その後,「ぞ-連体形」は消え,「こそ-已然形」が江戸時代まで残った。
p118 平安時代以降,終止形と連体形が同じになってしまった。「何々す」の終止形が「何々する」と連体形と同じになった。室町時代の末期には連体形で結ぶ係り結びがすべて消滅した。
p125 促音「ッ」と撥音「ン」は武士の言葉。「がっしがっし」「むんず」
p129 江戸時代,文中の話し言葉は会話文で書く様になった。→浮世風呂
庶民の会話の様子がわかる。父を「ちゃん」,女の子も「坊」と呼ぶ。ばばっちい,犬をわんわん,おんりしな,服をべべ,など。今もあるもの,ないものが散見。ただし「地の文」は書き言葉。江戸時代までは「じ」「ぢ」と「ず」「づ」の発音が違ったが,元禄年間に多くの土地で今と同じになった。「奥の細道」では区別がない。
p138 良く聞く話だがこの本に詳しく書いてあった。奈良時代以前ではハ行子音は今のパ行子音と同じだった。その後,ファ,フィ,フ,フェ,フォになり,江戸時代に今と同じハ行になった。「母」は,パパ,ファファ,ハハと発音するようになったという。その結果,「ヒ」と「シ」の区別ができなくなった。江戸語がその典型。他に江戸語では「アイ」が「エー」,「アエ」が「エー」。相当ひどくなったが,次第に緩和され,現在は「あぶねー」「うめー」,「おめー」「てめー」「おせーたげる」などに残っている。
p149 上方では江戸語の「観音様:かんのんさま」をけしからんと言っていた。なぜなら,「観音」の「か」は「くゎ」と発音していたので,「くゎんおんさま」と発音していた。江戸中期までは「火事」は「くゎじ」,「家事」は「かじ」と区別していた。今でも区別が残る地方がある。「kan-on」が「kannon」になるのは連声(れんじょう)という。
p152 「オメエ」「キサマ」はどんどん尊敬語の価値が下がって行った。「オレ:俺」は女も使った。「僕」は学者言葉で漢文から。→吉田松陰書簡では僕といっている。
p158 江戸末期の記録では武士達は互いに「ワタクシ」「ワタシ」「ワシ」「オレ」「テマエ」「キサマ」と言っていた。「オメー」は町人だけ。武士は公の場では「なんぢ」「貴殿」「貴所」「貴公」「御辺」「お身」「そのもと」「その方」「そち」など。自分は「それがし」「みども」「身」「われ」「拙者」など。現在の敬語表現は江戸時代から。
p169 言文一致 井上ひさしの戯曲「国語元年」(昔NHK:1985年 でやっていた。ちあきなおみの演技というか鹿児島弁が素晴らしかったのを思い出す)東京語を標準語としていく過程。(明治のおいこら警官はほとんど薩摩藩士だったので,薩摩っぽと蔑まれ,「まっぽ」は警官の俗語として今でも使う:luke注)
公用文を漢字カナ交じり文で書く。→五箇条の御誓文 カナが入ってきただけで画期的。
福沢諭吉の「学問のすゝめ」は「かな交じり」と「カナ交じり」の両方がある。福沢はひらがなを推した。諭吉は「福翁自伝」以外は言文一致の文章はない。
言文一致は明治11年に再び文語文体に戻ってしまう。権威のため。
西周は外国語を翻訳,新しい漢語を量産したが,かえってこれが足かせになった。和語では長過ぎる。surviseは奉仕なら良いが,「つつしんでつかえる」では長過ぎる。
日本語をすべてかなにしようとか,ローマ字にするという運動もあった。
坪内逍遥のすすめで,二葉亭四迷は「浮雲」を書く。「です」「ます」ではなく「だ」調。
言文一致の動きに対抗する様に幸田露伴が雅俗折衷体で「風流仏」を書き,森鴎外の「舞姫」:明治23年 の雅文でこの動きを封じた。(舞姫などは何度読んでも美しい文章だと思う)
ついに新聞が「漢字かな交じり文」の文語文になってしまう。そのなかで,尾崎紅葉が言文一致の小説を書く。会話文と地の文が一致した方が読みやすい。〜である調。国定読本が口語文で書かれる様になった。言文一致会は明治43年に解散。
大正11年に大手新聞がすべて言文一致に。しかし,公用文が言文一致になったのは昭和20年。
本の最後に「です」「ます」調と「である」「だ」調とどちらを使うかは気分で変えてもよいし,文章の途中で織り込むこともよい,と山口先生は書かれている。なるほど,そうだったのか。ブログなどはいつもそれで悩む。悩まないで良いのだ。先人のお陰で現在は誰でも自由に文章が書ける。その通りだと思う。また分かち書きをしないでも読める文章は日本語くらいだろうと仰る。これもなるほど。
同じ漢字に複数の読みがある点や,外来語の扱い,語彙が多すぎる点など問題はたくさんあるが,日本語はまだ変化を続けていく。先生は書き言葉と話し言葉はどうしても乖離していくものなので,また問題が出て来る時がくるとおっしゃる。そうかもしれない。
2023年2月18日に日本でレビュー済み
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日本の歴史上、話し言葉と書き言葉が最も近い状態にあったのは平安時代のひらがな文だそうです。釜倉時代は次第に話し言葉と書き言葉の間が離れた。
そして江戸時代は近代語の始まりですが、開国して明治維新となり、国家統一には日本のどこでも通用する話し言葉(とその書法)の制定が必要、と政府は大変な事実に気づくのです。
幕末の慶応2年(1866)前島密は将軍慶喜に「漢字御廃止の儀」を建白していたそうで、これが近代日本での言文一致運動の始まり、と著者は述べます。
西周はローマ字で日本語を表記することを提案し、福沢諭吉は漢字は2千~3千で十分と考えていたそうです。 標準語という言葉を岡田由三郎が明治23年(1990)に初めて使い、上田万年は明治28年に 現今の「東京語」こそが標準語たる資格を備えている、と述べました。大正2年(1913)国語調査委員会は「国語法」を公にし、東京で教育ある人々の間で使われる話し言葉を標準とする、と表明した。
言文一致体の文章が日本では難しいのは、日本人の口述が相手の地位によって変化するからです。小説家は当然、この事態に頭を悩ませたのですが、尾崎紅葉(1868~1903)は「である」調を使用してこれが決定打となった、と著者は述べます。
この言文一致体を正岡子規そして自然主義作家達が熱烈に支持して言文一致の文章の世になるのです。
江戸時代はヨーロッパとの交流は僅かにオランダ語のみ、開国となってイギリス、フランス、ドイツと同時に付き合うことになり、教育界にもいわゆるお雇い外国人が多数押し寄せ、通訳、翻訳、日本にはない概念については新語を発明せねばならず、先人達の苦労は並大抵ではなかった筈ですが、幸い日本には多くの優秀な人材がいたため、この困難な時代を乗り切って今があるわけです。
最後に、日本語は論理性に欠けるあいまいな言語である、と評されることがよくありますが、著者はこれを否定して、論理的に話しを進める訓練がなされていないだけだ、と述べます。日本は長い間、言い訳や弁解を潔しとせず沈黙を重んじる文化であったので、今後の訓練が課題である、とは著者の弁です。今後 日本語を如何に論理的でしかも美しい言語に磨き上げるか、は後世が責任を負うべき重大な課題でしょう。
そして江戸時代は近代語の始まりですが、開国して明治維新となり、国家統一には日本のどこでも通用する話し言葉(とその書法)の制定が必要、と政府は大変な事実に気づくのです。
幕末の慶応2年(1866)前島密は将軍慶喜に「漢字御廃止の儀」を建白していたそうで、これが近代日本での言文一致運動の始まり、と著者は述べます。
西周はローマ字で日本語を表記することを提案し、福沢諭吉は漢字は2千~3千で十分と考えていたそうです。 標準語という言葉を岡田由三郎が明治23年(1990)に初めて使い、上田万年は明治28年に 現今の「東京語」こそが標準語たる資格を備えている、と述べました。大正2年(1913)国語調査委員会は「国語法」を公にし、東京で教育ある人々の間で使われる話し言葉を標準とする、と表明した。
言文一致体の文章が日本では難しいのは、日本人の口述が相手の地位によって変化するからです。小説家は当然、この事態に頭を悩ませたのですが、尾崎紅葉(1868~1903)は「である」調を使用してこれが決定打となった、と著者は述べます。
この言文一致体を正岡子規そして自然主義作家達が熱烈に支持して言文一致の文章の世になるのです。
江戸時代はヨーロッパとの交流は僅かにオランダ語のみ、開国となってイギリス、フランス、ドイツと同時に付き合うことになり、教育界にもいわゆるお雇い外国人が多数押し寄せ、通訳、翻訳、日本にはない概念については新語を発明せねばならず、先人達の苦労は並大抵ではなかった筈ですが、幸い日本には多くの優秀な人材がいたため、この困難な時代を乗り切って今があるわけです。
最後に、日本語は論理性に欠けるあいまいな言語である、と評されることがよくありますが、著者はこれを否定して、論理的に話しを進める訓練がなされていないだけだ、と述べます。日本は長い間、言い訳や弁解を潔しとせず沈黙を重んじる文化であったので、今後の訓練が課題である、とは著者の弁です。今後 日本語を如何に論理的でしかも美しい言語に磨き上げるか、は後世が責任を負うべき重大な課題でしょう。
2021年4月14日に日本でレビュー済み
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大野晋の著作を読んでいる自分としては、中身が少し薄い気がします。学生が読むくらいのレベル。落語の例を持ち出したところは面白かった。
2018年11月10日に日本でレビュー済み
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国語学部を志望したから、この本を買った。
日本語の歴史が少しずつわかっていた
日本語の歴史が少しずつわかっていた
2018年7月17日に日本でレビュー済み
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大学教授の固い頭で書かれた本。読み進めるのが苦痛、つまづきながら、我慢して読み通せるかどうか不安になる。ネット社会以前の日本語論のような気がする。展開する論が、スキだらけ。東京大学大学院の修士課程修了とあるが、どこで博士号をとったのだろう。
大野晋氏の書いた、論理的にも緻密で、立派な日本文を読んだ後では、こんな雑な日本文は読めない。
大野晋氏の書いた、論理的にも緻密で、立派な日本文を読んだ後では、こんな雑な日本文は読めない。
2007年9月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本語についてこれほどわかりやすく書いてある本も珍しい。橋本先生、時枝先生、大野先生たちも難しい文法書に比べても遥かに分かりやすい。
これほど文法的に揺れ動いている言語は少ないと言われている日本語が、どのように動いてきたのかの一端を知ることが出来る入門書と言えるだろう。
普段何気なく話している言葉は、実は非常に複雑な構造で、慎み深い言葉なのだと言うことを教えてくれる本です。
これほど文法的に揺れ動いている言語は少ないと言われている日本語が、どのように動いてきたのかの一端を知ることが出来る入門書と言えるだろう。
普段何気なく話している言葉は、実は非常に複雑な構造で、慎み深い言葉なのだと言うことを教えてくれる本です。