「日本社会は特異なまでに深く親米的でありつづけたのではないか」。この筆者の問いかけによって本書は始まる。2001年の9.11以後、アメリカが起こしたアフガニスタン戦争やイラク戦争への対応は世界中から反感を買い、反米意識は高まった。しかし、アメリカに対して不信感を抱くことはなかった。むしろアメリカに対しての憧れは変わらずにある。憧れというより大衆文化に魅せられている。ハリウッドやファッション、そして音楽。わたしたち日本人の羨望の対象であり続けている。
本書ではなぜ日本人が「アメリカ」に対して親米的であるのか時代をさかのぼって丁寧に述べている。
大衆文化が人々に、よりはっきりとした形で浸透し始めたのは1920年代である。この時代を境にしてハリウッド映画や野球などの大衆文化が日本で流行した。そして戦後、GHQが日本社会を支配するようになり米軍基地が建設された。ここでアメリカニズムを消費していた人々として描かれているのは「パンパン」(米兵相手の街娼)。米兵に身を売りかつての「貧しい」戦前を感じさせない「豊かさ」としてのアメリカを彼女たちは手に入れる。酒、たばこ、口紅などその当時簡単には手に入らないものだ。一方で彼女たちの存在は当時日本が米軍によって「占領」されていたことを「セクシュアリティの支配」p113 という形で表していたと筆者は考える。後に「パンパン」は米軍の撤退によって周縁化されてしまう。そして「アメリカニズムを消費する者」から「米兵たちの性暴力の被害者」p110 に様相を変えてしまうが、「パンパン」の存在は人々の「アメリカ」に対する憧れを助長したと考えられる。「アメリカ的セクシーさと最新流行」p108 など現代にも通ずるものがあったと言えるだろう。
しかしここで考えなくてはいけないのは豊かさとしての「アメリカ」を消費する反面、日本が戦後アメリカと共に歩んできた過程の中で自覚してこなかったものであると思う。
戦後、日本は基本的に「親米」であり続けたが、一方で朝鮮戦争や米軍基地といったアメリカのアジア支配に抵抗する人々が「反米」を強く主張していた。そして日本はこの「アジア支配」に加担していること、つまり「加害者性」を自覚していなかったと筆者は述べている。アメリカ主導の朝鮮戦争やベトナム戦争。日本はアメリカに軍事物資を提供していて、その結果日本の企業は利益をあげている。思い返せば、近年のイラク戦争では、日本はアメリカの意思決定に対して顔色をうかがうように自衛隊を派遣していた。それはどちらも加害者側に加担していることを表わしていると考えられる。この本を読んで私たちは日本という国が孕んでいる「加害者性」を認識し、日本が「加害者性」という側面を見せたとき私たちはもうアメリカに対して「親米的」ではなく「反米」という旗をかかげなければいけないのではないかと思う。
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親米と反米: 戦後日本の政治的無意識 (岩波新書 新赤版 1069) 新書 – 2007/4/20
吉見 俊哉
(著)
戦後日本社会は、基本的に深く親米的であり続けたのではないか.その感覚は、「反米」世論が高まったときすら、通奏低音として流れ続けていたのではないか.戦前戦後にわたる、大衆的なレベルでの親米感覚に焦点をあて、日本の近代や戦後天皇制、ナショナリズムの構造との不可分な関係について考察し、それを超えていく視座を模索する
- ISBN-104004310695
- ISBN-13978-4004310693
- 出版社岩波書店
- 発売日2007/4/20
- 言語日本語
- 本の長さ240ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2007/4/20)
- 発売日 : 2007/4/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 240ページ
- ISBN-10 : 4004310695
- ISBN-13 : 978-4004310693
- Amazon 売れ筋ランキング: - 270,635位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2021年2月18日に日本でレビュー済み
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受け取りました。ありがとうございます^ ^
2014年7月31日に日本でレビュー済み
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2001年9月11日。のちに9.11と呼ばれる、世界中を震撼させたテロ事件が起きた。アメリカは、報復としてアフガニスタン紛争・イラク戦争を行った。アメリカが躍起になって一方的に起こしたこの戦争は、世界中で大きな批判を浴び、超大国・アメリカの権威は大幅に失墜した。
そのようにして世界的に反米ムードが強まった中、日本国民は、アメリカを好きであり続けた。NHKが1973年から5年おきに行っている、「一番好きな国は?」という調査で、アメリカは常に第一位だ。テロ直後の2003年も、その次の2008年も、一番最近の2013年もそれは変わらない。もちろん、日本でだってイラク戦争への反発はあったが、アメリカを嫌いになるには至らなかった。どうして私たちはこんなにアメリカが好きなんだろう。日本とアメリカの関係を紐解きながら、そのわけを教えてくれるのがこの本である。
この本は、各章異なった観点から、時間軸に沿って日本がいかにしてアメリカと結びついたか解説していく。文学、音楽、住宅や家電。豊富に挙げられる具体的で身近な例が、理解しにくい抽象的な概念をサポートしてくれる。本を読み終えるころには、アメリカは「空気のように日常に浸透」(p233)し、私たちの国を構成しているのだと気付くだろう。
ハリウッドやジャズ、洋服など、戦前までにじわじわと日本に浸透し始めた「アメリカ」は、戦後マッカーサーの厚木到着とともに圧倒的な威力で人々の日常意識にまで内在しはじめた。マッカーサー率いるアメリカは、自らのメディアへの露出を避ける反面、天皇を全面に押し出した。そうすることでアメリカの「占領」は日本国民の意識から遠ざかり、戦後の天皇制が確立したのだった。このやり方は、まさしく天皇とアメリカの「抱擁」(p113)であったと言えよう。天皇は戦後<日本の象徴>とされ、今日でもその一族の報道はテレビなどで頻繁に取り上げられるが、ここまで来るのにアメリカの介入は欠かせないものであったのだ。
50年代になると日本国民は、アメリカに対し二面的な態度を示すようになる。アメリカンなライフスタイルを求めて、住居や家具・家電などを消費する一方、全国に広がる米軍基地への反対運動が各地で起きていた。基地は、アメリカの「暴力」として、目に見える形で日本国民の生活を脅かすものだった。しかし50年代末には、米軍基地の本土撤退によって「暴力」としてのアメリカは忘れられていった。残されたアメリカ的消費の追求は、次第にそれ自体が戦後日本の建て直しを実現するものとして形を変え、家庭に浸透した。そうやって日本に深く根をおろしたのが、「消費社会型のアメリカニズム=ナショナル」(p232)である。日本の「ナショナル」、つまり国家意識は、アメリカがくれたものであった。
1983年にオープンした東京ディズニーランドは、アメリカ製の夢の国であり、瞬く間に多くの日本人を魅了した。しかし、私たちはディズニーランドで、他者としての「アメリカ」を演じるのではなく、自己をファンタジーの主人公として再形成し、そんな自分を演じることを楽しんでいる。これは、「アメリカ」を自己として飲み込んでしまい、自らを他者化してしまった顕著な例である。
この本を読むと、アメリカとの関係を紐解いた先で、日本が真にインターナショナルな国として立ち上がるために必要なことが見えてくる。戦後の日本は、アメリカと「抱擁」することで、国家を建て直してきた。しかし私たちは、このままこのアメリカとの関係に無意識でいるべきではない。日本は、アメリカと手を組んで、戦争における「自らの加害者性」(p221)からも都合よく目を逸らしてきた。アジア・太平洋戦争への戦争責任や、ベトナム戦争でアメリカに加担したことに対して、日本はまだ自らに裁きを下していない。グローバル化が進み日々変わりゆく国際情勢の中で、真に世界と向き合うためには、日本はまず「自らの加害者性」と向き合わなければいけない。
9.11から10余年。当時小学生だった私も、今では大人になった。しかしこの本を読んで、他人事のようにニュースを横目で見ていた当時と大して変わってはいないと気付かされた。アメリカは他人なんかではない。好きとか嫌いとかそういう感情を超えたところで、日本と深く関わっていたのだ。「無意識」の存在に気付いたとき、世の中の見え方はがらりと変わる。この本を読み終えたとき、そう実感したのであった。
そのようにして世界的に反米ムードが強まった中、日本国民は、アメリカを好きであり続けた。NHKが1973年から5年おきに行っている、「一番好きな国は?」という調査で、アメリカは常に第一位だ。テロ直後の2003年も、その次の2008年も、一番最近の2013年もそれは変わらない。もちろん、日本でだってイラク戦争への反発はあったが、アメリカを嫌いになるには至らなかった。どうして私たちはこんなにアメリカが好きなんだろう。日本とアメリカの関係を紐解きながら、そのわけを教えてくれるのがこの本である。
この本は、各章異なった観点から、時間軸に沿って日本がいかにしてアメリカと結びついたか解説していく。文学、音楽、住宅や家電。豊富に挙げられる具体的で身近な例が、理解しにくい抽象的な概念をサポートしてくれる。本を読み終えるころには、アメリカは「空気のように日常に浸透」(p233)し、私たちの国を構成しているのだと気付くだろう。
ハリウッドやジャズ、洋服など、戦前までにじわじわと日本に浸透し始めた「アメリカ」は、戦後マッカーサーの厚木到着とともに圧倒的な威力で人々の日常意識にまで内在しはじめた。マッカーサー率いるアメリカは、自らのメディアへの露出を避ける反面、天皇を全面に押し出した。そうすることでアメリカの「占領」は日本国民の意識から遠ざかり、戦後の天皇制が確立したのだった。このやり方は、まさしく天皇とアメリカの「抱擁」(p113)であったと言えよう。天皇は戦後<日本の象徴>とされ、今日でもその一族の報道はテレビなどで頻繁に取り上げられるが、ここまで来るのにアメリカの介入は欠かせないものであったのだ。
50年代になると日本国民は、アメリカに対し二面的な態度を示すようになる。アメリカンなライフスタイルを求めて、住居や家具・家電などを消費する一方、全国に広がる米軍基地への反対運動が各地で起きていた。基地は、アメリカの「暴力」として、目に見える形で日本国民の生活を脅かすものだった。しかし50年代末には、米軍基地の本土撤退によって「暴力」としてのアメリカは忘れられていった。残されたアメリカ的消費の追求は、次第にそれ自体が戦後日本の建て直しを実現するものとして形を変え、家庭に浸透した。そうやって日本に深く根をおろしたのが、「消費社会型のアメリカニズム=ナショナル」(p232)である。日本の「ナショナル」、つまり国家意識は、アメリカがくれたものであった。
1983年にオープンした東京ディズニーランドは、アメリカ製の夢の国であり、瞬く間に多くの日本人を魅了した。しかし、私たちはディズニーランドで、他者としての「アメリカ」を演じるのではなく、自己をファンタジーの主人公として再形成し、そんな自分を演じることを楽しんでいる。これは、「アメリカ」を自己として飲み込んでしまい、自らを他者化してしまった顕著な例である。
この本を読むと、アメリカとの関係を紐解いた先で、日本が真にインターナショナルな国として立ち上がるために必要なことが見えてくる。戦後の日本は、アメリカと「抱擁」することで、国家を建て直してきた。しかし私たちは、このままこのアメリカとの関係に無意識でいるべきではない。日本は、アメリカと手を組んで、戦争における「自らの加害者性」(p221)からも都合よく目を逸らしてきた。アジア・太平洋戦争への戦争責任や、ベトナム戦争でアメリカに加担したことに対して、日本はまだ自らに裁きを下していない。グローバル化が進み日々変わりゆく国際情勢の中で、真に世界と向き合うためには、日本はまず「自らの加害者性」と向き合わなければいけない。
9.11から10余年。当時小学生だった私も、今では大人になった。しかしこの本を読んで、他人事のようにニュースを横目で見ていた当時と大して変わってはいないと気付かされた。アメリカは他人なんかではない。好きとか嫌いとかそういう感情を超えたところで、日本と深く関わっていたのだ。「無意識」の存在に気付いたとき、世の中の見え方はがらりと変わる。この本を読み終えたとき、そう実感したのであった。
2014年7月28日に日本でレビュー済み
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自分が「親米か反米か」つまり、アメリカが好きか嫌いかと聞かれたら、何と答えるだろうか。多くの日本人が好きと答えるはずだ。では、なぜ日本はこれほど揺るぎなく親米率が高いのか。その理由を考えたことがあるだろうか。
この本のなかでは、幕末から60年代までの日本とアメリカの関係について書かれている。特に占領期から60年代にかけての部分は、戦後、日本の中にどのようにアメリカが入ってきたのかが分かる。
大正初期まではアメリカは自由の国という憧れではあったが、「あくまで海を隔てて外にある他者」(p226)と書いてあるように、その時点では内なる存在ではなかった。
しかし戦後、日本がアメリカに占領されると、日本人の日常に深くアメリカが入り込んでくるようになる。戦後、アメリカが利用するために残した天皇制、大衆文化、生活スタイル、本のなかで挙げられる例を読んでいると、自分の暮らす日本がどれほどアメリカありきのものであるか、そして私たちが、そのことをいかに感じていないかを理解することが出来る。
占領期、占領軍の存在は圧倒的な現実であったが、その姿はGHQの検閲によりほぼメディアには出てこなかった。そのため、日本人はアメリカに支配されていることを忘れ、敗戦後、軍国主義から解放され、自分達だけで自由に暮らしているように感じた。本文にも「敗戦とともに日本に多くの自由が与えられ、開かれた言語空間が出現したという擬制を日本人の間に浸透させた。」(p85)と書いてあるように、アメリカには自由を与えてくれた解放者のようなイメージがついた。
また、占領期が終わると「暴力をもって威圧する他者ではなく、自分たちの消費的な欲望のなかに取り込んでいくことのできる他者となっていったのである。」(p125)というように、支配者としてのアメリカは見えなくなり、アメリカには豊かさや流行の先端というイメージがつき、「カッコいい」アメリカの大衆文化は日本の日常生活の中に浸透した。日本人の生活に常にアメリカが存在するようになったのだ。
そして、日本人はそうしてアメリカを内なるものにしていく一方で、日本の主体を他者のまなざしに求めた。つまり、日本の独自性を確立するために、他者=アメリカによる評価を使ったのだ。日本の家電製品などの技術も、アメリカの評価があることで、国内の消費者は日本独自の誇るべきものだと認めた。日本の主体すらアメリカによるものにしてしまった。
もはや「親米か反米か」という問題ではない。日本人は、そのような日本とアメリカの「抱擁」により、自由や豊かさ、誇りを手に入れたような気持ちになり、戦後、歴史やアジア諸国への加害者性から目を背けてきた。しかし、それを考えることで、ようやく日本とアメリカについて真に見ることが出来るのではないだろうか。そのために、この本を読むことは大いに助けになるだろう。
この本のなかでは、幕末から60年代までの日本とアメリカの関係について書かれている。特に占領期から60年代にかけての部分は、戦後、日本の中にどのようにアメリカが入ってきたのかが分かる。
大正初期まではアメリカは自由の国という憧れではあったが、「あくまで海を隔てて外にある他者」(p226)と書いてあるように、その時点では内なる存在ではなかった。
しかし戦後、日本がアメリカに占領されると、日本人の日常に深くアメリカが入り込んでくるようになる。戦後、アメリカが利用するために残した天皇制、大衆文化、生活スタイル、本のなかで挙げられる例を読んでいると、自分の暮らす日本がどれほどアメリカありきのものであるか、そして私たちが、そのことをいかに感じていないかを理解することが出来る。
占領期、占領軍の存在は圧倒的な現実であったが、その姿はGHQの検閲によりほぼメディアには出てこなかった。そのため、日本人はアメリカに支配されていることを忘れ、敗戦後、軍国主義から解放され、自分達だけで自由に暮らしているように感じた。本文にも「敗戦とともに日本に多くの自由が与えられ、開かれた言語空間が出現したという擬制を日本人の間に浸透させた。」(p85)と書いてあるように、アメリカには自由を与えてくれた解放者のようなイメージがついた。
また、占領期が終わると「暴力をもって威圧する他者ではなく、自分たちの消費的な欲望のなかに取り込んでいくことのできる他者となっていったのである。」(p125)というように、支配者としてのアメリカは見えなくなり、アメリカには豊かさや流行の先端というイメージがつき、「カッコいい」アメリカの大衆文化は日本の日常生活の中に浸透した。日本人の生活に常にアメリカが存在するようになったのだ。
そして、日本人はそうしてアメリカを内なるものにしていく一方で、日本の主体を他者のまなざしに求めた。つまり、日本の独自性を確立するために、他者=アメリカによる評価を使ったのだ。日本の家電製品などの技術も、アメリカの評価があることで、国内の消費者は日本独自の誇るべきものだと認めた。日本の主体すらアメリカによるものにしてしまった。
もはや「親米か反米か」という問題ではない。日本人は、そのような日本とアメリカの「抱擁」により、自由や豊かさ、誇りを手に入れたような気持ちになり、戦後、歴史やアジア諸国への加害者性から目を背けてきた。しかし、それを考えることで、ようやく日本とアメリカについて真に見ることが出来るのではないだろうか。そのために、この本を読むことは大いに助けになるだろう。
2007年6月10日に日本でレビュー済み
日本人の感情と日常に住まう親米と反米について、明治維新から高度成長期末までの日本と米国の関係から描写。描写の内容は、政治経済的な観点ではなく、描写対象時点の書籍や風俗からの観点に重みをおいている。
明治維新当初は憧れの対象であり外部の存在であったアメリカが、次第に日本の中に入り込み、いつのまにか日本と不可分な存在になっていく経緯が論じられる。
幕末〜1910年代: 外部にある特別な存在(例:自由の聖地、列強)
1920年代以降: 内なる存在としてのアメリカ(例、ハリウッド、ジャズ)
「アメリカ的でない日本がどこにあるのか。アメリカを離れて日本が存在するか。
アメリカ的でない生活がわれわれのどこに残っているか」
戦後(占領期): (1)内なる暴力としてのアメリカ(例、米軍基地、パンパン:米軍売春婦)
「日本が犯されている」
→米軍の本土撤退開始により、暴力としてのアメリカは次第に外縁化される。
(2)見えざるまなざしとしてのアメリカ
占領体制下での「アメリカ統治」イメージの希薄化と、「人間天皇」の前衛化
70年台以降: 明確な限界や輪郭をもたない、自己と不可分なアメリカ
榊原英資著の「経済の世界勢力図」や様々な書籍で取り上げられている、米国のアジア諸国勃興に対する相対的地位の低下が本当のものである場合、日本人の中で不可分な存在となったアメリカが、次第に自己の中で外縁化されていく日常も遠くないのではないかと思われる。日本が中国と朝鮮半島文化から過去の日常を作り上げてきたことを鑑みれば、アメリカの忘却も否定できない話と考える。
明治維新当初は憧れの対象であり外部の存在であったアメリカが、次第に日本の中に入り込み、いつのまにか日本と不可分な存在になっていく経緯が論じられる。
幕末〜1910年代: 外部にある特別な存在(例:自由の聖地、列強)
1920年代以降: 内なる存在としてのアメリカ(例、ハリウッド、ジャズ)
「アメリカ的でない日本がどこにあるのか。アメリカを離れて日本が存在するか。
アメリカ的でない生活がわれわれのどこに残っているか」
戦後(占領期): (1)内なる暴力としてのアメリカ(例、米軍基地、パンパン:米軍売春婦)
「日本が犯されている」
→米軍の本土撤退開始により、暴力としてのアメリカは次第に外縁化される。
(2)見えざるまなざしとしてのアメリカ
占領体制下での「アメリカ統治」イメージの希薄化と、「人間天皇」の前衛化
70年台以降: 明確な限界や輪郭をもたない、自己と不可分なアメリカ
榊原英資著の「経済の世界勢力図」や様々な書籍で取り上げられている、米国のアジア諸国勃興に対する相対的地位の低下が本当のものである場合、日本人の中で不可分な存在となったアメリカが、次第に自己の中で外縁化されていく日常も遠くないのではないかと思われる。日本が中国と朝鮮半島文化から過去の日常を作り上げてきたことを鑑みれば、アメリカの忘却も否定できない話と考える。