「神は死んだ」とニーチェは言った。十九世紀末のこの言葉には様々な解釈が可能だが、その一つとして「第三者の審級の消滅」ということが言えるだろう。かつては神という絶対的他者が世界を支配していた。しかしそのような存在者は実はいないことが分かってきた。人々はもはや神という権威に煩わされることなく、自由に選択・行動できるようになった。しかし自由であることは必ずしもいいことばかりではなく、リスクという重荷を背負わせることにもなる。われわれが生きるリスク社会はまさにそのような時代であろう。
大澤は1968年に起こった永山則夫事件と、1997年に起こった酒鬼薔薇事件を対照的に論じている。前者の犯人は他者のまなざしにおびえていたのに対し、後者の犯人は他者のまなざしをむしろ欲していたという。この違いは何を意味するのか。われわれは他者のまなざしを忌避しているのだろうか、それとも希求しているのだろうか。
現代のIT社会が生み出した引きこもりという現象は、そのような対立・矛盾した二つのベクトルを見事に象徴しているようにも思われる。彼らは他者のまなざしを避けるために部屋の中に引きこもる一方で、他者のまなざしを浴びるためにSNSで過激な発言をする。ニーチェが「死んだ」と言った「神」は、監視者であると同時に観客でもあった。われわれは監視のまなざしを避けようとする一方で、観客のまなざしを欲さざるを得ない。サルトルは「まなざし」をネガティブなものとして論じたが、レヴィナスのようにそれをポジティブなものとして解釈することはいくらでも可能だろう。実際のところ私を見つめる他者が一人もいなければ、社会的存在としての私は消滅してしまう。神という第三者が「死んだ」のであれば、われわれはそれに代わる第三者を構築しなければならない。観客のいない人生劇場を演じ続けることはあまりにも理不尽であり、耐え難い苦痛であろうから。
舌を巻くしかない大澤の膨大な知識があまりにも多岐にわたっているため、その引用が強引というかこじつけにさえ感じられるきらいもあるが、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムの反転や、信仰の外部委託に関する記述は実に興味深かった。2008年に刊行された本書の最終章で紹介されている中村哲が、2019年に武装勢力によって銃殺された事件は記憶に新しい。書かれている内容は決して古くはないが、もはや古典と言ってもいい作品と言えるかも知れない。
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不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 1122) 新書 – 2008/4/22
大澤 真幸
(著)
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- ISBN-104004311225
- ISBN-13978-4004311225
- 出版社岩波書店
- 発売日2008/4/22
- 言語日本語
- 本の長さ296ページ
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2008/4/22)
- 発売日 : 2008/4/22
- 言語 : 日本語
- 新書 : 296ページ
- ISBN-10 : 4004311225
- ISBN-13 : 978-4004311225
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上位レビュー、対象国: 日本
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2021年1月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大沢先生の本は、勉強になりました。
2014年6月1日に日本でレビュー済み
世には多くの納得させられる本があるが、読むことで想像力を掻き立てられる本というのは少ない。特に学術系の本はそうだが、この本は、想像力を掻き立てられる数少ない本である。
内容は、戦後の日本の時代を「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」の三つに区分し、現代を「不可能性の時代」として論じるものである。理想とは現実を変えようとするもの、虚構とは現実から逃避するもの、そして現代は「現実」に向かって逃避する。しかしその現実とは、通常の現実ではなく、「現実の中の現実」、極度に暴力的であったり、激しかったりする現実へと逃避している。そう著者は論じるのである。
これだけでも充分に想像力を掻き立てられるのだが、「不可能性の時代」に至る経緯を終戦直後から解き明かしていく過程が実に面白い。特に、六〇年代から七〇年代にかけて、三つの同音異曲の小説がヒットしたことを解説する箇所は、瞠目に値する。三つの小説とは、『砂の器』、『飢餓海峡』、『人間の條件』の三作だが、この三作は、社会的成功者に「過去からの訪問者」が現れ、「過去からの訪問者」を殺害するという、同一の構造を持っている。社会的成功者達は、その成功が過去のアイデンティティーの隠蔽によって支えられている。しかし被害者達は、過去のアイデンティティーとの持続的一貫性を要求するものとして現れている。
「六〇年代の繁栄は、戦争期に由来する他者に対して、返しきれない負債を負っており」と語るところなど実にニクい。何の説明もなく、さりげなく書かれているが、これは「唯一の神に償い切れない負債を負っている」というニーチェの『道徳の系譜』を元にした表現であり、隠されたオマージュである。著者は終戦という歴史の断絶を、戦前から一貫したものとして見ている。「理想の時代」の章の序盤に三島由紀夫の自決の話を置き、「我々は約束を果たして来たのか」と問い、章のラストにこの問いに答える。ロジカルでありながら、詩的な印象さえ感じられる。
ロジカルで詩的な、二律背反のものをひとつにするような、神がかった文章と構成で論旨が展開していくが、私が特に興味を引かれたのが河内長野の殺人事件についてである。
18歳の少年と十六歳の少女が自らの家族を殺害したあの事件ーー
「彼ら同士の関係の上に投射されている極限の直接性に到達するためには、どうしても、家族の関係が排除され、無化されなくてはならなかったからではないだろうか」
この文を読んで、あろうことか、私は『バクマン』を連想したのである。『バクマン』の主人公とヒロインの恋愛ーー
『バクマン』の原作者大場つぐみはガモウひろしだという噂があるが、真偽はともかく、男性だというのは納得できる。女性作家は、あのような読者ウケは狙わない。また主人公とヒロインの恋愛は若者にはウケるかもしれないが、深い感動を与えるものではない。深い感動は、多くは作家の内部から出たものであり、大場つぐみは、むしろ外部から取り込んだものをアレンジしたように思えるのである。『不可能性の時代』と『バクマン』は発表された時期も近い。(『不可能性の時代』の初出は、2005年の『世界』一月号である)私は今、『バクマン』のインスピレーションは『不可能性の時代』から得たと確信している。
「妄想じゃない!?」と言われても気にならないほど、この本は想像力を湧かせてくれる。
内容は、戦後の日本の時代を「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」の三つに区分し、現代を「不可能性の時代」として論じるものである。理想とは現実を変えようとするもの、虚構とは現実から逃避するもの、そして現代は「現実」に向かって逃避する。しかしその現実とは、通常の現実ではなく、「現実の中の現実」、極度に暴力的であったり、激しかったりする現実へと逃避している。そう著者は論じるのである。
これだけでも充分に想像力を掻き立てられるのだが、「不可能性の時代」に至る経緯を終戦直後から解き明かしていく過程が実に面白い。特に、六〇年代から七〇年代にかけて、三つの同音異曲の小説がヒットしたことを解説する箇所は、瞠目に値する。三つの小説とは、『砂の器』、『飢餓海峡』、『人間の條件』の三作だが、この三作は、社会的成功者に「過去からの訪問者」が現れ、「過去からの訪問者」を殺害するという、同一の構造を持っている。社会的成功者達は、その成功が過去のアイデンティティーの隠蔽によって支えられている。しかし被害者達は、過去のアイデンティティーとの持続的一貫性を要求するものとして現れている。
「六〇年代の繁栄は、戦争期に由来する他者に対して、返しきれない負債を負っており」と語るところなど実にニクい。何の説明もなく、さりげなく書かれているが、これは「唯一の神に償い切れない負債を負っている」というニーチェの『道徳の系譜』を元にした表現であり、隠されたオマージュである。著者は終戦という歴史の断絶を、戦前から一貫したものとして見ている。「理想の時代」の章の序盤に三島由紀夫の自決の話を置き、「我々は約束を果たして来たのか」と問い、章のラストにこの問いに答える。ロジカルでありながら、詩的な印象さえ感じられる。
ロジカルで詩的な、二律背反のものをひとつにするような、神がかった文章と構成で論旨が展開していくが、私が特に興味を引かれたのが河内長野の殺人事件についてである。
18歳の少年と十六歳の少女が自らの家族を殺害したあの事件ーー
「彼ら同士の関係の上に投射されている極限の直接性に到達するためには、どうしても、家族の関係が排除され、無化されなくてはならなかったからではないだろうか」
この文を読んで、あろうことか、私は『バクマン』を連想したのである。『バクマン』の主人公とヒロインの恋愛ーー
『バクマン』の原作者大場つぐみはガモウひろしだという噂があるが、真偽はともかく、男性だというのは納得できる。女性作家は、あのような読者ウケは狙わない。また主人公とヒロインの恋愛は若者にはウケるかもしれないが、深い感動を与えるものではない。深い感動は、多くは作家の内部から出たものであり、大場つぐみは、むしろ外部から取り込んだものをアレンジしたように思えるのである。『不可能性の時代』と『バクマン』は発表された時期も近い。(『不可能性の時代』の初出は、2005年の『世界』一月号である)私は今、『バクマン』のインスピレーションは『不可能性の時代』から得たと確信している。
「妄想じゃない!?」と言われても気にならないほど、この本は想像力を湧かせてくれる。
2012年4月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
”われわれは、この暴力的な「現実」への逃避がもたらす閉塞の有り処を、「理想の時代/虚構の時代/不可能性の時代」という(日本の)戦後史の三区分を経由しながら探り当てた。この閉塞に対して、われわれは、どのように対抗することができるのだろうか? 不毛な破壊(の擬制)に身を委ねることなく、この閉塞を克服することができるのだろうか?”
(本文より)
宮台真司と東大で同期の社会学者の大澤真幸。色々な出来事や本などを引用し論考を繰り広げている。
今の時代を不可能性の時代と名付けているが、それまでには理想→虚構があったという。
約300ページで戦後を社会分析しようとしてるのだからやや端折ってる感もあるが、大澤節というか、彼の文章に乗せられて楽しく読める。ちょっとジジェクを使いすぎてる部分があるのは気になるがそれでもちゃんと大澤真幸のオリジナリティは出てるので良いと思う。
しかし、結論の部分は弱く感じた、これだけ色々繰り広げて結論の部分は尻つぼみといいますか・・、しかし面白いです笑。
バブル期以後虚構が蔓延る世の中で、今の時代を不可能性だと名付つけたら元も子もない感じもしますがちゃんと最後には希望も示されています。
”1995年に一連のオウム真理教事件が起き、また発覚した直後に、私は、この事件を社会学的に分析した『虚構の時代の果て』(ちくま新書、ちくま学芸文庫より近刊)を執筆した。その際、事件を、(日本の)戦後の精神史の中に位置づけようと試みた。私は、見田宗介先生のアイデアに触発されながら、戦後の精神史は、「理想の時代」から「虚構の時代」へと転換してきており、オウム真理教事件は、「虚構の時代」の限界・終焉を印づける出来事ではないか、と考えたのであった。本書は、前著の中では暗示的・消極的にしか語られていなかった「虚構の時代の後」が、つまり現在が、どのような時代なのかを、積極的に記述し、説明する試みである。
ミネルヴァのふくろうは夕暮れに鳴くという。だが、ふくろうを出来事が進行している渦中に、昼間のうちに鳴かすことはできないだろうか。そもそも昼間のうちに鳴くことができないのならば、ふくろうの存在など何であろうか。さらに言おう。昼間はほんとうは、夕暮れのふくろうを一種のユートピア的な期待のようなものとして最初から胚胎させているはずではないか。それならば、先取りされている夕暮れの視座を昼間のうちに占め、そこから昼間を捉え、鳴くことが十分に可能なはずではないか。こういう思いから、私は、本書を執筆した。”
(「あとがき」より)
(本文より)
宮台真司と東大で同期の社会学者の大澤真幸。色々な出来事や本などを引用し論考を繰り広げている。
今の時代を不可能性の時代と名付けているが、それまでには理想→虚構があったという。
約300ページで戦後を社会分析しようとしてるのだからやや端折ってる感もあるが、大澤節というか、彼の文章に乗せられて楽しく読める。ちょっとジジェクを使いすぎてる部分があるのは気になるがそれでもちゃんと大澤真幸のオリジナリティは出てるので良いと思う。
しかし、結論の部分は弱く感じた、これだけ色々繰り広げて結論の部分は尻つぼみといいますか・・、しかし面白いです笑。
バブル期以後虚構が蔓延る世の中で、今の時代を不可能性だと名付つけたら元も子もない感じもしますがちゃんと最後には希望も示されています。
”1995年に一連のオウム真理教事件が起き、また発覚した直後に、私は、この事件を社会学的に分析した『虚構の時代の果て』(ちくま新書、ちくま学芸文庫より近刊)を執筆した。その際、事件を、(日本の)戦後の精神史の中に位置づけようと試みた。私は、見田宗介先生のアイデアに触発されながら、戦後の精神史は、「理想の時代」から「虚構の時代」へと転換してきており、オウム真理教事件は、「虚構の時代」の限界・終焉を印づける出来事ではないか、と考えたのであった。本書は、前著の中では暗示的・消極的にしか語られていなかった「虚構の時代の後」が、つまり現在が、どのような時代なのかを、積極的に記述し、説明する試みである。
ミネルヴァのふくろうは夕暮れに鳴くという。だが、ふくろうを出来事が進行している渦中に、昼間のうちに鳴かすことはできないだろうか。そもそも昼間のうちに鳴くことができないのならば、ふくろうの存在など何であろうか。さらに言おう。昼間はほんとうは、夕暮れのふくろうを一種のユートピア的な期待のようなものとして最初から胚胎させているはずではないか。それならば、先取りされている夕暮れの視座を昼間のうちに占め、そこから昼間を捉え、鳴くことが十分に可能なはずではないか。こういう思いから、私は、本書を執筆した。”
(「あとがき」より)
2008年4月26日に日本でレビュー済み
東京大学見田宗介ゼミ出身、今日を代表する社会学者の一人である
大澤真幸の最新作である。見田宗介に対する学恩を感謝する旨の
謝辞があとがきにある(私の裏付けのない理解だと、東大小室直樹
自主ゼミの参加者で、橋爪大三郎や宮台真司の系列の書き手という
印象があるのだが、事実誤認だろうか)。
見田宗介による戦後の区分:
「理想の時代」(1945〜60年)
「夢の時代」(1960〜75年)
「虚構の時代」(1975〜90年)
に準拠して議論を展開し、1990年から現在へつながる時代を
本書のタイトルである「不可能性の時代」と概括して、現代の閉塞の
根源と、脱出への回路を論じている。
論点は多岐に渡り、読み手の得意分野にヒットすればその部分に
ついて、新たな視点が得られる仕掛けになっている。多くの読者に
届くようになのか、筆者の持ち味なのか、サブカルチャーへの
積極的な言及と、時代を画する犯罪への深い洞察が類書とは違う本書の
特徴をなしている。たとえば、1968年の少年Nによる連続射殺事件や
1997年の、神戸市須磨区連続児童殺傷事件への長文の考察がある。
著者の同時代人たる評者には、とても刺激的な論考で、蒙を開かれる
部分も多かったが、読んでほしい対象たる年若い読者に対して、
こういう議論展開はどうなのだろうという疑問も感じた。
若い人たち(著者が日々接しているであろう大学生・大学院生)の
世代に媚びる必要はさらさらないが、目線が著者の同時代人に向き
すぎているように感じられるのだ。松本清張の『砂の器』に水上勉
『飢餓海峡』・森村誠一『人間の証明』を並べて論じている部分など
が評者にとても興味深かった。
80年代的な著作を2008年に読む楽しみ。
大澤真幸の最新作である。見田宗介に対する学恩を感謝する旨の
謝辞があとがきにある(私の裏付けのない理解だと、東大小室直樹
自主ゼミの参加者で、橋爪大三郎や宮台真司の系列の書き手という
印象があるのだが、事実誤認だろうか)。
見田宗介による戦後の区分:
「理想の時代」(1945〜60年)
「夢の時代」(1960〜75年)
「虚構の時代」(1975〜90年)
に準拠して議論を展開し、1990年から現在へつながる時代を
本書のタイトルである「不可能性の時代」と概括して、現代の閉塞の
根源と、脱出への回路を論じている。
論点は多岐に渡り、読み手の得意分野にヒットすればその部分に
ついて、新たな視点が得られる仕掛けになっている。多くの読者に
届くようになのか、筆者の持ち味なのか、サブカルチャーへの
積極的な言及と、時代を画する犯罪への深い洞察が類書とは違う本書の
特徴をなしている。たとえば、1968年の少年Nによる連続射殺事件や
1997年の、神戸市須磨区連続児童殺傷事件への長文の考察がある。
著者の同時代人たる評者には、とても刺激的な論考で、蒙を開かれる
部分も多かったが、読んでほしい対象たる年若い読者に対して、
こういう議論展開はどうなのだろうという疑問も感じた。
若い人たち(著者が日々接しているであろう大学生・大学院生)の
世代に媚びる必要はさらさらないが、目線が著者の同時代人に向き
すぎているように感じられるのだ。松本清張の『砂の器』に水上勉
『飢餓海峡』・森村誠一『人間の証明』を並べて論じている部分など
が評者にとても興味深かった。
80年代的な著作を2008年に読む楽しみ。