本書の第一章から第五章までは、1983年から1993年の間に各誌に発表され、『
物語の哲学―柳田国男と歴史の発見
』として1996年に出版された内容です。1996年版に対する上村忠男氏と高橋哲哉氏からの反論に対する著者の反論が、本書のあとがきに収録されています(上村氏は、昨年邦訳が出た『
メタヒストリー――一九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力
』の著者ヘイドン・ホワイトの近年の著作の翻訳者で、長年イタリアの歴史学者カルロ・ギンズブルグの著書の邦訳を多数出してきた方です。ホワイトとギンズブルグは歴史の物語り論を巡って論争を行った経緯があります)。更に前著での様々な反響・批判を受けて雑誌掲載された論説が、本書の第六章、第七章として収録されています。
更には、2007年に本書の簡易概要版として『
歴史を哲学する (双書 哲学塾)
』を出版し、この書籍に対する歴史学者遅塚忠躬の『
史学概論
』に掲載された反論を受けて、遅塚氏への反論が増補されたのが、2016年に出版された『
歴史を哲学する――七日間の集中講義 (岩波現代文庫)
』です。
このように、二冊の文庫版を読むことで、1990年頃から2016年までの著者の論旨の変遷や批判を受けての議論の発展が見て取れる点で有用なので、二冊まとめて読むことをお薦めいたします。当初は科学哲学を研究していた著者が1990年に論じた柳田國男を中心とした(現在から見ると)素朴な物語論が、90年代に欧米歴史学界で激しい論争を巻き起こして日本でも欧米の5-10年後くらいに焦点となった言語論的転回や歴史修正主義など歴史学の論争の潮流とぶつかり、議論が深化してゆく過程をこの二冊で追うことができます。
遅塚氏と野家氏の間の論点やカルロ・ギンズブルグとヘイドン・ホワイトの論争は、哲学界では実在論VS構築論、歴史学界では、実証主義VS構築論として議論されている内容で、古くはプラトンとアリストテレスの昔から中世の普遍論争で議論されて現在に至る世界認識の論争そのものに根ざす内容なので、どちらが正しいというような議論は1000年後でも出せるものではないような話だと思うのですが、過去/実在/歴史/客観 という用語の認識を巡って、論者の間で微妙なズレがあり、「歴史」という用語があまりにも多くの内容を含み多義的解釈が受け入れ可能なものであることから、用語が含意するモノの前提の段階でなかなか議論がかみ合わない(ように見える)のが残念です(個人的には、「歴史とは、過去に関して文字/記号/図像/遺物/イメージ/記憶等なんらかの形で表象されたもの」「歴史学とはその歴史表象を学問的に(即ち客観的論理的実証的に、近年では諸科学の成果も用い、文学的修辞は排除して)整理/構成するもの」と思っています(概説的な読書向けの歴史書には文学的修辞はあってよい))。まだ未読ですが、このあたりの議論をテーマのひとつとしている岡本充弘氏の今年の新刊の題名が『
過去と歴史
』なのは、この辺の事情を突いているのではないか、と推測しています。
現在の歴史学界の構図は、再構築論VS構築論/脱構築論という構図で、野家氏の物語り論は(『歴史を哲学する』のあとがきでの遅塚氏への反論を読む限り)どちら側にも接続可能なものだと思います。このあたりの歴史学上の議論に興味のある方は、構築論なら、カー『
歴史とは何か (岩波新書)
』、再構築論は
歴史学の擁護―ポストモダニズムとの対話
』、脱構築論は『
歴史を考えなおす (叢書・ウニベルシタス)
』が有用です。
本書と『歴史を哲学する』に不足しているように思えたのは、共時的論理性/通時的論理性・間主観的妥当性は、自由で情報が広く公開されていて、誰でも検証可能な社会でしか担保されない、という点と、人間のもつ強力な感情は、時として”客観的事実”をも構成してしまう程強力である(認知的不協和や強力なプロパガンダ、記録/文書/映像等の隠滅改竄等々、或いはウィキアリティやパブリックヒストリーという次元でも)、という点についてです。著者には自明の大前提なのかも知れませんが、歴史(ヒストリー)は物語(ストーリー)である、という一応論理性客観性を備えた言説が流通してしまい、増補版と『歴史を哲学する』の第二章で主題としてstory とnarraiveの相違を説明する必要に迫られたことを考えると、自明部分も深く厚く解説する必要があるのではないかと思います。
ともあれ、本書は「歴史は物語である」という言説を広めた困った書籍(のひとつ)、というイメージは改められました。そうはいっても、タイトルを『物語りの哲学』にできないのは、日本人の語感では、「物語り」より「物語」の方が語としての座りが良く、『物語り』にしてしまうと売上げも減少してしまうような気もします。物語/物語りの議論は、これ自体が実のところ言説問題であるように思えます。「ナラティブ」にするのがとりあえずベターのような気がしますが、インパクトは落ちてしまいます。結局のところ今後もこの誤解は続きそうで残念です。
※2019年3月追記:ポスト真実、公文書改竄というような現在の時代状況を受けて間主観的妥当性について論じた最新の論考が「「ポスト真実」時代の知と公共圏(『思想』2019年3月号)に掲載されています。議論の結論部は今後議論が続きそうに思えますが、論点の取りまとめとして有用だと思います(本論考の読後印象は、プラグマティズム的な方向性への肯定的な印象と、ドストエフスキー『大審問官』の章(カラマーゾフの兄弟)の印象が混在する読後感でした(あくまで個人的に))。
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
物語の哲学 (岩波現代文庫 学術 139) 文庫 – 2005/2/16
野家 啓一
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥1,837","priceAmount":1837.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"1,837","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"YnBDAR647hlqbm07cXu6ZwMmZZe%2FAncrf7L%2Bl3tt5zHUl%2Fs1K26rQbkMuIt0ldVVa6lJRUbkR%2BFXVnzDYVbkC%2BY8T%2Fap56ns99Rz%2FkU59LArL6vMD3Ho2jYEMBOWjrZ1","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}]}
購入オプションとあわせ買い
- ISBN-104006001398
- ISBN-13978-4006001391
- 出版社岩波書店
- 発売日2005/2/16
- 言語日本語
- 寸法10.5 x 3.7 x 14.8 cm
- 本の長さ300ページ
よく一緒に購入されている商品
対象商品: 物語の哲学 (岩波現代文庫 学術 139)
¥1,837¥1,837
最短で6月12日 水曜日のお届け予定です
残り16点(入荷予定あり)
¥1,210¥1,210
最短で6月12日 水曜日のお届け予定です
残り9点(入荷予定あり)
¥1,353¥1,353
最短で6月12日 水曜日のお届け予定です
残り8点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2005/2/16)
- 発売日 : 2005/2/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 300ページ
- ISBN-10 : 4006001398
- ISBN-13 : 978-4006001391
- 寸法 : 10.5 x 3.7 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 40,656位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 44位岩波現代文庫
- - 88位文化人類学一般関連書籍
- - 164位歴史学 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中4.4つ
5つのうち4.4つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
17グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年6月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2023年1月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
物語(ストーリー)ではなく、人が理解、認識して行う物語”り”とは何かという話。
大きな物語の終焉から小さな物語としての実存しかありえない状況を振り返り、歴史は物語りとしてのみ存在しうるという主張から始まる。
最終的に、科学含めてすべての人間の知識は、物語りとして理解できるという主張になる。
世界の認知として、人の理解(認知)、言語による分節化を基にする事や、大きな歴史の終わりと現状認識は、強く共感するが新鮮味は無かった。
最終的に科学の物語としてのありようについては、著者も参照しているが、まさにクーンやフーコーの議論とほぼ同じ。議論の流れや、表現が違うことに意義がある?
また歴史認識についてはカルチャラルスタディーズ(抑圧された少数民族の歴史は語られない等)との共通性を思い出した。
大きな物語の終焉から小さな物語としての実存しかありえない状況を振り返り、歴史は物語りとしてのみ存在しうるという主張から始まる。
最終的に、科学含めてすべての人間の知識は、物語りとして理解できるという主張になる。
世界の認知として、人の理解(認知)、言語による分節化を基にする事や、大きな歴史の終わりと現状認識は、強く共感するが新鮮味は無かった。
最終的に科学の物語としてのありようについては、著者も参照しているが、まさにクーンやフーコーの議論とほぼ同じ。議論の流れや、表現が違うことに意義がある?
また歴史認識についてはカルチャラルスタディーズ(抑圧された少数民族の歴史は語られない等)との共通性を思い出した。
2015年10月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
歴史でも科学でも、また、すべての実在も所詮は物語で、絶対的認識などなく、解釈学的循環があるのみということを、分かりやすく明快に解いている。物語論としては出色のものだと思う。時間論で過去、現在を矢印でなく透明なガラスを重ねた比喩で語っていいるのは感心した。
2020年12月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「物語」についての詳細な分析。口承、文学、虚構、哲学、時間などの概念と関係付けながら、物語とは何か(或いは何でないか)を明らかにしていく。
難解な専門用語が多く読解が困難。この点でマイナス一点である。確実に読み取れたのは以下のポイント。
・物語は、複数のイベント間の因果ネットワークにより構成される(what)
・物語は、虚実の中間に存在し、哲学がそれを分析する(where)
・物語は、構成と共同化により個人的な体験を社会の記憶つまり歴史へ変容させる。それによって人々は理解不能な過去の出来事を受容可能にし、また未来への指針を得る(why)
もう少し分かりやすく書いて欲しいが、脳に汗をかくような読書もタマには楽しい。また挑戦したい本。
難解な専門用語が多く読解が困難。この点でマイナス一点である。確実に読み取れたのは以下のポイント。
・物語は、複数のイベント間の因果ネットワークにより構成される(what)
・物語は、虚実の中間に存在し、哲学がそれを分析する(where)
・物語は、構成と共同化により個人的な体験を社会の記憶つまり歴史へ変容させる。それによって人々は理解不能な過去の出来事を受容可能にし、また未来への指針を得る(why)
もう少し分かりやすく書いて欲しいが、脳に汗をかくような読書もタマには楽しい。また挑戦したい本。
2021年1月11日に日本でレビュー済み
1996年「物語の哲学ーー柳田國男と歴史の発見」の増補版(第6章、7章追加)、2005年刊行。
一冊の本というより、雑誌に出された論考を合わせて載せたものです。(第一部、一章、1990年、2章、1991年、三章、1993年。第二部、四章1983年、第五章、1990年。第三部、六章、2002年、七章、2003年)
こういう形式なので、同じような趣旨の説明を何度も読むことになります。主要なことは、三章の3歴史哲学テーゼの六つのテーゼを読むとよいと思います。基本、順番に読んでおけばいいと思います。
後書きを先に読むことをオススメします。
「物語の哲学」という題から、物語論、特に、橋本陽介の『物語論 基礎と応用』のような内容かと思っていましたが、読んでみると、ポストモダンにおける歴史哲学について、でした。全く文学論ではないで、注意。
利用される哲学は多岐にわたりますが、主要なものは、A.ダーント、フッサール、オースティン、柳田國男、後期ウィトゲンシュタインでしょうか。構造主義系のデリタやバルトも触れられますし、小さな物語と大きな物語のリオタールも重要ですが、少なくとも、現象学と分析哲学をかじっておいてから読んだほうがいいです。当然、歴史哲学なので、ヘーゲルの「歴史哲学」は重要ですが。
『20世紀とは何だったのか 西洋の没落とグローバリズム (PHP文庫)』とかも読んでおくと、入りやすいかもしれません。
この本の流れは、冷戦の終結後の、ヘーゲル系の哲学者のフランシス・フクヤマの『歴史の終わりーー歴史の終焉と最後の人間』から端を発する現代文明論の歴史哲学にあります。もう冷戦も終わって長いので、あまり実感が湧かないかもしれませんが。
始原と終わりを持つ歴史の目的論が崩れ去った後に残る分析的歴史哲学の提唱から始まり、柳田國男の口承言語から「物語り」による歴史の作成について語られます。歴史の目的論と同じく、客観的歴史叙述も否定されていきます。
歴史とは、「構造化」され「共同化」された思い出すなわち「記憶の共同体」に他ならない、とされて、歴史哲学とは、歴史を語る物語行為の構造分析論となることを主張します。
この主張からも分かるように、構造主義のテクスト論と現象学の間主観性は、大いに利用されます。
そのあと、第四章や第五章になると、この物語り論を、文学と科学へと広げていきます。第六章は、フッサールの時間論と、物語り論への批判への応答です。第七章は、物語り論の系譜と、これからの発展についてです。
意外ですが、筆者は、英米系の科学哲学や言語哲学が専門のようで、この物語り論の向かう先は、科学の物語り論のようです。
ちくま学芸文庫に、同著者の「科学哲学への招待 」という本もあります。
【感想】
少し同じ内容が多くて、読み疲れますが、一章や二章は面白く読みました。三章は、補強のような気持ちでーー。
四章は特に、細々な言語哲学の内容なので、興味がないとくだらなくも感じますね。言語哲学の理論を突き詰めた時に、常識的見解から落とせない内容を、どう解釈し直していくか、ですね。六章の時間論も、そういう感じですね。
五章、ここが筆者にとっては、一番重要なのだろうが、科学を物語り論的に解釈することは可能だと思いますが、結局、歴史哲学と違って、科学の方法論が何か変わるわけではないので、少し拍子抜け感がありました。クーンの「科学革命の構造」で、主張されていることを、物語り論の文脈に置き直したというのが、読後の感覚でしょうか。
七章、今までの物語り論までの系譜が書かれていて、いいですね。先に七章を読んでおくのもアリかもしれません。
一冊の本というより、雑誌に出された論考を合わせて載せたものです。(第一部、一章、1990年、2章、1991年、三章、1993年。第二部、四章1983年、第五章、1990年。第三部、六章、2002年、七章、2003年)
こういう形式なので、同じような趣旨の説明を何度も読むことになります。主要なことは、三章の3歴史哲学テーゼの六つのテーゼを読むとよいと思います。基本、順番に読んでおけばいいと思います。
後書きを先に読むことをオススメします。
「物語の哲学」という題から、物語論、特に、橋本陽介の『物語論 基礎と応用』のような内容かと思っていましたが、読んでみると、ポストモダンにおける歴史哲学について、でした。全く文学論ではないで、注意。
利用される哲学は多岐にわたりますが、主要なものは、A.ダーント、フッサール、オースティン、柳田國男、後期ウィトゲンシュタインでしょうか。構造主義系のデリタやバルトも触れられますし、小さな物語と大きな物語のリオタールも重要ですが、少なくとも、現象学と分析哲学をかじっておいてから読んだほうがいいです。当然、歴史哲学なので、ヘーゲルの「歴史哲学」は重要ですが。
『20世紀とは何だったのか 西洋の没落とグローバリズム (PHP文庫)』とかも読んでおくと、入りやすいかもしれません。
この本の流れは、冷戦の終結後の、ヘーゲル系の哲学者のフランシス・フクヤマの『歴史の終わりーー歴史の終焉と最後の人間』から端を発する現代文明論の歴史哲学にあります。もう冷戦も終わって長いので、あまり実感が湧かないかもしれませんが。
始原と終わりを持つ歴史の目的論が崩れ去った後に残る分析的歴史哲学の提唱から始まり、柳田國男の口承言語から「物語り」による歴史の作成について語られます。歴史の目的論と同じく、客観的歴史叙述も否定されていきます。
歴史とは、「構造化」され「共同化」された思い出すなわち「記憶の共同体」に他ならない、とされて、歴史哲学とは、歴史を語る物語行為の構造分析論となることを主張します。
この主張からも分かるように、構造主義のテクスト論と現象学の間主観性は、大いに利用されます。
そのあと、第四章や第五章になると、この物語り論を、文学と科学へと広げていきます。第六章は、フッサールの時間論と、物語り論への批判への応答です。第七章は、物語り論の系譜と、これからの発展についてです。
意外ですが、筆者は、英米系の科学哲学や言語哲学が専門のようで、この物語り論の向かう先は、科学の物語り論のようです。
ちくま学芸文庫に、同著者の「科学哲学への招待 」という本もあります。
【感想】
少し同じ内容が多くて、読み疲れますが、一章や二章は面白く読みました。三章は、補強のような気持ちでーー。
四章は特に、細々な言語哲学の内容なので、興味がないとくだらなくも感じますね。言語哲学の理論を突き詰めた時に、常識的見解から落とせない内容を、どう解釈し直していくか、ですね。六章の時間論も、そういう感じですね。
五章、ここが筆者にとっては、一番重要なのだろうが、科学を物語り論的に解釈することは可能だと思いますが、結局、歴史哲学と違って、科学の方法論が何か変わるわけではないので、少し拍子抜け感がありました。クーンの「科学革命の構造」で、主張されていることを、物語り論の文脈に置き直したというのが、読後の感覚でしょうか。
七章、今までの物語り論までの系譜が書かれていて、いいですね。先に七章を読んでおくのもアリかもしれません。
2012年10月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
必須アイテムです。考えさせられます。物語の哲学 (岩波現代文庫)
2015年10月15日に日本でレビュー済み
「物語る」という事がどういうことなのか、
色々な視点から、検討されている著作だと思いました。
当たり前の事なのかもしれませんが、
物語られる事は、大抵、過去的で、未来は予測されるもので、
物語られるものではないと気づかされました。
だから、未来を物語る可能性について考えてみたくなります。
解釈せざる得ないという人間の特徴=「物語る欲望」。
物語を語る個人と、社会的背景について。
物語とメタファー
嘘、虚構→何についての嘘なのか?大抵は歴史自体ではない。
物語を面白くするため?
エンタテイメント性(←面白くない話は継がれない)
未来を物語る可能性は、未来を既視感を持って捉えることから?
つまり、歴史を学ぶ事で?
歴史は物語として語られる以外はあり得ないのか?
物語るとは、過去を現在に立ち上げる営みだから、
「虚」が含まれない方がおかしい。
色々な視点から、検討されている著作だと思いました。
当たり前の事なのかもしれませんが、
物語られる事は、大抵、過去的で、未来は予測されるもので、
物語られるものではないと気づかされました。
だから、未来を物語る可能性について考えてみたくなります。
解釈せざる得ないという人間の特徴=「物語る欲望」。
物語を語る個人と、社会的背景について。
物語とメタファー
嘘、虚構→何についての嘘なのか?大抵は歴史自体ではない。
物語を面白くするため?
エンタテイメント性(←面白くない話は継がれない)
未来を物語る可能性は、未来を既視感を持って捉えることから?
つまり、歴史を学ぶ事で?
歴史は物語として語られる以外はあり得ないのか?
物語るとは、過去を現在に立ち上げる営みだから、
「虚」が含まれない方がおかしい。