中古で購入した単行本を読みました。
本書は、戦争責任とは何か、を歴史的観点から理論的に分析した良書だと思います。
本書のメインテーマは日本の第二次世界大戦における戦争責任ですが、第1~2章は第一次世界大戦前後の流れを俯瞰することにより、第二次世界大戦以前に「戦争責任」の国際的な見方がどう変遷してきたかが説明されています。
この導入部分を読むことによって、「戦争責任」と一口に言ってもそれが具体的に何を意味するのか、明確な定義を私自身が持ち合わせていなかったことに気が付かされます。
ただ金を払っておしまい、という単純な問題ではありません。それは、敗戦国による多額の補償金が必ずしも受領国の利益とはならない、ということが既に第一次世界大戦以前に議論されていたことからもわかります。(単行本p34 「賞金によって何らかの利益を得たとしても、それは巨額の金または現物の輸送による為替の混乱、賞金を受け取る側での物価の上昇とそれに起因する輸出の低減などによって相殺されてしまうであろう。」というノーマンエンジェルによる論考)
ここで、単にケンカに勝ったものが負けたものから取り立てる「賞金」という概念が、実際的には誰にも益をもたらさないものとして国際的な戦争責任の概念から排除されていった経緯がわかります。
一方、「賠償」についてはどうでしょうか。ケインズは第一次世界大戦後の新しい資本主義的経済秩序を安定させるためにはドイツに過度の賠償負担を負わせるべきでないと考えたそうです。しかし、最終的には政治的理由により「賞金的」「懲罰的」な巨額の賠償金がドイツに要求される結果となりました。賠償金負担によるドイツ経済の破壊がヒトラーという独裁者を誕生させる土壌になったことは一般的に認知されていることだと思います。
反面、「為政者の処罰」という観点では、ドイツ皇帝は裁判を逃れ、ヒンデンブルクは戦後大統領に就任しました。結局、「戦争責任条項は、賠償条項を除けば空文に帰した」(単行本p71)ことになりました。
皮肉なことですが、ウイルソンの14か条は、そもそも「懲罰的賠償を明白に否定していた」(単行本p57)一方で、「戦争責任に関する限り、ドイツにたいしてきびしい懲罰的な態度でのぞんでいた」(単行本p52)そうなので、結果として現実はその真逆になったということになります。
このように第一次世界大戦前後の経緯を俯瞰することで、「賞金」、「賠償」、「処罰」という3つを軸に戦争責任について整理することができます。
第三章以降は、いよいよ第二次世界大戦に入っていきます。主に日本、ドイツ、アメリカの戦争責任について詳述されていますが、やはり筆者が主眼として訴えたいのは日本の戦争責任とは何かという問題でしょう。
被害国のなかでも特にアジア諸国に対して日本は責任を果たしたといえるのかどうか、そして今後どうすべきなのか、というのが本書で一番検証したかったことだと思われます。そのなかでも、現在も未だに縺れている朝鮮との関係性が肝だと思いますし、私がこの本から一番読み取りたかったことでもあります。
第二次世界大戦以降の検証では、既出の「賠償」、「処罰」に加えて、「謝罪」、「被害者の救済」という戦争責任の概念が登場します。また、その各々について、「『平和にたいする罪』(crime against peace)および『人道にたいする罪』(crime against humanity)」(単行本p60)、つまり戦争することそのこと自体の犯罪性と、個々の事例における犯罪性、の二類型に分類することでよりすっきりしてきます。
上記4つの戦争責任概念すべてに関わることだと思いますが、日本の戦争責任を問うというプロセスが、途中から冷戦という新たな大国間の覇権争いに飲みこまれて尻消えトンボになってしまったということはとても重要です。それは、天皇の免責、東京裁判の早期打ち切り、日本の経済発展への舵切り、という形で現れます。
まず、ひとつ目の「賠償」について見ると、日本は被害を受けたアジア諸国に賠償を行っていますが、多くは経済的援助という形でなされ、実はそれはアジアの市場開拓によって、日本自身の経済成長の梃子に利用されたという側面が大きいのです。
さらにこれはもっぱら国家間の賠償行為であって、個々の犯罪行為に対する賠償とは分けて考える必要があります。つまり、「平和にたいする罪」に関してはたとえ賠償が済んだと言えたとしても、「人道にたいする罪」について同じことは言えないということです。そして後者がいかに不完全であるかを、筆者は事実に則して説明しています。
例えばサンフランシスコ講和条約にしても、「本来の目的である戦争の後始末よりも、アメリカのアジア冷戦戦略のなかに日本を経済的軍事的にどう組み込むかが、講和問題をめぐるアメリカの外交課題」となってしまったゆえに、「寛大な講和(soft peace)」の方針がとられ、「講和条約のなかで、個人の人権被害にたいする償いを直接に取り上げたのは、『日本の捕虜であった間に不当な苦難を被った連合国軍隊の構成員』にたいして償うことを規定した第16条だけであった」ことや、講和会議には「日本の侵略戦争と植民地支配の最大の被害者であった中国と朝鮮の代表は招請されなかった」というお粗末な結果になります(単行本p179-186)。
また1965年の日韓条約においても、「請求権問題は『完全かつ最終的に解決されたことになることを確認する』と規定しているにもかかわらず、この協定が、とくに『従軍慰安婦』、強制連行などの個人の被害を解決するものとして不備であった」(単行本p209)ことにより、国際法律家委員会が「日本は、韓国の慰安婦による請求権を阻止するために、1965年協定を援用することはできない」(単行本p210)と結論したそうです。
2つ目の「処罰」については、アメリカが冷戦に突き進む都合上、東京裁判は早期打ち切りとなり、天皇の戦争責任は不問に付され、岸信介らの戦犯容疑者が釈放されて政治の舞台に返り咲く、などの現象が起きます。東京裁判について、筆者は、「アジア不在の問題」、「『人道にたいする罪』が追求されなかったこと」、「裁判の早期打ち切り」の3つの問題点を挙げ、「『従軍慰安婦』の場合にも、東京裁判では審理の対象にならなかった。」としています(単行本p163-)。一方ドイツでは、ニュルンベルク裁判や1958年に設立されたナチス犯罪追跡センターにより国内外から犯罪の追及が行われ、しかもナチス犯罪について時効は認められていません。翻って日本では、「国連総会で採択された『人道にたいする罪』については時効を適用しないという時効不適用条約」の採択を棄権しました(単行本p243)。そして、のちに政府も軍の関与を認めた慰安所問題についても、調査が中途半端なまま打ち切られるなど、国家的犯罪の指導的立場にあった人々が相応の処罰を免れています。日本の歴史的大失態である大戦でその責任者の多くが断罪されなかったことは、戦後日本を貫く無責任体質の根源ではないかと、私は思います。
3つ目の「謝罪」については、本書が出版された直後の1995年8月に村山談話で植民地支配と侵略を認め謝罪しました。しかし昨今でも政治家がたびたび不適切発言をしたり、靖国神社を参拝して中韓の神経を逆なでしたりするなど、謝罪の意識が日本人の心に根付いているとは言い難いと思います。そのようなメンタリティーは1965年日韓条約締結時の首席代表高杉晋一の謝罪拒否発言(単行本p207)に如実に表れている帝国意識から、その後高度経済成長期には経済大国としての優越感・アジア蔑視という形で継承されているように思われます。すでに日本経済も衰退期にありながら、未だに優越意識から脱することができないのは、「帝国の二日酔い」(単行本p100)ならぬ「経済大国の二日酔い」という後遺症が今も続いているのでしょう。村山談話の謝罪に至るまでに戦後50年も要したということも驚きですが、それは政治家の問題だけではなく、一般の日本人のなかにも戦争美化や正当化の考えが根強いことの表れでしょう。このような日本人全体のメンタリティーの源泉として、早くも戦後10年から教科書検定による戦争美化教育が始まっていることについても、本書では解説されています。
4つ目の「被害者救済」はやや抽象的な概念です。賠償としての金銭的・物質的サポートはもちろん必要ですが、被害者が被った苦痛を考えると、事実関係の綿密な調査が行われたうえで加害者が加害の事実を認め、真摯に謝罪する、あるいは相応の処罰を受ける、ということが何よりも大切なのではないでしょうか。そういう意味で、例えば元慰安婦に対する支払いが「見舞金」「支援金」という名目でなされ、「償い」という概念がすっぽり抜けていることは問題だと思います。2015年の日韓合意は日韓の意思疎通の齟齬や裏合意など様々な問題が指摘されています。もともとの韓国側の真意は、慰安婦問題に対する不可逆的で公式性の高い内閣決定(閣議決定)の形での謝罪を要求すること(河野談話は閣議決定されていない)でした。しかし日本側は支援金10億円を支払うことで慰安婦問題をチャラにしたいという意図であり、結局は韓国の人々の怒りを買う結果となっています。もちろんお金は大事ですが、誠実な謝罪の態度が伴わないことには決定的な和解に至ることはできないことを、このことは物語っているように感じます。そして何より、当事者を蚊帳の外にした政府間のみの合意はそもそも「人道にたいする罪」の問題解決にはそぐいません。
戦後70年以上が経過して当事者が高齢化しその多くが既に亡くなっているなかで、未だに戦時犯罪の問題がこんなに縺れてしまっているというのは残念なことです。どこかの段階で私たちは自分たちの誤りを清算しなければいけなかったはずです。このままなしくずし的に当事者がすべて亡くなるのを待つような姿勢では、未来に禍根を残すでしょう。
本書を読むことで歴史的事実を確認し、「戦争責任」という概念について具体的に整理する助けになりました。
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戦争責任論: 現代史からの問い (岩波現代文庫 学術 146) 文庫 – 2005/6/16
荒井 信一
(著)
- 本の長さ339ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2005/6/16
- ISBN-104006001460
- ISBN-13978-4006001469
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2005/6/16)
- 発売日 : 2005/6/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 339ページ
- ISBN-10 : 4006001460
- ISBN-13 : 978-4006001469
- Amazon 売れ筋ランキング: - 598,460位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2020年3月21日に日本でレビュー済み
著者は茨木大学・駿河台教授を経て、「戦争責任資料センター」の共同代表を担った人物である。一読して、第一次世界大戦から第二次世界大戦後のとりわけ、世界における戦争観、侵略戦争への意識変化及び、その主権国家通しの戦争を、お互いの正義だとしてきた時代から、これは何とかしなければならない、そうだったら、戦争観を変革していかなければならないという意識と動きを、ベルサイユ条約から、その変化を指摘し、不戦条約、国際連盟、その他戦争時でもやってはいけない行為(戦争だから、何をやっても問われないという今までの戦争観)が、次第に疑問視され、本当はバッサリと「侵略戦争は違法」となればよいのだが、なかなかそうはならない中で、そうはいっても何らかの歯止めや規制をしていき、戦争責任も問わなければならないという動きを追い、第二次世界大戦で、信じられないほどの総力戦になり、比較にならない殺人と破壊が行われた。それが、ニュールンベルグ裁判、東京裁判をする大きな歴史的推進力になっていることを、法的には限界や逸脱があるとしても、将来に向けて戦争を抑えていくには、全的な視点で考えるという思考や取り組みが行われてきたことを明らかにしている。細かいことにこだわらず、歴史の大きな動き、流れの中で語っていて、大きな川の流れを描写するような風で、非常に全体像がつかめやすい。ただ、後半は、ちょっと流れてしまっているような気がして、惜しいと思う。
2023年3月13日に日本でレビュー済み
第1章 第一次世界大戦と戦争観の転換
第2章 戦争責任問題の出現
第3章 第二次世界大戦と民衆の戦争体験
第4章 戦後処理とアジア不在
第5章 戦後史の転回と戦争責任問題
第6章 平和秩序の模索と人権
補章 戦後60年の時点で
第2章 戦争責任問題の出現
第3章 第二次世界大戦と民衆の戦争体験
第4章 戦後処理とアジア不在
第5章 戦後史の転回と戦争責任問題
第6章 平和秩序の模索と人権
補章 戦後60年の時点で
2010年9月28日に日本でレビュー済み
「戦争責任」への考え方がどのように変化してきたかを、第一次大戦期から現代まで、特に両大戦を中心にみた本。
感想としては、第一次大戦についてはドイツ・連合国双方の視点を上手く描けていると思うが、第二次大戦については途端にいつも見るようなありふれた党派的な議論に転落していて残念な感じであった。
第一次大戦の戦後処理については、例えばウィルソンは歴史の教科書では「寛大な措置」という印象が強いが、戦争責任を厳しく追及した側面もあったなどなかなか興味深い記述もあった。
また、ドイツ皇帝の処罰に対する混乱もあまり知らなかった。
また、各国の言っていること(建前)と、各国の実際の行動(本音)との違いも上手く出ていると思った。
ところが、第二次大戦の話になると、なぜか「日本やドイツの悪を追究する」といったスタンスが目立ち始める。
各国(特に連合国)の「口先だけで言っていたこと」と「その時代の正義通念」を同一視するなどの怪しげな展開も目立ち始める。
例えば、本書では例えば連合国側による捕虜虐待の話(例えば 容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別 (平凡社ライブラリー) に出ている)などはほとんど取り上げられず、日本の捕虜虐待を取り上げ「捕虜虐待はいけないという国際的コンセンサスは存在した」のような結論に一気に飛躍するような論法が多い。
こうした「口先だけの正義」というのは、各国が自国利益を守るために用いる方便でしかなく、こうした正義をコンセンサスとして認めてしまうことは、口先による正当化を後追いする、つまり「強いものが勝つ」ことを認めることになってしまう。
もう一つ、本書の問題は「戦争の問題」と「植民地支配の問題」を完全に混同していることだ。
両者ともに批判さるべきではあるだろうが、この二者は別に論じられるべき問題である。
ところが、本書ではこの二者が混同されて、例えば「占領したアジア植民地国(フィリピンとか)での過酷な統治」の問題を戦争犯罪に結びつけてしまったりしている。
それどころか、朝鮮半島における強制労働などの純粋な「植民地問題」までも戦争犯罪にくくろうとしている。
このように議論の場を間違えることで、全体の議論が筋の通らないものになってしまっている。
結局、後半が「日本の犯罪を追及しよう」と目的が先に決まってしまって、そこに含められそうなものをいろいろ盛り込むのでよくわからないことになってしまっているのだ。
さらに、そうした目的があるので、他国との比較という観点も抜け落ちて、「他国(特に連合国)はどうしていたのか」という重要な点がほとんど書かれなくなってしまった。
第一次大戦のところの記述ではこうした広い視点を持てていただけに、党派性の毒にかかった後半は残念であった。
感想としては、第一次大戦についてはドイツ・連合国双方の視点を上手く描けていると思うが、第二次大戦については途端にいつも見るようなありふれた党派的な議論に転落していて残念な感じであった。
第一次大戦の戦後処理については、例えばウィルソンは歴史の教科書では「寛大な措置」という印象が強いが、戦争責任を厳しく追及した側面もあったなどなかなか興味深い記述もあった。
また、ドイツ皇帝の処罰に対する混乱もあまり知らなかった。
また、各国の言っていること(建前)と、各国の実際の行動(本音)との違いも上手く出ていると思った。
ところが、第二次大戦の話になると、なぜか「日本やドイツの悪を追究する」といったスタンスが目立ち始める。
各国(特に連合国)の「口先だけで言っていたこと」と「その時代の正義通念」を同一視するなどの怪しげな展開も目立ち始める。
例えば、本書では例えば連合国側による捕虜虐待の話(例えば 容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別 (平凡社ライブラリー) に出ている)などはほとんど取り上げられず、日本の捕虜虐待を取り上げ「捕虜虐待はいけないという国際的コンセンサスは存在した」のような結論に一気に飛躍するような論法が多い。
こうした「口先だけの正義」というのは、各国が自国利益を守るために用いる方便でしかなく、こうした正義をコンセンサスとして認めてしまうことは、口先による正当化を後追いする、つまり「強いものが勝つ」ことを認めることになってしまう。
もう一つ、本書の問題は「戦争の問題」と「植民地支配の問題」を完全に混同していることだ。
両者ともに批判さるべきではあるだろうが、この二者は別に論じられるべき問題である。
ところが、本書ではこの二者が混同されて、例えば「占領したアジア植民地国(フィリピンとか)での過酷な統治」の問題を戦争犯罪に結びつけてしまったりしている。
それどころか、朝鮮半島における強制労働などの純粋な「植民地問題」までも戦争犯罪にくくろうとしている。
このように議論の場を間違えることで、全体の議論が筋の通らないものになってしまっている。
結局、後半が「日本の犯罪を追及しよう」と目的が先に決まってしまって、そこに含められそうなものをいろいろ盛り込むのでよくわからないことになってしまっているのだ。
さらに、そうした目的があるので、他国との比較という観点も抜け落ちて、「他国(特に連合国)はどうしていたのか」という重要な点がほとんど書かれなくなってしまった。
第一次大戦のところの記述ではこうした広い視点を持てていただけに、党派性の毒にかかった後半は残念であった。