柄谷行人という批評家/思想家の圧倒的力量が分かる力作。
アメリカでも一部に高く評価された名著である。世界的なレベルの著作と言って良い。
本書で柄谷は、カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読み、両者を交差させ、
その共通点から、今日の世界の課題を解決する道を探っている。
それまでマルクスと言えば、カントというよりもヘーゲルとの関わりが重視されることが
多かったわけだが、柄谷はヘーゲルの代わりにカントを持って来た。
それは、彼が「資本=ネーション=ステート」を乗り越える道を模索しているからで、
資本主義と不可避的に結びつく国家というものを肯定するヘーゲルに問題を見るからであろう。
代わりに柄谷はカントの「世界共和国」という概念に、マルクスの「世界同時革命」に通じる、
既存の国家形態を乗り越えた世界のあり方を見ている。
最終的にはそのような世界のあり方が目指されるというわけだろうが、そこに行き着くまでの
過程で、「資本=ネーション=ステート」に内部から対抗するための軸として、
アソシエーションというものが重視される。
そして、ここは賛否両論を生むところだろうが、そこには国家=政府というものを否定する
アナーキズムへの親和性というものが存在していることは事実である。
ともあれ、ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」とは
違った形で、現代における資本主義国家への対抗軸のヴィジョンを独自に打ち出しており、
そこには荒唐無稽ではない現実性と説得力が存在している。
この一冊で柄谷は世界的思想家の仲間入りをしたと言えるだろう。
現代社会のあり方に疑問を感じておられる方には、ご一読を勧めたい。
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トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫) (岩波現代文庫 学術 233) 文庫 – 2010/1/16
柄谷 行人
(著)
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カントによってマルクスを読み、マルクスによってカントを読む。社会主義の倫理的根源を明らかにし、来るべき社会への実践を構想する本書は、絶えざる「移動」による視差の獲得とそこからなされる批評作業(トランスクリティーク)の見事な実践であり、各界に大きな衝撃を与えた。英語版に基づき改訂。
- 本の長さ528ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2010/1/16
- 寸法10.5 x 2.2 x 15 cm
- ISBN-104006002335
- ISBN-13978-4006002336
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店 (2010/1/16)
- 発売日 : 2010/1/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 528ページ
- ISBN-10 : 4006002335
- ISBN-13 : 978-4006002336
- 寸法 : 10.5 x 2.2 x 15 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 212,056位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1941年生まれ。評論家 (「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 世界史の構造 (ISBN-13: 978-4000236935 )』が刊行された当時に掲載されていたものです。)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年3月26日に日本でレビュー済み
私が初めて柄谷行人氏の著作を読んだのは大学生のときで、『隠喩としての建築』だったことを記憶している。
なぜ「それ」だったのかは私にもよく分からないが、とにかく私の周りでは読まれて本だったというのがおそらく
本を買って読んだ理由だったように思う。
そのときの感想としては、じつは柄谷行人がなんでこのようなことを書いているのか、その意味すら私には理解で
きなかった。
大学に入ったばかりの学生であった私にとっては、早すぎる本だったのかもしれない。
後に分析哲学における「W・O・V・クワイン」の論文を読むようになり、ようやうく柄谷氏があの本で書きたか
ったことの一部が理解できたのだが、同時にクワインによる「翻訳の不可能性」という論文があるのだが、それを
知ってしまうと、柄谷行人がわざわざ翻訳を繰り返しながらそれらの文が違ってくることに対して述べていたこと
が、非常に稚拙な行為に思えてならなくなってきた。
以来、私の柄谷行人への評価とういうものも、だだ下がり状態にいっていって、本書『トランスクリティーク』と
いうおそらく彼の「代表作」のひとつとして考えられる本書をまた読み返してみても、不満が募るばかりだった。
柄谷行人は現在でも「マルクス」にこだわり、彼の「社会主義理想」というものは収まるどころか、「絶対的なもの」
として彼の中で君臨しているようであるのは、柄谷行人の熱心な読者であれば、理解できることだと思う。
それが「特殊な集団」を目指していても、「アソシエーション」であっても何でも構わないのであるけれども、柄谷
行人には肝心な視点がいつも欠落していると思うのだ。
それは「独裁者」という問題についてである。
社会の理想を語るのはいい、しかしいかなる社会においても「独裁者」がその国に誕生してしまったとしたら、その
国はどうなるであろうか。
特段の「例」をわざわざ挙げる「必要」すらないであろう。
しかし彼は、昔から、そして今でも、その問題からは完全に「逃避」している。
もちろんこの問題は柄谷行人と友人関係でもある「スラヴォイ・ジジェク」にも当てはまることだ。
科学技術の進歩がある程度の水準に達したとき、その時点で「独裁者」がいる国家の国民は、はたして「幸福」など
というものがあるのだろうか。
独裁者は自分が「独裁者」でいるために、科学技術を徹底的に使用することだろう。
中国の都市部にはどれだけの高画質な監視カメラが設置させれているだろうか。
その数はあくまでも都市部だけで、軽く「億」の数を超えるのだ。
これは「保守と革新」、「左翼と右翼」などというほとんど腐りかけたような「対立図式」とは全く関係なく、どの
ような政党であれ「独裁者」を置いてしまうということは、まさにそうした厳しい「監視社会」が到来するということ
に他ならない。
『日本精神分析』という著作にも開いた口が塞がらなかったのだが、このミレニアルの出発点にもなった本書も、救い
ようがないくらいに盲目的な本であった。
なぜ「それ」だったのかは私にもよく分からないが、とにかく私の周りでは読まれて本だったというのがおそらく
本を買って読んだ理由だったように思う。
そのときの感想としては、じつは柄谷行人がなんでこのようなことを書いているのか、その意味すら私には理解で
きなかった。
大学に入ったばかりの学生であった私にとっては、早すぎる本だったのかもしれない。
後に分析哲学における「W・O・V・クワイン」の論文を読むようになり、ようやうく柄谷氏があの本で書きたか
ったことの一部が理解できたのだが、同時にクワインによる「翻訳の不可能性」という論文があるのだが、それを
知ってしまうと、柄谷行人がわざわざ翻訳を繰り返しながらそれらの文が違ってくることに対して述べていたこと
が、非常に稚拙な行為に思えてならなくなってきた。
以来、私の柄谷行人への評価とういうものも、だだ下がり状態にいっていって、本書『トランスクリティーク』と
いうおそらく彼の「代表作」のひとつとして考えられる本書をまた読み返してみても、不満が募るばかりだった。
柄谷行人は現在でも「マルクス」にこだわり、彼の「社会主義理想」というものは収まるどころか、「絶対的なもの」
として彼の中で君臨しているようであるのは、柄谷行人の熱心な読者であれば、理解できることだと思う。
それが「特殊な集団」を目指していても、「アソシエーション」であっても何でも構わないのであるけれども、柄谷
行人には肝心な視点がいつも欠落していると思うのだ。
それは「独裁者」という問題についてである。
社会の理想を語るのはいい、しかしいかなる社会においても「独裁者」がその国に誕生してしまったとしたら、その
国はどうなるであろうか。
特段の「例」をわざわざ挙げる「必要」すらないであろう。
しかし彼は、昔から、そして今でも、その問題からは完全に「逃避」している。
もちろんこの問題は柄谷行人と友人関係でもある「スラヴォイ・ジジェク」にも当てはまることだ。
科学技術の進歩がある程度の水準に達したとき、その時点で「独裁者」がいる国家の国民は、はたして「幸福」など
というものがあるのだろうか。
独裁者は自分が「独裁者」でいるために、科学技術を徹底的に使用することだろう。
中国の都市部にはどれだけの高画質な監視カメラが設置させれているだろうか。
その数はあくまでも都市部だけで、軽く「億」の数を超えるのだ。
これは「保守と革新」、「左翼と右翼」などというほとんど腐りかけたような「対立図式」とは全く関係なく、どの
ような政党であれ「独裁者」を置いてしまうということは、まさにそうした厳しい「監視社会」が到来するということ
に他ならない。
『日本精神分析』という著作にも開いた口が塞がらなかったのだが、このミレニアルの出発点にもなった本書も、救い
ようがないくらいに盲目的な本であった。
2003年7月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本はここ二百年の社会思想を総括すると同時に、今後のあるべき社会の姿を照らし出すと言う意味で、必読、必携の書である。特に、マルクスを扱った後半よりも、前半のカントの部分が、LETS(地域交換取引制度)の持つ可能性を「純」理論的に指し示しているという意味で重要である。そして通読することで、イントロダクションと終章におけるLETSに触れた記述部分の印象が全く変わるだろう。その意味で、この書自体が「視差」(カント)の問題を提示しているのだ。資本の自己増殖に対抗するLETS(=他者とのtranscoding)の可能性は、この書によってはじめてその歴史的意義を明確にされたと言える。満を持して発刊された英語版の原書として、また、DJ的な引用が「作品」を可能にすることを証明した書としても、たとえ今後改稿されたとしてもこの書の持つ歴史的かつ実践的価値は不変だろう。プルードン(=相互主義)の再評価の嚆矢と云う面も思想史的には指摘できるかも知れない。本書はあらゆる矛盾(二律背反)の「間」に立つ現代人にとっての理論的指標であり続けている。
付記:
現代文庫版『トランスクリティーク』正誤表:(確定的なものに限定)
冒頭は定本番頁数。()内が現代文庫版頁数。
定本181頁.9行目,『実践理性批判』→『道徳形而上学原論』(175未訂正)
270.13,「G-M-G'」→「G-W-G'」(263未)
385.14,15,(p'=m'v/c)→p'=m'v/C (375未)
これはp'=m'v/Cが正しい(Cは小文字ではなくて大文字)。
マルクスは『資本論』第三巻第三章冒頭で可変資本と不変資本の合計(v+c)としてC(大文字〜総資本「C」)の記号を使っている。
413.2,「ロバート・ウィーナー」→「ノーバート・ウィーナー」(403未)
413.14,「第五巻」→「第6巻」(403未)
418.10,「第三章註」→「第一章三節註」(408未)
478.5,Herman→Hermann(466未)
479.16,『自己批判の基礎』→『自己批判の要素』(468未)
491.17,『生産表』→『経済表』(481未)
495.2,『言葉の金使い』→『言語の金使い』(484未)
500.8,「ホジキンス」→「ホジスキン」(489未)
付記:
現代文庫版『トランスクリティーク』正誤表:(確定的なものに限定)
冒頭は定本番頁数。()内が現代文庫版頁数。
定本181頁.9行目,『実践理性批判』→『道徳形而上学原論』(175未訂正)
270.13,「G-M-G'」→「G-W-G'」(263未)
385.14,15,(p'=m'v/c)→p'=m'v/C (375未)
これはp'=m'v/Cが正しい(Cは小文字ではなくて大文字)。
マルクスは『資本論』第三巻第三章冒頭で可変資本と不変資本の合計(v+c)としてC(大文字〜総資本「C」)の記号を使っている。
413.2,「ロバート・ウィーナー」→「ノーバート・ウィーナー」(403未)
413.14,「第五巻」→「第6巻」(403未)
418.10,「第三章註」→「第一章三節註」(408未)
478.5,Herman→Hermann(466未)
479.16,『自己批判の基礎』→『自己批判の要素』(468未)
491.17,『生産表』→『経済表』(481未)
495.2,『言葉の金使い』→『言語の金使い』(484未)
500.8,「ホジキンス」→「ホジスキン」(489未)
2017年11月29日に日本でレビュー済み
柄谷が毎日新聞のinterviewで
憲法9条を養護したんで大将も大人になった。円熟したと言うべきか。彼は元はブントでありもともとマルクス主義者。彼が珍しく青春時代を回顧したエッセーでブントが崩壊して木下は革共同に入ったが俺は入らなかった。木下は経済学部の友人?大阪市出身の革マル派最高幹部の木下ひろしさんである。柄谷は姫路だから関西人同士。柄谷と違い温厚で私みたいなしたっぱにも丁寧に話しマシュマロをもらって東大闘争を戦う決心をした。ふたりが再会した事はないと思います。
憲法9条を養護したんで大将も大人になった。円熟したと言うべきか。彼は元はブントでありもともとマルクス主義者。彼が珍しく青春時代を回顧したエッセーでブントが崩壊して木下は革共同に入ったが俺は入らなかった。木下は経済学部の友人?大阪市出身の革マル派最高幹部の木下ひろしさんである。柄谷は姫路だから関西人同士。柄谷と違い温厚で私みたいなしたっぱにも丁寧に話しマシュマロをもらって東大闘争を戦う決心をした。ふたりが再会した事はないと思います。
2015年3月29日に日本でレビュー済み
柄谷行人氏の評論には啓発されるところが多く、思想界の巨人として高く評価されています。今回の作品はその中でも最高峰に位置する名著ではないかと思われます。「トランスクリティーク」とは、カントからマルクスを読み、マルクスからカントを横断的に読むという著者独自の大胆な試みです。政治思想的には、カントとマルクスにとって人間社会の根幹をなす単位として独立小生産者の協同組合(アソシエーション)があることに注目し、著者独自のアソシエーション論を構成する理論的根拠としてカントとマルクスの思想をふり返る意図が込められています。そして柄谷氏は資本主義の限界の彼方にアソシエーション論を求めるのです。そういうわけで、実践のための理論として、カントとマルクスの著者独自の読解にポイントがあるのですが、本書の最大の難点は自己の視線と他者の視線、両者の「視差」をどのように理解するかという点にあります。柄谷氏は自己を写した鏡に「視差」を喩え、自己の鏡像に対して自己は違和感を感じるが、他者はそれを客観として受け止めるのであって、鏡像こそ自己の客観であることを自己はどのように認識すればよいか、また他者との「視差」をどのように理論化すればよいかということを徹底して論じていきます。カントにとって自己の認識と他者の認識のずれ=「視差」とは、自己は現象として現れた知覚を客観として認識することはできないとカントは捉え、物自体は知覚を触発するが認識の対象にはならないのに対し、他者の認識によれば、知覚として認識された対象には客観としての物自体が含まれている、いやむしろ物自体そのものであるという「視差」になるのではないかということです。この視差をカントはアプリオリな悟性カテゴリーを駆使しても、純粋理性はアンチノミーに陥り、神の存在証明については説明することができませんでした。一方マルクスは、下部構造が上部構造を規定するという史的唯物論を駆使して資本主義的生産様式の構造を分析し、限界を指摘しましたが、「下部構造」と捉えたマルクスの資本主義的生産様式には人間の欲望と社会的関係性という下部構造には収まりきれない構造が含まれていた。これがマルクスと他者の「視差」として存在する。こうした「視差」について柄谷氏はカントとマルクスを横断する思考を駆使して徹底的に論究しようと試みた。だとすれば、このような思考は従来にはない画期的・独創的な思考です。著者の思考と説明は難解で、読者は何度も思考の袋小路に陥ることは避けられないのですが、その度に何度でも挑戦するだけの独創性と価値を備えた書物が本書であると確信します。一般的読者のために執筆したという本書の読解を思想に関心あるすべての人に勧めます。
2004年10月21日に日本でレビュー済み
カントの部とマルクスの部に分かれる。わたしはカントについて興味があって読んだ。
著者は,物自体が他者である,ということの立証に勢力を傾注している。
社会改革のための理論にとって,すべてが主観性に塗りつぶされることなく,健全な他者が規定されていることが,大切だと著者が考えるからだ。
物自体は他者であるが絶対的な他者ではなく,相対的な,われわれの周囲にいるような他者だそうだ。
絶対的と相対的の区別にこだわるのは,絶対的他者だと神様になってしまうが,著者はこれが気に入らないからだ。
この区別についての評価は人それぞれだろう。
ところで,理論のなかに相対的他者がみつかるということと,生活のなかでお互いにいたわり合いながら暮らすということは,残念ながらほとんど関係がない。
他者,他者とこだわって書きつのればつのるほど,書いているところの「自者」がくっきりしてくるのは,いかんともしがたい。
著者は,物自体が他者である,ということの立証に勢力を傾注している。
社会改革のための理論にとって,すべてが主観性に塗りつぶされることなく,健全な他者が規定されていることが,大切だと著者が考えるからだ。
物自体は他者であるが絶対的な他者ではなく,相対的な,われわれの周囲にいるような他者だそうだ。
絶対的と相対的の区別にこだわるのは,絶対的他者だと神様になってしまうが,著者はこれが気に入らないからだ。
この区別についての評価は人それぞれだろう。
ところで,理論のなかに相対的他者がみつかるということと,生活のなかでお互いにいたわり合いながら暮らすということは,残念ながらほとんど関係がない。
他者,他者とこだわって書きつのればつのるほど,書いているところの「自者」がくっきりしてくるのは,いかんともしがたい。