特に納得できたのが、
・脳と意識の関係は他のどんな関係にも似ていない
・意識はたまたま私秘性を持つのではなく、むしろ私秘性を実体化したものが意識である
意識っていうのは私秘的なもので、結局他人にそれがあるかどうか、絶対わからない。
私にとって知りうるのは、自分の意識だけで、他の意識のあり方は絶対わからない、
というより、わかってしまうものはもう意識ではない。
現象判断のパラドックスはパラドックスでもなんでもない。
しかし、本当に意識というものは不思議なものであるなぁ、という気にはなった。
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改訂版 なぜ意識は実在しないのか (岩波現代文庫) 文庫 – 2016/6/17
永井 均
(著)
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誰にでもあるとされている「意識」や「心」とはいったい何だろう? そもそも、それは本当に実在しているのだろうか? 古くから謎とされてきたこの難問に、著者独自の独在論と言語哲学・分析哲学のアプローチから挑む。親しみやすい講義形式で好評の単行本版の内容をさらに新しくし、深化させた永井ワールドを伝える全面改定版。
- 本の長さ208ページ
- 言語日本語
- 出版社岩波書店
- 発売日2016/6/17
- 寸法10.5 x 0.9 x 14.8 cm
- ISBN-104006003501
- ISBN-13978-4006003500
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登録情報
- 出版社 : 岩波書店; 改訂版 (2016/6/17)
- 発売日 : 2016/6/17
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 208ページ
- ISBN-10 : 4006003501
- ISBN-13 : 978-4006003500
- 寸法 : 10.5 x 0.9 x 14.8 cm
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2018年12月8日に日本でレビュー済み
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著者自身の問題意識をまっすぐに追及しているということで、もっと高評価をつけるべきかもしれない。しかし意識の哲学が何を問題にしているかを十分に読み込まないまま批判していることをもって、辛い点をつける。なぜ読み込めていないのかというと、著者の態度が間違っているからだと思う
人がたとえば絶対的な孤独のうちに暮らす限り、意識の存在は問題にならない。しかし他人とかかわりあい、言語を通じて累進構造を発見するに至り、意識の存在が問題となる。しかしそれは疑似問題である。この通りかどうかわからないが、そういう趣旨のあるものとして読んだ。
しかし意識の存在が言語による世界構築に付随する疑似問題であるなら、累進構造も疑似的なものではないか。とりあえず、ここまでのことは誰もが感じることだろう。これに対する永井氏の反応は、おまえは問題を読み切れていない、というものになるだろう。だが私は永井氏の論説が哲学的に重大なものであるとはとても思えない。私の理解力不足ということを一応の前提として、なんというか、仄めかしばかりで、まっすぐに提示してくれないということもあるのではないか
何を疑問に感じるかを、あらかじめ読者に強要する点に、違和感があった。マクタガートの時間論の翻訳と解説で、あの本を認めない人には哲学の何たるかがわからないという決めつけに、私は不信感を持つ。あの本はさすがに時間の本質を全く外した議論であり、無価値であると思うので、永井氏の見解も相応に的外れであると感じる
マクタガートの時間論は複雑にすぎて、時間の普遍性を説明できない。即ちいかなる物体も時間×速度で到達距離を正確に予測できる、そして裏切られることも例外もないということの理由がわからない。世界が累進構造を持つなら、無数の分岐があってしかるべきだが、皆一様に時間を経る。なぜ客体についてはかくも単調であるのか。永井氏の言う累進構造が、人間の頭の中でのみ実現しているからである。それを私たちは妄想と呼ぶ。これは氏の理屈が、ではなく、どうにでもなるという理論の在り方に対する形容である。なぜマクタガートの論文が多くの哲学者に無視されたかというと、一読無意味であることが明らかであるからだと思う
意識の累進構造も、すべてイマジナリーなものである。だから語るに値しない、とは言わない。人間はそうしたものに促されて行動するものであるから、心理学に還元する意図があるなら有益な研究であろう。しかし氏はそういう限定をつけていない
他の意見を「それは累進構造を無視しているから間違いである」という形で批判するのは正しい戦略でありうる。蓋し累進構造とは間違ったテクスト内でのみ問題になるからである。時間についてイマジナリーなものを評価することは全くの無駄であるが、こちらは単純に言えない。この本でも実際に批判の手段として使われており、私はそれを排する目的であるとその時は思ったが、どうもそうではなく、積極的に世界の構造として認めていくつもりらしい。『世界の独在論的存在構造』において更に展開されているらしいので、確定的なことは言えないが、この本から読み取れる限りにおいては、氏の関心に哲学的意味はない、と反対するしかない。それはテクスト批判の道具であり、独立した世界観にはなりえないからだ
中でトマス・ネーゲルのwhat is it like to be a bat?について批判しており、コウモリの意識が理解できないのであれば隣人の意識だって理解できないはずではないかと、いささか詰問口調で言っておられるが、まさにそれこそがネーゲルのいいたいことだったろう。ただ人間を出すよりコウモリの方がすっきりとすると思っただけである。言いたいことが他の人にはそのまま反論として使えるような気がする。哲学ではよくあることだ
例えばデカルトの意識と私のそれとでは、意識という言葉でくくれる程度には似ているが、逆に、同じであるということに躊躇を感じる程度には別物である。違う個体であるということではなく、知識内容の違いでもなく、構造も働き方も全然(というと大げさだが)異なる。それは赤いものを見た場合、ある人は脳のABCの部分が励起し、別の人はBDEがこの体験に対応するという最新の知識からも明らかである
少々誇張するなら、私とデカルトとの違いは、私とコウモリとの違いとあまり径庭がない。ここは個人の感想だから、永井氏が私とは別の感じ方を持つのは構わないが、「なぜ私はデカルトではなく私なのか」という問題意識は「なぜ私はコウモリではないのか」「なぜ私はアノマロカリスではないのか」さらには「あの石ころではないのか」という問題意識と同程度の哲学的意味しか持たないと私は感じる。後者をばからしいと感じるなら、前者も同様である
百歩譲って、言語を交わしうる人間のみに限定して、なぜ私は他の誰でもなくこの私なのかという問いは、意識のみ交換可能であることを暗々裏に前提している。七十億のゾンビがいて、たまたまその中の一体に私という意識が宿る、そういう世界観の中でのみ意味を成す問いではなかろうか
つまりこれは面白い空想と呼ぶべきものではなかろうか。小さいころ私はミミズになったらどんな気持ちだろうとか、カマキリにむしゃむしゃやられるバッタになりきった気分で、つらいと思ったりしたものだ。あるいは、なろう系の小説を読む人は、他人への成り変わりを楽しむわけだが、そこに哲学的に深い意味はない。それらは娯楽である
なぜ今という時間にのみ世界が豊かに開かれているのかという問いには、ではすべての時間について豊に開けているべきものなのかと反問できる。過去も含めてすべての人の中で、なぜこの私にのみ特権的に豊かな世界が開けているのかということには、ではすべての人が共有できる万能の視点があるべきなのかと問い返せる。二つの問題意識を合わせると、なぜ私は全能の神ではないのか、という疑問に収まってしまうのではないか。それは哲学ではなく暇人の空想である
意識の累進構造における他者の位置も、明確にイマジナリーなものである。一体それは誰を指すのか。個人なのか集合体なのか。アノマロカリスはそこに含まれるのか。石ころは? この点で、前出のネーゲルのエッセイにヒントがある。「我々はコウモリの内的体験を、私たち自身の体験をもとにぼんやりと推測するのみである」。即ち累進構造における他者とは、私を外から見たらこんな風なんだろうなという、はなはだ適当な想像だ。他者という一般存在などありはしない
それとは別に、意識の哲学への誤読は防いでおくべきだろう。氏は非常に影響力の大きい人なので、傾倒者が軽い読みをそのまま引き継ぐ可能性は高いと思う
例えばメアリの部屋への反論をいくつも読んできたが、どれも同じ形をしている。赤という体験を知識としてメアリに移動可能であるとするもの、メアリの脳内に赤の体験と同じ形を作り出すもの。もちろんそういうことができないというための思考実験なのだから、説得力があるとはとても言えない。だが反論者も元のエッセイに説得力を感じないのだろう。なお、メアリがゾンビであったらという氏の想定は、ゾンビが成立しないと自分で言うのだからもとより論外である
赤という体験をしている人と同じ脳内状態を人工的に作り出しても、それは別物として認識される。それを言うのがbrain in the vatの思考実験に対するパトナムのコメントである。それらを説得的と感ずるかどうかは、実は問題ではない、と言ってしまっていいものか
永井氏は、意識とは何かを問う哲学が、根本のところで何を問題にしているかを読み切れていないと思う。その核心は「何もないのではなく、なぜ何かが存在するのか」という問いである。ハイデガーが改めて言い直したことで、実存主義の文脈で理解されてしまう、つまりいささか非合理な問題設定であると取られてしまうが、分析哲学の内部でも維持されてきた、最も古い問いである
意識は脳内過程ではない、というわかりやすい主張のせいで、科学主義への反発とみなされやすい。あるいはデカルトの図式が有名すぎて、いしきの有無を問題にしていると単純化される。ではあるが、宇宙は永劫に暗黒であってもよいのに、なぜ物があるという認識が生まれたのか、なぜ無ではなく何かがあるのか、そういう根源的な謎への挑戦が、意識の哲学の共通理解ではなかろうか。もちろん無謀な問いであるから、ばからしいと頭から拒否してもよい。ただ、そういう文脈のものであるということで理解はしてほしい
意識は脳内過程ではないという還元論の拒否、これは何を意味するのか。単純な反論と取られやすいが、本当のところ、還元論が成立しても問題は残るという言い方が望ましかった。すなわちAがBに還元されるという場合、たいていの問題は両者を巻き込む形で起きるが、Aの内部でのみ生じる問題もある、あるいは還元が成立するということそのものが問題であるということだ。だって激しい分子運動と熱さは違うし、c-fiberの発火と熱いという感覚も違うものなのだから。しかし意識の哲学を科学への冒涜ととるクリック、デネットあるいはドーキンスらの攻撃に身構えすぎたところもあるだろう。本題に入る前の準備段階でぼこぼこになってしまった、というところだ
変な話だが、意識の哲学は最初から失敗するものと決まっている。実際に穴だらけで、批判はどうにでも可能だ。特にこの本で論じられるチャーマーズなど、論を多方面に広げすぎて、誰でも一読どこかおかしいと思わせるはずである。しかし彼がなぜゾンビなどというものを持ち出したのか、理由ははっきりしている。我々は自動機械やゾンビのように、全く世界を存在するものと認識せず、ただ適切に反応する物体でもよかったはずなのに、すなわち世界は暗黒のままであっても構わなかったのに、なぜか「何かが存在する」と認識するものが現れた。その謎を投げかけるためである
私たちは確かに何かが存在すると知っている。したがって意識はある。理論の文脈次第であったりなかったりする、ということは絶対にない。私が、永井氏の哲学に多少の不満を感ずるゆえんである
人がたとえば絶対的な孤独のうちに暮らす限り、意識の存在は問題にならない。しかし他人とかかわりあい、言語を通じて累進構造を発見するに至り、意識の存在が問題となる。しかしそれは疑似問題である。この通りかどうかわからないが、そういう趣旨のあるものとして読んだ。
しかし意識の存在が言語による世界構築に付随する疑似問題であるなら、累進構造も疑似的なものではないか。とりあえず、ここまでのことは誰もが感じることだろう。これに対する永井氏の反応は、おまえは問題を読み切れていない、というものになるだろう。だが私は永井氏の論説が哲学的に重大なものであるとはとても思えない。私の理解力不足ということを一応の前提として、なんというか、仄めかしばかりで、まっすぐに提示してくれないということもあるのではないか
何を疑問に感じるかを、あらかじめ読者に強要する点に、違和感があった。マクタガートの時間論の翻訳と解説で、あの本を認めない人には哲学の何たるかがわからないという決めつけに、私は不信感を持つ。あの本はさすがに時間の本質を全く外した議論であり、無価値であると思うので、永井氏の見解も相応に的外れであると感じる
マクタガートの時間論は複雑にすぎて、時間の普遍性を説明できない。即ちいかなる物体も時間×速度で到達距離を正確に予測できる、そして裏切られることも例外もないということの理由がわからない。世界が累進構造を持つなら、無数の分岐があってしかるべきだが、皆一様に時間を経る。なぜ客体についてはかくも単調であるのか。永井氏の言う累進構造が、人間の頭の中でのみ実現しているからである。それを私たちは妄想と呼ぶ。これは氏の理屈が、ではなく、どうにでもなるという理論の在り方に対する形容である。なぜマクタガートの論文が多くの哲学者に無視されたかというと、一読無意味であることが明らかであるからだと思う
意識の累進構造も、すべてイマジナリーなものである。だから語るに値しない、とは言わない。人間はそうしたものに促されて行動するものであるから、心理学に還元する意図があるなら有益な研究であろう。しかし氏はそういう限定をつけていない
他の意見を「それは累進構造を無視しているから間違いである」という形で批判するのは正しい戦略でありうる。蓋し累進構造とは間違ったテクスト内でのみ問題になるからである。時間についてイマジナリーなものを評価することは全くの無駄であるが、こちらは単純に言えない。この本でも実際に批判の手段として使われており、私はそれを排する目的であるとその時は思ったが、どうもそうではなく、積極的に世界の構造として認めていくつもりらしい。『世界の独在論的存在構造』において更に展開されているらしいので、確定的なことは言えないが、この本から読み取れる限りにおいては、氏の関心に哲学的意味はない、と反対するしかない。それはテクスト批判の道具であり、独立した世界観にはなりえないからだ
中でトマス・ネーゲルのwhat is it like to be a bat?について批判しており、コウモリの意識が理解できないのであれば隣人の意識だって理解できないはずではないかと、いささか詰問口調で言っておられるが、まさにそれこそがネーゲルのいいたいことだったろう。ただ人間を出すよりコウモリの方がすっきりとすると思っただけである。言いたいことが他の人にはそのまま反論として使えるような気がする。哲学ではよくあることだ
例えばデカルトの意識と私のそれとでは、意識という言葉でくくれる程度には似ているが、逆に、同じであるということに躊躇を感じる程度には別物である。違う個体であるということではなく、知識内容の違いでもなく、構造も働き方も全然(というと大げさだが)異なる。それは赤いものを見た場合、ある人は脳のABCの部分が励起し、別の人はBDEがこの体験に対応するという最新の知識からも明らかである
少々誇張するなら、私とデカルトとの違いは、私とコウモリとの違いとあまり径庭がない。ここは個人の感想だから、永井氏が私とは別の感じ方を持つのは構わないが、「なぜ私はデカルトではなく私なのか」という問題意識は「なぜ私はコウモリではないのか」「なぜ私はアノマロカリスではないのか」さらには「あの石ころではないのか」という問題意識と同程度の哲学的意味しか持たないと私は感じる。後者をばからしいと感じるなら、前者も同様である
百歩譲って、言語を交わしうる人間のみに限定して、なぜ私は他の誰でもなくこの私なのかという問いは、意識のみ交換可能であることを暗々裏に前提している。七十億のゾンビがいて、たまたまその中の一体に私という意識が宿る、そういう世界観の中でのみ意味を成す問いではなかろうか
つまりこれは面白い空想と呼ぶべきものではなかろうか。小さいころ私はミミズになったらどんな気持ちだろうとか、カマキリにむしゃむしゃやられるバッタになりきった気分で、つらいと思ったりしたものだ。あるいは、なろう系の小説を読む人は、他人への成り変わりを楽しむわけだが、そこに哲学的に深い意味はない。それらは娯楽である
なぜ今という時間にのみ世界が豊かに開かれているのかという問いには、ではすべての時間について豊に開けているべきものなのかと反問できる。過去も含めてすべての人の中で、なぜこの私にのみ特権的に豊かな世界が開けているのかということには、ではすべての人が共有できる万能の視点があるべきなのかと問い返せる。二つの問題意識を合わせると、なぜ私は全能の神ではないのか、という疑問に収まってしまうのではないか。それは哲学ではなく暇人の空想である
意識の累進構造における他者の位置も、明確にイマジナリーなものである。一体それは誰を指すのか。個人なのか集合体なのか。アノマロカリスはそこに含まれるのか。石ころは? この点で、前出のネーゲルのエッセイにヒントがある。「我々はコウモリの内的体験を、私たち自身の体験をもとにぼんやりと推測するのみである」。即ち累進構造における他者とは、私を外から見たらこんな風なんだろうなという、はなはだ適当な想像だ。他者という一般存在などありはしない
それとは別に、意識の哲学への誤読は防いでおくべきだろう。氏は非常に影響力の大きい人なので、傾倒者が軽い読みをそのまま引き継ぐ可能性は高いと思う
例えばメアリの部屋への反論をいくつも読んできたが、どれも同じ形をしている。赤という体験を知識としてメアリに移動可能であるとするもの、メアリの脳内に赤の体験と同じ形を作り出すもの。もちろんそういうことができないというための思考実験なのだから、説得力があるとはとても言えない。だが反論者も元のエッセイに説得力を感じないのだろう。なお、メアリがゾンビであったらという氏の想定は、ゾンビが成立しないと自分で言うのだからもとより論外である
赤という体験をしている人と同じ脳内状態を人工的に作り出しても、それは別物として認識される。それを言うのがbrain in the vatの思考実験に対するパトナムのコメントである。それらを説得的と感ずるかどうかは、実は問題ではない、と言ってしまっていいものか
永井氏は、意識とは何かを問う哲学が、根本のところで何を問題にしているかを読み切れていないと思う。その核心は「何もないのではなく、なぜ何かが存在するのか」という問いである。ハイデガーが改めて言い直したことで、実存主義の文脈で理解されてしまう、つまりいささか非合理な問題設定であると取られてしまうが、分析哲学の内部でも維持されてきた、最も古い問いである
意識は脳内過程ではない、というわかりやすい主張のせいで、科学主義への反発とみなされやすい。あるいはデカルトの図式が有名すぎて、いしきの有無を問題にしていると単純化される。ではあるが、宇宙は永劫に暗黒であってもよいのに、なぜ物があるという認識が生まれたのか、なぜ無ではなく何かがあるのか、そういう根源的な謎への挑戦が、意識の哲学の共通理解ではなかろうか。もちろん無謀な問いであるから、ばからしいと頭から拒否してもよい。ただ、そういう文脈のものであるということで理解はしてほしい
意識は脳内過程ではないという還元論の拒否、これは何を意味するのか。単純な反論と取られやすいが、本当のところ、還元論が成立しても問題は残るという言い方が望ましかった。すなわちAがBに還元されるという場合、たいていの問題は両者を巻き込む形で起きるが、Aの内部でのみ生じる問題もある、あるいは還元が成立するということそのものが問題であるということだ。だって激しい分子運動と熱さは違うし、c-fiberの発火と熱いという感覚も違うものなのだから。しかし意識の哲学を科学への冒涜ととるクリック、デネットあるいはドーキンスらの攻撃に身構えすぎたところもあるだろう。本題に入る前の準備段階でぼこぼこになってしまった、というところだ
変な話だが、意識の哲学は最初から失敗するものと決まっている。実際に穴だらけで、批判はどうにでも可能だ。特にこの本で論じられるチャーマーズなど、論を多方面に広げすぎて、誰でも一読どこかおかしいと思わせるはずである。しかし彼がなぜゾンビなどというものを持ち出したのか、理由ははっきりしている。我々は自動機械やゾンビのように、全く世界を存在するものと認識せず、ただ適切に反応する物体でもよかったはずなのに、すなわち世界は暗黒のままであっても構わなかったのに、なぜか「何かが存在する」と認識するものが現れた。その謎を投げかけるためである
私たちは確かに何かが存在すると知っている。したがって意識はある。理論の文脈次第であったりなかったりする、ということは絶対にない。私が、永井氏の哲学に多少の不満を感ずるゆえんである
2020年5月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
何かの講演の記録のような構成です。
結局、標題の解答が得られないような印象を持ちました。
医学や科学的検証に基づく論議をしてほしいところです。
結局、標題の解答が得られないような印象を持ちました。
医学や科学的検証に基づく論議をしてほしいところです。
2023年3月15日に日本でレビュー済み
この本の存在はいつもずっと気になっていて、またいつか、と思っていました。それがたった今ですが、本のタイトルの意味が初めてわかりました。近いうちに読ませていただくことになるでしょう。☆5つです。
2018年11月5日に日本でレビュー済み
2007年に刊行され、2016年に改訂版刊行。著者は日本大学哲学科教授(当時)。
曰く・・・
水の本体がじつはH2Oで、あの水っぽさはその本体がたまたまもつ性質にすぎない。そうすると、まったく水のように見えてもH2Oでないがゆえにじつは水ではないもの、水のようにみえなくてもH2Oだからじつは水であるってことも可能になる。
世界の中に客観的に存在している人間というものがそれぞれ意識というものをもっている。不思議なことに脳という物理的なものがそれを作り出している。いったいその関係はどうなっているのか。このような問題の立て方は正しい。しかし、その正しさに、それが正しいという世界把握にわれわれはどのように到達するか、到達しているのか、それを明らかにするのが哲学の課題。
相手の言語を解釈するというときには、むしろ相手を一個の「私」とみなす操作が根本的に前提されている。私自身の使う「私」という表現をその水準まで落とす。そのことで「私」という語の相互翻訳が可能となる。
ある人の色彩体験の有無を問題にするとき、その人が外界から刺激を受けたかどうか、そしてある処理の仕方をしたかどうか、を問題にしているのではない。その人が色彩感覚を体験しているかどうかを問題にしているのであって、これははっきりと別の問題である(チャーマーズ)。
意識とは実在するものではなく、「現象的」と「心理的」の対比からその累進構造を取り去って、あたかも「現象的」なもの一般が実在するかのように想定することによって得られる高度に抽象的な構成概念である。
さそり座の人はゾンビだと信じられている世界では、さそり座の人は自分はゾンビだと自認して一生を過ごすことが可能。その可能性の成立こそが自立的な「意識」概念の完成を意味する。
哲学的に「幼い」といわれるようなことをはっきり言ってくれた哲学者というのは、哲学者としてはとても偉い。誰かが自分の幼い直観を思い切って語り出さなければ、哲学は結局、学力自慢の秀才たちの手でどこまでも無駄に複雑なものになり続けるだけ。哲学業界全体を敵に回す勇気がなければ哲学なんてできるわけがない。
などなど。
曰く・・・
水の本体がじつはH2Oで、あの水っぽさはその本体がたまたまもつ性質にすぎない。そうすると、まったく水のように見えてもH2Oでないがゆえにじつは水ではないもの、水のようにみえなくてもH2Oだからじつは水であるってことも可能になる。
世界の中に客観的に存在している人間というものがそれぞれ意識というものをもっている。不思議なことに脳という物理的なものがそれを作り出している。いったいその関係はどうなっているのか。このような問題の立て方は正しい。しかし、その正しさに、それが正しいという世界把握にわれわれはどのように到達するか、到達しているのか、それを明らかにするのが哲学の課題。
相手の言語を解釈するというときには、むしろ相手を一個の「私」とみなす操作が根本的に前提されている。私自身の使う「私」という表現をその水準まで落とす。そのことで「私」という語の相互翻訳が可能となる。
ある人の色彩体験の有無を問題にするとき、その人が外界から刺激を受けたかどうか、そしてある処理の仕方をしたかどうか、を問題にしているのではない。その人が色彩感覚を体験しているかどうかを問題にしているのであって、これははっきりと別の問題である(チャーマーズ)。
意識とは実在するものではなく、「現象的」と「心理的」の対比からその累進構造を取り去って、あたかも「現象的」なもの一般が実在するかのように想定することによって得られる高度に抽象的な構成概念である。
さそり座の人はゾンビだと信じられている世界では、さそり座の人は自分はゾンビだと自認して一生を過ごすことが可能。その可能性の成立こそが自立的な「意識」概念の完成を意味する。
哲学的に「幼い」といわれるようなことをはっきり言ってくれた哲学者というのは、哲学者としてはとても偉い。誰かが自分の幼い直観を思い切って語り出さなければ、哲学は結局、学力自慢の秀才たちの手でどこまでも無駄に複雑なものになり続けるだけ。哲学業界全体を敵に回す勇気がなければ哲学なんてできるわけがない。
などなど。
2017年3月5日に日本でレビュー済み
「今」という言葉の意味がわからなかった。
ずっと永井の本を読んでいてわからなかった「今」やそこから派生する過去や未来という言葉の意味が、オリジナルの『なぜ意識は実在しないのか』を読んでいてはじめて理解できた。心なんてどこにあるんですか?あるのは〝これ〟だけですという表現で、今という言葉の意味が始めてわかった。現にそれだけがある、小さいときからずっと知っていた、むしろ小さい頃の方が良く知っていたものことを。感じることと世界があることが分離していなかったころのことを、そして今も分離していないことを。
『〈私〉の哲学を哲学する』P196、「一番新しい『なぜ意識は実在しないのか』というこの本だけ、私としてはこれまでと違う議論をしているです。何が違うかというと、「意識」というものの特殊な在り方を、現実性の方からその累進性によって逆に説明しようという「野心的」な企てを、ここで初めてやっているんですね。こういう議論は前はしてないです。してないというか、前は普通の意味で心とかそういうものがみんなにあるという常識をむしろ認めて・・・・・・、その点では独我論とか非常識な考え方は否定して、独我論と言うものが本当に言おうとしてるのあはそういうことじゃないんだと。他人に意識がないかもしれないとか、ゾンビかもしれないじゃかとか、そんなことは関係ないんだということを、むしろ言っていたんですね。
この新しい本ではちょっと違うことを言っているわけです。というのは、そもそも「意識」という概念がどこからできたかということを、強い意味での〈私〉だけがもつ、特別な意味での現実性をもつ「この意識」の方から、それの「この」性の方から、言語の累進させる力みたいなものによって、みんなに概念的に振り分けるみたいな(笑)、そういう議論をやっているんですね。」
現実性の側から?現実性なんてどこにあるんですか?
この本(オリジナル)が画期的だったということは自分にもすぐわかりました。それは今まで永井が前提にしていた入不二の言い方での「座標系」(他の言い方だと世界、時間-人-様相、系列、事象内容、常識、世間等)をそうせず、いかにして座標系が形作られるかを描いていたからです。
永井には比喩的に言って魔術師の側面と手品師の側面があり、素朴(?)に座標系を前提にする哲学を魔術師の哲学とするなら、座標系がいかに作られるのかの種明かしをする哲学は手品師の哲学です。魔術師と手品師は一見するとやっていることが同じですが、実は全然違うことをしています。『意識』は手品師としての永井の嚆矢となる本でした。(このレビューも手品師の観点で書いています。)
『意識』の〝これ〟という表現で自分が理解したのは、現実性などではありませんでした。その時は部屋の壁を見ていましたが、壁ではあっても現実性ではありませんでした。現実性(や独在性)という表現は座標系を前提にすることで、そこからはじきだされるもの(しわよせ)として生まれてくる表現です。その座標系自体がいかに作られるかを描く『意識』で現実性の側から考えるなんてことがあるわけがないので全くのデタラメです。良く言っても論点先・先取りで、順序立てこそに命をかけている『意識』の作者にとって、こんな迷惑な解説はないでしょう。〈現実性〉の側でなく、〝これ〟の側から考えたのが『意識』です。
なにかに異様な権利をむりくり与えておいて(この場合は世界)、その机上の越権をロンダリングする形で別のもの(この場合は私や現実)に与える「越権ロンダリング」の思考の型がここではあらわれています。この考え方は論理哲学論考草稿の運命観(世界と運命という言葉が一つになり、その中で私だけが異物になる)などにもあらわれていて、それ自体には一種の美しさや快感があり、宗教詩など読書の幅が広がるのでおもしろいのですが、『意識』のすごいところは、その種の「しわよせ神秘論」などが持つ一度何かを前提にしておいてという方法を結果的に捨てたことにあります。
たとえば、〝なぜ目が見えていいのか?〟という疑問にこの種の座標系所与論は答えてくれません。〝これ〟を文節化して目が見えるということと世界があるという実在を構成したのですが、その事自体は何かしらの要請からか隠蔽しているからです。これはほんの一例ですが、座標系所与論では疑問が増えるか押しつぶされるだけのことに、〝これ〟の哲学は答えることが可能です。永井は自分にとっての哲学が最終的に公的なものではないと書いたことがありますが、『意識』は逆にその最終地点から書かれた本なのです。今までの本とは決定的に、革新的に変わっています。『翔太と猫のインサイトの夏休み』文庫版P136のデカルトからカントへの、超越論的実在論から超越論的観念論への推移と酷似した変化がここにあると思います。
『哲学の密かな闘い』P238「「神」と「私」とのこの闘争は、どちらを内容的規定性[レアリテート]に貶めるかをめぐる闘争に、逆に言えば、ともあれ理由なく(いや理由どころかそもそも内容的規定なしに!)存在するという格別の地位を、どちらに認めるかをめぐる存在論的闘争に、変形させるのである。」
この段にはブッ飛びました。事象内容(内容的規定)は『〈魂〉に対する態度』などに代表される魔術書では単にそうである、素朴にして侵すべからずの聖域として考察の埒外におかれいたものでした。独在論の事象内容という考え方は理屈ではないので理屈によって変動することなどありえないのです。魔術師として落第ものの記述であるが、手品師としてはむしろ歓迎すべき変化ではある。受け入れがたいものを無理矢理受け入れておいて、あとからそのしわよせに驚いて見せる器用貧乏すぎる独在論なんて、何の意味もないことはあまりにも明らかではないか?…と、手品師は思っているのだから。
『〈魂〉』や『私・今・そして神(の第2章)』に顕著な事象内容を〝素朴にして侵すべからず〟とみなした独在論(魔術師)の本があり、『たまたまの孤独』や『密かな闘い(の第6章)』などに顕著な、一度魔術師の観点から入り最終的に手品師っぽい(つまり独在論を半ば否定するような結論で)終わる本もあるのですが、『意識』は『たまたま』の結論の側から書かれた本です。それ以前は「自然状態(無法地帯)と治外法権」のような卓越した表現をあみだしてもまだ「一方的」な言い方にしかなっていませんでした。
無内包という表現も座標系所与論の用語ですので『意識』のテーマとは全くかち合いません。永井が執筆中に思いつかなかったのが不思議だと言ってましたが、元々そういう思考法と違ったので当たり前です。(ただし、入不二の議論自体は累進構造自体を言語の見せる夢とみなしていて根底に達しているのですが)
もしより細分化するなら第〇次内包でなく第一次内包だと思いました。単に即物的な見方という意味での第一次内包と、座標を前提にしない前言語的世界(前というのは論点先取りです)での第一次内包は分けて書いた方がわかりやすいのではないでしょうか。原初的第一次内包とでも。永井が後期ウィトゲンシュタインイデオロギーは第一次内包を特権化すると言う時のそれは前者の即物内包のことだろうと思います。
原初的第一次内包はそのまま文節化の問題で、『ウィトゲンシュタインの誤診』でL.W.の発言を引用して出した「内的性質」の考察でもあります。
「私にとっては確かに真と思える一つの論点、すなわち、私には肉体的な眼がなくても、あるいは全く肉体がなくともものが見えうるのであって、見えることと肉体的な眼との関係は経験上学んだ事実にすぎず、全然必然性を持たない、という論点については全くはっきりしているように見えた。ただし、「視野」にはある種の内的性質があって…」
この水準での見えることが〝これ〟であり、座標系などは内的性質と呼ばれている分節化のあとに―もし作られるならば!―作られるのであって、ウィトゲンシュタインが座標系の中で着脱できるようなタイプの独我論―独在論―など問題にしていなかったことがあらわれている。
文節化の考察は『西田幾多郎』のメインテーマで、『マンガは哲学する』でも扱われたか扱われるべきものだったでしょう。その辺りにつっこんだ『マンガ』の改訂版か続編は出して欲しいな。
永井は良く哲学の細かさを称揚しますが、この文節化のスケッチほど哲学の偉大な細かさがあらわれるものはありません。マンガや芸術は存在論的水準に達することはできても、この細かさの表現はできないのではないでしょうか? まさにそこで、僕は絶対に自力では上がれないところを永井に持ち上げてもらえた(だから「よくそんなこと知ってるなぁ」という羨望と「なんでそんなこと知ってんだよ」という疑念が同時にあるわけですが)。
それでも、その分節化がどこから始まるかという見極めには大雑把で直感的な場面が必ずある。それが手品師と魔術師の対立点である。―インサイトやブラックジャックの先生に反して、哲学の細かさは、いきなりは始まらない。
ウィトゲンシュタインなら直感や勇気や良心やバターの値上げを言い訳に使うところ、少なくとも言い訳や感情論が必要になるところで、永井は何も言わない。そのことで僕は何か狭いところに閉じ込められたような死んだ気持ちになる。
『意識』の哲学も現実性を問題にすることはできますが、それは問題の―もしあらわれるとしたら―あらわれ方の一つとしてです。これまでの永井哲学は俗な意味での現実を全天球(これ性)とみなして、そこからの逸脱やゆがみやほころびに光をあてるものでした、『意識』では最大限によく言ってもその意味での現実は全立体角中の一点にすぎず、全天はあくまで〝これ〟です。現実全天哲学と現実一角哲学の違いがあり、この違いは果てしなく大きい。〝これ〟がこの通り文節化される必要も、文節化される必要も、文節化されていると見なす(この通りという表現を許す)必要もないからです。このことを自覚してさらに何がしかを語ることができるのは、マルコムが言われた意味で真に公平なことであり、本当にすごいことです。そこにはハンド(サッカーの)でハンドを帳消しにするような、有と有を掛け合わせて無にするような絶技があり、永井のこの本なしでは僕には絶対上がれない場所でした。そんなことできるわけないのに、ガムとチョコを一緒に食べるとどっちも消えてしまうように、それは実際成されていました。風間君の疑問もこの部分にかかっており、『〈私〉今神』では疑問に鈍感すぎることで悪い意味で疑念を深めただけだったのですが、『意識』で永井は始めて答えました。「なぜ言葉で考えていいのか」という風間君の疑問に「ハンド(反則=言葉)」によって。
『マンガは哲学する!』の2匹の兎が合わさるところが『意識』の中にあります。
魔術と手品のこの混同はオリジナルにもありますが、改訂版は元々あった玉の瑕を除去したものでなく、キズがなかったところまでキズを彫りこんでしまった本です。考察の中の道徳の範囲が広がることによって今まで言っていたことが言えなくなっても何も訂正しなかったように、独在性の哲学が最早いえなくなっても訂正する気がないだけなんじゃないでしょうか。
なにかを前提にするということはたとえその否定であろうと前提を強烈に主張することにしかなりません。たとえそれが道(タオ)的な「うっちゃり」のための「ひたりつき」であっても。イデオロギーで出来た都市の郊外に家を買い、そこからの眺めを書くことでしかない。ついでに言うとひたりつくとか何も主張しないという方法も座標系所与論の中でのやり方で、空を飛べるとうそぶくために他の人は背中に羽をつけたりマントを羽織ったりしているのを、永井はそんなことをする必要がない、手放しで良いと言っているだけです。うそをつかなくていいと言っているわけでないのです!うそは手放しでつけるというさらにつよい!イデオロギーがあるだけです。
言語が走る前に敷かれる透明な道路に踏み潰された無数の兎たち、無数で一匹のそして今も目の前にいる、殺せないから生殺しにされる兎が跳びはねる姿を、確かに旧版の『なぜ意識は実在しないのか』で僕は見ました。
『意識』の筆者は永井均を模倣すべきではない。
ずっと永井の本を読んでいてわからなかった「今」やそこから派生する過去や未来という言葉の意味が、オリジナルの『なぜ意識は実在しないのか』を読んでいてはじめて理解できた。心なんてどこにあるんですか?あるのは〝これ〟だけですという表現で、今という言葉の意味が始めてわかった。現にそれだけがある、小さいときからずっと知っていた、むしろ小さい頃の方が良く知っていたものことを。感じることと世界があることが分離していなかったころのことを、そして今も分離していないことを。
『〈私〉の哲学を哲学する』P196、「一番新しい『なぜ意識は実在しないのか』というこの本だけ、私としてはこれまでと違う議論をしているです。何が違うかというと、「意識」というものの特殊な在り方を、現実性の方からその累進性によって逆に説明しようという「野心的」な企てを、ここで初めてやっているんですね。こういう議論は前はしてないです。してないというか、前は普通の意味で心とかそういうものがみんなにあるという常識をむしろ認めて・・・・・・、その点では独我論とか非常識な考え方は否定して、独我論と言うものが本当に言おうとしてるのあはそういうことじゃないんだと。他人に意識がないかもしれないとか、ゾンビかもしれないじゃかとか、そんなことは関係ないんだということを、むしろ言っていたんですね。
この新しい本ではちょっと違うことを言っているわけです。というのは、そもそも「意識」という概念がどこからできたかということを、強い意味での〈私〉だけがもつ、特別な意味での現実性をもつ「この意識」の方から、それの「この」性の方から、言語の累進させる力みたいなものによって、みんなに概念的に振り分けるみたいな(笑)、そういう議論をやっているんですね。」
現実性の側から?現実性なんてどこにあるんですか?
この本(オリジナル)が画期的だったということは自分にもすぐわかりました。それは今まで永井が前提にしていた入不二の言い方での「座標系」(他の言い方だと世界、時間-人-様相、系列、事象内容、常識、世間等)をそうせず、いかにして座標系が形作られるかを描いていたからです。
永井には比喩的に言って魔術師の側面と手品師の側面があり、素朴(?)に座標系を前提にする哲学を魔術師の哲学とするなら、座標系がいかに作られるのかの種明かしをする哲学は手品師の哲学です。魔術師と手品師は一見するとやっていることが同じですが、実は全然違うことをしています。『意識』は手品師としての永井の嚆矢となる本でした。(このレビューも手品師の観点で書いています。)
『意識』の〝これ〟という表現で自分が理解したのは、現実性などではありませんでした。その時は部屋の壁を見ていましたが、壁ではあっても現実性ではありませんでした。現実性(や独在性)という表現は座標系を前提にすることで、そこからはじきだされるもの(しわよせ)として生まれてくる表現です。その座標系自体がいかに作られるかを描く『意識』で現実性の側から考えるなんてことがあるわけがないので全くのデタラメです。良く言っても論点先・先取りで、順序立てこそに命をかけている『意識』の作者にとって、こんな迷惑な解説はないでしょう。〈現実性〉の側でなく、〝これ〟の側から考えたのが『意識』です。
なにかに異様な権利をむりくり与えておいて(この場合は世界)、その机上の越権をロンダリングする形で別のもの(この場合は私や現実)に与える「越権ロンダリング」の思考の型がここではあらわれています。この考え方は論理哲学論考草稿の運命観(世界と運命という言葉が一つになり、その中で私だけが異物になる)などにもあらわれていて、それ自体には一種の美しさや快感があり、宗教詩など読書の幅が広がるのでおもしろいのですが、『意識』のすごいところは、その種の「しわよせ神秘論」などが持つ一度何かを前提にしておいてという方法を結果的に捨てたことにあります。
たとえば、〝なぜ目が見えていいのか?〟という疑問にこの種の座標系所与論は答えてくれません。〝これ〟を文節化して目が見えるということと世界があるという実在を構成したのですが、その事自体は何かしらの要請からか隠蔽しているからです。これはほんの一例ですが、座標系所与論では疑問が増えるか押しつぶされるだけのことに、〝これ〟の哲学は答えることが可能です。永井は自分にとっての哲学が最終的に公的なものではないと書いたことがありますが、『意識』は逆にその最終地点から書かれた本なのです。今までの本とは決定的に、革新的に変わっています。『翔太と猫のインサイトの夏休み』文庫版P136のデカルトからカントへの、超越論的実在論から超越論的観念論への推移と酷似した変化がここにあると思います。
『哲学の密かな闘い』P238「「神」と「私」とのこの闘争は、どちらを内容的規定性[レアリテート]に貶めるかをめぐる闘争に、逆に言えば、ともあれ理由なく(いや理由どころかそもそも内容的規定なしに!)存在するという格別の地位を、どちらに認めるかをめぐる存在論的闘争に、変形させるのである。」
この段にはブッ飛びました。事象内容(内容的規定)は『〈魂〉に対する態度』などに代表される魔術書では単にそうである、素朴にして侵すべからずの聖域として考察の埒外におかれいたものでした。独在論の事象内容という考え方は理屈ではないので理屈によって変動することなどありえないのです。魔術師として落第ものの記述であるが、手品師としてはむしろ歓迎すべき変化ではある。受け入れがたいものを無理矢理受け入れておいて、あとからそのしわよせに驚いて見せる器用貧乏すぎる独在論なんて、何の意味もないことはあまりにも明らかではないか?…と、手品師は思っているのだから。
『〈魂〉』や『私・今・そして神(の第2章)』に顕著な事象内容を〝素朴にして侵すべからず〟とみなした独在論(魔術師)の本があり、『たまたまの孤独』や『密かな闘い(の第6章)』などに顕著な、一度魔術師の観点から入り最終的に手品師っぽい(つまり独在論を半ば否定するような結論で)終わる本もあるのですが、『意識』は『たまたま』の結論の側から書かれた本です。それ以前は「自然状態(無法地帯)と治外法権」のような卓越した表現をあみだしてもまだ「一方的」な言い方にしかなっていませんでした。
無内包という表現も座標系所与論の用語ですので『意識』のテーマとは全くかち合いません。永井が執筆中に思いつかなかったのが不思議だと言ってましたが、元々そういう思考法と違ったので当たり前です。(ただし、入不二の議論自体は累進構造自体を言語の見せる夢とみなしていて根底に達しているのですが)
もしより細分化するなら第〇次内包でなく第一次内包だと思いました。単に即物的な見方という意味での第一次内包と、座標を前提にしない前言語的世界(前というのは論点先取りです)での第一次内包は分けて書いた方がわかりやすいのではないでしょうか。原初的第一次内包とでも。永井が後期ウィトゲンシュタインイデオロギーは第一次内包を特権化すると言う時のそれは前者の即物内包のことだろうと思います。
原初的第一次内包はそのまま文節化の問題で、『ウィトゲンシュタインの誤診』でL.W.の発言を引用して出した「内的性質」の考察でもあります。
「私にとっては確かに真と思える一つの論点、すなわち、私には肉体的な眼がなくても、あるいは全く肉体がなくともものが見えうるのであって、見えることと肉体的な眼との関係は経験上学んだ事実にすぎず、全然必然性を持たない、という論点については全くはっきりしているように見えた。ただし、「視野」にはある種の内的性質があって…」
この水準での見えることが〝これ〟であり、座標系などは内的性質と呼ばれている分節化のあとに―もし作られるならば!―作られるのであって、ウィトゲンシュタインが座標系の中で着脱できるようなタイプの独我論―独在論―など問題にしていなかったことがあらわれている。
文節化の考察は『西田幾多郎』のメインテーマで、『マンガは哲学する』でも扱われたか扱われるべきものだったでしょう。その辺りにつっこんだ『マンガ』の改訂版か続編は出して欲しいな。
永井は良く哲学の細かさを称揚しますが、この文節化のスケッチほど哲学の偉大な細かさがあらわれるものはありません。マンガや芸術は存在論的水準に達することはできても、この細かさの表現はできないのではないでしょうか? まさにそこで、僕は絶対に自力では上がれないところを永井に持ち上げてもらえた(だから「よくそんなこと知ってるなぁ」という羨望と「なんでそんなこと知ってんだよ」という疑念が同時にあるわけですが)。
それでも、その分節化がどこから始まるかという見極めには大雑把で直感的な場面が必ずある。それが手品師と魔術師の対立点である。―インサイトやブラックジャックの先生に反して、哲学の細かさは、いきなりは始まらない。
ウィトゲンシュタインなら直感や勇気や良心やバターの値上げを言い訳に使うところ、少なくとも言い訳や感情論が必要になるところで、永井は何も言わない。そのことで僕は何か狭いところに閉じ込められたような死んだ気持ちになる。
『意識』の哲学も現実性を問題にすることはできますが、それは問題の―もしあらわれるとしたら―あらわれ方の一つとしてです。これまでの永井哲学は俗な意味での現実を全天球(これ性)とみなして、そこからの逸脱やゆがみやほころびに光をあてるものでした、『意識』では最大限によく言ってもその意味での現実は全立体角中の一点にすぎず、全天はあくまで〝これ〟です。現実全天哲学と現実一角哲学の違いがあり、この違いは果てしなく大きい。〝これ〟がこの通り文節化される必要も、文節化される必要も、文節化されていると見なす(この通りという表現を許す)必要もないからです。このことを自覚してさらに何がしかを語ることができるのは、マルコムが言われた意味で真に公平なことであり、本当にすごいことです。そこにはハンド(サッカーの)でハンドを帳消しにするような、有と有を掛け合わせて無にするような絶技があり、永井のこの本なしでは僕には絶対上がれない場所でした。そんなことできるわけないのに、ガムとチョコを一緒に食べるとどっちも消えてしまうように、それは実際成されていました。風間君の疑問もこの部分にかかっており、『〈私〉今神』では疑問に鈍感すぎることで悪い意味で疑念を深めただけだったのですが、『意識』で永井は始めて答えました。「なぜ言葉で考えていいのか」という風間君の疑問に「ハンド(反則=言葉)」によって。
『マンガは哲学する!』の2匹の兎が合わさるところが『意識』の中にあります。
魔術と手品のこの混同はオリジナルにもありますが、改訂版は元々あった玉の瑕を除去したものでなく、キズがなかったところまでキズを彫りこんでしまった本です。考察の中の道徳の範囲が広がることによって今まで言っていたことが言えなくなっても何も訂正しなかったように、独在性の哲学が最早いえなくなっても訂正する気がないだけなんじゃないでしょうか。
なにかを前提にするということはたとえその否定であろうと前提を強烈に主張することにしかなりません。たとえそれが道(タオ)的な「うっちゃり」のための「ひたりつき」であっても。イデオロギーで出来た都市の郊外に家を買い、そこからの眺めを書くことでしかない。ついでに言うとひたりつくとか何も主張しないという方法も座標系所与論の中でのやり方で、空を飛べるとうそぶくために他の人は背中に羽をつけたりマントを羽織ったりしているのを、永井はそんなことをする必要がない、手放しで良いと言っているだけです。うそをつかなくていいと言っているわけでないのです!うそは手放しでつけるというさらにつよい!イデオロギーがあるだけです。
言語が走る前に敷かれる透明な道路に踏み潰された無数の兎たち、無数で一匹のそして今も目の前にいる、殺せないから生殺しにされる兎が跳びはねる姿を、確かに旧版の『なぜ意識は実在しないのか』で僕は見ました。
『意識』の筆者は永井均を模倣すべきではない。