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街道をゆく 37 (朝日文芸文庫 し 1-40) 文庫 – 1996/6/1

4.2 5つ星のうち4.2 108個の評価

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 朝日新聞出版 (1996/6/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 1996/6/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 295ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4022641126
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022641120
  • カスタマーレビュー:
    4.2 5つ星のうち4.2 108個の評価

著者について

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司馬 遼太郎
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1923年大阪市生まれ。大阪外国語学校蒙古語部卒。「ペルシャの幻術師」で講談倶楽部賞、『梟の城』で直木賞を受賞。『竜馬がゆく』『国盗り物語』『坂 の上の雲』『空海の風景』『翔ぶが如く』など構想の雄大さ、自在で明晰な視座による作品を多数発表。この他『街道をゆく』『風塵抄』『この国のかたち』な どの紀行、エッセイも多数。’96年逝去(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 司馬遼太郎と寺社を歩く (ISBN-13: 978-4334747213)』が刊行された当時に掲載されていたものです)

カスタマーレビュー

星5つ中4.2つ
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108グローバルレーティング

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上位レビュー、対象国: 日本

2021年7月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この混乱の時代にこそ司馬遼太郎である。
2024年3月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
・某誌の「『本郷界隈』で漱石の『三四郎』を使っての東京論、近代日本論は、最高傑作である」を読んで如何にと思い購入。
 して司馬氏はこの本で、「明治時代、東京が文明の配電盤だった」と、その役割を「設定」して、「地方にあっては新文明を受けることが、数年もしくは数十年も遅れる」、「この都鄙のひらきが、明治の現実であった」とする。この一面を捉え全体の特質を括る、これが司馬氏ならではの、外にない掴み様であった。その鮮やかさが、氏の堪らない魅力であり、身罷って早や四半世紀近くになるが、懐かしさを惜しみつつ、共に歩き訪ねる至福を、この本から暫し頂戴した。
 因みに氏は、『三四郎』の「主題は青春というものではなく、東京というものの幻(玄)妙さなのである」とし、上記の「設定が理解できねば、なんのことだかわからない。…その意味で明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はな」く、漱石自身「新文明の諸要素を欠いた田舎には一向に無頓着で、一種の滑稽感をもっていた」と記し、「三四郎の淡い恋の」対象であった美禰子は『無意識の偽善家』とする漱石の言も、紹介している。何れ『三四郎』を読み直して、自らを量ってみたくなった。
2014年4月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1991年8月9日〜1992年2月28日号 週刊朝日に連載
本郷界隈
鴨がヒナを連れて/縄文から弥生へ/加賀屋敷、”古九谷”とかんざし/水道とクスノキ/見返り坂/藪下の通/根津権現/郁文館/無縁坂/岩崎邸/からたち寺/湯島天神/真砂町/給費生/一葉/福山坂/追分/水戸家/傘谷坂の雨/朱舜水/近藤重蔵/秋帆と洪庵/最上徳内/漱石と田舎/車中/三四郎池

本郷界隈は第36巻の神田界隈とともに読むと江戸末期から明治への激動の歴史が分かってよい
徳川時代には戦乱がほとんど起こらず、江戸を中心とした幕藩体制が確立された
地方での反幕行動を防止するために参勤交代制度が施行された結果、江戸には各藩の江戸屋敷が乱立することとなった
戦乱がないとはいえ武士は文武励行せねばならなかったために、儒学、朱子学の私塾や剣術の道場が数々おこされ、藩士の学ぶ機会はさらに増えた
また若い武士もふえ、工商に従事する人口も増えたために吉原などの公設遊廓だけでなく、岡場所といわれる私娼も栄え歓楽街として発展していった
が、歓楽街の話は本郷界隈にはない

江戸末期、神田界隈には蘭学をさらに学ぶべく西洋文書を翻訳する蕃書調所が設立される。これはその後、開成所、洋書調所と改称され東大の前身となっていく 幕臣が学ぶ場としては湯島に官立の国学を学ぶ昌平黌が設立される
これらの昌平黌(本校)と開成学校(南校)、医学校(東校)が1877年(明治10年)設立の東京帝国大学設立母体となった
洋書調所は明治期において、日本に存在しなかった法律を作成する重要機関としてまた法律を作成する官僚を養成する機関として発足したといってよく当時は日本で唯一の大学であった
私学の法律学校としては明治、専修、中央、日本、法政大学の前身が設立され、神田は法学のメッカとなった
学んでいるのは多くの旧幕臣たちである
法学、医学、東大が加賀藩と水戸藩の跡地に設立されるころの教授はすべて海外からの招聘で給料はすべて国費で賄われた 
東大が各種予算を平気でぶんどっていくのは明治期からの官僚機構のなせる技である それは100年以上たった今でも変わらない

神田から本郷へ
ここが西洋の法律、文化、文明、技術の最先端であり最中枢であった
ここから地方へと伝わっていく根源であった 司馬はそれを配電盤と称したが、地方への伝播にかかる時間はながかった
長くかかるが故に東京と地方との格差、生活だけでなくも意識の格差が生まれた
東京は憧憬の的となり、地方は鄙として落ちぶれていくのである
明治から100年以上、東京中心はいまだに変わらない
あふれゆく人とモノ、土地は埋め立てて増やす これは江戸中期の本所の埋め立て時代と全く変化していない

海外の伝統ある大学は、大本が神学哲学から創始したという大きな違いがあるが、それ以上、雑踏の地に存在することは稀である
自然豊かな中でこそ有意義な勉学ができるというのが西欧の大学立地基準の一つである

官僚養成大学である東大から遅れること20年の1897年(明治30年)にやっと、真なる学問探求の場として京都大学が設立されるのは、遅すぎるくらいであるが、予算がなかったであろうことは容易に想像がつく
自由な校風の中で培われた研究風土のゆえに日本で最初のノーベル賞を受けた湯川英樹や朝永振一郎らを輩出するのは当然のことであろう
しかし2014年現在でノーベル賞受賞者は京大6人で東大より一人少ないのは少しさびしい感がする

そんな本郷界隈であるが、話は夏目漱石を主体として、柔らかく進んでいく
東京は、あまりにも急激な変遷にみまわれたために、その足跡をたどることが時に困難で歴史の重みが少ないということもできる
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2019年8月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本巻は本郷界隈を散歩しつつ、日本の最難関学府である東京大学や、江戸時代の大名藩邸の話、それに夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、坪内逍遙等、本郷にゆかりのある文学史上の作家についての話も盛り込まれ、文学散歩の風韻も帯びている。
また、ほかにも江戸時代や明治時代の興味深いエピソードが多く語られていて、おもしろかった。
興味深かった話を2つピックアップする。
東京大学がある土地の大部分は、江戸時代、加賀前田家の藩邸(上屋敷)であった。前田家はここに豪華な屋敷をつくり、それが評判となって時の五代将軍綱吉の耳にも入った。
将軍の耳に入ったと知った前田家では、綱吉のお成りを乞うしかないと考えた(忖度?)。
しかし、前田家の新邸を見たいという人が多く、結局将軍一人を招待すれば済む話ではなくなり、側近、老中、若年寄はもとより、江戸城の大工の棟梁まで含め、総勢五千人を招待することとなった。
当時は平等社会ではないので、立食パーティーのようなやり方は通用せず、身分ごとに酒肴を用意しなければならない。
また、将軍のために、敷地八千坪、建坪三千坪、棟の数四十五という壮麗な迎賓館を建設した。
前田家ではわずか1日の招待のために多額の借金をし、その返済に十数年かかったという。また、準備のために加賀の国もとから大勢の人数を江戸へ呼び寄せ、その宿舎を四百棟も建てたという。
江戸時代の大名は、幕府から二心を疑われたり、揚げ足をとられたりしないように細心の注意を払っていたことがこの一事でよく分かる。現代の忖度のレベルでは及びもつかないスケールだと思った。
本郷に近藤重蔵という旗本がいた。彼は
蝦夷地(北海道)をどうすべきか等、国防論の著作を多く成し、都度幕府へ献上したが、幕府では彼を危険人物視したらしく、子息の犯罪を理由に小藩預かりとなって幽閉され、そのまま死んだ。彼が活動したのは11代将軍家斉の治世だったが、鎖国下の当時は幕臣と言えども国防について意見を述べることは幕藩体制への批判と受け取られてしまったらしい。
死後32年たち、幕末の喧騒の時代になってから、幕府は彼に戒名を諡し、菩提をあつくさせたという。
著者は次のように書いている。「近藤重蔵は生涯、私利をおもわなかった。ひたすら公に終始した。その"公"は、近代国民国家のそれに通じていたが、幕藩体制の"公"とは食いちがっていたといえる」。
江戸時代は前後左右をよくみて、支障が起きないように身を縮ませて生きなければならなかったのだなあ、思った。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2016年4月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
記述の半分以上が明治の文豪へのオマージュであり、
文学に興味の無い私には、どうでもいい内容だった。
惰性で読んだが、シリーズ中最も興味の湧かない巻だった。

司馬遼太郎は好きなのでシリーズ全部読むつもりですが。
2015年8月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古書店で探していたところ、なかなか見つからず、アマゾンで購入できて良かったと思います。
2012年6月28日に日本でレビュー済み
17年前あたりから東京を具体的に知るようになったわたしがなかでも比較的に歩いたことのあるあたり。江戸、明治がこの界隈と直結している。

まず江戸に1000ほどもあったという上屋敷、中屋敷、下屋敷。その跡に明治の東京が、なかでも本郷が発展した。前田藩の上屋敷跡に東京帝国大学、弥生町(稲作初期の土器が発掘され弥生文化と命名)は水戸藩の中屋敷跡といった具合である。

文学関係では、夏目漱石、正岡子規、樋口一葉がでてくる。漱石との関連では、本郷の東大に明治の頃、お雇い外国人が教鞭をとり、この大学が西洋の科学の「配電盤」として機能したこと、また小説「三四郎」をひきながら明治に入って都と鄙(田舎)の上下関係が定着し、今もその残滓が遺伝子のように残っていることが述べられている。著者は子規が好きで、「私は、子規がすきである。子規のことを考えていると、そこにいるような気がしてくる」(p.201)と書き、子規の短い一生を、「妻もめとらず、30歳前後から病床にありつつ、日本文学上、きわだったことをなしとげた。俳句・短歌を美学的に革新し、また明治の散文に写生能力を加えたことである。そのための活動期がわずか5,6年にすぎなかったことをおもうと、精霊のようなはたらきだったというほかない」とまとめている(p.201)。

一葉の評価は高く「私どもの文学感覚は、子規や漱石の活動期から出発している。一葉の活動期はそれよりも前だから文章が擬古的だが、もしこの明治28年に私どもが生きているとすれば、一葉の新鮮さに仰天したにちがいない。・・・不幸という”生態”のえがき方が毛彫りのように犀利で、しかも詩がある。詩の有無が、10年後にあらわれる自然主義文学と一葉のちがいといっていい」と(p.217)。

この他、人物では坪内逍遥、福沢諭吉、寺田寅彦、朱瞬水、最上徳内、近藤重蔵、高島秋帆、緒形洪庵などが、そして根津権現、湯島天神、からたち寺などのことが、またこのあたりは坂が多いゆえに「見返り坂」(かねやす)、「団子坂」(森鴎外の同名の小説)、「炭団坂」(一葉の菊坂旧居跡)、「無縁坂」(森鴎外の「雁」)、「福山坂」(一葉の旧居跡、丸山福山町)、「傘谷坂」(近藤屋敷のあたり)と次々に出てくる。 
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2011年5月17日に日本でレビュー済み
街道をゆくシリーズがTV映像化されたとき、この巻は東京大学を中心とする「文明の配電盤」機能に主眼を置いていた。

確かにそれは本巻の柱の一つなのだが、それだけではない。本郷近辺は坂が多く地形が起伏に富んでいる。著者もその地形をなぞるようによく歩き回っている。真砂町、見返り坂、藪下の道だけでなく、湯島天神、根津権現、小石川等にも足を運んでいる。

そして思いをはせるのは、樋口一葉、岩崎弥太郎、夏目漱石、森鴎外等の明治の人ばかりだけでなく、近藤重蔵、最上徳内等の探検家、水戸家等江戸時代の人々、さらに弥生人まで。

先日ぶらタモリで本郷を特集していたが、このあたりは歩いていて先人の足跡、そして江戸・東京の街の成り立ちを足で感じることができる散歩にうってつけの場所。その際には本書を携帯すると何倍も楽しみが増します。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート