無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
手紙、栞を添えて (朝日文庫 つ 1-9) 文庫 – 2001/5/1
- 本の長さ261ページ
- 言語日本語
- 出版社朝日新聞出版
- 発売日2001/5/1
- ISBN-104022642718
- ISBN-13978-4022642714
この著者の人気タイトル
登録情報
- 出版社 : 朝日新聞出版 (2001/5/1)
- 発売日 : 2001/5/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 261ページ
- ISBN-10 : 4022642718
- ISBN-13 : 978-4022642714
- Amazon 売れ筋ランキング: - 730,299位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 751位論文集・講演集・対談集
- - 1,899位朝日文庫
- - 11,443位近現代日本のエッセー・随筆
- カスタマーレビュー:
著者について
「『漢文を読めない人の書いた文学は読んでもつまらない』と言う人が昔は結構おられました。私はもちろん漢文が読めないのでつまらない文学を書く世代ですが、少なくとも日本近代文学は読んで育ちました。日本の近代には『こういう文学がありました』と振り返りつつ、日本近代文学の最後に来た者の一人として書いています。」
(「私は近代日本文学の最後に来た者」『公研』2020年12月号インタビューを修正)
略歴
東京に生まれる。12歳の時、父親の仕事の都合で家族と共にニューヨーク近郊のロングアイランドに移り住む。アメリカになじめず、ハイスクール時代を通じて、昭和二年発行の改造社版の「日本現代文学全集」を読んで過ごす。ハイスクールを卒業したあとは、英語と直面するのを避け、まずはボストンで美術を学ぶ。次にパリに短期滞在した後、最終的にはアメリカのイェール大学と大学院で仏文学を学ぶ。博士課程を修了したあと、日本に一度戻るが、また渡米して大学で日本近代文学を教える。東京在住。
最初に発表した小説、『續明暗』(1990年)は、夏目漱石の遺作で未完の作でもある『明暗』(1917年)を、漱石独特の文体と表記法を使って完成させた。芸術選奨新人賞を受賞した。
第二作の、『私小説 from left to right』(1995年)では、日本語に英語を交ぜた横書きの文体を用いて、自伝風にアメリカでの生活を描いた。野間文芸新人賞を受賞した。
第三作、『本格小説』(2002年)は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を、中国の少数民族の血が半分混ざったヒースクリフを登場させながら、日本の近代史を描いた。読売文学賞を受賞した。
『日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で』(2008年)という長い評論では、西洋に触れた日本の衝撃から近代文学の誕生までの歴史を振り返り、そのとき国語になった日本語の高みが、現在の英語の制覇によって、いかに崩れ去る危険に晒されているかが語られている。小林秀雄賞を受賞した。
『日本語で読むということ 』(2009年)と『日本語で書くということ』(2009年)の二冊は、過去にわたって書かれたエッセイや随筆を集めたものである。『日本語が亡びるとき—英語の世紀の中で』の執筆に至るまでの経緯を辿ることができる。
最近作『母の遺産−新聞小説』(2012年)は、読売新聞で毎週土曜日に連載した新聞小説に、加筆修正をほどこしたものである。母の介護に追われ、離婚を考える五十代の女性を描いた。大佛次郎賞を受賞した。
その後4冊の著書の英訳の推敲作業に追われていたが、現在は新しい小説を書いている。2021年『新潮』連載予定。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
会ったことのない二人が往復書簡形式で文学論を語り合うという趣向が成功し、そこには豊饒な文学世界が広がっている。
水村が、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』のヒロイン、ジェーン・エアの高らかな自由への意志を情熱的に論じる。ロチェスターの前に現れたのは、「質素な身なりの18歳の娘です。青白い顔は少しも美人でない。小柄な体には女らしい豊かさもない。しかも、しかるべき家の御令嬢などではなく、館に雇われた家庭教師でしかない」。「ジェーンは家庭教師という当時女に開かれた唯一の自活の道を盾に、どこまでも『人間』であろうとする。どこまでも『人間』であろうとすることによって、あのシンデレラより、強く、深く、狂おしく、(ロチェスターから)愛されるのです。われら女にとってこれほど真に教訓的で、かつ夢を与えてくれる話はないではないか!」。
これに対し、辻は、「以前は、『ジェーン・エア』より妹のエミリー(・ブロンテ)の『嵐が丘』のほうが遥かに偉大だと思っていました。今では『嵐が丘』の宇宙論的な黙示も偉大だけれど、シャーロットのひたむきな生き方にも深く共感します」と返信する。そして、私の好きなバルザックに筆が及ぶのである。「私は『ジェーン・エア』のことと同時に、実はバルザックのことも考えているのです。というのは、個人が家庭・社会と戦い、『人間の証である自由』を得るドラマを組織的に書いたのはバルザックだったからです。彼の描くのは、多くは制御しがたい力との葛藤から生まれる悲劇です。しかし社会の前に立ちはだかる人間は屈服しません。全社会を視野の中に入れ、まず社会をパノラマ的に見ることで乗りこえようとします」。
辻は『嵐が丘』を、「『この世を超えるもの』を熱烈な存在感で実現し、世界文学にも稀な、ヒースクリーフとキャサリンの恋の真実を描いたエミリーは、西洋文明の生み出した典型的存在にほかなりません」、「エミリー・ブロンテのように完全な孤独の中で書くことは、読者がいないという絶望的状況でもありますが、同時に、自分にとって最も大切なことを、自分に向かって書くという根源的な意味を開示してくれます」と、高く評価している。
水村が、私の好きなプルーストの『失われた時を求めて』を論じているが、この作品の本質を鋭く衝いている。「回想形式のこの長編が、文字どおり、円環構造をしていることは有名です。しかもプルーストは、『死』の視点から、『生』を描いただけではない。『死』の視点から『生』を描くという、作家の行為そのものの意味を描いたのです。・・・プルーストはさらに教えてくれるのです。『死』の視点から『生』を描くというその作家の行為自体、人間にとって有限な『時』との競争でしかないことを。それにしても『時』というものの根源的な残酷。それは人が年をとるという残酷ではなく、人が年をとるということを、永遠に自分のこととしては、認識できない残酷ではないでしょうか。サナトリウムから帰還したプルーストの主人公は、久々にゲルマント家に顔を出す。すると昔知っていた人たちが、皆、『髪粉』をふったり、『白いあごひげ』をはやしたり、『小さくちぢこまって』しまったりして、なぜか滑稽な老け役に変装している。そのとき主人公は『時』がたってしまったのを知るのです。主人公は啓示を受ける。彼らの上に流れた『時』は自分に上にも流れたであろう。ところが、その啓示は本当の認識にはつながらないのです。本当の認識は、主人公が他人から、当然のように、そしてくりかえし、もう若くはない人として扱われることによってしか得られない。そしてその認識はそのたびごとに、驚きでもあれば痛みでもあるのです。悲しい。悲しい」。この的確な指摘は、私が『失われた時を求めて』全巻を読み終えた時に感じたことそのものである。この長大な作品は、途中で止めずに最後の巻まで読み通した者だけに、その核心部分を開示してくれるのである。
辻が、私の好きなギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』に言及している。「お便りを読みながら、突然、私がギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』を思い出したのは、季節の移りゆきを、愛着のまなざしで眺めるライクロフトという人物に、どこか日本の隠者風の面影を感じたからでした。・・・ギッシングは、貧しかったので、そう自由に本を買うことはできなかったのですが、ライクロフトには、本を持つという幸福を心ゆくまで味わわせます。現在のように本が安く自由に買える時代には想像がつきませんが、昔は(ギッシングはちょうど100年ほど前の人です)、本を買うことは、かなりの散財を意味しました」。
水村が、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』への思いを熱く語る。「『高慢と偏見』。この本がどんなに私たち女の間で人気があるか、男の人たちは知らないでしょう。女たちは遠慮して語らないのです。いったいどうしてこんなにも女の読者に人気があるのか――ハッハ、その答えを、モロに言います。頭のいい女が男に圧勝する物語だからです」。
二人の文学的交歓によって、次から次へと連環的に文学論が紡ぎ出され、広がっていく。最初から最後まで、文学を読む幸福が臨場感豊かに伝わってくる素晴らしい一冊だ。
読み終わって、この読み応えのある本を手にする契機を与えてくれた読書仲間に心より感謝している。
●辻邦生と水村美苗の往復書簡。二人の関係は、野球に例えると、ピッチャー水村美苗、キャッチャー辻邦生という感じだ。
ところが二人の手紙のやりとりは、必ずしも噛み合っていない。暴投もあれば、パスボールもある。カーブを要求したのに、シュートを投げ込んでくることもある。
それでいながら私は、二人の手紙にグイグイ引き込まれていった。荒れ球に翻弄されながら、時に投げ込まれる剛速球や切れ味の鋭い変化球に唸った。
●あるいは、二人は、二枚目の国語の教師とおちゃっぴーな女学生のようにも見える。端正な顔立ちとロマンチックな文章と該博な知性で、彼は女学生たちの憧れの的だ。しかし、このおちゃっぴーな女学生は他の学生ほど従順ではない。彼に憧れを抱きながらも、時に文学への情熱が炎のように燃え上がり、彼をたじろがせることもしばしばだ。
●このとき辻邦生は70代で「 西行花伝 (新潮文庫) 」「 背教者ユリアヌス (上) (中公文庫) 」等の作品で功成り名遂げた大家だ。それに対して水村美苗は、「 続 明暗 (ちくま文庫) 」「 私小説―from left to right (ちくま文庫) 」の二作を書いたに過ぎない新進作家。(ただし、二作品ともすごい小説だ。)
しかし彼女は彼に対して、礼は尽くすが遠慮はしない。甘えたふりして相手の懐に飛び込み、忍ばせていた短刀でグサッと一突きするような物騒なところさえある。
文学に対する愛情と、日本語の行く末を憂える点においては、文豪だろうが大家だろうが負けはしないという自負があるからだろう。(そうでなければ漱石の遺作の続編なんて書けはしないはずだ。)
●本書は恰好の文学(再)入門書だと思う。ただし網羅的な概論書ではないし、いわゆる文学史と呼ばれる知識を羅列した本でもない。本書にあるのは、小説に対する深い愛情と、言葉に対する徹底的なこだわりと、人間に対する限りない慈しみだ。
かつての文学少年・文学少女が本書を読んだら、きっとこう思うはずだ。
「あの小説をもう一度読んでみよう。」
●本書を読んだ翌日、私は再び本屋に走った。そして「 細雪 (上) (新潮文庫) ]」(谷崎潤一郎)と「 嵐が丘 (新潮文庫) 」(エミリー・ブロンテ)と「 渋江抽斎 (中公文庫) 」(森鴎外)を買った。
いずれも本書で水村美苗が話題にし、論じた本だ。
『楡家の人々』『ブッデンブローグ家の人々』等々。
お二人が人間としても尊敬し合い大切に書簡を交わされている様子がほんわかと良い感じです。
忘れていた本も思い出す事が出来、私にとって大切な一冊になりました。
本好きな方は共感を得られるでしょうし、今から本を読みたいと思われる方には理想的な読書案内として是非お薦めしたい一冊です。
ただし、中身が濃い所は流石!です
1996年4月から1997年7月にかけて朝日新聞紙上で交わしあった香気溢れる書簡集。
優れた知性を持ち合わせた「永遠の文学少女」水村美苗さん(1951年生)と
彼女とは親子ほども年齢の離れた辻邦生さん(1925年生)との間で交わされる言葉の数々。
双方の博学さに裏打ちされた文学論は、平成27年現在の日本の文学状況と照らし合わせたとき、
何と豊饒で贅沢に感じられることでしょう。
『嵐が丘』『ボヴァリー夫人』『ブッデンブローク家の人びと』『マルテの手記』といった西洋文学の傑作から
『浮雲』『にごりえ』『銀の匙』などの日本文学の名作まで、お二人が古今東西の文学知識を披歴しながら
語り合う言葉はさながら美しい二重奏のようです。
この書簡が交わされた時期から20年ほどの歳月が流れ、
日本の社会も、そして文学界もある意味でずいぶん変わったものだと思わされます。
文学を読むという無垢な喜びを実にいきいきと伝えてくださったお二人に
改めて深く感謝したいと思います。
本を読む事が生活になっている二人のやり取りが羨ましい。この本を読んで、又、何冊かの本を読みたくなった。
尤も、最近は無理をしてまで読むつもりはないので、関心を引いたヘンリー・ミラーやトーマス・マンを読みたい。
無理を承知だが、私もこの様な手紙を書いてみたいと感じました。
勿論、辻学兄のような知性も見識も品格もないが、書いてみたいという相手が居ない事がもっと残念。
辻学兄は「書くとは、自分の最高に向かって書くことです」とおっしゃっているように、本来、相手は関係ないですが。