何という深刻な1冊だろうか。
その深刻さは、中身そのものの深刻さ、そして語り口=文体あるいは言葉そのものの深刻さだ。シニフィエとシニフィアン双方とも危機的な状況にあるとでもいってみようか。
3大「おれちん」として挙げられるのは小泉純ちん、ホリエモン、中田ヒデである。評者は3人とも好きではない。彼ら3人は2006年に揃って表舞台から去った(と著者は記す)。
本書はその2006年の11月が初版だから、来る安倍『美しい国』政権、日本経団連主導の大手製造業中心経済運営、滅私奉公の共同体サッカーの到来を見据えている(野球でいえばハンカチ王子の登場)。特に本書後半では、『美しい国』というプレモダンイデオロギーに焦点を合わせて、これをエンディングにもっていく構想が垣間見える。新聞、雑誌等の連載を1冊にまとめた本のようだから、偶然も手を貸したかもしれないが。
おれちんが敵と定めるのはプレモダン、モダンである。さらにコミュニタリアンも俎上に上げられる。しかし、その視点というか構えは刊を進むごとに微妙にずらされている。戦略的である。そして、ついにおれちんは日本国憲法こそおれちんの温床であると宣言するのだ!!
これは少しショーゲキであろう。
さらに、後半以降では<アイデンティティー>というイデオロギーに破産を言い渡し、<コンセプト>という概念を打ち出す。このあたりは吉本隆明ばりの展開だ。たとえば、次のような一文。
<現在の資本主義の問題点は、「すべてが」商品化されていないことに起因しているのである>
そして、人間は自己をコンセプト化することで、商品によるコンセプト化を免れるとする。難解である。コンセプト化とは、これ自体が商品化であり、商品経済の毒に対して自らを商品化することで対抗するという戦略のようだ。
しかも、この戦略は強者の論理ではないと説く。弱者のコンセプトが尊重されるルールづくりを強調している。しかし、ルールをつくるのは誰かという問題も頭をかすめる。
とはいえ、アイデンティティーという近代主体概念が、完全に閉塞しているのが明らかな今日、これは魅力的な思想とも思われる。これをどう展開して、具現化するのかは評者にはわからないが。
アイデンティティー概念を寸鉄人をさす類の一文。
<むしろ彼の周りに他者がいないほうが、彼はより少なく孤独であるだろう>
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おれちん: 現代的唯我独尊のかたち (朝日新書 17) 新書 – 2006/11/1
小倉 紀蔵
(著)
ダブルポイント 詳細
韓流でブレークした気鋭の韓国哲学者が、日本人の新しい類型を発見した。それは、「おれちん」。上昇志向が強い「おれさま」と、自分の世界にひたすら引きこもる「ぼくちん」が合体し、自分勝手で、コミュニケーション能力に劣り、公共性概念の欠如した「新族」が誕生した。代表的な「おれちん」である小泉首相、中田寿英、ホリエモン、イチローなどを徹底的に解体分析した、待望の次代日本人論。
- 本の長さ245ページ
- 言語日本語
- 出版社朝日新聞出版
- 発売日2006/11/1
- ISBN-104022731176
- ISBN-13978-4022731173
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登録情報
- 出版社 : 朝日新聞出版 (2006/11/1)
- 発売日 : 2006/11/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 245ページ
- ISBN-10 : 4022731176
- ISBN-13 : 978-4022731173
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,517,355位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2007年1月9日に日本でレビュー済み
文章は平易である。必要以上に衒学的な言い回しもない。
しかし、この本は難解だ。
この本を手に取る人・取らない人。感心する人・せせら笑う人。同意する人・しない人。「小倉紀蔵はスゴイ」と思う人・「私は小倉紀蔵をロンパした」と思う人。その誰もが、この小さな本の枠から一歩もはみ出せていないのである。
そしておそらく、著者自身もはみ出せていない。
この本は、客観的に眺め、評価することがきわめて困難なのだ。そんな本にいったい、どう対すればいいのか。
知らんがな。
しかし、この本は難解だ。
この本を手に取る人・取らない人。感心する人・せせら笑う人。同意する人・しない人。「小倉紀蔵はスゴイ」と思う人・「私は小倉紀蔵をロンパした」と思う人。その誰もが、この小さな本の枠から一歩もはみ出せていないのである。
そしておそらく、著者自身もはみ出せていない。
この本は、客観的に眺め、評価することがきわめて困難なのだ。そんな本にいったい、どう対すればいいのか。
知らんがな。
2006年12月8日に日本でレビュー済み
著者のファンだけに、見つけ次第迷わず手に入れた。
小泉やホリエモンの時代から安倍の時代に移り変わろうとしている現在を、著者の「おれちん」という軸(正確には、「おれちん」「おれさま」「ぼくちん」「ぼくさま」の軸)で見てみると、確かにその構図が非常にはっきりと見えてくる。
「おれちん」とは、ある意味「今の人たちは傍若無人で、全然周りのことを考えない」というありきたりの批判に別の名前を与えただけともいえるが、そんな彼らが生まれざるを得なかった背景の鋭さはさすがである。
そう、確かにわれわれは「個性を、個性を!」と言われて育てられ、しかもその概念を今度は放棄させられようとしている。
また、独白の日記調という構成もユニーク。
特に、ラストに至る過程は圧巻。
文学の香りすらしてくる。
だが、それでもあえて言わせてもらうと、本書は少々冗長で、しかも論が上滑りしている気がしてしまう。
今までの書籍は、例えば韓国文化というしっかりした軸があり、その上で著者の文章が自由自在に遊びまわっていた感があった。
だが、本書の軸である「おれちん」は、そこまでしっかりとした概念ではないということなのかもしれない。
小泉やホリエモンの時代から安倍の時代に移り変わろうとしている現在を、著者の「おれちん」という軸(正確には、「おれちん」「おれさま」「ぼくちん」「ぼくさま」の軸)で見てみると、確かにその構図が非常にはっきりと見えてくる。
「おれちん」とは、ある意味「今の人たちは傍若無人で、全然周りのことを考えない」というありきたりの批判に別の名前を与えただけともいえるが、そんな彼らが生まれざるを得なかった背景の鋭さはさすがである。
そう、確かにわれわれは「個性を、個性を!」と言われて育てられ、しかもその概念を今度は放棄させられようとしている。
また、独白の日記調という構成もユニーク。
特に、ラストに至る過程は圧巻。
文学の香りすらしてくる。
だが、それでもあえて言わせてもらうと、本書は少々冗長で、しかも論が上滑りしている気がしてしまう。
今までの書籍は、例えば韓国文化というしっかりした軸があり、その上で著者の文章が自由自在に遊びまわっていた感があった。
だが、本書の軸である「おれちん」は、そこまでしっかりとした概念ではないということなのかもしれない。
2006年11月21日に日本でレビュー済み
著者の関心が「主体」にあることは、先の『歴史認識を乗り越える』でも明らかだった。そこでは日本的「主体」が、朱子学的序列の観点から「主体的主体」と「客体的主体」の枠組みで分析された。本書はこれを拡張し、自己評価の高低(おれvsぼく)、他者からの評価の高低(さまvsちん)の2つの軸を立てる。現在の日本的「主体」のあり方は表題どおりの「おれ+ちん」、つまり他者からの承認を欠いて自尊感情ばかり膨らませ、孤立している状態とされる。
この分類法は一見して単純・素朴にも感じられるが、従来の「主体」論が西洋語の人称構造を無自覚に踏襲し、しばしば能動/受動の対立軸しか持たなかった事情を考えれば、序列・関係性に焦点を当てた定式化として十分興味深い。
しかし本書においてより重要なポイントは、「主体」を論じるに際しての自己言及性の困難を回避、または緩和するための話法的実験だ。
論じる「対象」が「主体」である時、語り手の「主体」は棚上げできるのか? おそらくこの問いへの応答として、著者は語り手の一人称代名詞に一貫して「おれちん」を採用し、独自の「主体」論と語り手の自問自答をない交ぜにした日記形式を採用している。しかも語り手が著者自身であるともないとも取れる曖昧な位置に置かれ(自由間接話法?)、全体は小説と化している。つまり日本的「主体」論を遂行的に提示しているわけで、それが末尾の転向局面で効いてくる。
それにしても今回の小倉先生は、従来のクールでダンディな語り口から一転して、ヒヤリとするほど攻撃的だ。これも人称代名詞(=仮面)の効果だろう。
この分類法は一見して単純・素朴にも感じられるが、従来の「主体」論が西洋語の人称構造を無自覚に踏襲し、しばしば能動/受動の対立軸しか持たなかった事情を考えれば、序列・関係性に焦点を当てた定式化として十分興味深い。
しかし本書においてより重要なポイントは、「主体」を論じるに際しての自己言及性の困難を回避、または緩和するための話法的実験だ。
論じる「対象」が「主体」である時、語り手の「主体」は棚上げできるのか? おそらくこの問いへの応答として、著者は語り手の一人称代名詞に一貫して「おれちん」を採用し、独自の「主体」論と語り手の自問自答をない交ぜにした日記形式を採用している。しかも語り手が著者自身であるともないとも取れる曖昧な位置に置かれ(自由間接話法?)、全体は小説と化している。つまり日本的「主体」論を遂行的に提示しているわけで、それが末尾の転向局面で効いてくる。
それにしても今回の小倉先生は、従来のクールでダンディな語り口から一転して、ヒヤリとするほど攻撃的だ。これも人称代名詞(=仮面)の効果だろう。
2007年1月3日に日本でレビュー済み
「自分では偉いと思っているが、だけど内向している」存在である「おれちん」。それは、共同体なしで存在できるという新しい人間のタイプである。この「おれちん」について、政治家、経済人、スポーツ選手から市井の人々までを例に引いて、その思考回路を解明した本である。
本書の説明そのものは説得力がある。21世紀初頭に多数顕在化した人間類型を分かりやすく、生き生きと活写することに成功している。
また、本書の文体は何かを意識して模写されている。それは、ニーチェの「ツァラトゥストラ」である。また、章立てや項目立てを排除した構成もニーチェ晩年の著作を彷彿させる。ニーチェのように「価値転倒」を意図したものだろうか?
ただし、著者の執筆意図は分かりにい。「おれちん」の説明が十分にできればよいのか、「おれちん」出現は歴史的必然であり好む好まざるに関わらず受け入れなければならないのか、「おれちん」はできればこの世からいなくなった方がよいのか、何か他の意図があるのか、本書を3回繰り返して読んでも私にはよく分からないのである。
わずかに、末尾の「青い花」のエピソードが、「ある価値のために他者と心をひとつにし」、自己犠牲をしてでも「守るべきものを守る」ことの重要性(自閉している「おれちん」には無縁の価値観)を示しているに過ぎない(これだって感性が乏しい人は読み飛ばしてしまいそうだ)。
以上の欠点はあるにせよ、本書は長期間にわたって読み継がれていく可能性を持った一種の「思想書」として位置づけることが可能なように思える。
本書の説明そのものは説得力がある。21世紀初頭に多数顕在化した人間類型を分かりやすく、生き生きと活写することに成功している。
また、本書の文体は何かを意識して模写されている。それは、ニーチェの「ツァラトゥストラ」である。また、章立てや項目立てを排除した構成もニーチェ晩年の著作を彷彿させる。ニーチェのように「価値転倒」を意図したものだろうか?
ただし、著者の執筆意図は分かりにい。「おれちん」の説明が十分にできればよいのか、「おれちん」出現は歴史的必然であり好む好まざるに関わらず受け入れなければならないのか、「おれちん」はできればこの世からいなくなった方がよいのか、何か他の意図があるのか、本書を3回繰り返して読んでも私にはよく分からないのである。
わずかに、末尾の「青い花」のエピソードが、「ある価値のために他者と心をひとつにし」、自己犠牲をしてでも「守るべきものを守る」ことの重要性(自閉している「おれちん」には無縁の価値観)を示しているに過ぎない(これだって感性が乏しい人は読み飛ばしてしまいそうだ)。
以上の欠点はあるにせよ、本書は長期間にわたって読み継がれていく可能性を持った一種の「思想書」として位置づけることが可能なように思える。
2007年4月28日に日本でレビュー済み
おれちんはそう語った。おれちんはツアラトストラだっけ?名前をど忘れしたけど、その人に比肩するくらいおれちんなのである。
東西の哲学や思想を渉猟した著者ならでは書ける本。親しみやすい「おれちん」「おれさま」「ぼくちん」「ぼくさま」をキイワードにしているが、中身はなかなかどうして頗る深遠だ。
おれちんの三代表:小泉純ちゃん、ホリエモン、中田英寿は皆表舞台から退場した。いちばんかっこいいはずのおれちん代表は一体どうしてしまったのか?
アベちゃんに「美しい国」なんて勝手に規定して欲しくない。青い花を青い花がゆえに愛でる心、そして期せずして同じように青い花を愛でる隣人への限りなき共感。それがおれちん後の日本を救う心象であろう。
そうぼくちんは語った・・・。
東西の哲学や思想を渉猟した著者ならでは書ける本。親しみやすい「おれちん」「おれさま」「ぼくちん」「ぼくさま」をキイワードにしているが、中身はなかなかどうして頗る深遠だ。
おれちんの三代表:小泉純ちゃん、ホリエモン、中田英寿は皆表舞台から退場した。いちばんかっこいいはずのおれちん代表は一体どうしてしまったのか?
アベちゃんに「美しい国」なんて勝手に規定して欲しくない。青い花を青い花がゆえに愛でる心、そして期せずして同じように青い花を愛でる隣人への限りなき共感。それがおれちん後の日本を救う心象であろう。
そうぼくちんは語った・・・。