原武史は日本政治思想史を専門とする大学教授。鉄道の専門家ではないと自らは言うが、なかなかどうして鉄道関連の著書は誠に面白く決してはずれがないどころか読んでは感激している。人の住む土地を走る鉄道への愛つまり人間への愛情にあふれている。著者は4月26日いてもたってもいられず三陸鉄道に乗る。そして応援のために60万円分、1千枚の切符を買って知人に配った。愛がなければ出来ることではあるまい。
今度も期待以上の実に興味深い本であり、大いに目を開かされた。鉄道の視点から見た東日本大震災である。東北新幹線が開通してからというもの東京だけが栄え、JR東日本は効率と金儲けに意を砕くばかりで、ローカル線は廃れる一方。鉄道の衰えは町や村の衰退を招き、ついには過疎に到る。
JR東日本は震災当日早々に運転再開を断念し、主要駅でシャッターを閉めてしまった。被害にあった鉄道線を復旧しようとの意思ははほとんど感じられないという。「震災という非常時にこそ、人々が集まり、客と駅員が、あるいは客どうしが会話し、情報交換することで得られる精神的安らぎを無視してはならない」
ところが三陸鉄道は震災5日後に一部復旧させた。社長が被害現場を視察して周り、復旧を即断即決した。余震も続き新たな被害も予想される中社長の一存で走らせたのだ。試運転車が警笛を鳴らしながら時速25キロで走り始めたとき、沿線の住民は線路端に集まり、列車に向かって手を振った。運転再開は高校生や高齢者はもとより、津波によって車を流された地元住民に感謝された。鉄道が走ることはそれだけのインパクトを与えるのだ。復旧に踏み切ったのは、鉄道が地域の「公共の福祉」をになうとの強烈な使命感と三陸鉄道に対する愛情が駆り立てたのだと原武史はいう。3年後の全面復旧を目指すことも株主総会で決めている。
比較するのもひどくわびしいが5月連休前に合わせて新幹線だけを復旧させ、ローカル線の復旧を明言しないJR東日本。並行して走る特急を全廃したのも公共性を捨て金儲けだけに専心する姿勢の醜い現れだ。東京中心の地方無視の我が国の体質がこびりついているのだろう。政治も霞ヶ関もマスメディアも東京しか目に入らない。東京が使う電力を供給してきた福島原発の手ひどい被害に苦しむフクシマという構図とそっくりだ。地方からの収奪によって、その生き血をすすることで東京が生きている。。
東日本貨物が東日本大震災への対応では光っていた。3月18日から19日にかけて石油・ガソリンなどの燃料を載せてJR根岸駅を出発して奥羽本線を経由して青森まで走り、盛岡貨物ターミナルまで大回りして運んだ。大回りは東北本線と常磐線が復旧していなかったからだ。タンクローリーよりも大量にタンカーよりも早く運ぶことができる。貨物の優位は明らかなのに、わが国では国鉄民営化以来車にばかり頼っている。「まだ雪の残る阿賀野川の流域を。DD51の重速に引かれたタンク車の列がゆっくりと、しかし着実に走ってゆく様子は、それが単調であるぶん、かえって見る者に訴えかける迫力がありました」
DD51の勇姿よ、タンク車の寡黙で正直な列よ。私は津波で大きな被害を受けた町で過ごした。貨物列車の光景は、3月12日他県ナンバーの赤色燈をつけた消防自動車がサイレンを鳴らして何台も何台も町を走ったとき、涙ぐんだことを思い出した。
東京の視線では1%にも満たない人々などとあっさり切り捨てられる地方のローカル線。その復旧を原武史は熱く訴える。効率の名において赤字ローカル線を廃止し、高速道路の建設を進めてきた日本。幾千もの町や村が互いの、そして他の地域とのもっと良いつながりを奪われたことでこうむった損害はいかばかりか。
しかし、原武史は挽歌を歌い哀惜のメロディーを奏でているのではない。鉄道への愛は風景と人々への暮らしへの愛情なのだ。ローカル線の復旧はやろうと思えば十分に可能だと現状の変革を強く求めている。
他にディーゼル車がとてもたくましく効率も良いことや、リニア建設が巨大技術、産業としての原発と同じだとして強く反対するなど目を開かされることがたくさんある。現実に通用しているからといってその変化や動きはとりかえしのつかない誤りを含むことも教えてくれる。

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震災と鉄道 (朝日新書) 新書 – 2011/10/13
原 武史
(著)
シリーズ10万部突破の『鉄道ひとつばなし』(講談社)の著者が「震災」を語る。なぜ三陸鉄道はわずか5日で運転再開できたのか、首都圏の鉄道が大混乱したのはなぜか、関東大震災、阪神淡路大震災の教訓とは、そして今後の日本にふさわしい鉄道計画とは何か。車窓から、震災と日本が見えてくる。
- ISBN-104022734213
- ISBN-13978-4022734211
- 出版社朝日新聞出版
- 発売日2011/10/13
- 言語日本語
- 本の長さ224ページ
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登録情報
- 出版社 : 朝日新聞出版 (2011/10/13)
- 発売日 : 2011/10/13
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4022734213
- ISBN-13 : 978-4022734211
- Amazon 売れ筋ランキング: - 933,935位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2012年3月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2019年3月5日に日本でレビュー済み
震災に負けず、いち早く立て直し地元に勇気を与えた鉄道…
それに対し、JR東日本も東海も何をだらしないことをやってる、金もうけしか考えてない、自分たちが社会的インフラを担っている自覚はあるのかっ 喝)
って本です。
民営化民営化(ほかに国鉄の労組が政論上邪魔くさかったこともある)と言ってる陰で、
国鉄では一生懸命頑張っていた、国防とか防災とか地方の足とか…書いてないけど阪神大震災では西日本の手抜き設計が…
JRでは軽く無視されてます、ね。
いまこそJR東日本は、日本の東日本大震災からの復興に底時からを見せつけ存在意義を誇示するところではないのか?????
で締めます。
それに対し、JR東日本も東海も何をだらしないことをやってる、金もうけしか考えてない、自分たちが社会的インフラを担っている自覚はあるのかっ 喝)
って本です。
民営化民営化(ほかに国鉄の労組が政論上邪魔くさかったこともある)と言ってる陰で、
国鉄では一生懸命頑張っていた、国防とか防災とか地方の足とか…書いてないけど阪神大震災では西日本の手抜き設計が…
JRでは軽く無視されてます、ね。
いまこそJR東日本は、日本の東日本大震災からの復興に底時からを見せつけ存在意義を誇示するところではないのか?????
で締めます。
2011年11月9日に日本でレビュー済み
所詮鉄道マニアの繰言か、読みながら何度かそう思い
ました。ただしこれは著者を貶めるためではなく、著者と
共に悔しさを噛みしめるつもりで言っています。
著者が指摘する新幹線網の整備が過疎化を招き、そ
れがローカル線の経営を圧迫して廃線に導き、さらに過
疎化が進行するという悪循環は正にそのとおりでしょう。
またリニア新幹線建設は震災時の代替交通機関という
建前を切り崩し、鉄道技術の継承・発展が本来の目的で
その限りでは原発推進のそれと違いがないとしているの
にも賛成です。このような流れをみるなら、JR東日本が
震災による不通(豪雨で一部不通となった只見線を含む)
を口実にして多数の廃線に踏み切るかもしれぬという著
者の危惧も、その恐れなしとはとても言い切れないでしょ
う。
これに対し「第5章ローカル線の復旧はなぜ必要か」で
の「公共的空間としての鉄道」という視座は魅力的でし
た。例えば、鈴木弘樹『ご当地「駅そば」劇場』2010で
紹介されている駅そば店を起爆剤とした街おこしの事例
などこれの好例でしょう(本書によればJR東日本のエキ
ナカビジネスのせいで、老舗駅そば店が次々と閉店に追
い込まれているといいます)。これを立論の足場にして展
開し、巨大な輸送資本に対抗しさらにこれをコントロール
できる論理を構築できたらと強く思いました。
ました。ただしこれは著者を貶めるためではなく、著者と
共に悔しさを噛みしめるつもりで言っています。
著者が指摘する新幹線網の整備が過疎化を招き、そ
れがローカル線の経営を圧迫して廃線に導き、さらに過
疎化が進行するという悪循環は正にそのとおりでしょう。
またリニア新幹線建設は震災時の代替交通機関という
建前を切り崩し、鉄道技術の継承・発展が本来の目的で
その限りでは原発推進のそれと違いがないとしているの
にも賛成です。このような流れをみるなら、JR東日本が
震災による不通(豪雨で一部不通となった只見線を含む)
を口実にして多数の廃線に踏み切るかもしれぬという著
者の危惧も、その恐れなしとはとても言い切れないでしょ
う。
これに対し「第5章ローカル線の復旧はなぜ必要か」で
の「公共的空間としての鉄道」という視座は魅力的でし
た。例えば、鈴木弘樹『ご当地「駅そば」劇場』2010で
紹介されている駅そば店を起爆剤とした街おこしの事例
などこれの好例でしょう(本書によればJR東日本のエキ
ナカビジネスのせいで、老舗駅そば店が次々と閉店に追
い込まれているといいます)。これを立論の足場にして展
開し、巨大な輸送資本に対抗しさらにこれをコントロール
できる論理を構築できたらと強く思いました。
2011年11月25日に日本でレビュー済み
【 <揶揄> やら <下品な表現> やらを減らして幾分マイルドにしたリライト版(2013/6)は、コメント欄に掲載してあります】
5年ほど前に初めて著者の御本を評した際に「工学と経営に疎い」と評者は断じておいたのだが、その後改まるどころか近著に至ってむしろ重症化(開き直りか)している。本書でも、土木的地形的条件や人口分布をガン無視した、ひたすら自説に都合の良い比較(仙台・山形間と博多・佐賀間=天童や寒河江に長崎佐世保並みの流動が見込めるのか)、工学への恐ろしいまでの無知(東京〜鹿児島中央の直通新幹線は電動機か何かの技術的制約で走らないと思っているらしい...日の丸重電・重工も舐められたもんだ。あとは内燃動車の活用を、とか、そんなもの15両編成の過密ダイヤで走らせたら、燃油供給網は構築できるのか、NOxとSOxとPMはどうしてくれるのか)、贔屓の引き倒し(「いさぶろう」「しんぺい」を褒めちぎり「リゾートしらかみ」を酷評、ルミネは攻撃対象だが博多シティやアミュプラザへの批判は一切なし、目の敵にする鉄道会社のCSR報告書ひとつ読んだ形跡がない)など、一流私大→経済紙記者→最高峰国立大→学者という華麗なる経歴に似合わぬ杜撰な仕事ぶりにはいちいち驚かされる。ご当人はもう治るまいし、宗教系私学が誰を飼おうが構わないが、こういう本を嬉々として褒めちゃう手合いが、素人レビュアーばかりに留まらないという事態も興味深い。プロの怠慢が一般化してきたのかな。政治家と公務員とアメリカと東電とJR東日本は取り敢えず叩いておけばいい、という代々木・三宅坂・築地・竹橋的思考回路には眩暈がする。大規模小売店(最大手の創業家が民主党幹部を生んだり、非正規雇用比率が高かったり)を憎んでやまないアナクロ左翼党が「商店街を守りますッ」と区議選で絶叫しても、肝心の商店主は自民党古参現職に投票したりする、そんな滑稽さを漂わせる、築地新聞出版と白金学院教員(「ちぇんちぇ〜」)の共犯関係を味わいたい一冊。コンビニの弁当コーナーの前、あるいはファストフード店のレジ前で、スローフードの素晴らしさを演説するおっさん、という趣だ。
地域、特に被災地への「思い」を鉄道事業者に要求(強要か)するちぇんちぇ〜が、60万円の三陸鉄道切符を自腹で買ったとか、それはご自由なのだが、本書には、被災地の具体的な人、石巻の佐藤さんとか、志津川の梁川さんとか大船渡の鈴木さんとか綾里の宮沢さんとか、宮古の高橋さんとか田野畑の中村さんとかは一切出てこない。JR東への憎悪に煮凝りの如く凝り固まっている割に、運行指令員や保線作業員や駅員や乗務員やエキナカ開発担当者や店員、そして乗客・利用客へのインタビューもヒアリングも一切なく、従ってコメント一つ紹介できず、わずかに社長への陳腐な「ご提言」が書かれているだけだ。これが「手抜き」あるいは単なる感想文であることに、経済紙元記者(頭数として詰めてただけだろ)や全国紙の現役が気づかぬわけはないから、揃って読者を舐めているのであろう。あるいはまた、兵庫県姫路市網干の誰かさんが新快速には乗っても新幹線には乗らない、という一事例のみを以て盛大に新幹線をdisるのだが、そりゃ単に福山以西や名古屋以東に用がないだけでしょ。東海道新幹線に乗る機会のない名古屋市中村区民や飛行機に縁のない北海道千歳市民はいっぱいいるだろう。この種の、論証を欠いた、或いはサルでも反証を挙げられる論述が、学者の手になるというのは、にわかに信じがたいものがある。n=10とかn=2の調査で結論めいたものを導くのはお笑い種であるというのは三浦展や原田なんとか(H報堂)をウォッチしている者にはよく知られたズッコケ話だが、まさかのn=1を拝見して、下には下がいるものだと喫驚吃驚。古川から仙台への新幹線定期を持っている花沢さん姉妹とか、十鉄廃止で何も困らず七戸十和田から新青森も八戸も盛岡も仙台も行きやすくなって嬉しいという木村さんもちぇんちぇ〜の眼中にない。評者は仕事で時折下関を訪れるが、博多〜小倉は言うまでもなく、博多〜新山口なんていう値の張る定期券を持った乗客もよく見かける。川内〜鹿児島も新幹線が好評だ。地域社会を論じるのに研究室に籠もりっぱなしの学者は論外としても、単に東北新幹線と106急行を乗り継いで現地に「行けばいい」、というものではない。宣長や柳田や丸山やハーバーマスに親しむのは結構だが、現地での対人取材は省略ですか?
近代政治史に造詣の深いちぇんちぇ〜に対し、鉄道の如き近代文明の所産には均質化・画一化の機制がありまして、などというのは釈迦に説法の類であろう。そのあたりを説く関連文献も枚挙に暇なし(近年では、JR東への取材に偏重気味の三戸『定刻発車』など)だが、何故かこの御仁は鉄道に個性や多様性や文化を夢想(ドゥリーム)する。駅の蕎麦屋がJR東の連結子会社(NRE)統一オペレーションになり寂しいとか侘しいとか許せんとか、そういう個人的感想はあって構わないが、マス商売というのはそういうものだろう。蕎麦屋は顧客の支持があるならエキナカ立地にこだわらずとも駅前で商売を継続すればよく(小諸富士ゆで太郎と戦えれば、ね)、或いは家賃を倍払ってやるからとクソJR東に啖呵をきってみる手もある。運営者入れ換えで客離れが起き水揚げが減少していればテナント戦略も見直されるだろう。経営のマインドを欠いた「文化人」に商売を指南されても説得力は乏しい。地方在来線にどれほど乗ったことがあるのか疑わしい築地新聞記者とか、反論の取材も省略して安易に「体質」なんていう言葉を振りかざす竹橋新聞書評子の(生)氏とかの無責任な言論に煽られて、ちぇんちぇ〜の文化人枠の地位と自尊が固まってゆく。NREの駅蕎麦がお気に召さなければ、旧「グリーンカウンター」にご意見をお寄せになるとか、JR東の株でも買って株主総会で質してみればいいと思うのだが、この人は株の代わりに三鉄の切符を買う。その主要株主は自治体なのだが。被災地の鉄道については、評者も一鉄道好きとして再興を祈念してやまないが、Wikipediaを見れば、2010年の気仙沼駅・南気仙沼駅の1日当り乗客数合計が500名強、乗降客数は1,000〜1,100人といったところか。その大半を高校生と通院高齢者が占めるとすれば、費用を土建屋に注ぎ込んで鉄道復元がベストな選択か、別の交通弱者対策が有効か、議論の余地は大きい。JR東が主力商品かつ大量輸送機関である新幹線の復旧を急ぐのは当たり前で、沿岸路線の復旧とは切り離して運転再開を喜べばよいと思うのだが、文化人は気難しい。そのうち百けん(←文字化け回避のため平仮名)先生を凌ぐ偏屈ぶりを発揮されるだろう。平成版阿房列車としてちぇんちぇ〜の著作群が愛される日が近い。
雑誌のお仕事(「東京人」)などでお仲間的な間柄らしいK本三郎氏(「週刊ポスト」)など、本書へのそれこそ「情緒的」な賛辞が相変わらず見受けられる。3.11当日、JR東と私鉄・地下鉄で運転再開への動きに差が出た。評者も12日午前3時過ぎに東京メトロで帰宅して有難みを痛感した。当日のJR東の判断、対応に落ち度が皆無だとは言わないし、検証と改善は欠かせない。しかし、どこかのマチズモ知事やちぇんちぇ〜のように、単純な比較に基づく罵倒を繰り出す人々は、工学的な視点からの考察を欠いている。鉄道の運行は、土木に加え電力、信号、車両、乗務員その他を総合的に運営しなければ行なえない。路線網が面的になれば相互の接続に万全を期さないと、キャパシティの小さな結節点に消化しきれない数の乗客を送り込む惧れが高い。都営新宿駅とJR新宿駅では、業務の質がまるで異なり、言うまでもなく後者のオペレーションが圧倒的に(幾何級数的に)難度が高い。それを「安心」という、分かったようで実は情緒以外の何物でもないtermで説明した積りになっている学者や評論家は、つくづくおめでたい。つまるところ、ちぇんちぇ〜の一連のゲンロンがJR東にさしたる痛痒を及ぼしていないのは、それが素人の自慰的思い入れに基づく戯言の域を出ず、「じゃ、おまえやってみろよ」で瞬殺される程度だからだろう。マチズモ知事(および虎の威を借る腰巾着猪)のように権力を握っていればそれなりに相手にして貰えるんじゃないかな。「次」を狙ってみては如何でしょう。
さて、先に本書記述を改めて仔細に検証し、どこがどう問題なのか個別具体的に整理したものをコメント欄に順次アップし、諸賢のご批判を仰ぐ構成としたが、当該コメントは管理者により削除されたため、本文を再構成し、この機に従来の★★から★へ1つ減じた。<2012/3/20>
5年ほど前に初めて著者の御本を評した際に「工学と経営に疎い」と評者は断じておいたのだが、その後改まるどころか近著に至ってむしろ重症化(開き直りか)している。本書でも、土木的地形的条件や人口分布をガン無視した、ひたすら自説に都合の良い比較(仙台・山形間と博多・佐賀間=天童や寒河江に長崎佐世保並みの流動が見込めるのか)、工学への恐ろしいまでの無知(東京〜鹿児島中央の直通新幹線は電動機か何かの技術的制約で走らないと思っているらしい...日の丸重電・重工も舐められたもんだ。あとは内燃動車の活用を、とか、そんなもの15両編成の過密ダイヤで走らせたら、燃油供給網は構築できるのか、NOxとSOxとPMはどうしてくれるのか)、贔屓の引き倒し(「いさぶろう」「しんぺい」を褒めちぎり「リゾートしらかみ」を酷評、ルミネは攻撃対象だが博多シティやアミュプラザへの批判は一切なし、目の敵にする鉄道会社のCSR報告書ひとつ読んだ形跡がない)など、一流私大→経済紙記者→最高峰国立大→学者という華麗なる経歴に似合わぬ杜撰な仕事ぶりにはいちいち驚かされる。ご当人はもう治るまいし、宗教系私学が誰を飼おうが構わないが、こういう本を嬉々として褒めちゃう手合いが、素人レビュアーばかりに留まらないという事態も興味深い。プロの怠慢が一般化してきたのかな。政治家と公務員とアメリカと東電とJR東日本は取り敢えず叩いておけばいい、という代々木・三宅坂・築地・竹橋的思考回路には眩暈がする。大規模小売店(最大手の創業家が民主党幹部を生んだり、非正規雇用比率が高かったり)を憎んでやまないアナクロ左翼党が「商店街を守りますッ」と区議選で絶叫しても、肝心の商店主は自民党古参現職に投票したりする、そんな滑稽さを漂わせる、築地新聞出版と白金学院教員(「ちぇんちぇ〜」)の共犯関係を味わいたい一冊。コンビニの弁当コーナーの前、あるいはファストフード店のレジ前で、スローフードの素晴らしさを演説するおっさん、という趣だ。
地域、特に被災地への「思い」を鉄道事業者に要求(強要か)するちぇんちぇ〜が、60万円の三陸鉄道切符を自腹で買ったとか、それはご自由なのだが、本書には、被災地の具体的な人、石巻の佐藤さんとか、志津川の梁川さんとか大船渡の鈴木さんとか綾里の宮沢さんとか、宮古の高橋さんとか田野畑の中村さんとかは一切出てこない。JR東への憎悪に煮凝りの如く凝り固まっている割に、運行指令員や保線作業員や駅員や乗務員やエキナカ開発担当者や店員、そして乗客・利用客へのインタビューもヒアリングも一切なく、従ってコメント一つ紹介できず、わずかに社長への陳腐な「ご提言」が書かれているだけだ。これが「手抜き」あるいは単なる感想文であることに、経済紙元記者(頭数として詰めてただけだろ)や全国紙の現役が気づかぬわけはないから、揃って読者を舐めているのであろう。あるいはまた、兵庫県姫路市網干の誰かさんが新快速には乗っても新幹線には乗らない、という一事例のみを以て盛大に新幹線をdisるのだが、そりゃ単に福山以西や名古屋以東に用がないだけでしょ。東海道新幹線に乗る機会のない名古屋市中村区民や飛行機に縁のない北海道千歳市民はいっぱいいるだろう。この種の、論証を欠いた、或いはサルでも反証を挙げられる論述が、学者の手になるというのは、にわかに信じがたいものがある。n=10とかn=2の調査で結論めいたものを導くのはお笑い種であるというのは三浦展や原田なんとか(H報堂)をウォッチしている者にはよく知られたズッコケ話だが、まさかのn=1を拝見して、下には下がいるものだと喫驚吃驚。古川から仙台への新幹線定期を持っている花沢さん姉妹とか、十鉄廃止で何も困らず七戸十和田から新青森も八戸も盛岡も仙台も行きやすくなって嬉しいという木村さんもちぇんちぇ〜の眼中にない。評者は仕事で時折下関を訪れるが、博多〜小倉は言うまでもなく、博多〜新山口なんていう値の張る定期券を持った乗客もよく見かける。川内〜鹿児島も新幹線が好評だ。地域社会を論じるのに研究室に籠もりっぱなしの学者は論外としても、単に東北新幹線と106急行を乗り継いで現地に「行けばいい」、というものではない。宣長や柳田や丸山やハーバーマスに親しむのは結構だが、現地での対人取材は省略ですか?
近代政治史に造詣の深いちぇんちぇ〜に対し、鉄道の如き近代文明の所産には均質化・画一化の機制がありまして、などというのは釈迦に説法の類であろう。そのあたりを説く関連文献も枚挙に暇なし(近年では、JR東への取材に偏重気味の三戸『定刻発車』など)だが、何故かこの御仁は鉄道に個性や多様性や文化を夢想(ドゥリーム)する。駅の蕎麦屋がJR東の連結子会社(NRE)統一オペレーションになり寂しいとか侘しいとか許せんとか、そういう個人的感想はあって構わないが、マス商売というのはそういうものだろう。蕎麦屋は顧客の支持があるならエキナカ立地にこだわらずとも駅前で商売を継続すればよく(小諸富士ゆで太郎と戦えれば、ね)、或いは家賃を倍払ってやるからとクソJR東に啖呵をきってみる手もある。運営者入れ換えで客離れが起き水揚げが減少していればテナント戦略も見直されるだろう。経営のマインドを欠いた「文化人」に商売を指南されても説得力は乏しい。地方在来線にどれほど乗ったことがあるのか疑わしい築地新聞記者とか、反論の取材も省略して安易に「体質」なんていう言葉を振りかざす竹橋新聞書評子の(生)氏とかの無責任な言論に煽られて、ちぇんちぇ〜の文化人枠の地位と自尊が固まってゆく。NREの駅蕎麦がお気に召さなければ、旧「グリーンカウンター」にご意見をお寄せになるとか、JR東の株でも買って株主総会で質してみればいいと思うのだが、この人は株の代わりに三鉄の切符を買う。その主要株主は自治体なのだが。被災地の鉄道については、評者も一鉄道好きとして再興を祈念してやまないが、Wikipediaを見れば、2010年の気仙沼駅・南気仙沼駅の1日当り乗客数合計が500名強、乗降客数は1,000〜1,100人といったところか。その大半を高校生と通院高齢者が占めるとすれば、費用を土建屋に注ぎ込んで鉄道復元がベストな選択か、別の交通弱者対策が有効か、議論の余地は大きい。JR東が主力商品かつ大量輸送機関である新幹線の復旧を急ぐのは当たり前で、沿岸路線の復旧とは切り離して運転再開を喜べばよいと思うのだが、文化人は気難しい。そのうち百けん(←文字化け回避のため平仮名)先生を凌ぐ偏屈ぶりを発揮されるだろう。平成版阿房列車としてちぇんちぇ〜の著作群が愛される日が近い。
雑誌のお仕事(「東京人」)などでお仲間的な間柄らしいK本三郎氏(「週刊ポスト」)など、本書へのそれこそ「情緒的」な賛辞が相変わらず見受けられる。3.11当日、JR東と私鉄・地下鉄で運転再開への動きに差が出た。評者も12日午前3時過ぎに東京メトロで帰宅して有難みを痛感した。当日のJR東の判断、対応に落ち度が皆無だとは言わないし、検証と改善は欠かせない。しかし、どこかのマチズモ知事やちぇんちぇ〜のように、単純な比較に基づく罵倒を繰り出す人々は、工学的な視点からの考察を欠いている。鉄道の運行は、土木に加え電力、信号、車両、乗務員その他を総合的に運営しなければ行なえない。路線網が面的になれば相互の接続に万全を期さないと、キャパシティの小さな結節点に消化しきれない数の乗客を送り込む惧れが高い。都営新宿駅とJR新宿駅では、業務の質がまるで異なり、言うまでもなく後者のオペレーションが圧倒的に(幾何級数的に)難度が高い。それを「安心」という、分かったようで実は情緒以外の何物でもないtermで説明した積りになっている学者や評論家は、つくづくおめでたい。つまるところ、ちぇんちぇ〜の一連のゲンロンがJR東にさしたる痛痒を及ぼしていないのは、それが素人の自慰的思い入れに基づく戯言の域を出ず、「じゃ、おまえやってみろよ」で瞬殺される程度だからだろう。マチズモ知事(および虎の威を借る腰巾着猪)のように権力を握っていればそれなりに相手にして貰えるんじゃないかな。「次」を狙ってみては如何でしょう。
さて、先に本書記述を改めて仔細に検証し、どこがどう問題なのか個別具体的に整理したものをコメント欄に順次アップし、諸賢のご批判を仰ぐ構成としたが、当該コメントは管理者により削除されたため、本文を再構成し、この機に従来の★★から★へ1つ減じた。<2012/3/20>