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「善人」のやめ方 (oneテーマ21) 新書 – 2012/7/10

4.0 5つ星のうち4.0 48個の評価

「世間」の言うことは嘘ばかり。
人生の問題は気づいたときには遅すぎます。
世間の目など相手せず、自分のための人生を送る方法を、西洋文学や仏教を題材にわかりやすく解説します。
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商品の説明

著者について

1936年、大阪府生まれ。東京大学印度哲学科卒業。同大学院博士課程修了。65年から85年まで、気象大学校教授を務める。仏教を中心とした宗教全般について、逆説やユーモアを駆使してわかりやすく解説し、年齢・性別を問わず幅広い人気を得ている。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 角川書店(角川グループパブリッシング) (2012/7/10)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2012/7/10
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 203ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4041102839
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041102831
  • カスタマーレビュー:
    4.0 5つ星のうち4.0 48個の評価

著者について

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ひろ さちや
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カスタマーレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2020年2月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
『善人とは他人を悪人にすることによってしか自分が善人になれない』
私は「なんて善人だ」と感じるのも、他人から「良い人ね」と言われるのも、世間の物差しで測られた比較からでしか成り立たないということでしょうか。

どんだけ世間の物差しにがんじがらめにされているか、改めて認識させられる本です。

『立派な人生』も『惨めな人生』も人様が決めた尺度と思うと、人間、何をそんなに品行方正で気高く生きようとするのか笑ってしまいます。他人からみてダメでも自分が面白いならいいかと思えてきました。
ただこの状況面白くないとか、嫌だなと思っているなら改善する。でも、あくまでも自分の考えで‥‥そんなことを学んだ本です。
2015年7月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
世間なんか気にせずもっと自由にのびのびと生きよ、それが本当の生き方、
自分を大事に、世間の雑音に耳を傾ける必要はない、確かに真理を突いてる、
リタイヤした世代には心地よい響きであるが現役世代はこのとおり実践すると
組織からはみ出すリスクがあるのである意味難しいテーマである。
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2022年12月31日に日本でレビュー済み
宗教評論家ひろさちやさんによる生き方指南書。
主に仏教とイギリスの作家サマセット・モームから学んだ人生訓が書かれている。
著者によると、仏教とモームの主張には共通点があり、
それは『人生に意味はない』ということのようだ。

『意味はない』とは、我々が普段考えてしまう『こうあらねばならない人生』という
目指すべき人生は存在しないということらしい。
お手本となる『立派な人生』が存在するという思い込みが、
我々を悩ませ苦しませると言うのだ。

だから各自が好きなように生きればいい。
法に触れない限りそれは自由なのだということが書かれている。
著者の基本姿勢が宗教から来ているので、どうしても浮世離れした感は否めない。

タイトルにある『善人』も『いい人』ではない。
宗教でいう『善』とは『仏』のことで、
それ以外は(つまり人間は全て)『悪人』らしい。
つまり人間である以上『善人』とは言わない。
まぁせいぜい『菩薩(仏に向かって歩き続ける者)』ぐらいしかいない、
だから「自分は善人です」なんて言う奴は要注意。偽善者なのだと。

人間は仏様にはなれないのだから、仏教でいう『善人』になろうとすれば苦しいだけ。
だからそんなのやめて、もっと気楽に自由に生きればいいよ、
ということをサマセット・モームの作品との共通項を指摘しながら語るのだが…

まぁすごいですね、宗教ってやつは♪
仏様以外は全て悪人って言い切っちゃうんだから。うん。なかなか言えない。

そりゃあね、その通りだと思う。
ただ、普段から仏になろうと精進する人なんかいないだろうし、不完全のままでいいと言われても、
「ハイ、さようですか♪」と好きなように生きられる人は少ないはず。
特に現役の働く世代などは、好き勝手に生きたら即、会社クビでしょうね。
だからこの本に書かれているように生きるのはほぼ無理だと思う。
ではこの本は読むに値しないかというとそうではない。
私が読んで良かったと思う点が2つあった。

一つは『因縁(原因と条件)』についての記述だ。
例えば、仏教では発芽する種が『因』で、
そのタネを育てる条件である土、水、温度を『縁』と言うらしい。
この縁起の理論で考えると、善人と呼ばれる人が善人でいられるのは、
そういう条件に恵まれているからで、本人の意思によるものではないとなる。
だから自惚れてはいけないよと。
条件が変われば悪いことをしてしまう可能性は常にあることを忘れるなと。

こんなの科学では絶対に証明できないけど、ああなるほど♪ って思うわけ。

「なぁお前~ よう聞け~ お前が善人でいられるのはなぁ~
お前の心が善やからちゃうねん。たまたまや。
それ忘れたらあかんよ~!」て、仏様は言いますなぁ。

続けて仏様は言いますよ。
「なぁ、そこの働き者よ~ お前は自分が勤労や思とるやろがちゃうで~!
お前働き者ちゃうねん。たまたま働く条件に恵まれとるだけや。
条件が変われば、怠け者になるやもしれん~ それ忘れたらあかんよ~!」

何で仏様がインチキ関西弁を話すのかはさて置いて、
この縁起の考え方はね、なんかいいなと♪
条件に恵まれた人が才能を伸ばせることは証明されているらしい。
すぐれた才能を持っていても、条件(運)に恵まれなければ成功しない。
逆に、普通の才能の持ち主でも、条件(運)に恵まれれば成功する。
そういう調査をした人がいるらしい。YouTube動画の情報だけど♪

でもこれはそうだろうなと思う。
優れた才能があっても運に恵まれないと伸びないだろうし、
そこそこの才能でも運に恵まれればグングン伸びると思う。
その意味でも人生は不公平だったりするのだ。
成功の条件が必ずしも優れた才能だけではないという事実。
これ本当だと思う。残酷だけど。

だから、今成功している人は自惚れてはいけない。
あんたの実力ちゃうねん。良い因縁に恵まれただけや。
それ忘れたらアカン!!

二つ目は、優等生と劣等生についての記述だ。
そもそもこの世には何で優等生と劣等生がいるのか?
普通生でええやん。何で優劣つけますねんと。

こういうことにも仏教はいいこと言いますよ。
私のような劣等生は感動しましたから♪

仏教は言います。それは役割分担だと。
つまりね、優等生と劣等生の役割がこの世には必要らしいのだ。
特に劣等生の役割は、一握りの優等生を作るために必要不可欠だと。
劣等生がいなければ優等生は存在できないから。
この世は全てプラスとマイナスで成り立っているので、プラスだけではアカン。
マイナスも必要やと。そのマイナスの役割分担が劣等生なのだと。

もう仏教はね、こういうことをしゃあしゃあと言いますね。すごいよ。
私のような劣等生は生まれた時から損な役割与えられてたまらんですよ。
もっといい配役にしてくれよと。

しかし仏様は私の悲痛な訴えにひるむことなくこう言います。

なぁお前~ 辛いやろなぁ~(そら辛いよ!)
我慢しておくれ~(我慢出来ん!)
優等生を作るためには、お前が必要やねん(他に頼めんのかい!)
アンタがええねん。アンタでなきゃならんのや~(だから、他にもおるやろて!)
お前は劣等生のまま、明るくのびのびと生きてほしい~(そら単なるアホや~!)

私が劣等生としてこの世に生まれたのはそういうわけらしい。
おい誰だ、人が真剣に書いてるのに笑いながら読んでる奴は。
はは~ん、優等生だな♪

一方で仏様はこう言います。
なぁ~ そこの優等生よ。お前、劣等生をバカにしたらアカンがな~
可哀想思わんのかい?(思わんね♪)
そんな冷たいこと言うたらアカンがな~(何でよ?)
お前が優等生なのは、何でか知っとるか~(そら実力や!)
アホ、実力ちゃうねん。役割分担や!(何の役割やねん?)
ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)て知っとるか~?(知らん!)
ほんまアホやなぁ~ 優れた能力を持つ者はなぁ~
その力を社会に還元せなアカン言うこっちゃ~(そんなんイヤや、めんどいがな)
めんどい言うたらアカン! 還元しなさい!(うるせぇ!)
あっ、仏に喧嘩売りますの?(ふん!)
ふんて何やねん。仏様を鼻で笑たらアカンがな(仏なんかおらん!)
何て?(仏などおらん! 非科学的や! うざいねん! 消えてくれ!)
あっ、仏様になんちゅうことを!(何度でも言うたるわい、ボケ!)
テメェ、仏を侮辱してタダじゃすまねえぞ! しばいたろかこのガキ~!(ゲッ!)

こういう優等生は死んだ方がいいと(そんなことは書いてない!)

人間は肉体だけでなく、その本体は魂だと言います。
この世はその魂が修行をする場所であると。
本当かどうかはわからないが、私はこういう考え方が好きである。

この考え方によると、優等生と劣等生にもこの世での修行目的があるはずだ。
では、優等生の修行とは何だろう?
もう優秀なんだから、修行なんかせんでもええよ! ということだろうか?
『高貴なる者の義務』という考えに従えば、その優秀な力を還元する必要がある。
還元する相手はやはり力の弱い者(劣等生)ではないだろうか。
大きな力を持つ者にはその義務があり、そのために力が与えられているのだ。
こう考えると筋が通る。非科学的だけど♪

一方、劣等生の修行は優等生から助けてもらうことではないはずだ。
それではあまりにも受け身すぎる。
一つは、『弱者の論理』を振りかざさないことだろう。
弱いのだから助けてもらって当然と主張するだけでは修行にならない。
この点では、弱者も強者も求められるのは謙虚な姿勢だ。

強いから弱いものを支配して当然。
弱いから助けてもらって当然。
この考え方は、謙虚さからは程遠い。

弱者の修行の2つ目は、
大きなリスクを負って一生を過ごさねばならないという意味だ。
本当に弱ければそのリスクに耐えられないと思う。
ということは、劣等生として負の重荷を背負って生まれてくる魂は、
その重荷に耐え得る力を持っている。理屈ではそうなる。
この重荷に耐えることが修行になるのかも? キツイぜ!

弱者ほど強靭な魂を持っているということは科学では証明できない。
これはもう、そう信じるしかない。宗教抜きにして。

強者の修行は、弱者にどう接するかで決まり、
弱者の修行は、強者にどう接するかで決まるということか?

魂が生まれ変わりを繰り返し、自らを磨くとすれば、
弱者と強者の魂は時に入れ替わることもあるだろう。
「アンタこの前強かった(弱かった)んだから、
今生は弱く(強く)生まれてね」と。
つまり両者は本来一つのものとも考えられる。

前に読んだ池田清彦教授の著書『ナマケモノに意義がある』という本の中に、
働きアリと怠け者アリが、条件が変わると入れ替わるという記述がある。
これとなんか似ているなぁ~と♪

人間界でも働き者と怠け者は時に入れ替わることがある。
サマセット・モーム曰く。「首尾一貫性のある人間など見たことがない」
生物は常にどちらかに転ぶ可能性があり、どちらに転ぶかは因縁によって左右される。
自分の意思だけではないのかもしれない。
ただ、ひろさちやさんがこの本で述べる怠け者は私には受け入れ難い。

怠け者がより怠け者になる。それが個性を伸ばすことです。(P.184)
「俺が怠け者であってなぜいけないんだ。文句があるなら仏に言ってくれ!」
そう思っていればいいんです。なにも世間に遠慮する必要はありません。(P.191)

う~ん、どうなんだろうこれ?
まぁ、何らかの因縁によってたまたま怠け者になっているだけで、
自分のせいじゃないと言うのでしょうが… なんかしっくりこないですね。
ひろさちやさんは皮肉屋なので、あえてこう書くのでしょうが… う~んですね。

弱者と強者、劣等生と優等生、怠け者と働き者。
これらは役割分担であり、因縁により繋がっている。
さらに魂のレベルでは一つの魂の今生での修行の形なのかもしれない。

生物学者と宗教評論家という異なるジャンルの書き手が、
人間(生物)というものを共に『怠け者』という言葉を使って表しているところが、
偶然なんだけど面白いなぁ~♪ と思うのだ。

働くことと怠けること、強いことと弱いこと、優秀なことと劣ること。
これらは全て、人間の変化形であり、どちらに転ぶかわからない。

今生で働き者でも、前世では怠け者だったかもしれない。
今生で弱くても、前世では強かったかもしれず、
今生で優秀でも、前世では劣っていたかもしれない。

人間は時を超え、首尾一貫性などなく、どちらにでもなり得る存在だと思うと、
少しは謙虚な気持ちになれるのではないでしょうか?(そんなんなれるかい!)
たまたまですが、続けて面白い本を読めて楽しかったです♪

さてあなたはどちらでしょうか?
優等生でしょうか、それとも…

読み方によっては、ちょっと面白い本なのでお勧めいたします。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2017年5月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「捨てる」表現よりも、こだわらない。
「変える」よりも、まんまでいい。
なんて、言葉を使ってみると新たな世界を感じられる。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2018年5月6日に日本でレビュー済み
世間のしがらみから自由になりたいときに
背中をひと押ししてくれる本です。

著者はよくサマセット・モームの 自伝的小説
"Of Human Bondage" を引き合いに出します。
本書でも、bondage とは、連帯の意味ではなく、
束縛の意味だと念を押したうえで、
この bondage から解放されることは、
仏教でいう世間のしがらみから自由になることだといいます。

モームの人生観の骨子である「人生に意味はない」とは:
 人生は無意味だが、生きる価値はある。
 生きる目的もある、それは各自が勝手に決めればよい。
 各自が好きなように各自の人生を生きればよい。
 だから各自の主体性に任されている。

それを釈尊の言葉でいえば、
 「自分自身をよりどころとしなさい。
 法をよりどころとしなさい」となるのだが、
 じつは、その順番が重要だと、著者は強調します。

法をよりどころとしなさい、と法を優先すれば、
へたをすれば法の奴隷になる、ということです。
それでは、せっかく世間の束縛から逃れたのに、
別の束縛を受けるだけです。
世間よりも、法よりも先に、
自分自身がよりどころでなければ、
それこそ束縛の人生になってしまいます。

ワクワクするおもしろい本でした。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2016年2月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ひろさちやさんのご本は何冊か読ませて頂いていますが、この「善人」のやめ方もとても楽しく拝見しました。
勿論、この中に書かれている事ができる人は、お釈迦様くらいでしょうが、
凡人が悟りの精神を垣間見るには良い本ではないでしょうか。
まぁ賛否両論分かれるかもしれませんが、私としては面白かったですね。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2016年2月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
人生に意味はない、そういう生き方もあるんだなぁと勉強になりました。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2013年3月22日に日本でレビュー済み
本文ではじまって対話形式な構成で混乱しました。まえがきにも「誰と話している」「質問に答える」あるいは「架空の人と対話する形式で話をすすめます」など一言もなく、はじまった会話にはまず「いつから相槌をする人が湧いて出てきたのか」という疑問で本文からまたまえがきに戻るという余計な手間を消費しました。(全部結局ひとりで対話考えてかいてるんだったら最後の対話がちょっと嫌です」)
内容としては前書きのときから少しずつ違和感があったんですが、やたら読んでいる私は悪くない、といってくれんばかりに私のことを認めてくださるわけですが、二言目には世間が悪いとおっしゃられては先に「世間はわれわれでもある」と書かれた日にはあっちでよしといわれたのに結局はダメったという絶対の逃げ道のない感じがしてとても悲しくってきます。そして、筆者が想定する読者のモデルケースというのが存外に小さく、よく語られるのは定年の男性のお話ですがら、世界はこうなっているんだよと言われても、男でなく雇用形態の変化もあり、どうしても私は共感がしがたいです。個々の主張は納得できるものがありますが、反体制気味なところがあってやたら敵意を国とか経済産業になげたがる。この作品をを読んだ人が体制から外れるのはよしとしてみなが善人をやめたらどうなうるか、というところまでかいてほしかったという気持ちがあります。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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