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山羊の歌: 中原中也詩集 (角川文庫クラシックス な 4-2) 文庫 – 1997/6/1
ダブルポイント 詳細
一九三四年に刊行された処女詩集『山羊の歌』全編と、15歳の時の合同歌集『末黒野』収録の全短歌を採録。また同時期の詩歌の中から代表作を精選し、中原中也が詩壇に登場するまでの創作の全貌に迫る。
- 本の長さ252ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日1997/6/1
- ISBN-104041171024
- ISBN-13978-4041171028
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登録情報
- 出版社 : KADOKAWA (1997/6/1)
- 発売日 : 1997/6/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 252ページ
- ISBN-10 : 4041171024
- ISBN-13 : 978-4041171028
- Amazon 売れ筋ランキング: - 762,686位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,598位戯曲・シナリオ (本)
- - 3,688位詩歌 (本)
- - 11,945位角川文庫
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上位レビュー、対象国: 日本
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2017年1月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
母に頼まれて中原中也の作品を購入しました。入荷に時間がかかりましたが、よいものが届いて喜びました。
2016年7月23日に日本でレビュー済み
また明日(あした),という希望を中原中也が放擲しなかったことを認めるにやぶさかでない。しかし,いつも孤独,という自己の歌を中原中也は書き続け,突然,青春に訣別を告げた詩人である。青春の挽歌が『山羊の歌』であり,『在りし日の歌』である,と言えよう。
* * *
山羊か羊か 『山羊の歌』は,中原中也が生前刊行した唯一の詩集であり,「初期詩篇」「少年時」「みちこ」「秋」「羊の歌」という五部から成立している。『山羊の歌』という表題であるが,この詩集から同名の詩篇を見出すことはできない。相似の詩篇名をあげるならば,「羊の歌」ということになるだろう。とはいえ,やはり山羊と羊は似て非なるものである。作者の「後記」もないために,なぜ羊ではなく山羊なのか,という理由を知ることはできぬ。が,その反面,山羊の方が羊よりも白いイメージ,つまり空白感を付与しやすかったのではないか,などと自由自在に解釈することも可能だ。ここでは,「山羊か羊か」ということは問題にしない。それよりも,「山羊も羊も」考えた作者の生と歌を考察したい。
結構について 小説で言うと,『山羊の歌』44篇の結構は五段構造の上昇的漸層法である。つまり,1「初期詩篇」22篇(発端)で物語の端緒となる事件や性格が説明される。2「少年時」9篇(開展)で性格や境遇を描写しながら,事件が展開する。3「みちこ」5篇(頂点)で事件もしくは性格の必然の発展から,避けることのできない最高潮に達する。4「秋」5篇(解明)で事件は回転して解明に向かう。5「羊の歌」3篇(結尾)で事件や性格は解決に至る。とすれば,中也にとって事件とは何であったのか。
中也詩の核心(コア) もちろん,中也の事件が現実のそれでないことは言うまでもない。言わば,それは中也の心象風景(幻想)である。中也詩の題名に季語(春・夏・秋・冬)や時刻語(朝・昼・夜)が多いことも,首肯のできることだろう。しかし,心象風景と言っても,現実に存在しないものだけとは限らない。現実に存在しない風景であるが,現実に存在するかもしれない風景,また現実に存在したかもしれない風景,というのもあるのではなかろうか。そういう風景は,現実の風景と言うべきか,あるいは心象風景と呼ぶべきか。つまり,心象風景の事件と限定しても,中也の事件が直接に了解されるわけではない。けれども,中也の心象風景が,まさに中也詩の核心(コア)なのだ。
少年時への入口 「初期詩篇」は少年時への入口である。中也は茶色い戦争や桃色の花やはなだ色の空を歌う。過去への追惜は,時にはノスタルジアとなり,時には含羞となり,また時には諦念となって出現する。「臨終」の娼婦への哀惜は,また同時に愛人を失った自己への哀惜でもあった。<この魂はいかにとなるか?/うすらぎて 空となるか?>と言った時,中也の心の色は何色であっただろうか。この呟きは,死に対する畏怖とも生に対する安堵とも取れる。ささやかな祈りにも似た感情は,<これが私の故里(ふるさと)だ/さやかに風も吹いてゐる/心置なく泣かれよと/年増婦(としま)の低い声もする>(「帰郷」)とあどけない愁(かなし)みを呈している。そして,それは<山沿ひの道を乗手(のりて)もなく行く/自転車のこと>(「逝く夏の歌」)や<摘み溜めしれんげの華を/夕餉に帰る時刻となれば/立迷ふ春の暮靄(ぼあい)の/土の上(へ)に叩きつけ>た時代(「春の思ひ出」)を語り始める。
過去への追惜 「少年時」は過去への追惜である。少年時,既に中也は希望を唇に噛みつぶし,ギロギロする目で諦めていた。その青春は,<堅い血管となり、/その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる>(「盲目の秋」)。愛人の失踪事件により,心は盲目となり,人生に秋しか感じなくなった,というのだろう。相手を美化し,自己を卑下する告白は,言い立てる必要もあるまい。が,絶えず後退する姿勢は,同情を集めることはできても,支持を得ることはできないのではあるまいか。つまり「妹よ」と呼びかけても,それが憐愍という優しい感情の連帯を結びはしないだろう。それにもかかわらず,中也は,<きらびやかでもないけれど/この一本の手綱をはなさず>(「寒い夜の自我像」)と詩に沈潜する決意を吐露している。<嵐のやうな心の歴史>は終焉を告げ,<燃ゆる日の彼方>に睡ってしまう。以後,亡骸(なきがら)としての存在が,<血を吐くやうなせつなさかなしさ>(「夏」)を語り始める。
愛人への哀惜 「みちこ」は愛人への哀惜である。中也は愛人を「みちこ」と架空の女性名で呼び,その女性を讃美する。ここに,一個の魂の憧憬と悔恨を認めることは容易であるだろう。そして,期待が甚大であれば,それと同様に,失望も甚大であることを知ることも。しかし,かえって,本当に愛しているならば寡黙であれ,と自己に言い聞かせたくなるものである。それ故に,私は中也を完全無欠に愛することができない。ともすれば中也の饒舌が,うさんくさく感じられてならないのである。すなわち,本当に悲しいならば,「汚れつちまつた悲しみに……」と歌ってはならぬ。なぜなら,青春の老成(成熟)とは沈黙のうちに悲しみを堪え忍ぶことに他ならないのだから。それ故に,私は中也の幼児性に訣別しなければならない。中也の心が絶えず,<追惜のおもひ>(「つみびとの歌」)を語る故に。
青春への挽歌 「秋」は青春への挽歌である。秋は,春の対極に位置する。春が青春や生や光を意味するならば,秋は老成や死や影である,と言ってよい。中也は自己の後退性を自覚している。後退性を自覚しているが,脱出しようとはしない。むしろ,積極的に自己を死の中へ埋没させていく。青春を喪失した生は,死と同じであり,本当の<死ももう、とほくはないのかもしれない>と考える。つまり,肉体は生の領域に静止し,精神は死の領域を飛行し始めているのである。言いかえれば,肉体は縁側に立って,どうやら黄色い蝶々(自己の魂)の行く方をジツと見ているらしい。精神は<私の青春も過ぎた>と言い切って,<せつないことのかぎりなり>(「修羅街輓歌」)と枯淡の心境に近づく。そして,ついには<私の上に降る雪に/いとねんごろに感謝して、神様に/長生したいと祈>る(「生ひ立ちの歌」)地点に到達するのである。
晩年への述志 「羊の歌」は晩年への述志である。心は<単純と静けき呟きと、/とまれ、清楚のほかを希>うことはなく,純粋無垢な世界を幻想する。しかし,それは現世ではないように思われる。幼児と共存する時間は,他界のものであり,<旅とみえ、幼き日とみゆもの>であるだろう。しかし,中也はそのような自己と対決しようとはしない。ただ<怠惰の窗の中から/扇のかたちに食指をひろげ>,<青空を喫ふ 閑(ひま)を嚥む/蛙さながらに水に泛んで>(「憔悴」)いるだけである。<それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!>と中也が言う時,その心はおそらく鈍色の空のように暗いにちがいない。とすれば,果たして中也は生の渇望を喪失したのだろうか。<それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?/すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!>(「いのちの声」)。つまり,中也は生の渇望を喪失しているのではなく,その渇望する対象を喪失しているにすぎないのである。従って,<されば要は、熱情の問題>であり,<ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はない>と言う。だが,死に憑かれて,現世と来世を行き来する心情は,理解することができても,その生き方を肯定することはできぬ。かつて歌人を志したことのある中也であれば,「しのぶれど色(いろ)に出(いで)にけり我恋(わがこい)は物や思(おもふ)と人の問迄(とうまで)」という一首を知らないはずはないだろう。かくして,中也が死児の齢を数える故に,私は中也の後退性に訣別しなければならない。また,その青春が真摯で清楚で純粋すぎる故に,私は中也の幼児性に訣別を告げる。
* * *
山羊か羊か 『山羊の歌』は,中原中也が生前刊行した唯一の詩集であり,「初期詩篇」「少年時」「みちこ」「秋」「羊の歌」という五部から成立している。『山羊の歌』という表題であるが,この詩集から同名の詩篇を見出すことはできない。相似の詩篇名をあげるならば,「羊の歌」ということになるだろう。とはいえ,やはり山羊と羊は似て非なるものである。作者の「後記」もないために,なぜ羊ではなく山羊なのか,という理由を知ることはできぬ。が,その反面,山羊の方が羊よりも白いイメージ,つまり空白感を付与しやすかったのではないか,などと自由自在に解釈することも可能だ。ここでは,「山羊か羊か」ということは問題にしない。それよりも,「山羊も羊も」考えた作者の生と歌を考察したい。
結構について 小説で言うと,『山羊の歌』44篇の結構は五段構造の上昇的漸層法である。つまり,1「初期詩篇」22篇(発端)で物語の端緒となる事件や性格が説明される。2「少年時」9篇(開展)で性格や境遇を描写しながら,事件が展開する。3「みちこ」5篇(頂点)で事件もしくは性格の必然の発展から,避けることのできない最高潮に達する。4「秋」5篇(解明)で事件は回転して解明に向かう。5「羊の歌」3篇(結尾)で事件や性格は解決に至る。とすれば,中也にとって事件とは何であったのか。
中也詩の核心(コア) もちろん,中也の事件が現実のそれでないことは言うまでもない。言わば,それは中也の心象風景(幻想)である。中也詩の題名に季語(春・夏・秋・冬)や時刻語(朝・昼・夜)が多いことも,首肯のできることだろう。しかし,心象風景と言っても,現実に存在しないものだけとは限らない。現実に存在しない風景であるが,現実に存在するかもしれない風景,また現実に存在したかもしれない風景,というのもあるのではなかろうか。そういう風景は,現実の風景と言うべきか,あるいは心象風景と呼ぶべきか。つまり,心象風景の事件と限定しても,中也の事件が直接に了解されるわけではない。けれども,中也の心象風景が,まさに中也詩の核心(コア)なのだ。
少年時への入口 「初期詩篇」は少年時への入口である。中也は茶色い戦争や桃色の花やはなだ色の空を歌う。過去への追惜は,時にはノスタルジアとなり,時には含羞となり,また時には諦念となって出現する。「臨終」の娼婦への哀惜は,また同時に愛人を失った自己への哀惜でもあった。<この魂はいかにとなるか?/うすらぎて 空となるか?>と言った時,中也の心の色は何色であっただろうか。この呟きは,死に対する畏怖とも生に対する安堵とも取れる。ささやかな祈りにも似た感情は,<これが私の故里(ふるさと)だ/さやかに風も吹いてゐる/心置なく泣かれよと/年増婦(としま)の低い声もする>(「帰郷」)とあどけない愁(かなし)みを呈している。そして,それは<山沿ひの道を乗手(のりて)もなく行く/自転車のこと>(「逝く夏の歌」)や<摘み溜めしれんげの華を/夕餉に帰る時刻となれば/立迷ふ春の暮靄(ぼあい)の/土の上(へ)に叩きつけ>た時代(「春の思ひ出」)を語り始める。
過去への追惜 「少年時」は過去への追惜である。少年時,既に中也は希望を唇に噛みつぶし,ギロギロする目で諦めていた。その青春は,<堅い血管となり、/その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる>(「盲目の秋」)。愛人の失踪事件により,心は盲目となり,人生に秋しか感じなくなった,というのだろう。相手を美化し,自己を卑下する告白は,言い立てる必要もあるまい。が,絶えず後退する姿勢は,同情を集めることはできても,支持を得ることはできないのではあるまいか。つまり「妹よ」と呼びかけても,それが憐愍という優しい感情の連帯を結びはしないだろう。それにもかかわらず,中也は,<きらびやかでもないけれど/この一本の手綱をはなさず>(「寒い夜の自我像」)と詩に沈潜する決意を吐露している。<嵐のやうな心の歴史>は終焉を告げ,<燃ゆる日の彼方>に睡ってしまう。以後,亡骸(なきがら)としての存在が,<血を吐くやうなせつなさかなしさ>(「夏」)を語り始める。
愛人への哀惜 「みちこ」は愛人への哀惜である。中也は愛人を「みちこ」と架空の女性名で呼び,その女性を讃美する。ここに,一個の魂の憧憬と悔恨を認めることは容易であるだろう。そして,期待が甚大であれば,それと同様に,失望も甚大であることを知ることも。しかし,かえって,本当に愛しているならば寡黙であれ,と自己に言い聞かせたくなるものである。それ故に,私は中也を完全無欠に愛することができない。ともすれば中也の饒舌が,うさんくさく感じられてならないのである。すなわち,本当に悲しいならば,「汚れつちまつた悲しみに……」と歌ってはならぬ。なぜなら,青春の老成(成熟)とは沈黙のうちに悲しみを堪え忍ぶことに他ならないのだから。それ故に,私は中也の幼児性に訣別しなければならない。中也の心が絶えず,<追惜のおもひ>(「つみびとの歌」)を語る故に。
青春への挽歌 「秋」は青春への挽歌である。秋は,春の対極に位置する。春が青春や生や光を意味するならば,秋は老成や死や影である,と言ってよい。中也は自己の後退性を自覚している。後退性を自覚しているが,脱出しようとはしない。むしろ,積極的に自己を死の中へ埋没させていく。青春を喪失した生は,死と同じであり,本当の<死ももう、とほくはないのかもしれない>と考える。つまり,肉体は生の領域に静止し,精神は死の領域を飛行し始めているのである。言いかえれば,肉体は縁側に立って,どうやら黄色い蝶々(自己の魂)の行く方をジツと見ているらしい。精神は<私の青春も過ぎた>と言い切って,<せつないことのかぎりなり>(「修羅街輓歌」)と枯淡の心境に近づく。そして,ついには<私の上に降る雪に/いとねんごろに感謝して、神様に/長生したいと祈>る(「生ひ立ちの歌」)地点に到達するのである。
晩年への述志 「羊の歌」は晩年への述志である。心は<単純と静けき呟きと、/とまれ、清楚のほかを希>うことはなく,純粋無垢な世界を幻想する。しかし,それは現世ではないように思われる。幼児と共存する時間は,他界のものであり,<旅とみえ、幼き日とみゆもの>であるだろう。しかし,中也はそのような自己と対決しようとはしない。ただ<怠惰の窗の中から/扇のかたちに食指をひろげ>,<青空を喫ふ 閑(ひま)を嚥む/蛙さながらに水に泛んで>(「憔悴」)いるだけである。<それにしても辛いことです、怠惰を逭れるすべがない!>と中也が言う時,その心はおそらく鈍色の空のように暗いにちがいない。とすれば,果たして中也は生の渇望を喪失したのだろうか。<それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?/すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!>(「いのちの声」)。つまり,中也は生の渇望を喪失しているのではなく,その渇望する対象を喪失しているにすぎないのである。従って,<されば要は、熱情の問題>であり,<ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はない>と言う。だが,死に憑かれて,現世と来世を行き来する心情は,理解することができても,その生き方を肯定することはできぬ。かつて歌人を志したことのある中也であれば,「しのぶれど色(いろ)に出(いで)にけり我恋(わがこい)は物や思(おもふ)と人の問迄(とうまで)」という一首を知らないはずはないだろう。かくして,中也が死児の齢を数える故に,私は中也の後退性に訣別しなければならない。また,その青春が真摯で清楚で純粋すぎる故に,私は中也の幼児性に訣別を告げる。
2007年9月29日に日本でレビュー済み
詩に綴られた中也の心情の吐露。
一見叙情的に見えつつも、この作品たちはまぎれもなく直感から生み出された言葉たち。
短いながらも激動の人生を歩んだ人間の喜びも悲しみも詰まっています。
「詩」というもののもつ力を初めて感じた作品です。
一見叙情的に見えつつも、この作品たちはまぎれもなく直感から生み出された言葉たち。
短いながらも激動の人生を歩んだ人間の喜びも悲しみも詰まっています。
「詩」というもののもつ力を初めて感じた作品です。