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家畜人ヤプー (角川文庫 緑 334-1) 文庫 – 1972/11/10
沼 正三
(著)
- 本の長さ652ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日1972/11/10
- ISBN-104041334012
- ISBN-13978-4041334010
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登録情報
- 出版社 : KADOKAWA (1972/11/10)
- 発売日 : 1972/11/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 652ページ
- ISBN-10 : 4041334012
- ISBN-13 : 978-4041334010
- Amazon 売れ筋ランキング: - 121,961位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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イメージ付きのレビュー
4 星
SF小説として楽しむべき
私が所有している昭和55年発行第七刷の帯には、「悪夢的恐怖と官能の織りなす世界的大マゾヒズム小説」と記してある。しかし、この作品に描かれているマゾヒズムは、あまりにも突き抜けすぎていて、世間一般に認知されているマゾヒズムの領域を完全にはみ出している。歴史的必然として存在し、秩序の中に組み込まれてしまったマゾヒズムである。俗にSMと呼ばれているものからイメージするシーンを期待していると、裏切られることになるだろう。しかし、SF小説としての質は高い。著者のすばらしい空想力と博識により、架空の世界の非現実的な現実が、説得力を持って迫ってくる。「マゾヒズム」という言葉に囚われず、純粋にSF小説として楽しむべき作品だと思う。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年8月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
先日たまたま行った東京・弥生美術館で(たしか)「家畜人ヤプー展」が開催されていて、挿絵の村上芳正氏の原画を拝見したことから、この作品に興味を持ち購入しました。 SM小説初心者なので、怖いもの見たさ(笑)で読み始めましたが、あくまでSF作品として話が進行していくので入りやすく感じました。 確かにSM色の濃い部分もありますがf^_^;、それよりも歴史や宗教や科学、医学や心理学なども駆使したであろう著者・沼氏の超越した想像力や、リアルさが伝わってくる丁寧な説明や表現には脱帽!( ̄○ ̄;) とても40年前に書かれたものとは思えない……むしろその頃より科学が発展し平和に慣れた現代の私達だからこそ、なんとなく理解できる部分や心に響く部分があるのではないかと思います。 とにかくどんどん引き込まれてしまって、最後まで読み切ったのですが…… 残念ながらこの1冊だけでは物語は完結しないんですね(>_<) 繊細で幻想的な村上芳正氏の挿絵の美しさも楽しめる1冊なのでオススメですが、続きが気になる方は別の文庫で完結編もお探しした方がよいと思います☆
2017年6月22日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
どうも「奇書」という言葉の響きに期待し過ぎてしまっていたようです。
2018年5月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ずっと以前に読んだ本である。とてもよかったと記憶している。ただ、内容は殆ど忘れている。サドやマゾッホの作品を読んでいるために、もう一度読んで内容を確かめたかったのである。結論から述べると、やはり良い本である。ただ、良いのは前半で後半は少し緩慢である。それは日本人瀬部麟一郎がマゾ化し、婚約者たるドイツ人クララがサド化していく過程が描かれるというより、彼らが連れ込まれた40世紀のイース宇宙帝国について、オロチなど古事記の内容の言い換えや20世紀以降のこの世界の状況が描かれて、もはや、彼らのサド・マゾ化していく心理過程が希薄化しているためである。著者によると本書は「地球編」の半ばであり、この続編が彼らの相互の心理や隷属・主人関係を克明に記述しているとのこと。でも、この続編はどうも沼正三ではない、もう別人が書いているのである。角川文庫発刊の本書のみが沼正三が書いているらしい。従って、本書以外の作品はもう読まないことにしている。著者は文学や物理化学に通じていて相当の博識である。文章もゆったりと穏やかで上手である。サドの作品のように凄惨な場面はない。それは文章のゆったりとした穏やかさと、悪徳に殺伐な場面がただ単に説明的に書いているためであろう。本書は奇譚小説であり、冒険小説であり、推理小説であり、心理小説であり、幻想小説であり、風刺小説であり、人情小説であり、通俗小説である。
簡単に内容を紹介したい。日本人瀬部麟一郎と婚約者たるドイツ人クララは、40世紀のイース宇宙帝国からやって来て、20世紀に遭難した円盤艇に偶然遭遇する。そこに乗っていたイース宇宙帝国の高級貴族ポーリンと一緒にイース帝国に行くことになる。イース帝国は白人が上位であり、その白人も貴族と平民に分けられる。黒人は半奴隷であり、その下に先祖が日本人なる家畜人たるヤプーがいるのである。ヤプーは白人のための便器や椅子などに改造される人間家具である。こうして麟一郎はリンとして、もはや貴族なるクララの家畜人として仕えるようになっていくのである。婚約者として麟一郎を愛していたクララも次第に家畜人ヤプーの女主人として振る舞うようになり、麟一郎もリンとなりクララを女主人として敬い崇拝の対象とする、家畜人として改造されていくのである。そのマゾ化していくともいえる過程の心理は簡単に記述されているが読み応えがある。なお、イース帝国は女上位の社会であり、男は今の社会とはきっと逆に女に奉仕する、貞操帯を嵌められることもある。この白人・女性優位の社会でクララはリンをもはや家畜とみなして、ポーリンの弟なるウィリアムズと結婚するのである。本書の大部分はこのヤプーの人間家具なるもへの改造やその機能・役割を詳細に描いていて、後半になるとより一層多くなり読むのに疲れてくる。これも、本書の冗長な原因の一つである。ただ、日本の未来の予測も記述されていて、ここでは述べないが、なかなか面白くて、鋭い所がある。
この小説をどう評価すれば良いのか、ドゥルーズのサド・マゾ論に従って、超自我と自我の関係からすると、白人には自我のみがある。超自我たるものはもはや自我の内に埋め尽くされていて、むしろ白人貴族同士は人情に満ちている、人間的に交流する暖かなもしくは競い合い敵意を持つ人間関係を持っている。彼らは純粋理性を否定も肯定もしない、思いのままに行動するだけである。そして、法はイース帝国に絶対的に支配しているけれども、ポーリンのように高級貴族は時には原住民たるヤプーを持ち帰りクララを高級貴族とするなど逸脱が可能である。だが、この逸脱がそれほど問題になるわけではない。快楽は自然に欲求のままに行われる、イド(もしくはエス)さえ自我の内の埋め込まれていると思われる。ただ、家畜人ヤプーに自我や超自我はなく、むしろ主人のオシッコを飲むと感嘆する無意識に本能的なイドにのみに支配されている。本書が問題にするのは、もはや物化したこの家畜人ではない。リンおよび日本人が物化していく過程そのものを類まれな風刺として捕らえていて、さまざまに物化する人間と社会を考慮していくことを、暗に要求している。それはこの現実世界おける現実そのものである。まさにサドが大衆の肉体を消尽するのと同じことと言えよう、ただ本書では日本人のみが消尽の対象となっているだけである。
ここまで記述すると言いたいことの大部分は記述されている。この後は、簡単に箇条書きにてまとめたい。
1) この奇妙な幻想社会は読み進むにつれて心の内にへばりつき、通常の社会構造とも受け止めることができる。すると、それほど恐ろしいものではない。仮想の世界でありながら、もはや現実の世界とも受け止めることができるのである。
2) 階級社会では常に消尽する人間を必要とする。この消尽すべき人間は常に増殖して数を増やしておく必要がある。
3) この階級社会は安定的な制度を必要とする。ただ、制度を支える概念は不安定なものであり、絶えず変動するために、法の支配に基づくものであったとしても崩壊することがある。何らかの手立てを加えて、新たな概念によって絶えず法を修正し、社会構造を変革し再修正して、制度を安定的に維持する必要がある。
4) 技術の進歩によって絶えず人間は物化する可能性がある。例えば、AIやタグにナノポッドによってであるが、人間は自らの手によって人間たることを、即ち知・情・意をあっさりと放棄することがあり得る。
5) 人間の心は変わり得る。クララのように貴族なる白人が家畜人から神として奉られることも、家畜人として自我を喪失して神を称えるだけのイドを持つようになることも、技術によって変身は早いのであり、その覚悟と方策を持っている必要がある。
6) 家畜人たるヤプーは日本人をマゾ化していながら、単に日本人だけではない、普遍的なマゾ化である。マゾ化と言うより人間そのものの物化である。これはサドの思考と同じである。マゾッホの観念や契約とは関係がない、マゾッホはまさに人間的な倫理において思考しているのである。
7) もしやこの小説は人間主義、即ちヒューマニズムを描いているのではないのか。逆説的なヒューマニズムである。アンナ・ハーレントが「全体主義の起源」で述べたように孤独な大衆こそが全体主義を生み出す、まさに物化して心を閉ざして崇拝する孤独な人間の姿を人間主義の観点から描いているとも言える。なぜならもはや自我を持たずに熱狂的に崇拝する人間こそが一番幸福なためである。つまり、クララを含めた貴族は、常にこの物化した人間が起こす本来的なヒューマニズムの回復の動きを常に監視し、問題を把握し考慮して対処する必要がある。
何項目かにわたって述べたが、まだ少し考えだけで書き落としている点もあるかもしれない。作者は誰かなど詮索するのは止めたい。本書の解説に作者と思われる人物が指摘されている。
簡単に内容を紹介したい。日本人瀬部麟一郎と婚約者たるドイツ人クララは、40世紀のイース宇宙帝国からやって来て、20世紀に遭難した円盤艇に偶然遭遇する。そこに乗っていたイース宇宙帝国の高級貴族ポーリンと一緒にイース帝国に行くことになる。イース帝国は白人が上位であり、その白人も貴族と平民に分けられる。黒人は半奴隷であり、その下に先祖が日本人なる家畜人たるヤプーがいるのである。ヤプーは白人のための便器や椅子などに改造される人間家具である。こうして麟一郎はリンとして、もはや貴族なるクララの家畜人として仕えるようになっていくのである。婚約者として麟一郎を愛していたクララも次第に家畜人ヤプーの女主人として振る舞うようになり、麟一郎もリンとなりクララを女主人として敬い崇拝の対象とする、家畜人として改造されていくのである。そのマゾ化していくともいえる過程の心理は簡単に記述されているが読み応えがある。なお、イース帝国は女上位の社会であり、男は今の社会とはきっと逆に女に奉仕する、貞操帯を嵌められることもある。この白人・女性優位の社会でクララはリンをもはや家畜とみなして、ポーリンの弟なるウィリアムズと結婚するのである。本書の大部分はこのヤプーの人間家具なるもへの改造やその機能・役割を詳細に描いていて、後半になるとより一層多くなり読むのに疲れてくる。これも、本書の冗長な原因の一つである。ただ、日本の未来の予測も記述されていて、ここでは述べないが、なかなか面白くて、鋭い所がある。
この小説をどう評価すれば良いのか、ドゥルーズのサド・マゾ論に従って、超自我と自我の関係からすると、白人には自我のみがある。超自我たるものはもはや自我の内に埋め尽くされていて、むしろ白人貴族同士は人情に満ちている、人間的に交流する暖かなもしくは競い合い敵意を持つ人間関係を持っている。彼らは純粋理性を否定も肯定もしない、思いのままに行動するだけである。そして、法はイース帝国に絶対的に支配しているけれども、ポーリンのように高級貴族は時には原住民たるヤプーを持ち帰りクララを高級貴族とするなど逸脱が可能である。だが、この逸脱がそれほど問題になるわけではない。快楽は自然に欲求のままに行われる、イド(もしくはエス)さえ自我の内の埋め込まれていると思われる。ただ、家畜人ヤプーに自我や超自我はなく、むしろ主人のオシッコを飲むと感嘆する無意識に本能的なイドにのみに支配されている。本書が問題にするのは、もはや物化したこの家畜人ではない。リンおよび日本人が物化していく過程そのものを類まれな風刺として捕らえていて、さまざまに物化する人間と社会を考慮していくことを、暗に要求している。それはこの現実世界おける現実そのものである。まさにサドが大衆の肉体を消尽するのと同じことと言えよう、ただ本書では日本人のみが消尽の対象となっているだけである。
ここまで記述すると言いたいことの大部分は記述されている。この後は、簡単に箇条書きにてまとめたい。
1) この奇妙な幻想社会は読み進むにつれて心の内にへばりつき、通常の社会構造とも受け止めることができる。すると、それほど恐ろしいものではない。仮想の世界でありながら、もはや現実の世界とも受け止めることができるのである。
2) 階級社会では常に消尽する人間を必要とする。この消尽すべき人間は常に増殖して数を増やしておく必要がある。
3) この階級社会は安定的な制度を必要とする。ただ、制度を支える概念は不安定なものであり、絶えず変動するために、法の支配に基づくものであったとしても崩壊することがある。何らかの手立てを加えて、新たな概念によって絶えず法を修正し、社会構造を変革し再修正して、制度を安定的に維持する必要がある。
4) 技術の進歩によって絶えず人間は物化する可能性がある。例えば、AIやタグにナノポッドによってであるが、人間は自らの手によって人間たることを、即ち知・情・意をあっさりと放棄することがあり得る。
5) 人間の心は変わり得る。クララのように貴族なる白人が家畜人から神として奉られることも、家畜人として自我を喪失して神を称えるだけのイドを持つようになることも、技術によって変身は早いのであり、その覚悟と方策を持っている必要がある。
6) 家畜人たるヤプーは日本人をマゾ化していながら、単に日本人だけではない、普遍的なマゾ化である。マゾ化と言うより人間そのものの物化である。これはサドの思考と同じである。マゾッホの観念や契約とは関係がない、マゾッホはまさに人間的な倫理において思考しているのである。
7) もしやこの小説は人間主義、即ちヒューマニズムを描いているのではないのか。逆説的なヒューマニズムである。アンナ・ハーレントが「全体主義の起源」で述べたように孤独な大衆こそが全体主義を生み出す、まさに物化して心を閉ざして崇拝する孤独な人間の姿を人間主義の観点から描いているとも言える。なぜならもはや自我を持たずに熱狂的に崇拝する人間こそが一番幸福なためである。つまり、クララを含めた貴族は、常にこの物化した人間が起こす本来的なヒューマニズムの回復の動きを常に監視し、問題を把握し考慮して対処する必要がある。
何項目かにわたって述べたが、まだ少し考えだけで書き落としている点もあるかもしれない。作者は誰かなど詮索するのは止めたい。本書の解説に作者と思われる人物が指摘されている。
2016年4月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古い本だからある程度の汚れなどは覚悟していましたが、思ったよりずっと綺麗でよかったです。
2023年11月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
❲良い❳との表示だったのに(保存)状態が悪く、飛ばし読みで十分の一程しか読めませんでした。もう[バリューブックス]からは買わないと決めました。
2021年2月18日に日本でレビュー済み
書籍形式はペーパーバックです。
背に使われているの糊が昭和45年当時のもので
あり、経年のため硬くなっていますので、大きく
開くと背割れする恐れがあります。
印刷文字と、中にある挿絵の色は薄い青緑ですが、
これは経年のため多少変色したのかも。
アマゾンさんの紹介図はケースのものであり、本書で
唯一の彩色図です。
しかし、本文の中にある挿絵は、妖しげな雰囲気を
伝えていますので雑誌連載時のものと推測され、
貴重なものと言えます。
太田出版のものには、3冊とも巻末に挿絵が1枚
載っていますが、本書のものと異なります。
角川文庫、幻冬舎文庫などには挿絵がありません。
背に使われているの糊が昭和45年当時のもので
あり、経年のため硬くなっていますので、大きく
開くと背割れする恐れがあります。
印刷文字と、中にある挿絵の色は薄い青緑ですが、
これは経年のため多少変色したのかも。
アマゾンさんの紹介図はケースのものであり、本書で
唯一の彩色図です。
しかし、本文の中にある挿絵は、妖しげな雰囲気を
伝えていますので雑誌連載時のものと推測され、
貴重なものと言えます。
太田出版のものには、3冊とも巻末に挿絵が1枚
載っていますが、本書のものと異なります。
角川文庫、幻冬舎文庫などには挿絵がありません。
2014年2月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
SFという何でもありの設定なので、想像力が豊かでないと
読みづらいですが、面白い作品です。
江川達也氏が漫画化していますが、文章が忠実なので想像力が
乏しい方はマンガのほうをオススメします。
読みづらいですが、面白い作品です。
江川達也氏が漫画化していますが、文章が忠実なので想像力が
乏しい方はマンガのほうをオススメします。
2023年5月21日に日本でレビュー済み
本書については中学校の国語担当教師に教えられて初めて知ったのだったが、しかしその時は『家畜人ヤプー』という書名しか告げられず、どんな内容の本なのかは見当も付かなかった。ストーリーを教えられないのは当たり前だ、「実は日本人は人間ではなくて、遙かな未来世界では家畜や道具として扱われている」という内容なのだから。「ヤプー」とは日本人を意味し、したがって日本人は「家畜人」であるというのが本書タイトルの意味なのだ。「ヤプー」はさまざまに「加工」されて「生体家具」、すなわち椅子や便器やベッドにされたり、あるいは身体全体を縮小加工されてお互いに命を賭けて戦う「戦士」として扱われる、という、およそ「人権派○○」のような人々が読んだら血の涙を流しかねない内容となっている。「マゾヒズムの極地」と称される理由はそこにある。物語そのものは日本人男性の瀬部麟一郎とその恋人でドイツ人のクララが、とある理由で2000年未来から訪れた女権帝国イースの人々に囚われ、クララはやがてイースの生活習慣に馴染む一方、麟一郎は「ヤプー」への道を歩んでゆく……というものなのだが、むしろ物語が脇役であり、紙数のほとんどが「ヤプー」の文化生活習慣を描くことに費やされる。それゆえ敢えて言うならば「ヤプー」についての事典を読まされているような印象さえ受ける。発想そのものは驚異的なのだが、その発想が箇条書きされて示されているようで、物語としては面白いとは言えない。しかも本書は中断されたものであって、完結したものでさえないのだ。