言語発生の類推にはじまり、戦後の現代小説に至る言語表出史をくまなく鳥瞰し、或いは細部に関わって文学的見地から言語発達論を展開して、今もって開拓されない原野の道しるべに立つ誘導灯の役目を果たしている。著者が1990年に出版された『選書のための覚書』で言うには、『わたしはこの論稿をかなり気負って書いているー中略―じぶんはいま新しい文学の理論をつくりつつあり、地平をきりひらいている』このような自負をはにかみながら、旧稿を手直ししてさらに読みやすくしている反面、『旧稿のこころがおどるような発見の手ごたえは獲得できない』と半ば懐古的に述べている。思考の原石を磨き上げ連なった宝飾を仕上げていく蒔絵職人のような、正鵠に立ちむかう姿勢からしか得られない美的工程が必ずしも江湖になじまない「言語」作業であっても、現時点では未踏の境地にちがいない。しかし著者の職人気質は書斎に閉じこもり、「同人」圏内のみを対手とせず、広く外敵を求めた。『解題』の川上春雄氏によれば、該書本体となったのは1961年から1965年発行の雑誌『試行』ということから、味覚の新鮮さには驚くばかりだ。
『』は本文より引用
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定本 言語にとって美とはなにかI (角川ソフィア文庫) 文庫 – 2001/9/20
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吉本隆明思想の根幹を読む!
言語とはなにか、芸術とはなにか。そして文学とはどのような言語の、どのような芸術なのかー。「万葉集」「古事記』といった古典や現代の詩歌をはじめ、森鴎外「舞姫」、国木田独歩「武蔵野」、夏目漱石「それから」など、文学史上のさまざまな作品を豊富に引用し、具体的に分析。表現された言語を「指示表出」と「自己表出」の関連でとらえた独創的言語論の「改訂新版共同幻想論』に並ぶ、吉本隆明の主要著作、待望の文庫化。解説=加藤典洋。
言語とはなにか、芸術とはなにか。そして文学とはどのような言語の、どのような芸術なのかー。「万葉集」「古事記』といった古典や現代の詩歌をはじめ、森鴎外「舞姫」、国木田独歩「武蔵野」、夏目漱石「それから」など、文学史上のさまざまな作品を豊富に引用し、具体的に分析。表現された言語を「指示表出」と「自己表出」の関連でとらえた独創的言語論の「改訂新版共同幻想論』に並ぶ、吉本隆明の主要著作、待望の文庫化。解説=加藤典洋。
- 本の長さ400ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日2001/9/20
- ISBN-104041501067
- ISBN-13978-4041501061
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登録情報
- 出版社 : KADOKAWA (2001/9/20)
- 発売日 : 2001/9/20
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 400ページ
- ISBN-10 : 4041501067
- ISBN-13 : 978-4041501061
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2019年12月14日に日本でレビュー済み
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2020年5月29日に日本でレビュー済み
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良書です
2018年12月7日に日本でレビュー済み
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芥川龍之介の俳句を調べている内に井月の実績を知り、大急ぎで井上井月の俳句を調べました。漂泊の俳人の治績を探る事の面白味は何ものにも増して面白く、この仕事はまだまだこれからだと思います。
2016年10月28日に日本でレビュー済み
これは壮大な失敗作ではないのか? こんなことを云うのは蛮勇の謗りを免れないだろうが、納得がいかない。
そもそも「言語にとっての美とは何か」という問題設定が間違っていないか。 それを云うなら「詩歌」あるいは「文学作品」にとっての「美」とは何か、であれば、まだ分からなくもない。しかし、そもそも「美」とは一体何なのだ、「美」を論ずるとは一体如何なる意味があるのか。そこから躓く。「言語」にとっての「美」とは、例えば、フランス語の発音が美しいとか、漢字などの表音文字の図像学的に美しいとか、そういうことではないのか。
百歩譲って、文学作品にこそ言語の美は現れているとしよう。しかし吉本は「表出」という術語を使っているが、主題や内容をことさらに排除して、「表出」面における問題点のみを論究している。吉本は「表出史」という観点に拘っているが、人間が書く文章においてそのテーマや作家が置かれた状況との影響関係を離れて、その表現の高低浅深などありうるのか?
江藤淳は本書のとりわけ冒頭の2章について《やさしい、あるいは自明なことをむつかしく語りすぎている》* と批判している。さらに江藤は吉本との対談において、これを敷衍するかたちで次のように述べている。
《吉本さんなどは、『言語にとって美とはなにか』での立論を見ても、余計なものはどんどん切ってしまわれる。(中略)あなたの表出論、あれはおもしろい考え方だと思うけれども、僕はああいうものを拝見していると、どうしてもあなたが切ってしまわれたものが気になってしかたがない。》**
要するに文学作品を「言語の美」という観点だけで論ずることが可能なのか、ということではないのか。
さらに云えば、第Ⅳ章 「表現転移論」において、近代の文学作品における「表出史」が展開されるが、「それから」、「道草」、そして「明暗」について触れた漱石論に至って、吉本の筆致は一変する。例えば平野謙が「それから」の主人公代助を「どら息子」と云うのを批判して、《この一篇のモチーフはやくざなどら息子の喜劇などではない。文明開化の近代の膨脹に彷徨をよぎなくされた知識と生活の運命を象徴するドラマなのだ。》*** と述べる。
実は、このような読解こそが文学作品を読む、読み解く愉しみに他ならない。これは果たして表出史の問題であろうか?
あるいは「道草」において、妻の出産に狼狽する主人公の遭遇するものを《日常の時間》ではなくて《根源の時間》とし、《ふしぎな思想的なかたまり(「かたまり」に傍点)をのみこんでいる》姿であるとしている**** 。まさに思想的な実在が文体を支えているのだ。
そして吉本は次のように述べる。
《表出史としてみるとき、漱石の「吾輩は猫である」から「明暗」にいたる道すじは、一路緊張と上昇の連続だった。そして、すくなくとも「それから」以後の漱石は、いつも同時代の表出の頂きをはしりつづけたといってよい。このことは、日本の知識人のもんだいの内的なまたは外的な要因のすべてを、すくなくとも「それから」以後の漱石はごまかさずにじぶんの意識のもんだいとしてうけとめ、悪戦をやめなかったことを意味している。漱石はおおきな本質的な課題をかかえこんで、死にいたるまで緊張をとかなかった。その精神的な膂力は近代以後に比肩するものがないほどである。》*****
ということは、漱石をして「同時代の表出の頂きをはしりつづけ」させたものこそ漱石自身が「おおきな本質的な課題をかかえこんで」いたからではないのか。漱石が抱え込んでいた主題こそがその文体を支えていたのではないか。
このように考えてくると、すなわち単に表出が存在するわけではなく、それを支える内的な、あるいは外的な衝迫の要請こそが(文学的)表出を在らしめているのではないか。
しかしながら、著者本人にとって、あるいはその当時の、あるいは後続の読者に与えた本書の意味については別に考えなければならぬだろう。
例えば柄谷行人は本書の文庫版の解説において、極端な言い方をするとほとんど内容については触れずに、マルクスの『資本論』との相似性について述べている。
《私が『言語にとって美とはなにか』から受けた最大のヒントは、何よりも言語・文学の問題が『資本論』の問題と通底するということであった。(中略) 私がそこから考えたのは、『資本論』が真の意味で「経済学批判」であるならば、それを言語学に適用することは真の意味で「言語学批判」たらざるをえないだろうという予感であって、『言語にとって美とはなにか』は、私にとって啓示的な書物であった。》******
つまり内容の正否ということではなくて、吉本がその当時、本書を通じてなそうとした巨大な精神的な構えこそが我々後続者をして震撼させるのではないだろうか。今のところそんな気がする。
…………………………………………………………………
* 江藤淳「『言語にとって美とはなにか』」/『週刊読書人』1965年6月28日号/『中央公論特別編集 吉本隆明の世界』2012年6月25日・中央公論新社・p.127。
** 江藤淳・吉本隆明「文学と思想」/『文藝』1966年1月/『江藤淳 著作集6 政治・歴史・文化』1967年12月25日・講談社・p.237。
*** 本書 p.200。
**** 本書 p.216。
*****本書 p.210。
******柄谷行人「建築への意思」/吉本隆明『改訂新版――言語にとって美とはなにか』Ⅱ・「解説」・1982年2月28日・角川文庫(角川書店)・p.329。
2016年6月16日
そもそも「言語にとっての美とは何か」という問題設定が間違っていないか。 それを云うなら「詩歌」あるいは「文学作品」にとっての「美」とは何か、であれば、まだ分からなくもない。しかし、そもそも「美」とは一体何なのだ、「美」を論ずるとは一体如何なる意味があるのか。そこから躓く。「言語」にとっての「美」とは、例えば、フランス語の発音が美しいとか、漢字などの表音文字の図像学的に美しいとか、そういうことではないのか。
百歩譲って、文学作品にこそ言語の美は現れているとしよう。しかし吉本は「表出」という術語を使っているが、主題や内容をことさらに排除して、「表出」面における問題点のみを論究している。吉本は「表出史」という観点に拘っているが、人間が書く文章においてそのテーマや作家が置かれた状況との影響関係を離れて、その表現の高低浅深などありうるのか?
江藤淳は本書のとりわけ冒頭の2章について《やさしい、あるいは自明なことをむつかしく語りすぎている》* と批判している。さらに江藤は吉本との対談において、これを敷衍するかたちで次のように述べている。
《吉本さんなどは、『言語にとって美とはなにか』での立論を見ても、余計なものはどんどん切ってしまわれる。(中略)あなたの表出論、あれはおもしろい考え方だと思うけれども、僕はああいうものを拝見していると、どうしてもあなたが切ってしまわれたものが気になってしかたがない。》**
要するに文学作品を「言語の美」という観点だけで論ずることが可能なのか、ということではないのか。
さらに云えば、第Ⅳ章 「表現転移論」において、近代の文学作品における「表出史」が展開されるが、「それから」、「道草」、そして「明暗」について触れた漱石論に至って、吉本の筆致は一変する。例えば平野謙が「それから」の主人公代助を「どら息子」と云うのを批判して、《この一篇のモチーフはやくざなどら息子の喜劇などではない。文明開化の近代の膨脹に彷徨をよぎなくされた知識と生活の運命を象徴するドラマなのだ。》*** と述べる。
実は、このような読解こそが文学作品を読む、読み解く愉しみに他ならない。これは果たして表出史の問題であろうか?
あるいは「道草」において、妻の出産に狼狽する主人公の遭遇するものを《日常の時間》ではなくて《根源の時間》とし、《ふしぎな思想的なかたまり(「かたまり」に傍点)をのみこんでいる》姿であるとしている**** 。まさに思想的な実在が文体を支えているのだ。
そして吉本は次のように述べる。
《表出史としてみるとき、漱石の「吾輩は猫である」から「明暗」にいたる道すじは、一路緊張と上昇の連続だった。そして、すくなくとも「それから」以後の漱石は、いつも同時代の表出の頂きをはしりつづけたといってよい。このことは、日本の知識人のもんだいの内的なまたは外的な要因のすべてを、すくなくとも「それから」以後の漱石はごまかさずにじぶんの意識のもんだいとしてうけとめ、悪戦をやめなかったことを意味している。漱石はおおきな本質的な課題をかかえこんで、死にいたるまで緊張をとかなかった。その精神的な膂力は近代以後に比肩するものがないほどである。》*****
ということは、漱石をして「同時代の表出の頂きをはしりつづけ」させたものこそ漱石自身が「おおきな本質的な課題をかかえこんで」いたからではないのか。漱石が抱え込んでいた主題こそがその文体を支えていたのではないか。
このように考えてくると、すなわち単に表出が存在するわけではなく、それを支える内的な、あるいは外的な衝迫の要請こそが(文学的)表出を在らしめているのではないか。
しかしながら、著者本人にとって、あるいはその当時の、あるいは後続の読者に与えた本書の意味については別に考えなければならぬだろう。
例えば柄谷行人は本書の文庫版の解説において、極端な言い方をするとほとんど内容については触れずに、マルクスの『資本論』との相似性について述べている。
《私が『言語にとって美とはなにか』から受けた最大のヒントは、何よりも言語・文学の問題が『資本論』の問題と通底するということであった。(中略) 私がそこから考えたのは、『資本論』が真の意味で「経済学批判」であるならば、それを言語学に適用することは真の意味で「言語学批判」たらざるをえないだろうという予感であって、『言語にとって美とはなにか』は、私にとって啓示的な書物であった。》******
つまり内容の正否ということではなくて、吉本がその当時、本書を通じてなそうとした巨大な精神的な構えこそが我々後続者をして震撼させるのではないだろうか。今のところそんな気がする。
…………………………………………………………………
* 江藤淳「『言語にとって美とはなにか』」/『週刊読書人』1965年6月28日号/『中央公論特別編集 吉本隆明の世界』2012年6月25日・中央公論新社・p.127。
** 江藤淳・吉本隆明「文学と思想」/『文藝』1966年1月/『江藤淳 著作集6 政治・歴史・文化』1967年12月25日・講談社・p.237。
*** 本書 p.200。
**** 本書 p.216。
*****本書 p.210。
******柄谷行人「建築への意思」/吉本隆明『改訂新版――言語にとって美とはなにか』Ⅱ・「解説」・1982年2月28日・角川文庫(角川書店)・p.329。
2016年6月16日
2016年3月1日に日本でレビュー済み
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本書を読むに当たり、予備知識として三浦つとむ著の「日本語とはどういう言語か」を読む必要があるとのこと。この本は既に読み終えている。結構良い本であった記憶がある。膠着語としての日本語を言語論として展開していたはずである。記憶では視線の文学に対する意識と対象の関係が成り立たないという主張が鮮明に残っている。
さて、本書を読んでみると結構な力作である。三浦つとむ著の「日本語とはどういう言語か」を読む必要などなくて、そのまますぐに理解できる。理論は簡単明瞭、不明瞭な所もあるが、数多の小説・詩などのサンプルを入れて、吉本隆明は独特の熱弁を振るうのである。そして、その範囲は私も読んだことのある古事記・日本書紀から始まって、古典文学や近代文学に演劇論など、更にヘーゲルの美学を取り上げて「言語にとって美とはなにか」という難問に挑み、一定の成果を得るのである。なぜ一定の成果というと、「言語そのものの美」ではなくて、「表現された言語にとっての美とはなにか」について書かれているためである。言語そのものに内在している美について書かれていると即断していたが、小説や詩として表現された言語の美、それも歴史的な文学書を吉本隆明自らの理論に基づいて読み解き、解明された文学書の紹介を経て、最後に芸術論的な展開を行って締めている。言語は表現を通してしか成され得ないはずであり、この観点からすると「言語そのものの美」の考えは狭義であり、あり得ないのかもしれない。吉本隆明は「言語の価値」と「文学の価値」とを分けすっきりと説明している。
でも、なぜかどうしてもしっくりといかない。即ち「美」という概念を広義に捕えるか、狭義に捕えるかによって異なってくるか、そもそも表題に「美」を入れたことが、私が間違って狭義に捕らえた原因と思われる。言語に「美」は無関係であって、表現された文章や小説に「美」があるかないか、もしくは言語表現の美的かつ「質的な差異」がどうして生じてくるかが問題なのである。質的に高い心を打つ表現がなぜできるのかが本来的な課題なのである。こうした本来的な課題に基づき、吉本隆明は詩を例にあげて質の高い表現の仕方を少し説明している。小説の価値についても美についても論じているのはとても良いことである。
この論じ方を簡単に記述すると、ある時代またが社会には、言語の自己表出と指示表出とがあるとする。そして、言語表現は韻律・選択・転換・喩によって表現され得て、文学はこれらを使用した自己表出へと進み、話し言葉は指示表出へと進むとする。ただ、文学作品を表出の歴史で扱うときは二重の構造を取り、表出の体は文学体と話体として成り立っているとする。こうして、近代の文学を引用して長々と説明する。私の読んだ作品も結構あって懐かしい思いもしたが、切り出され並べられた多数の小説の文章を読むのも疲れるものである。
さらに文学作品の価値の本質を知るにはその作品の「構成」を知ることだと主張する。「構成」とは有形的なものを指し示す指示表出の空間の展開、時代的な空間の広がりであると吉本隆明は主張する。吉本の主張を単純に言い変えれば、自分の考え思うことをうまく主題として展開させて的確に記述することであると思われる。そしてここでは「竹取物語」などの古典が題材として取り上げられている。最後は「文学的価値」について、自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値と呼ぶと述べている。どうも簡単明瞭にて理解できる、もしくは理解できなさそうな定義である。
こうして読み終えると「自己表出」がやたら騒々しい文章である。夏目漱石がわめきちらす文章が一つあったが、漱石にとっては初期の小説を除いて、全くに稀有な例なのである。この自己表出として引用された作家の作品は、もう煩わしくて読みたくない思いになる。きっと引用した作家の文章が多すぎるために加えて、最高潮の場面の文章のみを抜き出したために、このような感想を持つのだろう。ただ、本書にていろいろな言語に関する具体的な表現について大いに参考になったのは確かである。言語の哲学的意味を深めて記述して欲しいし、「自己表出」がやたら騒々しい文章であるし、かつ決定的に本の題名が誤解を招くため、厳しく星は二個にしたい。
さて、本書を読んでみると結構な力作である。三浦つとむ著の「日本語とはどういう言語か」を読む必要などなくて、そのまますぐに理解できる。理論は簡単明瞭、不明瞭な所もあるが、数多の小説・詩などのサンプルを入れて、吉本隆明は独特の熱弁を振るうのである。そして、その範囲は私も読んだことのある古事記・日本書紀から始まって、古典文学や近代文学に演劇論など、更にヘーゲルの美学を取り上げて「言語にとって美とはなにか」という難問に挑み、一定の成果を得るのである。なぜ一定の成果というと、「言語そのものの美」ではなくて、「表現された言語にとっての美とはなにか」について書かれているためである。言語そのものに内在している美について書かれていると即断していたが、小説や詩として表現された言語の美、それも歴史的な文学書を吉本隆明自らの理論に基づいて読み解き、解明された文学書の紹介を経て、最後に芸術論的な展開を行って締めている。言語は表現を通してしか成され得ないはずであり、この観点からすると「言語そのものの美」の考えは狭義であり、あり得ないのかもしれない。吉本隆明は「言語の価値」と「文学の価値」とを分けすっきりと説明している。
でも、なぜかどうしてもしっくりといかない。即ち「美」という概念を広義に捕えるか、狭義に捕えるかによって異なってくるか、そもそも表題に「美」を入れたことが、私が間違って狭義に捕らえた原因と思われる。言語に「美」は無関係であって、表現された文章や小説に「美」があるかないか、もしくは言語表現の美的かつ「質的な差異」がどうして生じてくるかが問題なのである。質的に高い心を打つ表現がなぜできるのかが本来的な課題なのである。こうした本来的な課題に基づき、吉本隆明は詩を例にあげて質の高い表現の仕方を少し説明している。小説の価値についても美についても論じているのはとても良いことである。
この論じ方を簡単に記述すると、ある時代またが社会には、言語の自己表出と指示表出とがあるとする。そして、言語表現は韻律・選択・転換・喩によって表現され得て、文学はこれらを使用した自己表出へと進み、話し言葉は指示表出へと進むとする。ただ、文学作品を表出の歴史で扱うときは二重の構造を取り、表出の体は文学体と話体として成り立っているとする。こうして、近代の文学を引用して長々と説明する。私の読んだ作品も結構あって懐かしい思いもしたが、切り出され並べられた多数の小説の文章を読むのも疲れるものである。
さらに文学作品の価値の本質を知るにはその作品の「構成」を知ることだと主張する。「構成」とは有形的なものを指し示す指示表出の空間の展開、時代的な空間の広がりであると吉本隆明は主張する。吉本の主張を単純に言い変えれば、自分の考え思うことをうまく主題として展開させて的確に記述することであると思われる。そしてここでは「竹取物語」などの古典が題材として取り上げられている。最後は「文学的価値」について、自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値と呼ぶと述べている。どうも簡単明瞭にて理解できる、もしくは理解できなさそうな定義である。
こうして読み終えると「自己表出」がやたら騒々しい文章である。夏目漱石がわめきちらす文章が一つあったが、漱石にとっては初期の小説を除いて、全くに稀有な例なのである。この自己表出として引用された作家の作品は、もう煩わしくて読みたくない思いになる。きっと引用した作家の文章が多すぎるために加えて、最高潮の場面の文章のみを抜き出したために、このような感想を持つのだろう。ただ、本書にていろいろな言語に関する具体的な表現について大いに参考になったのは確かである。言語の哲学的意味を深めて記述して欲しいし、「自己表出」がやたら騒々しい文章であるし、かつ決定的に本の題名が誤解を招くため、厳しく星は二個にしたい。
2010年7月24日に日本でレビュー済み
随分前にノートをとりながら読みました。読後感としてはあと一歩で「古典」になるのに、という感じです。
この本の画期的特徴は言語を自己表出と指示表出というエネルギー体にまで完全に分解したことにあると思います。この時このエネルギーは生きた人間から発せられる。この辺りがアカデミックな言語学者との違いだと思います、
ソシュールの優れた見解には言語を放つ主体という問題はでてきません。たとえば、その人の心は辛いのに、口では「僕は楽しいんだよ」というのは割合良くあることでしょう。でもそんなことを気にしていたら言語学なんてできないので、ソシュールは「俺はそんなの知らん!パロールは切り捨てる!」と言ったんだと思います。(適当ですいません。)
だけど吉本さんはそこを逆に考えてむしろ個人のエネルギー、言葉を発する主体が言語の源だと考えたと思います。そこには当然文学という問題が控えていた。ですがここでひとつの問題がおこって、つまりあるエネルギーを言語で発するのに「何故その言語でなければいけないのか?」という問題が起こったと思います。つまりあるひとつの表出があるとしてそれに対応する言語は何故その形式でなければならないのか?ということです。僕の読んだ感じでは吉本さんはそれにはっきりと答えていない、と思います。ソシュールにも似たような問題は訪れて、ソシュールははっきりと答えています。「俺には言語の意味が記号と結びつく必然性は全然わからん。それは恣意的である」と。
この辺りがあやふやなのが吉本さんの弱点ではないでしょうか。
この辺りを微妙にクリアした(クリアしようとした)のが折口信夫ではないかと思います。折口は文法の形式論と、文法に内在するそれを発する人達の心象とを微妙に組み合わせて独自の文法論を作り上げた、と思います。そしてそれはーー吉本さんもそうだけどーーやはり日本的なもの、日本語に内在する可能性と不可能性ーーが影響していると思います。
この本の画期的特徴は言語を自己表出と指示表出というエネルギー体にまで完全に分解したことにあると思います。この時このエネルギーは生きた人間から発せられる。この辺りがアカデミックな言語学者との違いだと思います、
ソシュールの優れた見解には言語を放つ主体という問題はでてきません。たとえば、その人の心は辛いのに、口では「僕は楽しいんだよ」というのは割合良くあることでしょう。でもそんなことを気にしていたら言語学なんてできないので、ソシュールは「俺はそんなの知らん!パロールは切り捨てる!」と言ったんだと思います。(適当ですいません。)
だけど吉本さんはそこを逆に考えてむしろ個人のエネルギー、言葉を発する主体が言語の源だと考えたと思います。そこには当然文学という問題が控えていた。ですがここでひとつの問題がおこって、つまりあるエネルギーを言語で発するのに「何故その言語でなければいけないのか?」という問題が起こったと思います。つまりあるひとつの表出があるとしてそれに対応する言語は何故その形式でなければならないのか?ということです。僕の読んだ感じでは吉本さんはそれにはっきりと答えていない、と思います。ソシュールにも似たような問題は訪れて、ソシュールははっきりと答えています。「俺には言語の意味が記号と結びつく必然性は全然わからん。それは恣意的である」と。
この辺りがあやふやなのが吉本さんの弱点ではないでしょうか。
この辺りを微妙にクリアした(クリアしようとした)のが折口信夫ではないかと思います。折口は文法の形式論と、文法に内在するそれを発する人達の心象とを微妙に組み合わせて独自の文法論を作り上げた、と思います。そしてそれはーー吉本さんもそうだけどーーやはり日本的なもの、日本語に内在する可能性と不可能性ーーが影響していると思います。
2008年9月27日に日本でレビュー済み
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戦後日本人によって書かれた唯一の言語芸術についての理論書。
抽象度が高く、資本論と異なり現実の作品に上向することが困難なのが難点か。
理論的素養のない大学教員には読めないと思う。
抽象度が高く、資本論と異なり現実の作品に上向することが困難なのが難点か。
理論的素養のない大学教員には読めないと思う。