🌑バタイユのマダム・エドワルダ🌑
来月にバタイユの追悼イベントに出演するので、
学生時代はヨーロッパ文学オタクだった、遥かむかしにすっかり忘れていたバタイユのあっという間に読み終えてしまうマダム・エドワルダの新訳版を50代で再読。
このような本を女性が翻訳しているのは珍しいからレディコミみたいに読んでしまいそうになるのを気をつけながらも、若い頃にはこういうヨーロピアンな本やミニシアター映画にまるごと同一化して大人に憧れ、すぐに影響を受けて酔っぱらったり浸ったりしていたのだな、と。
今は女としては読めない。
前世を読んでいるように、
ああ、そういえばエロスや
狂気っぽさってそんな風なんだね、と遥かむかしのセックスを思い出して、
遠い目。
こんな風に、若い
ませた女の子は
こんな風な描写を
そのまま受け取り
だんだんと
イッタふりや演技みたいなセックスに酔いしれ、妄想とセックスの現実の境界線がなく、まともに判断できずにいい女のイメージや悪女のイメージを創り上げて
素である私自身
というセックス
から遠ざかってゆくのだろう。
嘘臭いセリフや振る舞いの
中毒になり、
相手の男性にも
勘違いをさせて
大変痛い沼歴史だ。
ほんとうにイクことの科学や純粋な器としての
神聖な身体をないがしろにして
感情と妄想、連想、
イメージに征服されてゆく
哀れな陶酔。
若い頃はバタイユは変わっている、難解、過激、とか、
性描写や、グロテスク描写の刺激を受けたり、読みながら考え込んだり、混乱した気分だったのだろう。
けれど今ならばとても読みやすくて
私のなかでとても普通でシンプルな小説だ。
出来事、シーン、独白、観察視点、すべてすんなり映画のように、違和感なく、つかえることなく、サラサラと読み、若い頃に調和同調していた女性側マダム・エドワルダよりも、
今の私は男性側、バタイユ的視点にすっかり調和同調しながら、
その男としての女性への眼差しや、印象の刻み具合と描写とともに
私はバタイユと重なりながら
男目線で
エドワルダをみて、
味わっていた。
そして今はどんな情景を読んでも、
エロいとは一欠片も感じなかった。
感情移入もゼロ。
普通、普通、そんなの普通。
それよりもあらゆるシーンに
散りばめられた
死。
今はそこに安心と絆、
信頼をごちそうになった。
エロス小説ではなく、
死ぬこと、死の試食、
死のグルメ小説。
黒い色の余韻が
虹色でうつくしい。
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マダム・エドワルダ (角川文庫) 文庫 – 1992/12/17
ジョルジュ・バタイユ
(著)
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これまでに出逢ったどんな娼婦とも違うマダム・エドワルダ。彼女に導かれ、陶酔と死とが絡み合った美の瞬間が繰り広げられる……エロティシズムの極限を描く啓示的な一夜の物語。
- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日1992/12/17
- ISBN-104042400019
- ISBN-13978-4042400011
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登録情報
- 出版社 : KADOKAWA (1992/12/17)
- 発売日 : 1992/12/17
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 288ページ
- ISBN-10 : 4042400019
- ISBN-13 : 978-4042400011
- Amazon 売れ筋ランキング: - 299,294位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 460位フランス文学 (本)
- - 5,870位角川文庫
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2022年9月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
バタイユなんて名前、日本では相当の読書家か文学部哲学科の人しか知らないだろう。
各言う私は三島由紀夫の評論で「バタイユが私の思考に一番近い」と述べていたのを最近知って、それではどんなものかと手にとってみたのがきっかけだ。
三島由紀夫がマダム・エドワルダについて「癲癇持ちの娼婦がついに見神の域に達するのだ」と書いていて、一体どんな話だよ…と収録作品を順番に読んでみたのだが…
何この人、頭おかしい。
これが率直な感想だった。
まずはセックス、兎に角セックス、取り敢えずセックスだ。
果たしてアマゾンがこれをレビューとして許してくれるか甚だ疑問だが、全編通してこれである。
私の語彙力の無さが悔やまれるが、ネットで有名な岡山の変態糞親父のコピペかこれはと言わんばかりの下ネタのオンパレードで、こんなのを評価するとか三島由紀夫もどうかしてるぜ…と、収録作品を読んだだけだとこうなる。
しかし本書の真骨頂は、バタイユ討論会の議事録にある。
これによると上記のバタイユの作風はわざとだとわかる。
バタイユによれば「小説(物語)とは非日常の連続性を持たせるものであり、その非日常性のもっともたるもの、それが性交で、性交と言う非日常性が連続性を持てばそれは極端であろうと、自身の唱える非日常性の連続性」こういうことだそうだ。
また、ニーチェ同様近世において神と言う絶対的なものの喪失と言うテーマもあり、その神への挑戦が眼球譚において「頭おかしいわこの人」と言わせんレベルで書かれている。
私は物語を書くに辺り、神格、神性の否定に挑んだことはあるが結局敵わず、討論会におけるバタイユの極めてまともな発言を見て、物書きとして完敗をした。
もし本編だけを読めば「頭おかしいわこの人」で終わるが、前知識がある状態ならこの短編集がいかに異常(良い意味で)かわかるだろう…
各言う私は三島由紀夫の評論で「バタイユが私の思考に一番近い」と述べていたのを最近知って、それではどんなものかと手にとってみたのがきっかけだ。
三島由紀夫がマダム・エドワルダについて「癲癇持ちの娼婦がついに見神の域に達するのだ」と書いていて、一体どんな話だよ…と収録作品を順番に読んでみたのだが…
何この人、頭おかしい。
これが率直な感想だった。
まずはセックス、兎に角セックス、取り敢えずセックスだ。
果たしてアマゾンがこれをレビューとして許してくれるか甚だ疑問だが、全編通してこれである。
私の語彙力の無さが悔やまれるが、ネットで有名な岡山の変態糞親父のコピペかこれはと言わんばかりの下ネタのオンパレードで、こんなのを評価するとか三島由紀夫もどうかしてるぜ…と、収録作品を読んだだけだとこうなる。
しかし本書の真骨頂は、バタイユ討論会の議事録にある。
これによると上記のバタイユの作風はわざとだとわかる。
バタイユによれば「小説(物語)とは非日常の連続性を持たせるものであり、その非日常性のもっともたるもの、それが性交で、性交と言う非日常性が連続性を持てばそれは極端であろうと、自身の唱える非日常性の連続性」こういうことだそうだ。
また、ニーチェ同様近世において神と言う絶対的なものの喪失と言うテーマもあり、その神への挑戦が眼球譚において「頭おかしいわこの人」と言わせんレベルで書かれている。
私は物語を書くに辺り、神格、神性の否定に挑んだことはあるが結局敵わず、討論会におけるバタイユの極めてまともな発言を見て、物書きとして完敗をした。
もし本編だけを読めば「頭おかしいわこの人」で終わるが、前知識がある状態ならこの短編集がいかに異常(良い意味で)かわかるだろう…
2017年3月18日に日本でレビュー済み
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エドワルダが「ぼろ布」を見せびらかす場面を筆頭に、これまでのこの作品の日本語訳とくらべても非常に刺激的な翻訳です。
若い女性が訳したとのことですが、それが逆にバタイユの意図と化学反応を起こしているのかもしれません。
短い作品ですが、哲学小説として読んでも、性的な小説として読んでも面白みがあります。
若い女性が訳したとのことですが、それが逆にバタイユの意図と化学反応を起こしているのかもしれません。
短い作品ですが、哲学小説として読んでも、性的な小説として読んでも面白みがあります。
2023年8月16日に日本でレビュー済み
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バタイユは、ギルガメッシュ的であった。すなわち彼は、死と虚無とを畏怖しつつも同時に人間存在の友人とし、またそれから逃亡しようとも抗い続けた。
その思想の原体験には、彼の失明し寝たきりとなった父親との関係性が横たわる。それは虚無との対置の場をコンプレックスとして創り上げると同時に、絶対的に沈黙する神(=霊)と自分(=肉的存在)との関係性を、逆説的に現前化させた。
バタイユは「無神論」を公言したが、それを口外するということは、すなわち彼の内と外とに神は、人間の制度を超えた絶対的なものとして依然、現前していたからに他ならない。それは先んじるニーチェにおいても、すでに同じであった。
これにより引き起こされる畏怖するがあまりの神からの離脱(抵抗)の、すなわち「悪」の衝動は、やがては同じく失われてしまう自らの肉体(実存)へのアニミズム的な固執という、人間的な武器としての姿勢と傾向とを編み出す。バタイユの場合、それが変質的な性衝動、その男性性を介しての陰部と、それが齎す雄独自の攻撃的なエクスタシーへの、フェティシュな肯定へと結実していった。永劫回帰と名指しされた、肉体という物質的に延々と閉ざされる闇の思考循環はこれにより導き出され、堂々巡り(虚無)としての運動を開始して、律動する。
バタイユのそれら反駁する企ての真の目的は、背信や悪徳の標榜の果てにある、自らへやがては打ち振るわれ下されねばならない、神からの逆燐とその断罪とに他ならない。それは倒錯された愛の行為が為の秘められた至高的な儀式であった。神には人間の把握し得るような形での顕れは根源において不在なのだが、バタイユはそれを夢想、熱望し志向したのである。
思考実験小説『マダム・エドワルダ』は、その宣言でもあったと云って過言ではないだろう。「この書物には秘密がある。私は何も言わない。なぜならその秘密はあらゆる言葉を超えているから」とは、そのことを指している。
だが、そもそもが人間による涜神にまで至る死の運命への抵抗や反逆や背信、背徳は、本質的にそれ自体が結果、循環する虚無的(物質的肉体性)な行為であり、どこまでいっても、人間存在の限界を指し示す壁のように、迷妄に過ぎない。それ自体(死)が現前する限り、神もまた霊的に永劫に現前し続けるからである。
それより以後、ジョルジュ・ベルナノスが『田舎司祭の日記』で記した通り、「死は神からの恩寵」、我々にして、終りにして始まりの根源的な至福(殉教)でしか、そもそもが他にないのであるからだ。
その思想の原体験には、彼の失明し寝たきりとなった父親との関係性が横たわる。それは虚無との対置の場をコンプレックスとして創り上げると同時に、絶対的に沈黙する神(=霊)と自分(=肉的存在)との関係性を、逆説的に現前化させた。
バタイユは「無神論」を公言したが、それを口外するということは、すなわち彼の内と外とに神は、人間の制度を超えた絶対的なものとして依然、現前していたからに他ならない。それは先んじるニーチェにおいても、すでに同じであった。
これにより引き起こされる畏怖するがあまりの神からの離脱(抵抗)の、すなわち「悪」の衝動は、やがては同じく失われてしまう自らの肉体(実存)へのアニミズム的な固執という、人間的な武器としての姿勢と傾向とを編み出す。バタイユの場合、それが変質的な性衝動、その男性性を介しての陰部と、それが齎す雄独自の攻撃的なエクスタシーへの、フェティシュな肯定へと結実していった。永劫回帰と名指しされた、肉体という物質的に延々と閉ざされる闇の思考循環はこれにより導き出され、堂々巡り(虚無)としての運動を開始して、律動する。
バタイユのそれら反駁する企ての真の目的は、背信や悪徳の標榜の果てにある、自らへやがては打ち振るわれ下されねばならない、神からの逆燐とその断罪とに他ならない。それは倒錯された愛の行為が為の秘められた至高的な儀式であった。神には人間の把握し得るような形での顕れは根源において不在なのだが、バタイユはそれを夢想、熱望し志向したのである。
思考実験小説『マダム・エドワルダ』は、その宣言でもあったと云って過言ではないだろう。「この書物には秘密がある。私は何も言わない。なぜならその秘密はあらゆる言葉を超えているから」とは、そのことを指している。
だが、そもそもが人間による涜神にまで至る死の運命への抵抗や反逆や背信、背徳は、本質的にそれ自体が結果、循環する虚無的(物質的肉体性)な行為であり、どこまでいっても、人間存在の限界を指し示す壁のように、迷妄に過ぎない。それ自体(死)が現前する限り、神もまた霊的に永劫に現前し続けるからである。
それより以後、ジョルジュ・ベルナノスが『田舎司祭の日記』で記した通り、「死は神からの恩寵」、我々にして、終りにして始まりの根源的な至福(殉教)でしか、そもそもが他にないのであるからだ。
2017年8月11日に日本でレビュー済み
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翻訳をなさった方は、まだ大学院生であるそうなのですが、まるでプロの翻訳者であるかのようでした。
安価ですし、非常にお買い得だと思います。
安価ですし、非常にお買い得だと思います。
2022年1月24日に日本でレビュー済み
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無意味との戦い。
約1世紀前、ニーチェは「われわれは一歩一歩、偶然という敵と闘っている」と言った。何かそのようなことを言った。それより以前には、〈意味〉とは聖肉として物質的なもの、極端なまでに即自的なものだったのだろう。
〈聖〉のはじまりはよくわからない。初期の時代の人々の生活は神秘で満ちていた。健全な人が一体どうして病気で倒れるのか、なぜ春になると木の芽が芽吹くのか、さらにさまざまな妖怪(ダエモン)のうわさもあった。しかしそれが〈聖〉と名指されたのは1種の飛躍である。
後世のアインシュタインにとって宇宙は〈意味〉で充満したものだったようだが、今ではそれは迷信だったと確言することができる。
ということは、無意味との戦いはまだ終わっていない、私たちはインターネットにアクセスし、ある場所に通い通いして、敵と出会う、その「無原因な機会原因」の通る裏口をあらかじめ開けておかなくてはならないのだ。
約1世紀前、ニーチェは「われわれは一歩一歩、偶然という敵と闘っている」と言った。何かそのようなことを言った。それより以前には、〈意味〉とは聖肉として物質的なもの、極端なまでに即自的なものだったのだろう。
〈聖〉のはじまりはよくわからない。初期の時代の人々の生活は神秘で満ちていた。健全な人が一体どうして病気で倒れるのか、なぜ春になると木の芽が芽吹くのか、さらにさまざまな妖怪(ダエモン)のうわさもあった。しかしそれが〈聖〉と名指されたのは1種の飛躍である。
後世のアインシュタインにとって宇宙は〈意味〉で充満したものだったようだが、今ではそれは迷信だったと確言することができる。
ということは、無意味との戦いはまだ終わっていない、私たちはインターネットにアクセスし、ある場所に通い通いして、敵と出会う、その「無原因な機会原因」の通る裏口をあらかじめ開けておかなくてはならないのだ。
2020年2月10日に日本でレビュー済み
生田耕作氏の訳は三島由紀夫も絶賛。また生田氏は改訳を何度も行うので、出版社、年代によって若干異なっている。ただ、どの版を読んでも鬼気迫るエロスの香りと肉迫した描写は読みごたえがあっていい。中条なんとかの訳はバルベーは良いと思うが、これに関しては安っぽい。語学ばかりだけでなく、翻訳者との相性があるのを考える際に「マダム・エドワルダ」は良い見本になるような気がする。
2018年4月25日に日本でレビュー済み
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翻訳に品が足りない?と思いました。他の訳者のものを立ち読みして興味持ったのですが、訳者によってこんなに印象が変わることに驚きました。