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「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫 も 13-1) 文庫 – 2002/1/25

4.2 5つ星のうち4.2 180個の評価

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メディアの垂れ流す情報に感覚が麻痺していく視聴者、モノカルチャーな正義感をふりかざすマスコミ……「オウム信者」というアウトサイダーの孤独を描き出した、時代に刻まれる傑作ドキュメンタリー。
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商品の説明

出版社からのコメント

僕らはあの事件からまだ何も学べていない。
――オウム真理教の中から見たとき、外の世界はどう見えるのだろう? 一九九六年。熱狂的なオウム(現アーレフ)報道に感じる欠落感の由来を求めて、森達也はオウム真理教のドキュメンタリーを撮り始める。

オウムと世間という二つの乖離した社会の狭間であがく広報担当の荒木浩。彼をピンホールとして照射した世界は、かつて見たことのない、生々しい敵意と偏見を剥き出しにしていた――!

メディアが流す現実感のない二次情報、正義感の麻痺、蔓延するルサンチマン世論を鋭く批判した問題作!

ベルリン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、釜山、香港、バンクーバーと各国映画祭で絶賛された「A」のすべてを描く。

著者について

森達也●98年オウム真理教の荒木浩を主人公とする映画「A」を公開、ベルリン映画祭など海外映画祭で高い評価を受ける。2001年「A2」を公開し、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞する。著書に『「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』(ともに角川文庫)、『放送禁止歌』(知恵の森文庫)、『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(晶文社)など多数。映像・活字双方で最も注目を集める作家。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ KADOKAWA (2002/1/25)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2002/1/25
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 272ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4043625014
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4043625017
  • カスタマーレビュー:
    4.2 5つ星のうち4.2 180個の評価

著者について

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森 達也
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広島県生まれ。映画監督、作家。1998年にドキュメンタリー映画『A』を発表。2001年、続編の『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『極私的メディア論』(ISBN-10:4904795075)が刊行された当時に掲載されていたものです)

カスタマーレビュー

星5つ中4.2つ
5つのうち4.2つ
180グローバルレーティング

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上位レビュー、対象国: 日本

2013年6月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
山梨県上九一色村にあった第6サティアンのスチールドアを勢いよく開けると、目の前にジーパンを穿いた長身の男性が立っていた。このとき鉢合わせたことだけが、著者の森達也氏と会った唯一の記憶だ。当時僕はオウムに出家していて、屋外で働いていた。
森達也氏はその取材を元に「A」というドキュメンタリー映画を製作する。メディアではあまり取り上げられなかったが、マニアックな人々の間で、話題になっていた。
僕もその映画を見たが、結論を視聴者に押し付けず、撮影した中で印象に残った場面を見せることで、自分で考えさせるといったタイプの作品だった。最初に結論を決めておいてから撮影し、その趣旨に合う言葉じりを強調し、BGMとともに分かりやすく結論をテロップで放送するという、今の視聴率偏重主義に染まった番組とは対照的だ。玄人向きというか一般の人にとっては、より公平である分、わかりにくい造りだ。
撮影の対象は、教団の広報担当荒木浩である。どちらかといえば内向的で、言葉と言葉のあいだの間(ま)で表現するようなタイプの人だと僕は思っていた。普通に考えて、おおよそ広報には最も不向きな人、という印象があった。

メディア向きでない人物を、メディア向きでない作風で、作品にしていくというのを、無謀な行為だとは思わなかったのだろうか。
しかしその化学変化は、映画をむしろ良作に仕上げていた。当時オウムは日本中に知れ渡っていたが、ほとんどの人は過激な演出で同じ情報を繰り返す報道番組に飽きてしまっていて、それがこの作品に新鮮な驚きを付け加えたのかもしれない。

「A」という映画には、あまり詳しい解説はない。映画を見てもよく分からなかった人は、この本を読むべきだ。製作者として、森達也氏の考えていたことが書かれている。
僕が当事者側にいたからだろうか。森達也氏の文章にはその行間ごとに考えさせられてしまう。
行間で考えさせる作家が、言葉の間(ま)で表現する人物を追いかけていく。本文でも著者は荒木浩を鏡として、自分を見つめなおしている。
自分の視座にこだわり続けたがために、制作会社を首になってしまい、社会に立場を失ったままオウム内で取材を続けている中途半端な自分の姿を、逆の立場でオウムに出家していながら、一日の大半を、外界との接触にあて、オウム式の思考を一般社会式の言葉に翻訳し続ける荒木浩に見出している。

そしてオウム真理教と一般社会とが、相対の関係にある事にも気づいていく。

僕がオウムに出家したことで何を得たかといえば、一般社会からオウムに洗脳されることで、逆に一般社会でも洗脳されていたことに気づかされたこと、と言えるかもしれない。
それはどちらが正しいのかという問題ではない。ただ生きていくための支えとして、どちらの杖を使うのか、という程度のことなのだと、今は思う。それがキリスト教でも、イスラム教でも同じことだ。

オウムを攻撃していれば正しい、という当時のメディアの潮流の中にあって、戸惑いながらも流されない。
揺れる著者の心の描写は見事である。オウムの側から社会を見ると、まったく違って感じられる。本文で、オウムのあるサマナが、公安の私服捜査官の自演による、公務執行妨害で逮捕されてしまう。そのときの一部始終を見ていた見物人は、その行為に手をたたき「あいつら人間じゃないんだから、殺しちまえばいいんだ。」という声が飛んだという。
それを読んだとき、僕は自分がオウムをやめるかどうかという頃の、アルバイト先での出来事を思い出した。当時すでに死に体であったオウムは、サマナ達をアルバイトに行かせ、その給料を布施させることで、組織を維持していた。休憩中にグループの中でオウムの話になり、村井幹部が大勢のマスコミの前で刺殺された時のことを、「あれは楽しかった。最高だった。」と楽しそうに談笑し始めたのだ。そのなかには女性もいた。
まだ疑惑段階だったとはいえ、オウムが悪かったのは疑いようのない事実だ。しかし目の前で人が刺殺されるのを見て楽しかったと、彼らは言っているのである。
僕の友人はあの時、村井の警備をしていた。彼は犯人に切られた傷口から、背中に飛び出そうとする村井の内臓を必死で押さえていた、と告白した。守らなければならない人を、目の前で助けることが出来なかったことで、心に深い傷を負っていた。その一方で、テレビの前の一般の人々は、快哉を叫んでいたのである。社会の側から見れば、オウムのしたことは異常だった。しかしオウムの側から見た当時の社会も、明らかに異常だった。

オウムの事件以来マスコミ報道も、国家権力である警察もずいぶん変わってしまったように思う。森達也氏はそれをオウムの側から見ることで実感を深める。そしてその思いはこの後の作品にも引き継がれていく。

本文を読む中で、なぜサマナ達が麻原の言う、米軍による毒ガス散布などの、荒唐無稽な話を信じていられたのかを、自分の経験を元に考え、気がついたことがある。洗脳から脱していく過程で、オウムの存在が自分の中で小さくなっていく感覚とか、縁遠く感じられるといった変化がある。そのあと自分が出家していたなんて嘘なんじゃないか、とか信じられないとかいった感覚になっていく。
この脱洗脳過程で感じるのが、自分の信仰心の減少もしくは疑念の増大よりも、麻原とオウムという集団に対する親近感や存在感の減少であったことは、重要なヒントであるように思う。
オウム真理教の際立った特徴の中では、タントラ・ヴァジラヤーナとか、マハームドラーといった教義の特殊さが話題になったが、出家制度とそのハードルの低さについては初期のころ取り上げられただけで、あとはそれほど話題にならなかった。出家制度自体がオウム以外にもあることから、一般の読者や視聴者から共感を得にくかったのかもしれない。
出家して最初のうちはつらいが、周りがみんな我慢しているのを見て、自分も慣れてくる。それから毎日一緒に生活しているうちに、宗教とか信仰とかいう以前に親近感とか、人情で麻原や仲間を見るようになる。
一般社会に対する親近感や人情が失われ、変わりに麻原やサマナの集団に対して持つようになるのだが、自分にはそれは気がつかない。それを信仰心と勘違いするのではないかと思うのだ。
これでは、信仰とは関係がない。要は愛着の対象が現世から、サマナの集団に変わったに過ぎない。
そうなると例の荒唐無稽な話の内容を考えて信じていたのではなく、その発言をした人のことが身近で、好きだったから無思考に受け入れたということになる。それは一般に僕達が、マスコミの言うことを、無思考に受け入れてしまうことと大差ないことだ。

一般的な文脈では、妄信と信仰心は別物とされる。妄信は背景に思い込みや愛着があり、相手の言うことを無思考に受け入れてしまう。それがより強くなり、依存症を呈するのが洗脳状態だと思う。
一方の信仰心の説明は自分にはできない。それが出来る人は、宗教の道に精通している人だろうと思う。オウムでは、グルや先輩の修行者に対しての執着と帰依(信仰)との違いを、区別して説いていなかった。むしろ執着することを奨励しているくらいだった。オウムには特にグルの側にとって都合の良い教えがあったが、それに対して疑念を抱く前に感情的に執着してしまうことで、盲目的に受け入れる仕組みができていたのかもしれない。
普通の人は出家したからといって、なぜ簡単にグルやサマナ集団に執着できるのか、と疑問を抱くだろう。しかし自分の周りの人がみな、麻原を尊敬して、あからさまに服従の態度を示しているのをみると、偉大な人物を見ている気になってくるものなのだ。
たとえば大戦中のナチスドイツの記録映画で、整然と並んだ親衛隊員の服従の態度を見ると、ヒトラーが偉大な人物に見える。それと同じことだ。
出家してすぐ与えられる課題が何百時間にもおよぶ立位礼拝であったのは、自分自身の帰依心を強める修行としてだけでなく、周りの人の立位礼拝を見て自分もその気になっていく効果を狙ったものだったのかもしれない。

一般的な宗教では、信徒の中でも長年修行に励み、その人の人生にとって現世にいることが無意味であると、認められるような上級者のみが、出家を認められるはずだ。しかしオウムでは、信徒として初級から中級くらいの人を、どんどん出家させていたのだ。
それによって信仰心が育まれる間もなく、生活を共にすることで麻原やサマナ集団に愛着を抱くようになる。愛着によって、その言動を無思考に受け入れてしまう。理不尽と思っても、あきらめに似た感情で「まあオウムだからしょうがないな。」と受け入れた経験は、どのサマナにもあったのではないか。米軍によるガス攻撃発言、選挙出馬、コスモクリーナーやヘッドギアなど。
一つ一つの疑念を理解して乗り越えたのではなく、今の自分では修行が足りないために分からないのだと、理解することをあきらめ、スルーしてしまう。

おそらく、オウム事件の実行犯達もそうだったに違いない。自分には分からないが、グルには分かっているのだろうと、判断したり理解することをあきらめてしまった。しかし裁判では、明確な解釈を説明するように求められるため、自分でもよく分からないタントラ・ヴァジラヤーナとかマハームドラーといった言葉を使わざるを得なかったのだ。
72人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2022年4月4日に日本でレビュー済み
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全て事件とか物事は、多面的に見たり考えなければとおもいました。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年11月24日に日本でレビュー済み
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森達也はもっとたくさんの人に読んでほしい。物事を一方向から見ていても本質は見えないのです。先入観程恐ろしいものはない。
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2018年3月28日に日本でレビュー済み
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森達也は判断しない。そこを解説の宮台が体験加工の保留とうまく説明している。ただ見て聞いて、撮る。自分の感情を伝える。それをどう考えるのかは私たちである。それを森達也は求めている。それこそが思考停止に対する問いかけである。森達也が判断して結論を書けば、それにただ乗っかる人、反発して一刀両断にバカ扱いする人が出るだろう。それが思考停止である。なので私が聞きたいことも森達也はインタビューしてくれない(笑)世俗の愛着を「執着」と言うが、信者仲間が不当逮捕されれば必死に助けようとし、麻原に愛着を示し、仲間を守ろうとするそれは、愛では無いのか?執着ではないのか?修行をしていない、オウム的には「凡夫」を殺した時、産まれる憎しみや悲しみを「執着」と言うなら、宗教そのものに捕らわれ「真理」をひたすら求めるその心も「真理への執着」ではないのか?沢山の矛盾を孕んだままの「信心」。罪悪感や疑惑を近づけないための「迷い無い宗教的解釈」。それは「自分だけが苦しまないための信心」。信じるほどに、すべての苦しみが無くなっていくのは当然の事だ。他人の痛みを感じることを執着と呼び、己の生きにくさを凡夫の無知のせいと切り捨て、他人のために悩んだり胸を痛めたりしなくなれば、世の中はずいぶん楽だからだ。
それはまたそのまま社会にも適応する。いじめを平気でする人間。悪口を広め他人をたたき落とす人間。そこには宗教では無い「信心」がある。「あいつが調子に乗っているからだ」「あいつは悪人だから」「社会のために」と言うような、それをなんとかしてたたき落とさねばならないという、迷いなき「信心」がある。同じ理論で人は人を殺す。
人をたたき落とし、殺す真理は宗教があっても無くても同じ理論だ。
これを読む前から、オウムの事件には大事なことがあると感じ、
信者は自分の頭で悩み苦しみ一歩ずつ答を探すことを停止して、既存の「真理」に手っ取り早く乗ることを選んだ。と感じていた。そうしてその人生最大の選択が間違っていない事を証明しようと教義からそれらしいことを探し符合させ続けているのだと。そうしてきっと世間の意地の悪さに比べて、教団内部の人間の方が善良なのだろう。(善良=正しさ。ではない。)世間に戻ることは恐ろしいことなのだろうと。思っていた。森達也の「思考停止」言に深くうなずいた。

昔、祖母の法事で坊さんが、「人に沢山分け与えていたおばあさんが、たったひとつ子供のためにまんじゅうを残した。それで餓鬼道に落ちた。それほど執着は悪いことだ。」と説教をしていて、私は法事であるのに手を挙げて反論したくなった。「子供を餓死させて他人に全部与えちゃうやつを一般にろくでなしと言うのでは無いのか?!」と強く言いたかった。仏教がそう言うことを言う。断捨離だと言って、年老いた両親のもったいないと言う痛みを無視して全部捨ててしまい、姑を怯えさせ悲しませる嫁は一般に鬼嫁と言うのでは無いのか?清潔は健康にも良いと、それが高じれば他人をすべてばい菌扱いするようになる。自分の尻は拭くだろうに。世間にはそういった「良いことから昂じる異常」や「執着は悪」と言う思想が底に横たわっている。そこを究極に伸ばしていけばオウムにもなるのだと思う。
オウムの「異常」から学ぶべき事は沢山あるのだ。
21人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2022年8月5日に日本でレビュー済み
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マスコミのオウム観からわざとはぐれて、信者に接近した中立なドキュメンタリーを作ったぞという一代記。
良い姿勢だと思う。
ただ、やはりミイラ取りがミイラに…なっている。あっち側に取り込まれていながら、自覚のない人の書いた手記として興味深い。

それと、全体的に書き口が自分に酔っていて嘘くさいので、「この人の作るドキュメンタリーねえ…?」という気持ちにさせられる。

例えば大学生の討論シーン、男子学生は「ーだぜ。」と言い、女子学生は「ーわよ。」と言う。美味しんぼかよ。一気にフィクション臭くなる。

熱意はすごいけど、面白いのはあんたじゃなくて
被写体の荒木浩だよ!と言いたくなってしまう
8人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年5月18日に日本でレビュー済み
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オウム真理教が起こした一連の事件の記憶は今でも生々しく、極悪非道な反社会的狂信者の集団で理解不能だと思っていた。つまりオウム=絶対悪と言う認識で、思考停止していたと、本書を読んで痛感した。そしてその認識が、実はテレビを初めとするマスコミによって刷り込まれていたと言う事実も。作者がこのドキュメンタリー映画の作成を構想するも受け入れられず、結局フリーの立場で自主制作するしかなかったのも、オウム=絶対悪と言うマスコミの認識にそぐわなかったからであろう。
 マスコミが世論の形成に与える影響力の大きさは、コロナ禍の現在にも見られる普遍的な問題のようだ。当時の圧倒的世論に逆らい、あえてオウム信者の立場からのドキュメンタリーに挑んだ作者は貴重な存在だ。
 思考停止したマスコミに反旗を翻し、極力中立の立場でドキュメンタリーを制作しようとした作者の労作として髙く評価する。が、オウム信者、特に荒木氏との親交が深まったあまり、やはりオウム信者側にやや肩入れしてしまった感があるのは、作者の限界か。人間的には好感を覚えるが、ドキュメンタリー制作者としては情に流されてしまうのは頂けない。
12人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2018年8月15日に日本でレビュー済み
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この方の書籍を何冊か読んだ。
それぞれに納得、共感するところがあった。
この書籍にもズシリと響く言葉が多い。
私にとってバイブルとなるであろう作品です。
3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2019年7月13日に日本でレビュー済み
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オウム真理教への精力的な取材を続けている森達也の最初のドキュメンタリーの製作を記した一冊。オウム真理教を取材する中で、その外側の日本社会の思考停止を明らかにしていくところが面白い。