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「おじさん」的思考 (角川文庫) 文庫 – 2011/7/23
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こつこつ働き、家庭を愛し、正義を信じ、民主主義を守る――今や時代遅れとされる「正しいおじさんとしての常識」を擁護しつつ思想体系を整備し、成熟した大人になるための思考方法を綴る、知的エッセイ。
- 本の長さ288ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日2011/7/23
- 寸法10.7 x 1.1 x 15 cm
- ISBN-104043707053
- ISBN-13978-4043707058
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商品の説明
著者について
登録情報
- 出版社 : KADOKAWA (2011/7/23)
- 発売日 : 2011/7/23
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 288ページ
- ISBN-10 : 4043707053
- ISBN-13 : 978-4043707058
- 寸法 : 10.7 x 1.1 x 15 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 156,580位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,934位社会一般関連書籍
- - 2,814位その他の思想・社会の本
- - 3,455位角川文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
1950(昭和25)年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想。ブログ「内田樹の研究室」を拠点に武道(合気道六段)、ユダヤ、教育、アメリカ、中国、メディアなど幅広いテーマを縦横無尽に論じて多くの読者を得ている。『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で第六回小林秀雄賞受賞、『日本辺境論』(新潮新書)で第三回新書大賞を受賞。二〇一〇年七月より大阪市特別顧問に就任。近著に『沈む日本を愛せますか?』(高橋源一郎との共著、ロッキング・オン)、『もういちど村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング)、『武道的思考』(筑摩選書)、『街場のマンガ論』(小学館)、『おせっかい教育論』(鷲田清一他との共著、140B)、『街場のメディア論』(光文社新書)、『若者よ、マルクスを読もう』(石川康宏との共著、かもがわ出版)などがある。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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後期の著作に比べて開けっぴろげな話をしている。哲学書というよりエッセイで、読みやすい。
正直な話、内容は面白かった。自らを予め、何の変哲もなく偉くもないおじさんと位置づけ、『みなさんはそう思っているようですが、ちょっと違うんじゃないですか?』というスタンスで時事ネタに切り込んでいる。全編主観的な解説ながら、妙に説得力を感じる。同氏の哲学からは、個人の主体に根ざす責任から逃げるな、というメッセージが伝わるのだが、その一方で、自身の喫煙を正当化しようと述べた項目では表面的な苦しい屁理屈ともとれる論理で開き直っているようにも見える。喫煙に関しての項目が書かれたのは分煙が進む前のことであるが、喫煙の自由はいいとして、それによって周囲の健康被害や間接的に増大する医療費の観点からみても、同氏の言い訳は非常に稚拙な自己弁護となっている。このように、他者にたいする批判が厳しい割には、自己に対しては『おじさんだから』という弁解が共存している部分を見ると、先の説得力ある論法もすこし割り引かざるを得ない。ただし、社会にたいする視点や着眼点は非常に面白く、多くの点で参考になるのは間違いない。以上より、読者各自が自身の意見を持った上で、全てを鵜呑みにしないで読むべきと思う。
評価は星4つにするか迷うところだが、先の問題点と、値段がやや高いこと、同氏の『ひとりでは生きられないのも芸のうち』と比較して完成度がやや劣るので星3つとした。実質3.5くらいが妥当かと思う。
「大事小事に拘わらず、横っちょから「こんなふうにもかんがえられるよ」「こんな方法もあるよ」と風を吹きこんでくれるのが「おじさん」という存在だ。そのときどき存在感はさりげなくもあり、でかくもあり、むしろ変幻自在ぶりにこそ風通しのよさがある。内田樹そのひとも、風穴をもたらしてくれる存在だ。しかも、これまでどこにもなかったやりかたで。」平松洋子(エッセイスト)「本書解説(こんなおじさん、待っていた)」から
私が内田樹さんに惹かれる理由のひとつに「武道家」ということがある。私も少林寺拳法や大東流合気柔術をほんのちょっぴり囓った経験があるので(本当は“囓る”までもいかないかもしれないが…)、そうした面でついつい共鳴現象を起こしてしまう(笑)。また、内田さんの思想には、中島岳志さん言うところの「ゆるいリベラル(ゆるリベ)」的なものがあり、これまた共振してしまう(笑)。ちなみに、私は「ゆるリベ」に「ぬるい保守」が溶け込み、意味不明の造語であるけれど「ぬるリベ」を自称している次第だ(笑)。だから、大体において「そう、そう、そうなんだよね」となる訳で(ここのところは、かなり端折っているが…)、例えば本書第1章「「おじさん」の正しい思想的態度」についても、原則異議はない。
昨今、「改憲論議」を意図的に盛り上げようとする風向きになっている。そして、「緊急事態条項」などとともに、自衛隊の憲法上の位置付けを明確化しようとする動きがある。そこで、こうした論件に対する内田さんのスタンスを、第1章に掲載している「「護憲」派とは違う憲法9条擁護論」(2001/5)から見てみよう。まずもって、内田さんは「私は9条の改訂には反対である」ことを表明し、その上で「ただし、私の憲法観はいわゆる「護憲」派のそれとはだいぶ違う」と断りを入れる。確かに、その通りで、論理の組み立ても独得なものがあるけれど、端的に言えば「憲法9条と自衛隊」は「双子的制度」である、というところが大きなポイントだ。つまり「この二つの制度は本質的に「兄弟」なのである」。
すなわち、「憲法9条と自衛隊は相互に排除し合っているのではなく、いわば相補的に支え合っている」ということ。もっと直截に言えば「「正統性が認められていない」ことこそが自衛隊の正統性を担保している」という理説である。そして、「憲法9条の「重し」」、「憲法9条の「封印」が自衛隊に「武の正統性」を保証している」のである。だから、「憲法9条のリアリティは自衛隊によって支えられており、自衛隊の正統性は憲法9条の「封印」によって担保されている」という現実と理路を、私たち「おじさん」は改めて認識する必要があるだろう。それは戦後の大方の日本人に共有されてきた“感覚”であり、故に、自衛隊の存在を受け入れつつ、9条の改悪を拒絶し続けてきた“根っ子”でもあろう。
ちょっと「憲法9条と自衛隊」といった論件が長くなってしまったが、この事柄と関係して「「普通じゃない」国日本の倫理的選択」(2001/10)ということで、漫画家の弘兼憲史の言説を論駁している。それは2001年10月に成立した「テロ特措法」に纏わるものと推考するけれども、ここでも内田さんらしい論理が開陳されている。詳述しないが、ここでは「エコロジカル・ニッチ」を鍵概念とし、「普通の国」になることを求める弘兼に対し、簡潔に結論すれば「「普通じゃない」というのが、日本の国際社会における最大の「強み」」と立言している。このあたりの論理展開も「異議なし」である。その他、第4章における“漱石論”は、やはり説得的かつ印象的であり、悔しいけれど肯んじ得る洞見であった。
「反時代的なタイトル」(文庫版あとがき)の付いた本書は、内田さんにとって22編の随感等を収載した2冊目の単著である。それは内田さんも言うように「二昔前の常識」に基づいた「日本の正しいおじさんの擁護と顕彰のための本」(単行本版あとがき)かもしれない。だが、最も大事な点は「「日本の正しいおじさん」の生き方を思想体系として整備する」(同前)という、一貫した姿勢である。それは「「正しいおじさんたち」がこれまで信じてきたもの、それはたしかに十分説得的ではなかったし、歴史的風雪にも耐えられなかった。しかし、それを棄ててしまったあと、いったい何を信じることができるのだろう」(同上)という前提に立つ。まさに「日本の正しいおじさん」の思想的再構築が求められている。
ただ、文才というのはやっかいなものだ。本来、文才と内容は無関係のはず。特に思想書の場合、肝心なのは内容であって、「文才」という「外見」ではない。ところが、文章が上手い人というのは、内容が何であれ、とにかく「読ませる」のだ。神様が存在することも存在しないことも、内田氏なら同じくらい鮮やかに説明できる気がする。この本の「教育とエロス」に内田氏が書いていることと、内田氏が元教え子と再婚したことは、矛盾すると私は思う。ただ、内田氏なら、上手く文章で矛盾なく説明してしまうのだろう。
おそらく、自分に人並み外れた文才があることは、内田氏本人も自覚しているはず。自分がイケメンであることを十分理解している男性の身のこなしのような文章だと思う。味も悪くはないが、それ以上に盛り付けに凝っているシェフの料理みたいな文章だとも思う。だから、読んでいるときは小気味いいけれど、読み終わった後、「何が書いてあったの?」と問われても答えられない人のほうが多いのではないだろうか。
内田氏の著作はこの本を含めて2冊しか持っていないが、氏のブログを毎日楽しみに読んでいた。しかし、上記のようなことに気がついてから、読むのをやめた。
最近、SEALDs関係の記事で内田氏の文章を見かける。しかし、言葉があまり響いてこない。内田氏の文章は、内田氏の考えに近い人の心には深く届く。しかし、反対の考えを持つ人は、逆に反感を買うことが多い気がする。
SEALDsが盛り上がったのは、今までデモに関心がなかった人、反感を持っていた人たちに届く言葉やスタイルを、中の人たちが必死で考えたからだと思う。奥田氏の出身高校の偏差値が取りざたされているが、おそらく、そのことと運動の盛り上がりは無関係ではないと思う。口には出さなくても、多くの日本人は自らの行動を「偏差値」で縛っている。たとえば、SEALDsを擁護する人までも「安倍の偏差値はどうなのよ。」みたいな「偏差値」的価値観を前提とした反論をしているほど。
奥田氏らの行動が人を惹きつけた理由のひとつに、彼らが「偏差値」から自由だったことがあると思う。だから、「偏差値28」みたいな陰口は、運動の勢いを削ぐどころか、逆に運動にはプラスに働くと思う。
一方、内田氏のSEALDs関係の文章を読んでいると、「反安倍」と「親安倍」の対立を前提にしているように思える。つまり、内田氏は「親安倍」の人には目が向いていない。最初から「反安倍」の人だけに向けて言葉を発している。
これでは、運動を盛り上げることにはならない気がする。むしろ盛り上がりに冷や水をかけることになるのではなかろうか。私たちの大多数は「反安倍」でもなく「親安倍」でもないからだ。あるいは「反安倍」でもあり、「親安倍」でもあると言ってもよい。頭のいい人から見ると、「混乱」でしかないかもしれない。しかし、多数の人は「言葉」だけで生活しているわけではない。「言葉」で規定すれば矛盾することも、生活の中では両立する。
だから、「親安倍」的な立場を「反知性」とするような内田氏の一連の発言は、「反安倍」寄りになったかもしれない多くの人の反発を生むことになる危険がある。それは、より多くの人に言葉を、行動を共有しようとしていた奥田氏らの運動とは逆方向を向いているのではと危惧する。
内田氏には、「親安倍」的な人にこそ届く言葉を紡いでほしいと思う。
内容についての不満は全く無いのですが、ちょっと最近とは違う内田さんの当時の文体(言い方がキツめ笑)に違和感を覚えてしまいました。