湯川さんは、子どもの頃からかなりの読書家で、中学校に入ってからは、
図書室の「静思館」に足繁く通い、トルストイの「人生論」やロマン・ローランの
「ジャン・クリフト」、西行法師の「山家集」を耽読していたというので驚きました。
また、仲間たちと同人回覧雑誌「近衛」に童話を書いたりもしていたようです。
ちなみに、湯川さんが通っていた京都府立第一中学校(一中)には学者の子どもが多く、
生涯、良きライバルでもあった物理学者の「朝永振一郎」さんは、同じ中学の一学年上の
先輩だったそうです。
すべての教科の中で、一番得意だった科目が「数学」だったために、漠然と「数学者」
になることを夢見ていた湯川さんでしたが、高校一年(中学四年)のときに、物理実験
のぺアだった同級生から、「小川君(旧姓)はアインシュタインのようになるだろう」
といわれた一言に大きく心を揺さぶられます。
本書は、父親「小川琢治」の生い立ちから始まって、湯川さん本人の幼少期から
知識欲旺盛だった学生時代を経て、「理論物理学者」として名を成すまでの回想録ですが、
その豊かな心の動きには、目を見張るものがありました。
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旅人 ある物理学者の回想 (角川ソフィア文庫) 文庫 – 2011/1/25
湯川 秀樹
(著)
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日本初のノーベル賞受賞者の回想に今の時代を生き抜くヒントが隠されている
日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士が、自らの前半生をふり返る。「イワン(言わん)ちゃん」とあだ名された無口な少年は、読書を通じて空想の翼を羽ばたかせた。数学に熱中するも「小川君はアインシュタインのようになるだろう」という友人の一言がきっかけとなり、理論物理学への道が開けていく――。京都ならではの風景とともに家族の姿や学生生活がいきいきと描かれ、偉大な先人を身近に感じる名著。
日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士が、自らの前半生をふり返る。「イワン(言わん)ちゃん」とあだ名された無口な少年は、読書を通じて空想の翼を羽ばたかせた。数学に熱中するも「小川君はアインシュタインのようになるだろう」という友人の一言がきっかけとなり、理論物理学への道が開けていく――。京都ならではの風景とともに家族の姿や学生生活がいきいきと描かれ、偉大な先人を身近に感じる名著。
- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社KADOKAWA
- 発売日2011/1/25
- 寸法10.5 x 1.2 x 15 cm
- ISBN-104044094306
- ISBN-13978-4044094300
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商品の説明
著者について
●湯川 秀樹:1907年東京生まれ。京都帝大理学部物理学科卒業。39年、京都帝大教授となり翌年、学士院恩賜賞を受賞。43年文化勲章を受章。東京帝大教授も兼任。35年に「中間子理論」を発表した業績により49年、日本人初のノーベル物理学賞を受賞。様々な分野で多大な業績を残す。81年没。
登録情報
- 出版社 : KADOKAWA; 一般文庫版 (2011/1/25)
- 発売日 : 2011/1/25
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 304ページ
- ISBN-10 : 4044094306
- ISBN-13 : 978-4044094300
- 寸法 : 10.5 x 1.2 x 15 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 93,495位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2023年5月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
* 湯川先生の葛藤を感じられる作品
* それと同時に、知的好奇心が強い、本の虫であったという一面も知れた
* 当たり前の感想だが、このような偉業を成す人は、何かに熱中できる能力があるのだなと。
* また、親から「あいつは何を考えているのかわからない」と言われていたのが印象的。
* 自分は否定的で貶されていたけど、ずっと親にこれを言われていた
* 数学が得意な人で、かつ、他の人に比べると観察眼が優れているわけではない。
* 数学が得意で、論理的思考から導かれる発想・着想に自信があった。
* あまり目立たない生徒というのも印象的。
* 内向的で自分の世界に浸れるような人物が、こういう世界で輝けるのだろうなと。
* 一方で、(湯川先生が)リーダータイプかと言われるとおそらくそうではないのだろう。
* 他人に影響力を行使して、何か物事を成していくタイプではおそらくないし、ただ湯川先生は湯川先生の方法で、世の中に多大な影響を与えた。
* 重い荷物を持って山に登る、旅路を行くという表現が徳川家康を思い出させた。影響を受けているのかな?
* 環境を変えるというのも大事。
* 京都から大阪に引っ越す。
* 結婚する。
* 意識と、特に好奇心に導かれる積極性が増したのではないかと考えた。
* やっぱり何かのタイミングで人に恵まれることによって、人生の運は拓けてくると思った。
* 大阪大学の教授に出会う
* もちろん、人に出会ったときにチャンスを掴めるように、自分の技術を磨いて、価値を高めておかなければならないことは言うまでもないが。
* 自分もそうすることによって拓けたと思うし、誰かにとって自分もそうでありたいと思う。
* そして、その貢献と姿勢が、
* この作品は、湯川先生がノーベル賞の元となる論文を提出した後のことが一切書かれていないというのが強いメッセージだと思う。
* この本が何歳の時に書かれたか、そして、湯川先生が何歳の時にノーベル賞を取ったのかは不明だが、その後、学問・研究にしっかりと時間をとって関われなくなるというのは、残念だと思った。
* この点についてはどう考えたら良いのだろう?
* Larry Pageのように、全然表舞台に姿を現さない人もいる
* 日本の科学の発展という点から考えれば、このような人が動いてくれることによって、大きく貢献できることが間違いなくある。
* 時代感は戦前。1920年ぐらい?この当時、流石にドイツなどの研究先進国と比べるとまだまだ遅れているのだろうが、このような研究をするための基盤ができていたというのはすごい。
* それと同時に、知的好奇心が強い、本の虫であったという一面も知れた
* 当たり前の感想だが、このような偉業を成す人は、何かに熱中できる能力があるのだなと。
* また、親から「あいつは何を考えているのかわからない」と言われていたのが印象的。
* 自分は否定的で貶されていたけど、ずっと親にこれを言われていた
* 数学が得意な人で、かつ、他の人に比べると観察眼が優れているわけではない。
* 数学が得意で、論理的思考から導かれる発想・着想に自信があった。
* あまり目立たない生徒というのも印象的。
* 内向的で自分の世界に浸れるような人物が、こういう世界で輝けるのだろうなと。
* 一方で、(湯川先生が)リーダータイプかと言われるとおそらくそうではないのだろう。
* 他人に影響力を行使して、何か物事を成していくタイプではおそらくないし、ただ湯川先生は湯川先生の方法で、世の中に多大な影響を与えた。
* 重い荷物を持って山に登る、旅路を行くという表現が徳川家康を思い出させた。影響を受けているのかな?
* 環境を変えるというのも大事。
* 京都から大阪に引っ越す。
* 結婚する。
* 意識と、特に好奇心に導かれる積極性が増したのではないかと考えた。
* やっぱり何かのタイミングで人に恵まれることによって、人生の運は拓けてくると思った。
* 大阪大学の教授に出会う
* もちろん、人に出会ったときにチャンスを掴めるように、自分の技術を磨いて、価値を高めておかなければならないことは言うまでもないが。
* 自分もそうすることによって拓けたと思うし、誰かにとって自分もそうでありたいと思う。
* そして、その貢献と姿勢が、
* この作品は、湯川先生がノーベル賞の元となる論文を提出した後のことが一切書かれていないというのが強いメッセージだと思う。
* この本が何歳の時に書かれたか、そして、湯川先生が何歳の時にノーベル賞を取ったのかは不明だが、その後、学問・研究にしっかりと時間をとって関われなくなるというのは、残念だと思った。
* この点についてはどう考えたら良いのだろう?
* Larry Pageのように、全然表舞台に姿を現さない人もいる
* 日本の科学の発展という点から考えれば、このような人が動いてくれることによって、大きく貢献できることが間違いなくある。
* 時代感は戦前。1920年ぐらい?この当時、流石にドイツなどの研究先進国と比べるとまだまだ遅れているのだろうが、このような研究をするための基盤ができていたというのはすごい。
2018年7月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
湯川秀樹と言えば、初めての日本人ノーベル賞受賞者としてあまりにも有名であるが、実は本書のようなエッセイも多数書いている。筆者の著作を読んだのはこれが初めてだったが、なるほど名文家である。文章はとことん平明であり、それでいながら、知識人の青春期の葛藤を雄弁に描いている。筆者の家族は学者の家系であり、父の豊富な蔵書を自由に読むことができ、祖父から漢文の指導を受けるなど、明らかに学問をする上では恵まれた環境にあったことがわかる。他方で、厳格で、子供と接する時間が乏しい父親に対しては複雑な感情を有していたようである。
本書は、幼少の頃から結婚して初めての学術面での成果を出すまでに至る筆者の半生の回想録である。勉強は好きだったが、抜群にできたというわけではなく、筆者が自ら認めている通り、非常に無口であり、決して目立つ存在だったわけでは無かった。それにも関わらず世界的な業績を達成できたのは、本書からビンビン伝わってくる筆者のストイックな探究心と家族による支えの賜物であろう。
子供を科学者にしたい、あるいは将来は科学者になりたいと思っている人にとっては大変参考になる自伝だと思う。
本書は、幼少の頃から結婚して初めての学術面での成果を出すまでに至る筆者の半生の回想録である。勉強は好きだったが、抜群にできたというわけではなく、筆者が自ら認めている通り、非常に無口であり、決して目立つ存在だったわけでは無かった。それにも関わらず世界的な業績を達成できたのは、本書からビンビン伝わってくる筆者のストイックな探究心と家族による支えの賜物であろう。
子供を科学者にしたい、あるいは将来は科学者になりたいと思っている人にとっては大変参考になる自伝だと思う。
2019年5月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
私の祖父は戦前・戦中
小学校の校長をしていました。
1941年4月 小学校は
「国民学校」と名称を変えます。
なんとか教え子と「御真影」を守り
敗戦を迎えました。
祖父を支えた祖母は戦後しばらく
「戦争に負けて四等国の国民に
なってしまった」と
嘆息することしきりでした。
しかし1949(昭和24)年
湯川秀樹(1907-1981)が
日本人初のノーベル賞をもらうと
祖母も祖父も元気を取り戻したものです。
硫黄島や沖縄では住民を巻き込んだ
地上戦が展開され
広島と長崎には「新型爆弾」(原爆)
が投下され
国土の大半は灰燼に帰してしまいました。
戦争中よりも
敗戦後の方が食糧難はひどく
ヤミ米を食べなかった裁判官
山口良忠(1913-1947)が
栄養失調から餓死したことは
有名なエピソードです。
享年三十五(数え歳)。
微分方程式の研究で業績をあげた
数学者(京都帝大教授)
岡村博(1905-1948)も同様に
栄養失調から夭折しました。
享年四十四(数え歳)。
湯川がノーベル賞をもらった年は
その1~2年前まで
裁判官や帝大教授が餓死するほどの
厳しい時代でした。
「もはや戦後ではない」と
『経済白書』に書かれたのは
1956(昭和31)年ですから
湯川の受賞より7年も後のことです。
よく言われることですが
日本人の大半がノーベル賞が好きなのは
1949年に多くの人が
湯川受賞の報道に元気づけられた
記憶を持っているからです。
あたかも灰燼から「不死鳥」が
飛び立つような印象だったと
私は想像しています。
シチュエーションは異なりますが
東日本大震災(2011年3月)の後
サッカー日本女子代表が
同年6月 FIFA女子ワールドカップで
優勝したときの明るさに
似ているかもしれません。
大震災後は被災地はもちろん
東京でも地下鉄の駅など
戦争中の「灯火管制」もかくやと
思わせるほど照明が暗く
エスカレーターも止まっていて
難儀したのを覚えています。
いずれにせよ
サッカーもノーベル賞も
一服の清涼剤となりうることを
示しました。
文学賞と平和賞は除いて
理系の分野に限りますと
湯川に続いて
1965年
朝永振一郎(1906-1979)
1973年
江崎玲於奈氏(1925-)
がいずれも物理学賞を受賞しました。
湯川が三高→京都帝大卒
朝永が三高→京都帝大卒
江崎が三高→東京帝大卒
ですから1970年代までに
ノーベル賞というとなんとなく京都
というイメージが形成されて行ったと
思われます。さらに
1981年 化学賞
福井謙一(1918-1981)
旧制大阪高校→京都帝大卒
1987年 医学・生理学賞
利根川進氏(1939-)
日比谷高校→京大卒
と続きます。
1990年代は理系の受賞者はいません。
従って
1949年から1999年までの50年間
理由は不明ですが
京都の学校にゆかりのある方の受賞が
続きました。よって
多くの人々の中に
「ノーベル賞~京都」
という刷り込みができたのではないか
と思われます。
しかし実際はそうでもありません。
1949年から1999年までに
ノーベル賞(理系)を受賞された
上記の5人の方々が
「どこで博士号を取得したか」
つまりどこで(ノーベル賞に値する)
研究の成果をあげたかを確認しますと
次の通りです。
湯川 大阪帝国大学・理学博士
朝永 東京帝国大学・理学博士
江崎 東京大学・理学博士
福井 京都大学・工学博士
利根川 UCサンデェゴ校・Ph.D
(UC=カリフォルニア大学)
以上より京大で博士号を取得したのは
福井だけです。
従って1999年まで
ノーベル賞というと京都
のイメージが強かったのですが
実際はそうではなくて
京都「ゆかり」の人が多かった
というのが真相と考えられます。
特に京都のイメージが強い湯川も
中間子の発想を得たのは
阪大(大阪帝国大学)の専任講師のときで
養子に行って大阪に住んでおり
学位も阪大から取得しています。
本書を読むとそのことが
リアルタイムで確認できます。
【私は京大をやめて、阪大の専任講師になった。】
(本書 p.283)
【昭和九年九月二十一日のことである。
朝からものすごい風である。】
(同 p.286)
【十月初めのある晩、
私はふと思いあたった。】
(p.287)
‥そして中間子の着想を得たことが
短いけれどコンパクトに語られます。
要点は次の通りです。
①陽子と中性子の間に働く「核力」は
十兆分の二センチ程度の到達距離しか
持っていない(非常に短い)。
②到達距離と新粒子の質量は
逆比例(反比例)するであろう。
③質量は電子の二百倍程度になる。
④新粒子を作るには一億ボルトという
高いエネルギーが必要である。
(当時そんな高エネルギーの加速器は
までできていなかった)
⑤宇宙線の中にならそんな粒子が
見つかるだろう。
そして湯川は
日本数学物理学会で新理論を発表し
英語の論文も書き上げました。
本書はそこで終わりです。
ときは1934(昭和9)年。
そして15年後
ノーベル賞を受賞し
私の祖父母に希望を与えたのでした。
【補遺】
小学校が「国民学校」に名称変更されたのは
当時の同盟国
ドイツ第三帝国(ナチス・ドイツ)の
「フォルクスシューレ」
の直訳であり直輸入であり猿真似です。
同様に
「ヒトラーユーゲント」
(ヒトラー少年団)の直訳版
「大日本少年団」も組織され
徹底的にいじめぬかれたと
精神科医・神大名誉教授の
中井久夫氏(1934-)が
お書きになっています。
小学校の校長をしていました。
1941年4月 小学校は
「国民学校」と名称を変えます。
なんとか教え子と「御真影」を守り
敗戦を迎えました。
祖父を支えた祖母は戦後しばらく
「戦争に負けて四等国の国民に
なってしまった」と
嘆息することしきりでした。
しかし1949(昭和24)年
湯川秀樹(1907-1981)が
日本人初のノーベル賞をもらうと
祖母も祖父も元気を取り戻したものです。
硫黄島や沖縄では住民を巻き込んだ
地上戦が展開され
広島と長崎には「新型爆弾」(原爆)
が投下され
国土の大半は灰燼に帰してしまいました。
戦争中よりも
敗戦後の方が食糧難はひどく
ヤミ米を食べなかった裁判官
山口良忠(1913-1947)が
栄養失調から餓死したことは
有名なエピソードです。
享年三十五(数え歳)。
微分方程式の研究で業績をあげた
数学者(京都帝大教授)
岡村博(1905-1948)も同様に
栄養失調から夭折しました。
享年四十四(数え歳)。
湯川がノーベル賞をもらった年は
その1~2年前まで
裁判官や帝大教授が餓死するほどの
厳しい時代でした。
「もはや戦後ではない」と
『経済白書』に書かれたのは
1956(昭和31)年ですから
湯川の受賞より7年も後のことです。
よく言われることですが
日本人の大半がノーベル賞が好きなのは
1949年に多くの人が
湯川受賞の報道に元気づけられた
記憶を持っているからです。
あたかも灰燼から「不死鳥」が
飛び立つような印象だったと
私は想像しています。
シチュエーションは異なりますが
東日本大震災(2011年3月)の後
サッカー日本女子代表が
同年6月 FIFA女子ワールドカップで
優勝したときの明るさに
似ているかもしれません。
大震災後は被災地はもちろん
東京でも地下鉄の駅など
戦争中の「灯火管制」もかくやと
思わせるほど照明が暗く
エスカレーターも止まっていて
難儀したのを覚えています。
いずれにせよ
サッカーもノーベル賞も
一服の清涼剤となりうることを
示しました。
文学賞と平和賞は除いて
理系の分野に限りますと
湯川に続いて
1965年
朝永振一郎(1906-1979)
1973年
江崎玲於奈氏(1925-)
がいずれも物理学賞を受賞しました。
湯川が三高→京都帝大卒
朝永が三高→京都帝大卒
江崎が三高→東京帝大卒
ですから1970年代までに
ノーベル賞というとなんとなく京都
というイメージが形成されて行ったと
思われます。さらに
1981年 化学賞
福井謙一(1918-1981)
旧制大阪高校→京都帝大卒
1987年 医学・生理学賞
利根川進氏(1939-)
日比谷高校→京大卒
と続きます。
1990年代は理系の受賞者はいません。
従って
1949年から1999年までの50年間
理由は不明ですが
京都の学校にゆかりのある方の受賞が
続きました。よって
多くの人々の中に
「ノーベル賞~京都」
という刷り込みができたのではないか
と思われます。
しかし実際はそうでもありません。
1949年から1999年までに
ノーベル賞(理系)を受賞された
上記の5人の方々が
「どこで博士号を取得したか」
つまりどこで(ノーベル賞に値する)
研究の成果をあげたかを確認しますと
次の通りです。
湯川 大阪帝国大学・理学博士
朝永 東京帝国大学・理学博士
江崎 東京大学・理学博士
福井 京都大学・工学博士
利根川 UCサンデェゴ校・Ph.D
(UC=カリフォルニア大学)
以上より京大で博士号を取得したのは
福井だけです。
従って1999年まで
ノーベル賞というと京都
のイメージが強かったのですが
実際はそうではなくて
京都「ゆかり」の人が多かった
というのが真相と考えられます。
特に京都のイメージが強い湯川も
中間子の発想を得たのは
阪大(大阪帝国大学)の専任講師のときで
養子に行って大阪に住んでおり
学位も阪大から取得しています。
本書を読むとそのことが
リアルタイムで確認できます。
【私は京大をやめて、阪大の専任講師になった。】
(本書 p.283)
【昭和九年九月二十一日のことである。
朝からものすごい風である。】
(同 p.286)
【十月初めのある晩、
私はふと思いあたった。】
(p.287)
‥そして中間子の着想を得たことが
短いけれどコンパクトに語られます。
要点は次の通りです。
①陽子と中性子の間に働く「核力」は
十兆分の二センチ程度の到達距離しか
持っていない(非常に短い)。
②到達距離と新粒子の質量は
逆比例(反比例)するであろう。
③質量は電子の二百倍程度になる。
④新粒子を作るには一億ボルトという
高いエネルギーが必要である。
(当時そんな高エネルギーの加速器は
までできていなかった)
⑤宇宙線の中にならそんな粒子が
見つかるだろう。
そして湯川は
日本数学物理学会で新理論を発表し
英語の論文も書き上げました。
本書はそこで終わりです。
ときは1934(昭和9)年。
そして15年後
ノーベル賞を受賞し
私の祖父母に希望を与えたのでした。
【補遺】
小学校が「国民学校」に名称変更されたのは
当時の同盟国
ドイツ第三帝国(ナチス・ドイツ)の
「フォルクスシューレ」
の直訳であり直輸入であり猿真似です。
同様に
「ヒトラーユーゲント」
(ヒトラー少年団)の直訳版
「大日本少年団」も組織され
徹底的にいじめぬかれたと
精神科医・神大名誉教授の
中井久夫氏(1934-)が
お書きになっています。