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俳句脳 ――発想、ひらめき、美意識 (角川oneテーマ21 A 85) 新書 – 2008/8/10
「俳句」に秘められた閃きと発想力は何なのか? 芭蕉は最高の「脳トレ」をしていた?! 脳科学者と俳人が語る俳句の魅力と俳句の深さ。異色の日本人論。
- 本の長さ174ページ
- 言語日本語
- 出版社角川グループパブリッシング
- 発売日2008/8/10
- ISBN-104047101478
- ISBN-13978-4047101470
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商品の説明
著者について
茂木健一郎・脳科学者として活躍中。 黛まどか・俳人として活躍中。角川俳句賞受賞。
登録情報
- 出版社 : 角川グループパブリッシング (2008/8/10)
- 発売日 : 2008/8/10
- 言語 : 日本語
- 新書 : 174ページ
- ISBN-10 : 4047101478
- ISBN-13 : 978-4047101470
- Amazon 売れ筋ランキング: - 143,219位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 38位詩論
- - 382位角川新書
- - 31,183位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1962年、東京生まれ。脳科学者。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、慶應義塾大学特別研究教授。東京大学理学部、法学部卒業後、 東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。専門は脳科学、認知科学。2005年、『脳と仮 想』で、第4回小林秀雄賞を受賞。2009年、『今、ここからすべての場所へ』(筑摩書房)で第12回桑原武夫学芸賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 15歳の寺子屋 ひとり遊びのススメ (ISBN-13: 978-4062162678 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年11月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
Kindleで自分用に買ったのですが、内容が良かったので、紙の本を親にもプレゼントしました。
2017年4月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
脳の老化防止のため趣味の俳句で脳を活性化したいと、俳句脳 ――発想、ひらめき、美意識 (角川oneテーマ21 A 85)を購入しました。
読んで、共感できるところが多く参考になった。ありがとうございました。
読んで、共感できるところが多く参考になった。ありがとうございました。
2016年5月21日に日本でレビュー済み
この忙しい時代に、のん気に俳句の本を読んでいる人はあまりいない。だが、忙しい時代だからこそ、時代と距離を置いて心を休めることが重要になってきていると思う。俳句は、そのための優れた手段になりうる。
本書は、俳人の黛さんと、脳科学者の茂木氏の本。黛さんの専門知識は勉強になる。また、茂木氏は物知りなので、俳句というものの意義を様々な角度から考え、そこに新鮮な意味を見出している点が私には興味深かった。
印象に残った点を以下に記す(内は私のコメント)。
<第一章 茂木パート>
・「山路来て何やらゆかしすみれ草」という芭蕉の句には、一瞬の自然の移ろいを感知している芭蕉という人間性のほかには何もない。山道のすみれに己の詠嘆を「なにやらゆかし」と預けたことを起点とし、その背後に芭蕉の人生の映し鏡ともいうべき世界が広がり始める。「何もない」からこそ「全てがある」という反作用の法則が名句においては成り立つというのが、俳句という文学の実に宇宙的なところだ。
(「無」の中に「全てがある」と考えるのは、仏教や西田幾多郎の哲学とも共通している。とても東洋的な発想だ。)
・言葉のセンスを磨くために心をくだくことは、内なる感性を磨くことに等しい。私たちは俳句によってそんな習慣を持ちうるのではないか。「今、ここ」から一瞬のうちに通り過ぎてしまう感覚を記憶にとどめ、言葉によって顕現化するというまさに「クオリアの言語化」が、俳句という文学なのである。
(クオリアとは、感覚というような意味だ。言葉は感覚に対応しているが、俳句では言葉の微妙なニュアンスが非常に重要になる。それが「内なる感性を磨く」ことに繋がる。)
・俳句脳の特徴である「小さなものへの慈しみ」や「ふとした瞬間の気持ちを的確に捉えること」は、論理的思考を優先する西洋近代には見られない、独自の文化である。これだけ効率化が推し進められた近現代では、日本語圏にあっても「異文化」であり「多文化」の一要素たりうるという、ある意味、とても普遍的な価値を持つ存在だと言っていい。
(資本主義にふり回される現代人は効率化を推し進めすぎて、「慈しみの気持ち」など流通しないものを軽視しすぎている。資本主義の反動として、俳句はむしろ「先進的」な存在にすらなりつつあると私は思う。)
<第二章 対談パート>
・茂木; 俳句的な生活とは、どんな生活ですか。
・黛; 日常の中に降る雨が「詩の雨」であるということが俳句的な生活だと思います。俳句を生きていると、雨にも四季折々の匂いがあり、色があり、雨音も違うんです。「今日はどしゃぶりの予報だから傘をもっていこう」という雨には、降り方の強弱くらいしかない。でも、「木の芽雨(このめあめ)」と言ったとたん、雨の向こうに芽吹きの野山がイメージできるじゃないですか。実際、目の前に野山がなくても。この豊かな瞬間を日常に育むことが、俳句を生きる素晴らしさだと思います。
(たくさんの言葉を知っていると微妙な違いが分かるようになり、そのぶん世界がよりカラフルに見えるようになるのだろう。)
・黛; 俳句は言葉の上では十七音節しか書きませんが、あとのことは余白に漂っているのです。私たち俳人が十七音を紡ぐとは、同時に余白を紡ぐことなのです。ですから、言葉にどれだけの余白が紡げるか、そしてその余白に、どれだけのものを漂わせることができるかを常に考えます。たまたま文字や言葉として現れたものが短いだけで、実はその余白にものすごいことを紡いで、それを隠そうとしているというのが俳句なのですよ。
・茂木; 神様から見たら、どんなに言葉を尽くしても絶対に余白は生まれる。たとえば、一行の詩でも一万行の文章でも、余白といいう意味でいったら同じことです。そういう意味で言うと、我々が、言葉を尽くせば宇宙全体が描けるなどと思い込むのは、まだナイーブなんですね。突き詰めていったら、どんなに言葉を尽くしても結局その宇宙をそのまま描けることはありえないのですから。であるならば、限られた言葉でどれくらい描けるかで勝負する方が成熟した発想かもしれません。短い言葉で宇宙を表す俳句という表現形式は興味深いですね。
・黛; 芭蕉のいう「言いおほせて何かある」ということだと思います。
(俳句は、情報の密度が高い。密度の低い情報が氾濫している現代に対する静かな反逆となりうる。)
・黛; 芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」では、「や」にはダブルイメージを喚起させる役割があります。目の前には本物の池があっていいと思うんです。しかしもう一つの普遍的な古池が、「や」で一句を切ることにより提示されるんです。これが俳句における「切れ」の役割です。実際、蛙が飛び込んだのは古池でしょう。しかし「古池や」と切れ字を使って切ることで、まず古色蒼然とした古池をイメージします。次に実際の古池に蛙が飛び込む。だからダブルイメージなのです。
(「具体的な池」と「抽象的な池」が「や」によって重なり合うということなのだと私は理解した。)
・茂木; アートって何なんだろうと常々考えます。もともと自然の中に綺麗なものがあった。それを僕らは喪失した。アートと称してそれらを再現している。それだけのことなんじゃないでしょうか。じつは自然の中に全部あるんですよ。夜明けの美しさも、花の綺麗さも。自然は自分が所有できないし、コントロールできないし、値段もつけられない。高度に発達したこの消費社会で、自然だけは商品として流通させようがない。でもアートなら、これは私が作りました、限定何個ですと言えて、商品として流通させられます。
・黛; 本当は所有する必要はないのかも。こちらが心を向けていけばいつでも自然はそこで待っていてくれるのだから。
・茂木; 現在の非常に高度に発達した資本主義に対して、強烈な対抗軸を持っていた方が人間の存在としては立体的になる。自然を所有する必要などない。ただ、思っていれば良い。そうすれば、現代社会のさまざまなやっかい事に対抗するための相対的な視点を抱ける。
(お金がなくても、晴れわたる青空や、日本の四季を楽しむことができる。結局、これらが一番の贅沢ではないかと思う。)
<第三章 黛まどかパート>
・おしなべて表現とは、経験の豊かさから滲み出てくるものです。経験の豊かさが、感じ取る力や語彙の豊富さと相まって、豊かな表現を生み出します。そういう意味では、子どもに比べお年寄りのほうが、俳句に断然有利なわけです。私は俳句のおかげで、むしろ加齢に喜びを感じます。
「俳句を始めて、歳をとることが怖くなくなりました」
私の句仲間には、こんなふうに言う女性たちが大勢います。かくいう私も、俳句のある人生のおかげで、年齢を重ねていくことが楽しみになりました。
(年をとることが喜びになるというのは、俳句の素晴らしい効用だ。)
・韓国を歩いた時、途中出会った韓国人の男性が、私が日本人だとわかるとすぐに
「遣(や)らずの雨という言葉を知っていますか?」
と訊いてきました。知っていると答えると、とても嬉しそうな顔をして、久しぶりに「遣らずの雨」を知っている日本人に会ったと言うのです。そしてこんな話をしてくれました。反日教育を受けて育った彼は、とにかく日本が嫌いだったといいます。しかし今から三十年ほど前、出張でどうしても日本へ行かなければならなくなり、十日ほどの仕事を済ませ、ようやく韓国へ帰れるという日、空港へ向かう車中で突然雨が降り出したそうです。同行していた日本側の担当者は雨を見てこう言いました。
「遣らずの雨ですね・・。日本人はこういう時に降る雨を遣らずの雨と呼んで、あなたを帰したくなくて雨が降り出したと思うのですよ」
と説明してくれたそうです。こんなに詩情あふれる繊細な言葉を育くんできた民族が、自分が教わったような、ただ残酷で悪い民族であるはずがない。彼の反日感情はその一言でにわかに溶けたのだそうです。以来日本人の悪口をいう韓国人に会うと、必ず遣らずの雨の話をするのだとその男性は言っていました。これこそ文化外交ではないでしょうか。
(韓国語にも、きっと「遣らずの雨」のような美しい言葉がある。私は、そう思いたい。)
本書は、俳人の黛さんと、脳科学者の茂木氏の本。黛さんの専門知識は勉強になる。また、茂木氏は物知りなので、俳句というものの意義を様々な角度から考え、そこに新鮮な意味を見出している点が私には興味深かった。
印象に残った点を以下に記す(内は私のコメント)。
<第一章 茂木パート>
・「山路来て何やらゆかしすみれ草」という芭蕉の句には、一瞬の自然の移ろいを感知している芭蕉という人間性のほかには何もない。山道のすみれに己の詠嘆を「なにやらゆかし」と預けたことを起点とし、その背後に芭蕉の人生の映し鏡ともいうべき世界が広がり始める。「何もない」からこそ「全てがある」という反作用の法則が名句においては成り立つというのが、俳句という文学の実に宇宙的なところだ。
(「無」の中に「全てがある」と考えるのは、仏教や西田幾多郎の哲学とも共通している。とても東洋的な発想だ。)
・言葉のセンスを磨くために心をくだくことは、内なる感性を磨くことに等しい。私たちは俳句によってそんな習慣を持ちうるのではないか。「今、ここ」から一瞬のうちに通り過ぎてしまう感覚を記憶にとどめ、言葉によって顕現化するというまさに「クオリアの言語化」が、俳句という文学なのである。
(クオリアとは、感覚というような意味だ。言葉は感覚に対応しているが、俳句では言葉の微妙なニュアンスが非常に重要になる。それが「内なる感性を磨く」ことに繋がる。)
・俳句脳の特徴である「小さなものへの慈しみ」や「ふとした瞬間の気持ちを的確に捉えること」は、論理的思考を優先する西洋近代には見られない、独自の文化である。これだけ効率化が推し進められた近現代では、日本語圏にあっても「異文化」であり「多文化」の一要素たりうるという、ある意味、とても普遍的な価値を持つ存在だと言っていい。
(資本主義にふり回される現代人は効率化を推し進めすぎて、「慈しみの気持ち」など流通しないものを軽視しすぎている。資本主義の反動として、俳句はむしろ「先進的」な存在にすらなりつつあると私は思う。)
<第二章 対談パート>
・茂木; 俳句的な生活とは、どんな生活ですか。
・黛; 日常の中に降る雨が「詩の雨」であるということが俳句的な生活だと思います。俳句を生きていると、雨にも四季折々の匂いがあり、色があり、雨音も違うんです。「今日はどしゃぶりの予報だから傘をもっていこう」という雨には、降り方の強弱くらいしかない。でも、「木の芽雨(このめあめ)」と言ったとたん、雨の向こうに芽吹きの野山がイメージできるじゃないですか。実際、目の前に野山がなくても。この豊かな瞬間を日常に育むことが、俳句を生きる素晴らしさだと思います。
(たくさんの言葉を知っていると微妙な違いが分かるようになり、そのぶん世界がよりカラフルに見えるようになるのだろう。)
・黛; 俳句は言葉の上では十七音節しか書きませんが、あとのことは余白に漂っているのです。私たち俳人が十七音を紡ぐとは、同時に余白を紡ぐことなのです。ですから、言葉にどれだけの余白が紡げるか、そしてその余白に、どれだけのものを漂わせることができるかを常に考えます。たまたま文字や言葉として現れたものが短いだけで、実はその余白にものすごいことを紡いで、それを隠そうとしているというのが俳句なのですよ。
・茂木; 神様から見たら、どんなに言葉を尽くしても絶対に余白は生まれる。たとえば、一行の詩でも一万行の文章でも、余白といいう意味でいったら同じことです。そういう意味で言うと、我々が、言葉を尽くせば宇宙全体が描けるなどと思い込むのは、まだナイーブなんですね。突き詰めていったら、どんなに言葉を尽くしても結局その宇宙をそのまま描けることはありえないのですから。であるならば、限られた言葉でどれくらい描けるかで勝負する方が成熟した発想かもしれません。短い言葉で宇宙を表す俳句という表現形式は興味深いですね。
・黛; 芭蕉のいう「言いおほせて何かある」ということだと思います。
(俳句は、情報の密度が高い。密度の低い情報が氾濫している現代に対する静かな反逆となりうる。)
・黛; 芭蕉の「古池や蛙とびこむ水の音」では、「や」にはダブルイメージを喚起させる役割があります。目の前には本物の池があっていいと思うんです。しかしもう一つの普遍的な古池が、「や」で一句を切ることにより提示されるんです。これが俳句における「切れ」の役割です。実際、蛙が飛び込んだのは古池でしょう。しかし「古池や」と切れ字を使って切ることで、まず古色蒼然とした古池をイメージします。次に実際の古池に蛙が飛び込む。だからダブルイメージなのです。
(「具体的な池」と「抽象的な池」が「や」によって重なり合うということなのだと私は理解した。)
・茂木; アートって何なんだろうと常々考えます。もともと自然の中に綺麗なものがあった。それを僕らは喪失した。アートと称してそれらを再現している。それだけのことなんじゃないでしょうか。じつは自然の中に全部あるんですよ。夜明けの美しさも、花の綺麗さも。自然は自分が所有できないし、コントロールできないし、値段もつけられない。高度に発達したこの消費社会で、自然だけは商品として流通させようがない。でもアートなら、これは私が作りました、限定何個ですと言えて、商品として流通させられます。
・黛; 本当は所有する必要はないのかも。こちらが心を向けていけばいつでも自然はそこで待っていてくれるのだから。
・茂木; 現在の非常に高度に発達した資本主義に対して、強烈な対抗軸を持っていた方が人間の存在としては立体的になる。自然を所有する必要などない。ただ、思っていれば良い。そうすれば、現代社会のさまざまなやっかい事に対抗するための相対的な視点を抱ける。
(お金がなくても、晴れわたる青空や、日本の四季を楽しむことができる。結局、これらが一番の贅沢ではないかと思う。)
<第三章 黛まどかパート>
・おしなべて表現とは、経験の豊かさから滲み出てくるものです。経験の豊かさが、感じ取る力や語彙の豊富さと相まって、豊かな表現を生み出します。そういう意味では、子どもに比べお年寄りのほうが、俳句に断然有利なわけです。私は俳句のおかげで、むしろ加齢に喜びを感じます。
「俳句を始めて、歳をとることが怖くなくなりました」
私の句仲間には、こんなふうに言う女性たちが大勢います。かくいう私も、俳句のある人生のおかげで、年齢を重ねていくことが楽しみになりました。
(年をとることが喜びになるというのは、俳句の素晴らしい効用だ。)
・韓国を歩いた時、途中出会った韓国人の男性が、私が日本人だとわかるとすぐに
「遣(や)らずの雨という言葉を知っていますか?」
と訊いてきました。知っていると答えると、とても嬉しそうな顔をして、久しぶりに「遣らずの雨」を知っている日本人に会ったと言うのです。そしてこんな話をしてくれました。反日教育を受けて育った彼は、とにかく日本が嫌いだったといいます。しかし今から三十年ほど前、出張でどうしても日本へ行かなければならなくなり、十日ほどの仕事を済ませ、ようやく韓国へ帰れるという日、空港へ向かう車中で突然雨が降り出したそうです。同行していた日本側の担当者は雨を見てこう言いました。
「遣らずの雨ですね・・。日本人はこういう時に降る雨を遣らずの雨と呼んで、あなたを帰したくなくて雨が降り出したと思うのですよ」
と説明してくれたそうです。こんなに詩情あふれる繊細な言葉を育くんできた民族が、自分が教わったような、ただ残酷で悪い民族であるはずがない。彼の反日感情はその一言でにわかに溶けたのだそうです。以来日本人の悪口をいう韓国人に会うと、必ず遣らずの雨の話をするのだとその男性は言っていました。これこそ文化外交ではないでしょうか。
(韓国語にも、きっと「遣らずの雨」のような美しい言葉がある。私は、そう思いたい。)
2009年6月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
夢の共著で、迷わず購入しました。
茂木先生は、脳科学とクオリア理論を俳句が与える感動に応用しながら、
素直な解説で読者戸俳諧の距離を縮めてくださいます。
まどか先生は、ご自身の俳句や吟行体験を紹介しながら、
日本文化と俳句の伝統を、現代に復興することの意味を美しく力説されており、
俳句によって実現した素晴らしい同年代コラボレーションです!
茂木先生は、脳科学とクオリア理論を俳句が与える感動に応用しながら、
素直な解説で読者戸俳諧の距離を縮めてくださいます。
まどか先生は、ご自身の俳句や吟行体験を紹介しながら、
日本文化と俳句の伝統を、現代に復興することの意味を美しく力説されており、
俳句によって実現した素晴らしい同年代コラボレーションです!
2008年8月27日に日本でレビュー済み
私は俳句を作るのですが、「俳句はアハ体験」という茂木さんの分析は納得!黛さんのお話も分かりやすくとても興味深かったので、俳句をしない方に俳句の面白さを伝えるのにこの本を薦めたいと思いました^^。欲を言えば、茂木さんにも俳句を作っていただき、「アハ体験」を身をもって解説していただきたかったです。
2008年8月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
俳句を脳科学から見た視点が、とてもユニークでおもしろかったです。また、茂木さんとまどかさんの対談が、実に楽しい!日常の何気ない俳句の生まれるシーンなどが、分かりやすく楽しく脳の働きと絡めて説明がなされていたりして、対談の内容にグイグイと引き込まれました。また、一句を詠む難しさの果てにある喜びが、「脳内の良質なドーパミン」をドッと出してくれるなんて、やっぱり俳句って脳に良いんだな〜としみじみ。俳句的な眼差しをもって生きると、日常の苦しみや哀しみさえも「幸せ」に昇華させることができるということを、まどかさんの言葉の数々から感じることが出来ました。何度も何度も紐解いて読む価値のある一冊です!
2008年9月29日に日本でレビュー済み
脳科学者として名高い、茂木健一郎さんと、俳人・黛まどかさんの対談と、それぞれの俳句に対する考え方が3部構成で描かれています。
二人の出会いは、3年前の京都造形芸術大学での講演で、パネリストとして同席をしてから。以来、黛まどかさんが呼び掛け人となっている事業『日本再発見塾』にボランティアとして協力をするなど、茂木さんが「俳句」を、脳研究の一つに取り組んでいることがよく分かります。
また、黛まどかさんの俳句に対する思いもこの1冊にはぎゅっと凝縮されていて、俳句入門書としても最適な一冊に仕上がっています。いつも手元に置いておきたいと思わせる一冊です。
二人の出会いは、3年前の京都造形芸術大学での講演で、パネリストとして同席をしてから。以来、黛まどかさんが呼び掛け人となっている事業『日本再発見塾』にボランティアとして協力をするなど、茂木さんが「俳句」を、脳研究の一つに取り組んでいることがよく分かります。
また、黛まどかさんの俳句に対する思いもこの1冊にはぎゅっと凝縮されていて、俳句入門書としても最適な一冊に仕上がっています。いつも手元に置いておきたいと思わせる一冊です。
2008年8月18日に日本でレビュー済み
俳句は世界最短の定型詩であり、茂木先生の研究する「クオリア」に深い関係があるように思う。
この本の中でも、茂木先生と黛さんが俳句を作る時の「ひらめき」について語った部分は興味
深いものが多く楽しめるが、対談全体については、今一歩噛み合っていない感がする。
茂木先生は、科学・芸術については非常に広範な知識と情熱を持っているものの、俳句には、
さほどでもないように思う。それは、茂木先生が音楽を語るときのあの熱さと比較すると
その差の大きさがお分かり頂けるのではないか。
黛さんは、話題がほとんど俳句の世界の中にとどまっているため、せっかくの異色対談が
驚きを生んでいない。
脳と俳句の関係を深く考えた本などとは思わず、茂木先生や黛さんのファンが、気ままに
楽しむ本だと思います。
この本の中でも、茂木先生と黛さんが俳句を作る時の「ひらめき」について語った部分は興味
深いものが多く楽しめるが、対談全体については、今一歩噛み合っていない感がする。
茂木先生は、科学・芸術については非常に広範な知識と情熱を持っているものの、俳句には、
さほどでもないように思う。それは、茂木先生が音楽を語るときのあの熱さと比較すると
その差の大きさがお分かり頂けるのではないか。
黛さんは、話題がほとんど俳句の世界の中にとどまっているため、せっかくの異色対談が
驚きを生んでいない。
脳と俳句の関係を深く考えた本などとは思わず、茂木先生や黛さんのファンが、気ままに
楽しむ本だと思います。