初版は2009年刊。だから宮崎駿は「ポニョ」まで。村上春樹は「ねじまき鳥」「カフカ」まで。ただ「1Q84」については、あとがき(補論)で短く触れられている。
ハヤオ、ハルキの両巨匠については、ぼくは「謎本」も含め、評論や分析をけっこう読んだ。でもこの大塚氏の本くらい刺激的なものはなかった。
この二人が「グローバル市場」に乗ったのは、キャンベルの理論を根底とする「スター・ウォーズ」型の「物語構造」をそれぞれ巧みに換骨奪胎しているから。それがこの本の主旨だ。宮崎さんなら作画の圧倒的なスケール感、春樹さんならあのスタイリッシュな文体というように、ウケるには他の要素もあるはずだが、大塚氏は「物語論」の人なので、そういうことには目を向けない。それはこの本の限界ともいえる。
その代わり、「物語構造」論としては、他の追随を許さない。批判的なスタンスゆえにファンの方々は不愉快やも知れぬが、裏返していえば、それはこのお二人が正面切って「論ずるに足る」ほどの対象であると大塚氏が認めているということだ。じっさい、ほかの著書の中で氏は、国内だけで流通している「純文学」や大半のエンタメ作品につき、「欠損だらけの物語」と痛罵している。
氏は『物語の体操』や『キャラクター小説の作り方』などで用いた「通過儀礼」「移行対象」といったキーコンセプトを駆使し、巨大な精密機械を分解するように二人の作品を読み解いていく。しかしそれで当の作品の魅力が台なしになったかというと、ぼくにはそうは思えない。かえってむしろ「もういちど、改めて、観たい(読みたい)」と強く思った。
受け入れるにせよ反発するにせよ、宮崎ファン、村上ファンなら一度は読んでおいたほうがいいし、シナリオや小説といった形で「物語」を作りたい、と考えている人もぜひ読んでおいたほうがいい。大塚さんの著書の中でも、『サブカルチャー文学論』(朝日文庫)と並んで出色の本だ。2017年現在、これらが2冊とも新刊として入手困難になっているのは惜しい。
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物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21 A 102) 新書 – 2009/7/10
大塚 英志
(著)
明治期の近代文学のはじめから村上春樹、宮崎駿の『崖の上のポニョ』まで、なぜ登場する男の子はみんないつまでたっても子供のままなのか?日本文学に通底する男たちの「甘えの構造」を鋭く分析した刺激的な評論集。
- 本の長さ253ページ
- 言語日本語
- 出版社角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日2009/7/10
- ISBN-104047101990
- ISBN-13978-4047101999
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商品の説明
著者について
1958年生まれ。まんが原作者。神戸芸術工科大学教授。主な著書に『「彼女たち」の連合赤軍』『定本 物語消費論』など多数。
登録情報
- 出版社 : 角川書店(角川グループパブリッシング) (2009/7/10)
- 発売日 : 2009/7/10
- 言語 : 日本語
- 新書 : 253ページ
- ISBN-10 : 4047101990
- ISBN-13 : 978-4047101999
- Amazon 売れ筋ランキング: - 520,790位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1958年生まれ。まんが原作者、批評家。『「捨て子」たちの民俗学』(第五回角川財団学芸賞受賞)などがある。神戸芸術工科大学教授、東京藝術大学大学院兼任講師。芸術工学博士(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 映画式まんが家入門 (ISBN-13: 978-4048685627 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年11月5日に日本でレビュー済み
2009年8月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
1.ジャパニメーションや一部の日本人による文学作品に対する世界からの喝采は、日本的なものへの賛美ではなく、世界基準に達した普遍的なものへの賞賛である。
2.さらに世界基準の構造の上に乗せられた変数が、「近代の超克」に見えたために、欧米のポストモダニストから好意的に受け止められもしたが、実際にはそれは日本の「前近代」に根ざしたものに過ぎない。
以上の2点が、この本のイイタイコトだと読めた。
作者にとっての「近代」の定義が、冒頭に書かれていたら、かなり読みやすくなるだろうにと感じた。
2.さらに世界基準の構造の上に乗せられた変数が、「近代の超克」に見えたために、欧米のポストモダニストから好意的に受け止められもしたが、実際にはそれは日本の「前近代」に根ざしたものに過ぎない。
以上の2点が、この本のイイタイコトだと読めた。
作者にとっての「近代」の定義が、冒頭に書かれていたら、かなり読みやすくなるだろうにと感じた。
2014年11月9日に日本でレビュー済み
現代日本文化の二大巨頭として、せっせと輸出される村上春樹と宮崎駿の作品が、
今日の地位を築くに至った理由は、神話学者ジョゼフ・キャンベルの説をルーカスが
援用して作った『スター・ウォーズ』のように、ハリウッド的な物語論に則った構成が
相対的にしっかりしているからだとする論点は、著者の他の著書でもさんざん繰り
返されているが、基本的に妥当なものと思う。
その上で、著者は二人の作品が、女性の自己実現についてはきちんと描いている
ものの、男性のそれについては及び腰であり、結末に至っても主人公の成長が
スルーされる場合が多い(『ポニョ』に至っては、羊水的な世界が全面化している)
ことを批判するのだが、ここで著者の議論は若干の混乱を来しているように思う。
著者によれば、村上作品の中で例外的に男性の自己実現が描かれているのが、
『羊をめぐる冒険』ということになるのだが、自己実現を描いたら描いたで、著者からは
「ベタベタな話」などと揶揄されてしまうわけで、ではどうなったら著者は満足なのか?
という気がしないでもなかった。自己実現がなされようが回避されようが、著者の
批判からは免れられないとなると、著者にはとにかく村上春樹を批判したい理由が
別にあり、それを物語論にこじつけているようにも思えてしまうのである。
著者の議論がそのような自己矛盾に陥るのは、「(村上春樹などの作品が受けるのは)
構造しかないからだ」という、柄谷行人のややレトリックめいた断言を、自分の論点に
都合がいいからと真に受けてしまっているからではないかと思う。他のレビュアーも
書いているように、村上作品がこれほど広範に受け入れられている理由は、必ずしも
「物語論的な構成が明確なこと」だけに還元できるものではないと個人的には思うが、
あえて他の論点を捨象した結果が、本書の堂々巡りにつながっているように思える。
今日の地位を築くに至った理由は、神話学者ジョゼフ・キャンベルの説をルーカスが
援用して作った『スター・ウォーズ』のように、ハリウッド的な物語論に則った構成が
相対的にしっかりしているからだとする論点は、著者の他の著書でもさんざん繰り
返されているが、基本的に妥当なものと思う。
その上で、著者は二人の作品が、女性の自己実現についてはきちんと描いている
ものの、男性のそれについては及び腰であり、結末に至っても主人公の成長が
スルーされる場合が多い(『ポニョ』に至っては、羊水的な世界が全面化している)
ことを批判するのだが、ここで著者の議論は若干の混乱を来しているように思う。
著者によれば、村上作品の中で例外的に男性の自己実現が描かれているのが、
『羊をめぐる冒険』ということになるのだが、自己実現を描いたら描いたで、著者からは
「ベタベタな話」などと揶揄されてしまうわけで、ではどうなったら著者は満足なのか?
という気がしないでもなかった。自己実現がなされようが回避されようが、著者の
批判からは免れられないとなると、著者にはとにかく村上春樹を批判したい理由が
別にあり、それを物語論にこじつけているようにも思えてしまうのである。
著者の議論がそのような自己矛盾に陥るのは、「(村上春樹などの作品が受けるのは)
構造しかないからだ」という、柄谷行人のややレトリックめいた断言を、自分の論点に
都合がいいからと真に受けてしまっているからではないかと思う。他のレビュアーも
書いているように、村上作品がこれほど広範に受け入れられている理由は、必ずしも
「物語論的な構成が明確なこと」だけに還元できるものではないと個人的には思うが、
あえて他の論点を捨象した結果が、本書の堂々巡りにつながっているように思える。
2009年7月25日に日本でレビュー済み
ジョージ・ルーカスはジョセフ・キャンベルの神話理論を参考にして『スターウォーズ』を作った。
ハリウッドはそれをマニュアル化した。
かくして、その気になれば誰でも「物語メーカー」になれる時代が到来した。
本書は、村上春樹と宮崎駿の作品が、ルーカス/キャンベル的な物語構造の換骨奪胎であることを明らかにするとともに、そのような構造だけの「ジャンク」にありもしない意味を充填する行為を諌めた本である。
私は村上春樹や宮崎駿の作品が構造だけの空虚だとは思わないが、「物語メーカー」が自動的に産出したような簡便な物語に、欠損した主体を委ねてしまう風潮には、著者と同じく危機感を覚えている。
特に最近のサブカル界隈では「成熟」や「大人になること」が実存レベルの切実な問題としてクローズアップされているようだが、成熟の物語はどうしても「スターウォーズ」的になりがちだ。
そのような安易な成熟の物語は、オウムや9・11のような幼稚な自己実現の物語へと人々を動員する結果になりかねない。
成熟することは必要だが、成熟の物語を外部に求める短絡は避けねばなるまい。
ハリウッドはそれをマニュアル化した。
かくして、その気になれば誰でも「物語メーカー」になれる時代が到来した。
本書は、村上春樹と宮崎駿の作品が、ルーカス/キャンベル的な物語構造の換骨奪胎であることを明らかにするとともに、そのような構造だけの「ジャンク」にありもしない意味を充填する行為を諌めた本である。
私は村上春樹や宮崎駿の作品が構造だけの空虚だとは思わないが、「物語メーカー」が自動的に産出したような簡便な物語に、欠損した主体を委ねてしまう風潮には、著者と同じく危機感を覚えている。
特に最近のサブカル界隈では「成熟」や「大人になること」が実存レベルの切実な問題としてクローズアップされているようだが、成熟の物語はどうしても「スターウォーズ」的になりがちだ。
そのような安易な成熟の物語は、オウムや9・11のような幼稚な自己実現の物語へと人々を動員する結果になりかねない。
成熟することは必要だが、成熟の物語を外部に求める短絡は避けねばなるまい。
2010年5月26日に日本でレビュー済み
決め台詞は「ファンは受け入れがたいだろうが〜」。
言い訳する前に、ファンでも納得できる論拠を持ってきてください。
あとがき書きたかっただけちゃうんかと。
言い訳する前に、ファンでも納得できる論拠を持ってきてください。
あとがき書きたかっただけちゃうんかと。
2010年3月25日に日本でレビュー済み
東浩紀との対談『リアルのゆくえ』でいらだっていた大塚は、この書でもそれが目立つ。そのために、村上や宮崎の作品分析は斬新なのだろうが、性急な強引さがその説得力をだいぶ削いでしまっている。
大塚はなぜいらだつのか? 村上や宮崎が主導した「構造しかない物語の復興」が「国民国家」や「愛国的歴史観」の復興に加担していると大塚は捉え、その「構造しかない物語」は実のところサブカルチャーの分野で大塚が掴んだ方法だったから? つまり不肖の息子への自責や他人にいいように利用されている悔しさから? けれど、ブッシュや麻生は“とてつもない”不人気に陥り、スターウォーズを模して始めたイラク戦争だって映画通りには進行せず頓挫したではないか。それはある意味、大塚指摘の「構造しかない物語」故の顛末であり、いらだつ必要はないはずだ。「『民主主義』のリハビリテーション」を大塚が行いたいのなら、その言葉に従いもっと冷静なセラピストを志向すべきと、とても残念に思える。
さらに、大塚はこの「構造しかない物語」が自己実現の物語として主体を自動的に作動させると、主に書の後半で繰り返し述べ村上・宮崎批判(の細部)を補強するが、これは古代の説話構造、近代の「教養小説」、そして現代の「構造しかない物語」を時代を超え単線的に結んでしまった故の錯誤ではないか。これも大塚が冷静であったなら、容易に(自身が展開している論理自体から)気づくことだと思えるのだが…。
大塚はなぜいらだつのか? 村上や宮崎が主導した「構造しかない物語の復興」が「国民国家」や「愛国的歴史観」の復興に加担していると大塚は捉え、その「構造しかない物語」は実のところサブカルチャーの分野で大塚が掴んだ方法だったから? つまり不肖の息子への自責や他人にいいように利用されている悔しさから? けれど、ブッシュや麻生は“とてつもない”不人気に陥り、スターウォーズを模して始めたイラク戦争だって映画通りには進行せず頓挫したではないか。それはある意味、大塚指摘の「構造しかない物語」故の顛末であり、いらだつ必要はないはずだ。「『民主主義』のリハビリテーション」を大塚が行いたいのなら、その言葉に従いもっと冷静なセラピストを志向すべきと、とても残念に思える。
さらに、大塚はこの「構造しかない物語」が自己実現の物語として主体を自動的に作動させると、主に書の後半で繰り返し述べ村上・宮崎批判(の細部)を補強するが、これは古代の説話構造、近代の「教養小説」、そして現代の「構造しかない物語」を時代を超え単線的に結んでしまった故の錯誤ではないか。これも大塚が冷静であったなら、容易に(自身が展開している論理自体から)気づくことだと思えるのだが…。
2009年9月24日に日本でレビュー済み
本書を読むと物語作りの裏側を知ってしまい、折角面白く読んでいた本がつまらないもの思えてしまうのではないかと心配になる方は、少なからずいらっしゃると思います。その意味で本書はパンドラの箱とも言えるものでしょう。小説の基本構造を知ることは、物語を作る設計図によって物語づくりを一般化する役目と、読み手のレベルを上げる役割があります。特に後者につきましては、ただ設計図をなぞった駄作を選別するのに役立ちます。読者の目が厳しくなればそれだけ供給側もレベルアップせざるを得ず、無駄な出版物が減るというものです。
しかしながら本書を読むにあったっては、それなりの読書量と清濁併せ呑む寛容さがなければ反発ばかりが先立ってしまうように思います。小説家の技法を解析し一般化することは学問の目的のひとつでもあります。問題は構造の上に何が載っているかで、本書の役割はむしろ村上のように小説の構造を使っただけの空虚な物語の選別にあります。本書を読んだ後に日本の小説を読むと、本書の基本構造を敢えて壊して組み上げており、なおかつすばらしいものが少なからずあることに気がつきました。
しかし村上ファンは、外人同様それらは読まないんでしょうね。
しかしながら本書を読むにあったっては、それなりの読書量と清濁併せ呑む寛容さがなければ反発ばかりが先立ってしまうように思います。小説家の技法を解析し一般化することは学問の目的のひとつでもあります。問題は構造の上に何が載っているかで、本書の役割はむしろ村上のように小説の構造を使っただけの空虚な物語の選別にあります。本書を読んだ後に日本の小説を読むと、本書の基本構造を敢えて壊して組み上げており、なおかつすばらしいものが少なからずあることに気がつきました。
しかし村上ファンは、外人同様それらは読まないんでしょうね。
2009年7月30日に日本でレビュー済み
ボルヘスの「神話」を持ち出すまでもなく、日本には本歌取りという、換骨奪胎の方法があった。また、物語をある一定量以上読みこなすと、常にデジャブ感覚が訪れるのは、だれにでもあること。オリジナリティーともとめるのは自然な行為だが、度を”すぎ”た声の大きさでしゃべれば、耳にうるさいだけだ。
切実だの誠実だの真摯だのそういう言葉は、生活がかかっているひとのやる行為の中にしかなく、実際その状態にある人は、その言葉をチョイスするヒマがない。
中心を持たず外部に正当性をもとめるのは、柄谷、蓮實の得意技。病気。
テーマを、正しく、言い切る。
↑この短い文章にある、根本的な間違いに気づかなければ、この病気が癒えることはないだろう。
なんてね。
最後に名作マンガ『じゃりん子チエ』からの引用。
「あかん真面目になりそうや」
切実だの誠実だの真摯だのそういう言葉は、生活がかかっているひとのやる行為の中にしかなく、実際その状態にある人は、その言葉をチョイスするヒマがない。
中心を持たず外部に正当性をもとめるのは、柄谷、蓮實の得意技。病気。
テーマを、正しく、言い切る。
↑この短い文章にある、根本的な間違いに気づかなければ、この病気が癒えることはないだろう。
なんてね。
最後に名作マンガ『じゃりん子チエ』からの引用。
「あかん真面目になりそうや」