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しあわせる力 角川SSC新書 禅的幸福論 (角川SSC新書 89) 新書 – 2010/1/10
玄侑 宗久
(著)
かつて日本人は幸せを「仕合わせ」と書いた。なぜなら「しあわせ」は人間関係力によってしか生まれないと考えたからだ。現代社会を生きることに息苦しさを感じている人々へ玄侑宗久が贈る幸福論。
- 本の長さ194ページ
- 言語日本語
- 出版社角川SSコミュニケーションズ
- 発売日2010/1/10
- ISBN-104047315125
- ISBN-13978-4047315129
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登録情報
- 出版社 : 角川SSコミュニケーションズ (2010/1/10)
- 発売日 : 2010/1/10
- 言語 : 日本語
- 新書 : 194ページ
- ISBN-10 : 4047315125
- ISBN-13 : 978-4047315129
- Amazon 売れ筋ランキング: - 642,465位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1956(昭和31)年、福島県三春町生まれ。安積高校卒業後、慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。さまざまな職業を経験した後、京都の天龍寺専門道場に入門。現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺住職。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 龍の棲む家 (ISBN-13:978-4167692056 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
カスタマーレビュー
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年10月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
一度通読した後、武田鉄矢的説教を聞かされた感あり、やや重たかった。だがしかし概念の話と結んで開いての歌を仏教の禅的視点から考察するあたり、、、唸るのだ。色んな精神病と自分という結びの関係、、、。開けばいいんだと言われる。開くとは概念を結んじゃう以前の無心の世界。つまり私は宇宙という境地。私は宇宙なんだからもう私なんて必要ねぇじゃん。何でもよろしいという自由自在のスタンス。こういう存在を観音様という。その力が応化力(おうけりょく)。自分を信じるとは、どうでもよい自分に安心していられる事。 読み返した後、結んで開いて、、を歌いながらチャリで帰宅した。
2016年12月12日に日本でレビュー済み
芥川作家玄侑宗久氏の幾つかの講演を編集者が一冊の新書にまとめたもの。
かつて日本人は幸せを「仕合わせ」と書いた。なぜなら「しあわせ」は人間関係力によってしか生まれないと考えたからだ。それが「さいわい」「幸福」とも表現するようになるとともに、現代社会を生きることに息苦しさを感じている人々が増えてきた。
自殺者が3万人を超えて久しい。これは、物事が予定通り、計画通りに進まないことを悪と考える現代の歪みだ。もっと早く、もっと便利に、もっと豊かに…という欲望を追求するだけでなく、心をもっとゆったりともてと作者は言うのだが・・・・。
一つ一つの話、逸話には興味深いものがあるが、全体としてのまとまりはない。でも何かに折りの話のネタにはなりそうだ。
かつて日本人は幸せを「仕合わせ」と書いた。なぜなら「しあわせ」は人間関係力によってしか生まれないと考えたからだ。それが「さいわい」「幸福」とも表現するようになるとともに、現代社会を生きることに息苦しさを感じている人々が増えてきた。
自殺者が3万人を超えて久しい。これは、物事が予定通り、計画通りに進まないことを悪と考える現代の歪みだ。もっと早く、もっと便利に、もっと豊かに…という欲望を追求するだけでなく、心をもっとゆったりともてと作者は言うのだが・・・・。
一つ一つの話、逸話には興味深いものがあるが、全体としてのまとまりはない。でも何かに折りの話のネタにはなりそうだ。
2016年1月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
幸せについて考えていますが、欧米の幸福感には「成功」と結びつける功利的な臭いを感じていました。それに引き換え、日本の(東洋の)幸福感には私たちの心情に合った深さを感じます。その訳が本書には書かれているように思います。良い本に巡り合ったと感謝しています。
2015年10月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
縁は「むすんで」「ひらく」もの。様々な出来事にこころ揺さぶられる毎日ですが、たまにはこんな本をじっくり読んで、言葉のチカラを確かめてみては?
2014年7月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
多くの方に一度は読んで頂きたい本です。肩は凝りませんが内容は充実しているものです。閉塞感を感じている方にはヒントになるかも知れません。高名な禅僧だからこそと感じる点が随所に見られます。オススメの一冊ではないでしょうか。
2010年3月28日に日本でレビュー済み
タイトルは、「しあわせる力」。「しあわせる」? 変な日本語だな、と思って手に取った。
「しあわせる」とは、自分を相手に合わせて、相手のようになること。つまり、自分と相手との呼吸が合って、関係がうまくいくことだ。「しあわせる力」とはだから、いかに自分を相手の呼吸に合わせていくか、その力量のことだろう。
本書の核は、つぎに引く文章に凝縮されている、と私は思う。
好きなものを好きなだけ取って、好きなように召し上がる。このバイキング料理も、じつは日本人が命名したものなのです。(略)このバイキング方式、日本人には非常に心地よいのではないかという気がします。
なぜ七福神を作ったのか。私はやはり八百万のイメージなのだと思います。(略)/日本からだけでなく、インドや中国の神さままで入れたというところに、八百万のどの一つにも正義を求めない、という日本人の感性が凝縮して示されている気がします。「無くて七癖」といいますが、七癖とみればいいわけです。七癖が転じて七福になってしまうのです。
「なぜ七癖が七福になったか」? それは、本書を読んでのお楽しみ。
あれじゃあ、概念で結べない。ばらばらすぎて、どんな人々なのかもまとめて説明できない。言語規定ができないということは、すでにひらかれているということです。どんな人でもあの中に入っていけるのです。宝船に乗って、あんたもおもしろいじゃないかと、きっと誰かが言ってくれるでしょう。
七福神って、所詮、つくりもので、私とは全然関係ないと思ってた。でも、著者にこんなことを言われてしまうと、なんだか、引っ込み思案の私でさえ、七福神の仲間入りをして、宝船に乗って、大いに酒を飲んでカンカラ笑い、どこへともなく、風の向くまま、旅に出て行けるような気がしたから不思議だ。
「逞しい戦国武将たちの仏教利用法」と題された項は、おかしい。
戦国時代の武将たちは、複数の宗派の僧を集めて、戦地に同行させた。その数、「二百人に一人の割合」であったという。なぜ、複数の宗派の僧が必要だったのか? これも、本書を読んでのお楽しみ。
デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは(略)矛盾する二つの観察結果が双方とも正しい、補い合って一つの全体性を表現しているのだと考え、粒子と波動との織りなすこの事態を「相補性」と表現し、この「相補性」という言葉と考え方が哲学や教育の分野でも広まって欲しいと熱烈に望みました。/絶対にこれだ、ということはない。こうであったり、ああであったり、両方ともある。その二つのあり方を両方見ることで、そのものに対する観察が極度に深まる、そういう考え方を提唱したのです。
あるときは相手がとんでもない悪人に見えたり、またあるときは、世にもまれな善人に見えたり。どちらもその人の本当の姿で、「こうであったり、ああであったり」、「絶対にこれだ、ということはない」。「その二つのあり方を両方見ること」によって、相手を思う気持ちや関心、「観察が極度に深まる」。そんなものなのかもしれない。
本書をひらくとたびたびお目にかかれるイラストは、どこかとぼけていて、ほっとする。
れいによって、まとまりのない文章になってしまったが、七福神さまの顔に免じて、ご容赦いただきたいと思います。
「しあわせる」とは、自分を相手に合わせて、相手のようになること。つまり、自分と相手との呼吸が合って、関係がうまくいくことだ。「しあわせる力」とはだから、いかに自分を相手の呼吸に合わせていくか、その力量のことだろう。
本書の核は、つぎに引く文章に凝縮されている、と私は思う。
好きなものを好きなだけ取って、好きなように召し上がる。このバイキング料理も、じつは日本人が命名したものなのです。(略)このバイキング方式、日本人には非常に心地よいのではないかという気がします。
なぜ七福神を作ったのか。私はやはり八百万のイメージなのだと思います。(略)/日本からだけでなく、インドや中国の神さままで入れたというところに、八百万のどの一つにも正義を求めない、という日本人の感性が凝縮して示されている気がします。「無くて七癖」といいますが、七癖とみればいいわけです。七癖が転じて七福になってしまうのです。
「なぜ七癖が七福になったか」? それは、本書を読んでのお楽しみ。
あれじゃあ、概念で結べない。ばらばらすぎて、どんな人々なのかもまとめて説明できない。言語規定ができないということは、すでにひらかれているということです。どんな人でもあの中に入っていけるのです。宝船に乗って、あんたもおもしろいじゃないかと、きっと誰かが言ってくれるでしょう。
七福神って、所詮、つくりもので、私とは全然関係ないと思ってた。でも、著者にこんなことを言われてしまうと、なんだか、引っ込み思案の私でさえ、七福神の仲間入りをして、宝船に乗って、大いに酒を飲んでカンカラ笑い、どこへともなく、風の向くまま、旅に出て行けるような気がしたから不思議だ。
「逞しい戦国武将たちの仏教利用法」と題された項は、おかしい。
戦国時代の武将たちは、複数の宗派の僧を集めて、戦地に同行させた。その数、「二百人に一人の割合」であったという。なぜ、複数の宗派の僧が必要だったのか? これも、本書を読んでのお楽しみ。
デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは(略)矛盾する二つの観察結果が双方とも正しい、補い合って一つの全体性を表現しているのだと考え、粒子と波動との織りなすこの事態を「相補性」と表現し、この「相補性」という言葉と考え方が哲学や教育の分野でも広まって欲しいと熱烈に望みました。/絶対にこれだ、ということはない。こうであったり、ああであったり、両方ともある。その二つのあり方を両方見ることで、そのものに対する観察が極度に深まる、そういう考え方を提唱したのです。
あるときは相手がとんでもない悪人に見えたり、またあるときは、世にもまれな善人に見えたり。どちらもその人の本当の姿で、「こうであったり、ああであったり」、「絶対にこれだ、ということはない」。「その二つのあり方を両方見ること」によって、相手を思う気持ちや関心、「観察が極度に深まる」。そんなものなのかもしれない。
本書をひらくとたびたびお目にかかれるイラストは、どこかとぼけていて、ほっとする。
れいによって、まとまりのない文章になってしまったが、七福神さまの顔に免じて、ご容赦いただきたいと思います。
2010年3月15日に日本でレビュー済み
ルソー作曲の「むすんでひらいて」を題材に、その歌詞の持つ意味の深さを「禅」的に解いて行きます。
現代社会において、生活は便利になってきてるのに「しあわせ」を感じません。
それは、何故か?と問います。
その要因として、「しあわせ」が西洋的な「幸福」になっているとします。
それに対し、古来日本にあった「しあわせ」は「仕合わせ」で、それは「概念や思い込みを結びやすい我々の頭やこころをまずひらいて、そして相手や状況に応じて『仕合わせる』こと」だとします。
こうした臨機応変な対応が出来ることに、かけがえのない満足感を感じ、そこに「しあわせ」を感じるのだとします。
そこには、当然、自己変革や自己の再発見があるでしょう。
こうしたことの説明が、宗教的或いは哲学的に説明されるのですが、もともと講演の文章を纏めたと言うこともあり、解りやすい言葉で解りやすく説明されており、誰でもがそれなりに理解出来ます。
ただ、その語っている内容は深く、その神髄まではとても辿り着けませんが、それでも、こうした宗教的な「教え」が、あるレベルまでは深まったような気がします。
もちろん、この本の目的は、現代社会の抱えている極度に規格化された社会に対する問題提起であり、「自己責任」を余りに追求し個々人の孤立化を助長している社会への問題提起でもある訳で、そのことについて、もう一度考えさせてくれる優れた作品だと思います。
現代社会において、生活は便利になってきてるのに「しあわせ」を感じません。
それは、何故か?と問います。
その要因として、「しあわせ」が西洋的な「幸福」になっているとします。
それに対し、古来日本にあった「しあわせ」は「仕合わせ」で、それは「概念や思い込みを結びやすい我々の頭やこころをまずひらいて、そして相手や状況に応じて『仕合わせる』こと」だとします。
こうした臨機応変な対応が出来ることに、かけがえのない満足感を感じ、そこに「しあわせ」を感じるのだとします。
そこには、当然、自己変革や自己の再発見があるでしょう。
こうしたことの説明が、宗教的或いは哲学的に説明されるのですが、もともと講演の文章を纏めたと言うこともあり、解りやすい言葉で解りやすく説明されており、誰でもがそれなりに理解出来ます。
ただ、その語っている内容は深く、その神髄まではとても辿り着けませんが、それでも、こうした宗教的な「教え」が、あるレベルまでは深まったような気がします。
もちろん、この本の目的は、現代社会の抱えている極度に規格化された社会に対する問題提起であり、「自己責任」を余りに追求し個々人の孤立化を助長している社会への問題提起でもある訳で、そのことについて、もう一度考えさせてくれる優れた作品だと思います。