方丈記は、以下の3つの部分から構成されています。
第一節: 世の中のはかないこと
第二節: 都での暮らし
第三節: 隠棲生活
第一節では、鴨長明は、自身が経験した火事や地震などの災害、そして平家物語で語られる戦争などの世の中の変遷を語り、世の中のはかないことを訴えます。
第二節では、鴨長明は、自身が都で過ごした若い頃の日々を語ります。歌や詩に明け暮れ、将来への希望に満ち溢れていた頃の自分と、世の中の無常を悟った現在の自分とのギャップを対比させます。
第三節では、鴨長明は、都を離れて日野山に隠棲した後の生活について語ります。自然の中で静かに暮らし、仏教の教えに心を寄せることで、心の平安を得たことを語ります。
方丈記は、簡潔で力強い文章で書かれており、鴨長明の深い人生観が凝縮されています。また、当時の社会や文化を窺い知ることができる貴重な資料としても評価されています。
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方丈記 (講談社文庫 古 1-1) 文庫 – 1971/7/1
失意の鴨長明が、日野の山奥、方丈の草庵に隠遁し、世の変遷と心の不安のなかに、自らの救いを求めようとする心境を自伝的に綴った、わが国随筆文学史上の不朽作。参考資料として、長明真跡の方丈記巻首、方丈庵遺跡を口絵に、現代語訳、解説、年譜、語彙索引を付す。
- 本の長さ113ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1971/7/1
- ISBN-104061310011
- ISBN-13978-4061310018
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (1971/7/1)
- 発売日 : 1971/7/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 113ページ
- ISBN-10 : 4061310011
- ISBN-13 : 978-4061310018
- Amazon 売れ筋ランキング: - 941,054位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年8月14日に日本でレビュー済み
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日本人として読むことを強く強いられているものと感じていました。 自分自身の嗜好の触手がやっと伸びたと感じました。
2024年2月15日に日本でレビュー済み
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美しい日本語です。本書を作成頂いた故人ならびにボランティア諸氏に感謝します。
改めて思うのは、古き日本語のよさはデータとしての文体と文字ではなく、字体書体や空白にあると思いました。文学を超えた美術的価値。
改めて思うのは、古き日本語のよさはデータとしての文体と文字ではなく、字体書体や空白にあると思いました。文学を超えた美術的価値。
2023年10月1日に日本でレビュー済み
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800年前と現代の生活は比べるべくもないが、人の世に起こることと人の心は永遠であると再認識しました。
2015年7月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
以下の書評は、岩波文庫『方丈記』に対するものです。(8月7日投稿)kindle版ではありません。
本書の宝は、大福光寺本『方丈記』の写真版だ。普通の読書にはこんなものは必要ない。
しかし、『方丈記』はまだよく読めないらしく、校訂者という人種は自分が理解できないと、テキストを平気で変更してしまう。しかも注釈もつけない場合が少なくない。
本書は多分15年ほど前に買ったものだ。評者にどういうわけかまた『方丈記』の季節が巡ってきて、探していたがなかなか見つからなかった。最近、やっと見つけて読んで、役に立った。
底本の誤りは「ハイムヤ」(p.33)1箇所だけと思う、あとはテキストを変更しなくても読める。
15年前は、災害のリアルな表現に圧倒されただけだったが、その間の体験、読書などによって見方は相当変わった。
『方丈記』は随筆ではない、首尾一貫した住居からみた人生論だ。
『方丈記』は無常を描いたものではない、災害の記事はなくてもいいくらいだ。
『方丈記』は一気に書かれたものではない、多分10年ほどかけているのではないか。
著者は、方丈の生活の楽しさを描いた後、こんなことを言う。
「もし人、このいへる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。」現代風なら―、
「嘘だと思ったら、魚に訊いてもいい。鳥に訊いてもいい。本当に楽しいんだよ。」
だろうか、ここで800年を超えて現代とコラボする。
「嘘だと思ったら、蜜蜂に訊いてもいい。しろつめ草に訊いてもいい。本当に美味しいんだよ。」
(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』20章、書評済)
「閑居の気味もまた同じ。住まずして誰かさとらむ。」
実際に住んでみないと分かりませんよ、と実践者の著者は言う。
このような経験がないのが『方丈記』を理解できない一因かもしれない。
面白いことに、現代、鴨長明と似た坂口恭平というマルチアーティストがいる。
自分で簡単に、安く作れ、税金もかからず、移動もできる家を提唱し、作っている。
このモバイルハウスを自分で試してみる人も増えていると聞く。
このような体験者・実践者が増えると、『方丈記』は未来の思想書となるのでは。
8月13日追加
身心(シンジン)はマイコン付機械に喩えると分かりやすい
『方丈記』の「身心」という言葉は国文学者の読めないものの一つで、本書(p.37)でも「主に身をいうか」などと、意味不明の注釈をしている。どうも身体がでてくると、国文学者は混乱に陥るらしい。
身体を機械に喩えることはギリシャの昔からあるが、スッキリはしない。
昔の機械は、時計がゼンマイや歯車でできているように、形を見れば機能が理解できた。
今の機械は、多くはマイコン制御となっているので、形を見ただけでは(本来は)機能は理解できない。このマイコンは(手続き)記憶と言い換えてもいい。
「身心」も同じように考えることはできる。身を解剖して、形を知っても機能は分からない。例えば泳ぐときの筋肉動作シーケンスなど。ここでの心は(手続き)記憶と言える。
鴨長明が「今、一身をわかちて、二つの用(=機能)をなす」とし、その一つを「身心(=従者)」としているのは秀逸。800年たって、時代がやっと少しだけついてきた感じだ。
現代でも、心を二つの機能(意識と無意識)に分けたりするが、これはあまり役立たない。まだ、身体が置いてきぼりになっている。
8月14日追加
比喩を逆手にとった効果
本書の表現「朝に死に、夕に生まるるならひ」は非常に興味深い。
普通の表現「朝に生まれ、夕に死するならひ」なら、人生を1日に喩えているので素直に読める。この人生は同一人のもので、容易に自分の人生と重ねられて、無常を感じる。
本書の表現では、人生と1日との比喩関係は壊され、死ぬ人と生まれる人は同一人ではないので、自分の人生をそこに重ねることができない。場合によっては、1人死んで、2人生まれることも考えられるので、無常感とはほど遠い。
後の時代、本願寺蓮如の白骨の御文では「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」とあり、比喩に見せかけて比喩ではなく、実際の1日の中でありうることとする。紅顔からの連想で、自分の子供や孫が浮かび、強い無常を感じる。
まさに蓮如は天才的だが、長明はさらにその上をいっている。言葉を入れ替えるだけで、無常を吹き飛ばしている。ちなみに、日本人の「無常」は情緒的な感情であり、ブッダの言う無常とは違うので、ちょっと注意を。
本書の宝は、大福光寺本『方丈記』の写真版だ。普通の読書にはこんなものは必要ない。
しかし、『方丈記』はまだよく読めないらしく、校訂者という人種は自分が理解できないと、テキストを平気で変更してしまう。しかも注釈もつけない場合が少なくない。
本書は多分15年ほど前に買ったものだ。評者にどういうわけかまた『方丈記』の季節が巡ってきて、探していたがなかなか見つからなかった。最近、やっと見つけて読んで、役に立った。
底本の誤りは「ハイムヤ」(p.33)1箇所だけと思う、あとはテキストを変更しなくても読める。
15年前は、災害のリアルな表現に圧倒されただけだったが、その間の体験、読書などによって見方は相当変わった。
『方丈記』は随筆ではない、首尾一貫した住居からみた人生論だ。
『方丈記』は無常を描いたものではない、災害の記事はなくてもいいくらいだ。
『方丈記』は一気に書かれたものではない、多分10年ほどかけているのではないか。
著者は、方丈の生活の楽しさを描いた後、こんなことを言う。
「もし人、このいへる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。」現代風なら―、
「嘘だと思ったら、魚に訊いてもいい。鳥に訊いてもいい。本当に楽しいんだよ。」
だろうか、ここで800年を超えて現代とコラボする。
「嘘だと思ったら、蜜蜂に訊いてもいい。しろつめ草に訊いてもいい。本当に美味しいんだよ。」
(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』20章、書評済)
「閑居の気味もまた同じ。住まずして誰かさとらむ。」
実際に住んでみないと分かりませんよ、と実践者の著者は言う。
このような経験がないのが『方丈記』を理解できない一因かもしれない。
面白いことに、現代、鴨長明と似た坂口恭平というマルチアーティストがいる。
自分で簡単に、安く作れ、税金もかからず、移動もできる家を提唱し、作っている。
このモバイルハウスを自分で試してみる人も増えていると聞く。
このような体験者・実践者が増えると、『方丈記』は未来の思想書となるのでは。
8月13日追加
身心(シンジン)はマイコン付機械に喩えると分かりやすい
『方丈記』の「身心」という言葉は国文学者の読めないものの一つで、本書(p.37)でも「主に身をいうか」などと、意味不明の注釈をしている。どうも身体がでてくると、国文学者は混乱に陥るらしい。
身体を機械に喩えることはギリシャの昔からあるが、スッキリはしない。
昔の機械は、時計がゼンマイや歯車でできているように、形を見れば機能が理解できた。
今の機械は、多くはマイコン制御となっているので、形を見ただけでは(本来は)機能は理解できない。このマイコンは(手続き)記憶と言い換えてもいい。
「身心」も同じように考えることはできる。身を解剖して、形を知っても機能は分からない。例えば泳ぐときの筋肉動作シーケンスなど。ここでの心は(手続き)記憶と言える。
鴨長明が「今、一身をわかちて、二つの用(=機能)をなす」とし、その一つを「身心(=従者)」としているのは秀逸。800年たって、時代がやっと少しだけついてきた感じだ。
現代でも、心を二つの機能(意識と無意識)に分けたりするが、これはあまり役立たない。まだ、身体が置いてきぼりになっている。
8月14日追加
比喩を逆手にとった効果
本書の表現「朝に死に、夕に生まるるならひ」は非常に興味深い。
普通の表現「朝に生まれ、夕に死するならひ」なら、人生を1日に喩えているので素直に読める。この人生は同一人のもので、容易に自分の人生と重ねられて、無常を感じる。
本書の表現では、人生と1日との比喩関係は壊され、死ぬ人と生まれる人は同一人ではないので、自分の人生をそこに重ねることができない。場合によっては、1人死んで、2人生まれることも考えられるので、無常感とはほど遠い。
後の時代、本願寺蓮如の白骨の御文では「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」とあり、比喩に見せかけて比喩ではなく、実際の1日の中でありうることとする。紅顔からの連想で、自分の子供や孫が浮かび、強い無常を感じる。
まさに蓮如は天才的だが、長明はさらにその上をいっている。言葉を入れ替えるだけで、無常を吹き飛ばしている。ちなみに、日本人の「無常」は情緒的な感情であり、ブッダの言う無常とは違うので、ちょっと注意を。
2023年3月10日に日本でレビュー済み
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お金を持っていても貧乏でも、都会に住んでも田舎に住んでも、この世の真理が書かれ深〜いと思います。
2022年5月30日に日本でレビュー済み
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高校時代に古文を学習しただけの素人ですが、美辞麗句がなくわかりやすく感じました。大変心をうつ作品でした。人生を考えさせられます。
2021年7月9日に日本でレビュー済み
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旧仮名遣いは何度も読み返さないと判らない言もあるが、逆に何度も読み返すと不思議と納得する場合もある。
いま現在の時節柄も見える様な営みと趣向に感嘆する。
いま現在の時節柄も見える様な営みと趣向に感嘆する。
他の国からのトップレビュー
Michael Lazarin
5つ星のうち5.0
Five Stars
2014年8月27日にアメリカ合衆国でレビュー済みAmazonで購入
Essential to understand Japanese culture.